タクティカル祓魔師 十河病院探索   作:西口

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 走る。息せき切って、走る。

 

 目指している場所はなかった。そもそも、自分が今どこにいるのかすらわからないのだから。ただ怖いものから逃げるために、あてどなく走り続ける。

 そう、逃げていた。桜田奈央は、かつて十河病院と呼ばれた廃墟の中で、一人っきりで逃げていた。

 右手には墨を塗ったような闇がこびりつく窓。左手には薄汚れた壁と、等間隔に設置されたドア。そんな道がどこまで、どこまでも続いている。

 それは時折枝分かれし、また時折階段へつながっている。が、どこを曲がっても、どれだけの階段を昇り降りしても、その風景は変わらなかった。

 

 自然光の一辺も差さない中、光源と言えるのは唯一手に持った懐中電灯のみ。それも先ほどから少しずつ、少しずつ光が弱まっている。

 明らかに病院の外観を無視した構造だった。地下室でもあったのか、それとも知らぬ間に入院棟にでも入りこんでしまったのか。どちらも違うだろうことは明らかだったが、奈央にはそんなことを考える余裕はなかった。

 

 重要なのは、自分がまだ生きていること。後ろから何かがずっとついてきているということ。そして、「それ」に追いつかれて、遥は姿を消してしまったこと。

 

 あれは何だったのか。人のようにも見えた。頭があって、腕があって、両足があった。しかしそのシルエットは明らかに人間のそれではなかった。その姿を子細に観察しなかったのは、ある意味では幸運と言えたのかもしれない。

 

「それ」の伸ばした両腕は、遥だけを掴んだ。

 一瞬早く反応した遥が、奈央を突き飛ばしたためだ。無様に床に転がって、ようやく事態を認識した奈央は――ただ、逃げた。

 すでにつないだ手の感触も、その温かさの名残も消え失せて、右手はただ虚空を掻くばかり。

 その代わりに、一つの言葉が耳の奥にこびりついている。

 

 ――逃げて、逃げてぇぇぇ!!

 

 血を吐くような声。遥がそんなふうに叫んだ場面なんて、小学校の頃の数年間、そして大学で再会してからの数か月間、一度も見たことがなかった。

 その上、その言葉は最後まで奈央の身を案じたものだった。恨み言でも、悲鳴でもなく。その声に押されるように、奈央はとっくに限界を迎えた両足を懸命に動かし続けている。

 

 しかし、気力だけで永遠に走り続けられるように人間は出来ていない。体力が尽きるか、電力が尽きるか、どちらが先にせよ、時間の問題だった。

 

 遥、遥、ごめんなさい。

 

 疲弊して回らない頭の中で、その言葉だけが何度も繰り返される。何についてなのかは自分でもわからなかった。謝らなければいけないことがいっぱいある。

 

 助けられなくてごめんなさい。浩二たちを見捨てさせてごめんなさい。庇ってくれたのに、助けすら呼べなくてごめんなさい。今、全部をあきらめようとしてごめんなさい。

 

 そもそも、肝試しの話題が出た時に引き止めればよかったのだ。内心で嫌がっていたくせに、遥に嫌われたくない、和を乱したくない。そんな下らない理由で気おくれしたせいで、こんなことになってしまった。

 

 それは一種の走馬灯なのかもしれない。どうしてこんな状況になってしまったのか、納得できる理由を見つけようとしている。防げた事態であってほしかった。台風の日に川岸に出るような、わかりやすいミスがあってほしかった。

 だから、何度も謝る。許されるはずもないが、だからこそそこに縋る。もしもこの事態が自分の過失なら、自分が死ぬのはその報いなのだから。受け入れられる。

 

 そうして、限界が来る。

 

 足がもつれて転ぶ。鼻を強打して、激痛と共に鉄臭いにおいが一瞬だけ、嗅覚を刺激した。

 まずい、逃げなきゃ。反射的に立ち上がろうとするものの、かなわない。指先一つすら動かせないほどの倦怠感が、すかさず覆いかぶさってきた。

 汗がどっと吹き出す。呼吸が荒れる。早鐘を打つ心臓の音が反響しているような気がした。体中が熱い。意識がもうろうとする。かすみがかった視界の向こうに、手放した懐中時計が転がっている。

 

 その薄明かりの中に、何かが立っていた。

 

「……シュン?」

 奈央は思わずそう呟いていた。

 

 たしかに、それの服装はシュンが着ていたはずのものと一致していた。

 白いシャツに、きらりと光る胸元のシルバーアクセサリ。お気に入りらしいオーバーサイズのアウターからは、ひょろりと腕が伸びている。スキニーからはどこか枯れ木を思わせ節くれ立った足がのぞき、地面に達して五股に枝分かれしていた。

 どうやらそれが五指らしい。そこまで観察して、ようやく気付いた。

 

 長い(・・)

 

 服装は俊のそれでありながら、すべてのパーツが異常なまでに長い。三メートル近い天井に、頭部が掠るほどに。

 何故オーバーサイズのアウターから二の腕が見えるのか。どうして両手の指先が床まで届いているのか。シャツは腰まで届いておらず、スキニーも明らかに丈が足りていない。

 どうして靴を履いていないのか。そんなことは考えるべくもない。足下に広がるそれを全て納めるには、サイズが一〇〇センチは必要になるだろう。

 

 関節の位置もよく見ればめちゃくちゃだ。左腕には一か所もなく、つるりとした棒のようになっているのに対し、逆に左足はジグザグに折れ曲がっている。うっ血でもしているのか、その関節部はまるで腐ったように黒ずんでいた。

