ギィ、イイイイイイイ!
「影」が、鳴き声のようなものをあげながらのけぞった。途端、のしかかっていた重圧が消え、奈央は大きく息を吸い込む。そこまでが、彼女に認識できる限界だった。
暗闇の向こうから投げ放たれた、二本の
それは暗闇の中にあって、冴え冴えと輝く純白を纏っていた。
退魔の白、耐穢の白。多層化された護符と、あらゆる防護の
口さがない民間の退魔業者に「白装束」と揶揄されるそれを
死を招く白を纏った少女は、空中で体をひねり、ドロップキックを〈骸被り〉にたたきつけた。
ウェイトの差は明らかだ。しかし埒外の速度で突き込まれたそれは、その差を以てしても防ぎきれるものではなかった。体をくの字に折り曲げながら、〈骸被り〉は吹き飛んでいく。
反動によってふたたび宙を舞うと、少女はそのまま後方に飛び退る。そして天井につま先を擦りながら一回転。奈央の両足の間、のけぞる「影」を脳天から踏みつぶしながら着地した。
〈骸被り〉は本来、人には触れえぬ半霊体。しかし少女の足が触れる先からひしゃげていき、やがてバチュン! と水風船めいて破裂した。
飛沫が飛び散り、周囲の壁に、少女の足に、奈央の全身にかかる。しかし加護を流し込まれ、もはや「影」の形を維持するどころか、個体に戻る力すら残っていなかった。数秒と経たず、それは霧のように掻き消えていく。後には何も残らない。
それが、界異の死に方だ。
一瞬の静寂。
奈央には何が起こったのかまるでわからなかった。ただ、もう息苦しさは消え、あの恐ろしい「影」の姿も、変わり果てた俊の姿もない。そこにはただ、見知らぬ人物が立っている。
助けられたのだ、と認識するのに時間はかからなかった。
それは、歳の頃は奈央よりも下であろうことがうかがえる少女だった。
しかしタイトなパンツの上からでも、その体がよく鍛えられていることがはっきりとわかる。ロングコートのような形状の上衣と、厚手のシャツに阻まれた上半身も、おそらくはそうだろう。
上衣を固定するためのストラップやベルトには、いくつかのポーチや機材が装着されている。しかし何よりも目を引くのは、腰に吊った一本の刀だった。奇妙なことに、鯉口から鍔に懸けてお札のようなものが貼られている。あれでは、とても抜けないだろう。
奇妙な少女だった。しかし纏う雰囲気が、この奇妙な状況によくマッチしているように思えた。以前も、どこかでそのいでたちを見たことがあるような気がして、奈央は安堵感を覚える。
「あ、あの……」
ありがとう、そう続けようとした言葉は、目の前の人物の顔へと視線が向かうにつれてしりすぼみになっていった。少女はその顔貌に、恐ろしく酷薄な表情が浮かべていた。
次はお前だ、そう言いだしそうなほどに。
「――名前は?」
「へ?」
だからだろう、彼女からの質問を最初は理解できなかった。間抜けな声が、口から洩れる。
「あんたの名前だよ。時間がないからさっさと言って」
少女は無線機を突き出してくる。
どうやら、それに向けて喋れということらしい。
よく見れば、それは無線機とは異なる機械であるらしい。ダイヤルや文字盤の類がなく、マイクと何故か液晶だけがついている。画面には文字が浮かんでいたが、判読しようもないほどにぼやけていた。
「え、あ……。桜田……奈央、です」
奈央がそう答えた瞬間、画面に浮かんでいた文字が切り替わった。
桜田奈央。
それは一字一句たがわず、自分自身の名前だった。
(……え、何?)
何をさせられているのかまるでわからなかった。ここからどうすればいいのか、不安になって見上げると、しかし少女は軽くうなずいた挙句、その端末を放ってよこしてきた。
電源ランプが、暗闇に緑色の線を引く。奈央は慌ててキャッチした。すると、途端にランプの色が赤に切り替わった。不吉な色に、
「私が許可するまで喋らないで。死にたくなかったらね」
そう言いながら、少女は腰の刀に触れる。
脅されている。浮かんできたその考えは、次の瞬間に打ち砕かれていた。
少女は軽やかに踵を返す。鞘ごと抜き放った刀は飛来した「影」を捉え、弾き飛ばす。それは横合いの壁に叩きつけられ、音を立てて弾けた。
奈央は懐中電灯の明かりの向こうに視線を向けた。暗がりの中、ゆるゆると身を起こす〈骸被り〉の姿がそこにはあった。
――死んだんじゃなかったの!?
