パチン、と指を鳴らした音が、静寂の中でやけに大きく聞こえる。
それは周囲にわだかまる闇に飲まれ、残響すら残すことはない。
しかし、奈央の耳の奥では、その清浄な音がいつまでもこだましていた。
無論、錯覚である。
「目は覚めた?」
ヒラヒラと、目の前でしなやかな指先が躍る。少女のものだった。
床にへたりこむ奈央の顔を、覗き込むようにしている。
その背後に視線をやれば、数体ほど残っていたはずの「影」は、もはや跡形もない。
助かったのだ、と理性で理解する。
しかし実感はわいてこない。それよりもっと強い感情が、上から感慨を押さえつけている。
混乱だ。
目は覚めたかと、彼女は問うた。しかし奈央は眠ってなどいなかったし、気絶していたわけでもなかった。少しだけ呆けていたが、記憶も連続している。
それでも、ほかならぬ奈央自身が、その表現が正鵠を射ていることを理解していた。
「祓魔師……」
少女のいでたちを見て、その言葉が自然に出てきた。
桜田奈央は知っている。狩衣を、それを纏う人間の名前を。先ほどまではまるで浮かんでこなかったものだ。
果たして、それは恐怖ゆえだったのだろうか。頭の中が、なんだかモヤモヤする。
「喋れるんなら無事だな。ほら、立って」
「あ、はい」
差し出された手を取って、奈央はよろよろと立ち上がった。
疲労で足先に力が入らず、ひっくり返りそうになるが、壁に手をついてなんとかこらえる。
そして、改めて周辺を見渡した。どこまでも壁と扉、ガラス窓に両側を遮られた狭い通路を。
それはまるで、一枚の写真を大量にコピーしてつなぎ合わせたように光景だった。
壁にこびりつく汚れも、扉の間隔もまるで一緒。窓ガラスも先ほど一枚砕けていたはずなのに、もはやその跡形もない。ガラス片すら見当たらなかった。
天井を見上げれば、むき出しの鉄骨とともに砕けた蛍光灯の残骸がある。その割れ方すら一緒だった。当然灯っておらず、スイッチも見当たらない。
光源というべきはまだ床に転がっている懐中電灯と――
(紙……?)
少女の肩口あたりを、人型に切られた一枚の紙片が漂っていた。それは風もないのに宙に浮いていて、ほのかな光を放っている。
先ほどまで見当たらなかったが、ただ気付いていなかっただけなのか、今まで隠していたのか。前者だろうと、どうしてか理解できた。
少しの間紙片を見つめていると、ふいに、それが前へと進み出た。
『桜田奈央さん、でよろしいですか?』
それは可愛らしい等身に反して、やや渋めの成人男性の声で話し始めた。奈央はほんの少しのあいだ驚いたが、すぐに落ち着きを取り戻す。
――たしか、式神っていうんだっけ?
小学生の頃、それと同じものを見たことがある。安全講習のため、公立学校を訪問した人に見せてもらった「術」だ。
その人もまた、少女と同じような服装をしていた。あのころはまだ隣に遥がいた。彼女が遠くに引っ越す三か月前、大学で再会を果たす十年近く前の記憶。
こうして喋っているのは式神自身ではなく、それを操る術者。
腹話術みたいだ、なんて場違いな感想が浮かんでくる。
『あの、桜田さん? どこかお怪我でも?』
「ご、ごめんなさい。ちょっとボーっとしちゃって。そうです、桜田です」
『安心してください、我々は神祇部のものです。私は神祇官の高槻。目の前にいる彼女は祓魔師の伊澄。あなたを保護します。……ただその前に、現在あなたが置かれた状況の説明をさせてください』
「説明……?」
聞くまでもないことだ。心霊スポットに入り込んで、「界異」に襲われた。それだけのありふれた話。
いわゆる幽霊の存在が実証された現代において、その手のトラブルはむしろ昔よりも増えているという話を、奈央は現代社会で習ったおぼえがある。
いわゆるバズ狙いや、字義どおりの肝試し、ちょっとしたスリルを味わうために。界異の存在こそ知っていても、多くの人々にとってそれは「非日常」でしかない。
それを、神祇部の人間の努力の証だとするむきもある。しかし、結局のところは生存者バイアスだ。基本的に界異に襲われて生還できる人間はいない。ゆえに地震のように、危険性を肌で実感できない。
奈央もまた、そういう人間の一人だった。
同時に、危険だと言われているような行為を、わざわざするほどの愚か者でもなかった。
そういった事件のニュースを聞くたびに、バカなやつもいるものだと思っていたくらいだ。
火傷した経験がなくとも、コンロの火に直接触れてみようとする人間は少数派だろう、と。
――その「バカなやつ」に、自分が今、なっている。
桜田奈央は、ようやくその事実に気が付いた。
「……え、あ、え……あれ?」
『桜田さん、落ち着いてください。今事情を説明しますから』