 

 反射的に、叫び声をあげようとした。しかし口から洩れたのはひゅうひゅうという喘鳴ばかり。少しでも距離を取ろうと、何とか身をよじる。そして、「それ」の顔を正面から見た。

 

 だらんと、下顎が垂れ下がっている。一度無理やり開いたせいで、骨が外れ、筋肉が伸び切ってしまったためだ。それはもう二度と戻らないだろう。ぽっかりと開いた口の中には、歯が数本抜けた上あごと、生々しいピンク色の舌。

 そして、喉奥から沸いて出てくる(あぶく)のような「何か」。懐中電灯の光はそこまで届かず、ぬらぬらとした粘液にまみれたそれの正体は判然としない。

 

 しかし奈央は無意識のうちに悟っていた。それは、何対もの「眼」だと。

 

 それはよく、寄生虫に例えられる。

 入り込んだ人体を、自分「たち」の体に合うように「改築」する。穴を掘り、構造を変え、周囲の肉と、骨と、血と、そして魂に部屋を作り、それらを喰らいながら繁殖する。

 

 それは〈骸被り(ドッペルゲンガー)〉と呼ばれている。

 

 名の通り、本来は死体に寄生して動かす半霊の群体。しかし、別に生体に憑りつけないわけではない。愚かにも、何の抵抗力もない人間が近寄れば、やはり体の中に入りこんで食い荒らす。

 タチが悪いのが、不幸にもその宿主となってしまった人間は、肉体を内側から蚕食される想像を絶する激痛に晒されながらも、消して死ぬことはない点だ。俊は今も生きていた。唯一無事な眼から、滂沱の涙を流しながら。

 

 自らの肉体に閉じ込められ、異形の怪物となりながらも、その眼だけが生前と変わらなかった。霊体を、肉体をむさぼられ、もはや記憶も感情も、およそ人間性と呼びうるすべてはもう、欠片も残っていない。その間隙に詰め込まれた痛みと苦しみが、今や彼の本質だった。

 あとは中から食い破られるか。救い出され、穴だらけになった体のまま絶命するかの二つに一つ。そのときが訪れるまで、宿主は操られるままに歩き回ることになる。第二、第三の犠牲者を見つけるために。

 

 ぼた、ぼた、と口腔から滴るように小さな眼球が落下してくる。それは懐中電灯の光を嫌がるように黒い靄のようなものを形成し、自身を包む。カマキリやゴキブリの卵鞘(らんしょう)に近い。それらが無数に集まり、結合したものが、俊を、そして浩二を襲った「影」の正体だった。

 それはまたたく間に数を増す。濁流のごとく、俊の喉奥から溢れてくる。そして寄り集まり、人型を形成しようとしている。文字通り目の前にある、新たな「巣」に入植するために。

 

 ――嫌だ、こんな死に方。

 

 奈央は全力でその場から逃げようとした。しかし疲労か恐怖か、膝が笑っていて立ち上がることすらできない。両手と足先の力だけで、必死に後ずさるろうとする。しかし〈骸被り〉が体を形成する方が早かった。左手(のような器官)が、奈央の左足首を掴んだ。

 

「い、や! やめ、離して! 離せ!」

 金切り声をあげながら、左足を動かそうとする。しかしぎりぎりと万力のような力で締め上げられるそれは、もはや振り上げることすら叶わない。空いた右足で蹴り飛ばそうとしても、結果は浩二のときと同じだった。すり抜けて、虚空を蹴るばかり。

 そうしているうちに、「影」は形を成そうとしている。新たに出来上がった右手が、今度は右足首を掴む。それだけで、奈央はもう身動きがとれなくなった。

 その「手」は、まるで氷を押しあてられているかのように冷たかった。強い力の奥底に、うぞうぞと、多数のものが蠢く感覚がある。大量の虫にたかられているような、気色の悪い感触だった。

 

「やだ、やだぁ! もう来ないから、全部忘れるから! 離して、嫌だぁ!」

 

 先ほどまで抱いていた「死んでもいい」だなんて考えは、もうすでに吹き飛んでいる。頭の中を占めるのは、死にたくないという一念のみ。親友である奈央のことも、道々死んでいった他の友人たちのことも、目の前の俊のことすらも、もはや考える余裕はなかった。

 

 助けて。

 無意識に叫んでいた。帰ってきたのは沈黙……いや、耳をすませば、ギチギチと〈骸被り〉が蠕動する音が聞こえるだろう。それは徐々に足元から這い登ってくる。

 太ももに手がかかった。ずい、と〈骸被り〉が身を乗り出してくる。いつの間にか出来上がっていた球形の頭は、ボウリング球ほどのサイズになっている。今からそれがどこにねじ込まれるのかを、奈央はもう目の当たりにしている。

 

 助けて。やはりその声は虚空を振るわせるばかり。何一つ、出来ることが無くなった人間が、最後に上げる鳴き声に等しいもの。そして、もはやそれすら上げることは出来ない。「指」が、無理やり彼女の口をこじ開けていた。

 緩慢な動作で、頭が近づいてくる。黒い靄の、外殻のその奥で、無数の瞳が自分を見つめていることが、涙でにじんだ視界でもはっきりと見えた。

 

 助けて。心の裡で唱えた言葉は、もはや空気を振るわせることすらない。

 

「そこ、動くな」

 しかし唯一それにだけ、(いら)えがあった。

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