まるでダメージが無いように見えた。傷もなければ欠損もない。しかし形状は大きく変化している。腹部が餓鬼のごとく、ぼっこりと膨れていた。
そのふくらみがうごめく。のど元に向かってせりあがっていく。
そして獣のように四肢を踏ん張った〈骸被り〉は、その体制のまま、口腔から三体の「影」を射出した。
少女は再び鞘で一つを迎撃し、一つを体捌きでかわす。大きく逸れた最後の一つは、奈央の少し後ろの床に激突し、破裂した――ように見えた。
しかし、少女に砕かれたものとは違い、それはまだ生きていた。うぞうぞと蠢いて、再び一つの塊に戻っていく。それはやがて人型を形成するのだろう、先ほどと同じように、自分にのしかかってくるのだろう。そんな未来を創造し、奈央の口から悲鳴が漏れそうになる。
「ひっ……!」
「喋るな」
再び少女は言った。
「その端末は
奈央のすぐそばを、「影」が這う。しかし少女の言葉を証明するように、それは一直線に少女へと向かっていき、奈央の方など見向きもしない。そして少女もまた、緩慢に動く「影」など顧みず、〈骸被り〉に向かって歩き出した。
汗と涙でぐちゃぐちゃに乱れた化粧。その目に浮かんでいた恐怖の感情。そして何より、祓魔師の前で平然と本名を名乗ったこと。名伏が反応している以上、偽名の可能性もない。
それら三つの根拠から、ヤトは結論を下す。
――この女は素人だ。
呪詛犯は名を知られることを忌み嫌う。もしも知られてしまえば、それを起点に呪詛を飛ばされたり、あるいは返されたり。己の居所を隠すことも出来ず、最悪の場合は手持ちの呪物に食い殺される。
ゆえに、彼らは名を、顔を、素性を隠す。ああも明け透けな様子が、偽装の可能性はまずない。彼女は正真正銘、ただの民間人。被災者だろう。
ヤトは手の内で刀をくるりと回し、更に撃ち出された「影」を叩き落とす。一つ、二つ。精度は悪く、直撃する心配はないが、量が多い。今ので六体……いや、先ほど被災者を襲っていたものも含めれば、七体目になる。
〈骸被り〉は人体の中に営巣し、またそれを食料に繁殖する。特に霊体を好み、生きている人間を「巣」とした場合には数倍から数十倍にまでその数を増す。いつ「弾切れ」を起こすかは個体差だ。界異の、そして宿主の。
〈骸被り〉が何体いようと物の数ではない。『黒不浄』を抜きさえすれば。しかし今は、数メートル後方に民間人がいる。そんな状況で、
祓魔師としては、本来なら戦闘を行わずに撤退するべき場面だった。しかしヤトはまず、女の正体を確かめようとした。「こんなところ」にいる以上、民間人ではないだろう、という予断によって。
八、九、十体目が放たれる。全てヤトの周囲の地面に転がった。どうやら直接攻撃は効果がないと学習したと見える。「影」は人体ではなく、ただ腕のみを幾本も作り出す。それらが一斉に、ヤトに向けて殺到した。
鞘ごと、黒不浄を振るう。打ち、払い、避けて、逸らし、そして時折踏みつぶして、進む。しかし「影」は崩壊が本体に及ぶよりも早く、器官を自切。消滅したのは踏みつぶされた一体のみだった。それらはすぐさま次なる手を生み出そうと、体表をごぼごぼと泡立たせた。
〈骸被り〉との距離はもはや十歩ほどしか離れていない。しかしあの冗談のように長い手足を見れば、そこに踏み入ることは間合いに入ることだと、容易に想像出来る。しかしそこに留まれば再び腕が伸びてくるだろう。しかもその数はどんどん増してくる。
ヤトはいささかも躊躇うことなく歩を進める。
「手間増やしやがって……」
失策はあった。武器は封じられ、また多勢に無勢である。
それでもなお、敗北はありえない。
ギ、チチチギギィ――
戦端が開かれる。
機先を制するように、〈骸被り〉はばねのように折り曲げられた左足を一気に伸ばし、砲弾のように突っ込んできた。ヤトは跳躍して回避。宙に浮いたその体を狙って、〈骸被り〉が仰向けになるような動きで上半身だけを一八〇度旋回。右腕を振り抜いた。
ざりざりざり! と床に、壁にこすりつけられた腕が、血飛沫と共に迫る。地面に這いつくばるような姿勢にも関わらず、その腕は飛び上がったヤトを叩き落とせる位置まで届く。ヤトはそれを鞘で弾き、反動でさらに奥まで跳んだ。
それが「影」の腕だったなら崩壊していただろう。狩衣に満ち、また鞘を覆う「加護」のエネルギーは「穢れ」を、ひいてはそれによって構成される界異や呪詛を祓う――正確には相殺する性質を持つ。〈骸被り〉は、それに抗うことが出来ない。
しかし、今界異は榎宮俊という「生きた」人間の中に潜んでいた。
加護は人間を害さない。そのエネルギーは内部に満ちた〈骸被り〉にまで浸透することなく、体表で飛散する。決定打にはなりえなかった。
着地するヤト。ゆるりと立ち上がる。その間に、〈骸被り〉はヤトの方へと顔を向けていた。両腕は再び床に。後ろを向いている膝は逆方向に関節を折り曲げられ、先ほどまでと変わらない四つん這いの姿勢になっていた。
追ってくるようなことはない。そして、腹部がふたたび膨らみ「次弾」が装填された。
(まるで砲台だな)
一つ、二つ。撃ち出された「影」を打ち払いながらヤトは少し感心した。
しかし、想像を超えるほどのものでもない。
近づけば殴ったり、体当たりをするだけ。離れれば「影」を飛ばしてくるだけ。その「影」もたかが知れている。囲まれれば多少は危険だろうが、今やそれは〈骸被り〉の向こう側からのろのろと寄ってくるだけ。
底は見えた。ヤトは上衣の内側に差していた
忌み火で鍛えられた鋼を用いたそれは、魔を祓い、霊体をその場に縫い付ける。それに何より、加護も呪詛も纏わず、命を持たない単純な鋼である祓串を、〈骸被り〉は知覚できない。
〈骸被り〉は苦悶の声、のようなものをあげ、上半身を起こす。祓串はそれぞれ左肩と右腕に突き刺さっていた。それを聞くよりも前に、ヤトは走り出していた。十二歩の間合いを一足で詰める。それに反応して、〈骸被り〉はヤトを叩き落とそうとするが、間に合わない。
ざりざりざり!
腕が壁を削る。速度が鈍る。その巨体では、この狭い通路の中で満足に腕を振り回すことすらできない。ヤトは再びの跳躍。『黒不浄』を振り抜いて、右腕に刺さった祓串の尻を叩いた。
コォーン、と、甲高い音が鳴る。そして次の瞬間、腕が内側から爆裂していた。
鞘を覆う加護が体内まで浸透しないのであれば、貫通させた祓串を通して流し込む。
単純な手である。
残った左腕は、ヤトが着地したあとに、ようやくその頭上を通り過ぎた。それは窓の一つを砕いて止まる。外には星灯りどころか風すら吹いていない。〈骸被り〉は左腕をへし折るようにして新たな関節を作り、そのままの姿勢でヤトを殴り飛ばそうと試みる。が、それよりも肩に刺さって祓串にヤトが触れるほうがずっと早い。
同じような音を立てて、左腕も肩ごともぎ取られる。
鳴き声が空気を震わせる。傷口から靄が溢れる。加護に灼かれた残骸だ。それを押し開いて、さらなる中身がこぼれだしてくる。中枢が全体の崩壊を防ぐため、少しでも加護に触れた部分を輩出して延命しようとしているのだ。
しかしそれよりも、崩壊のスピードの方が圧倒的に早い。中身はこぼれた先から塵と消えていき、体積は急激に減少していく。
それでも、まだ傷口から遠い両足には十分の質量が残っている。蹴りか、体当たりか。まだ攻撃の選択肢は残っている。
コォーン。
そして、それは今潰えた。
三本目の祓串。それが今、〈骸被り〉の脳天に――榎宮俊の眉間に突き立つ。
「……悪いね。あんたを助ける手段はないんだ。存分に恨んで」
榎宮俊に、もはやそれを理解するだけの知性はない。恨めるような心も残っていない。しかしその頭がザクロのように吹き飛ぶ瞬間まで、ヤトはその目をじっと見ていた。
ありがとう、と、どこかから声が聞こえてくるようなことはない。そもそも、助けられもしなかった相手に、そんなことを言う理由がどこにあるというのか。それでも、ヤトは目を逸らさなかった。
そして間もなく、〈骸被り〉の巨体は頽れる。脱ぎ捨てられた着ぐるみのようにぺらぺらになったそれは、榎宮俊の亡骸は、しかしやがて、穢れに分解されて消え失せる。
それが、界異の死に方だ。