なだめる声も、もはや耳に入らなかった。
「目覚め」てから朧気にだが感じていたモヤモヤの理由が、初めてわかった。
奈央はつい先ほどまで、界異とそれにまつわる一切について、完全に認識できなくなっていた。
まるで、怪談がただの創作でしかなかった時代のように。
「な、なんで、あれ? 私たち、なんで……こんなとこに来ちゃったの? どうして?」
正確には、ときおり疑問が脳裏によぎることはあった。
しかしそれは一瞬のうちに過ぎ去って、「和を乱したくない」というくだらない思いに吹き散らされる程度のものでしかない。
先ほどまで、なんでこんな目に遭わなければいけないのかと嘆いていたが、なんのことはない。
焚火に突っ込んで火傷したと泣きわめいていたようなものだ。
つまるところ、自業自得。
だからこそ、わからない。こんなもの、ついうっかりで忘れてしまえるような話ではない。
もしも奈央が、自分で考えているよりも極めつけのドアホウだったとしても、他の友人たちまでそろってそうであるとは考えにくい。
「呪われたんだよ。あんた……いや、あんたたちは」
答えは、直截な形でぶつけられた。
『……正確には被呪状態だ、伊澄祓魔師。それと、その物言いは改めるように』
「善処します」
まるで気のない返事だった。式神の向こうで、高槻と名乗った男がため息を吐いたような気配がする。
『改めて、桜田さん。何者かがあなたに呪詛をかけた。その犯人を逮捕するためにも、あなたの証言が必要なんです。どうか、協力していただけないでしょうか?』
◇
精神に干渉する呪詛は基礎の基礎だ。
奈央が今までのいきさつを話し終わったとき、高槻はそう切り出した。
『ある種の催眠、マインドコントロールは心理学的アプローチでも可能ですが、呪詛を用いたものはそれらとは比較にならないくらい強力で、基本的に一般の方が抵抗するのは不可能です』
それで何が出来るかと言えば、理論上は文字通り「何でも」出来る。対象に自殺を強制したり、全財産を差し出すよう命じたり、まったく別人の記憶を植え付けたり。
しかし、よほどその系統に長けた加呪者でなければ、そこまで強い暗示をかけることは現実的に不可能だ。
呪詛とは、平たく言ってしまえば指向性を持たせた「穢れ」のエネルギー。
幽世に充満し、現世の現実性を歪ませるそれは、人体、というか現世の物質全てに対して極めて有害だ。
人間の認知や記憶は基本的に強固で、特に生存本能に直結する領域に手を加えるには、呪詛にも高い強度が求められる。
必然、それは多量の穢れを対象に流し込むことになってしまう。
つまり「自殺を対象に強制する」というような強い呪詛は、そもそもコンセプトから破綻していると言える。被呪者が耐えられないのだ。
そんなことをするよりも、攻勢呪詛で肉体的な欠損を与えたほうが、はるかに効率が良い。
仮に被呪者が生き残り、呪詛が成功したとする。
それでも今度は別のリスクが発生する。
強い呪詛に晒されている人間は、呪的素養のある人間には外からでもわかってしまう。
もしもその中に善意の、あるいは悪意の第三者がいて、呪詛返しでもされようものなら命の危機。境界対策課や警察の呪詛犯罪対策課に見つかっても、それは同様だ。
加えて暗示による命令内容が長期にわたって続くものなら、それが完了するまで加呪者と被呪者の間には「縁」が出来る。
これもまた、呪詛返しの危険性を跳ね上げる。
よって、多くの呪詛犯は被呪者の大元の記憶や認知を弄らず、そこにほんの少し都合のいいフィルターをかませたり、短期で終了する命令を刷り込むようにして使うことが多い。
心理学用語を引用して、その技法は「暗示」と呼ばれていた。
『桜田さんとご友人が集まったのは、「どこか」へ遊びに行く予定を立てるためだった。この「どこか」を「十河病院」にすり替える。あなたたちにかけられた暗示はそういう類のモノです。……その場に一人でも、実際に界異に接した経験がある人間がいれば、成立しないものでした』
もう解呪は済んでいます、と高槻は続けたが、奈央にとっては何の慰めにもならなかった。
界異に実際に遭遇して、生きて帰れる人間は少ない。それに遭遇した経験がないのは幸運だ。
――それじゃあこれは、今までの幸運のツケってこと?
そんな馬鹿な話があるものか。
奈央は血の気が引くほど拳を握りしめた。その内側で、借り受けた名伏がぎりぎりと軋みをあげる。
「あんたたちにその話を持ってきた友達は、大学の先輩にここの噂話を聞いたって言ったの?」
「うん、そう。そう言ってた。怪談は俊が……もう一人の友達がネットで拾ってきたものらしいけど」
事故があって封鎖された廃病院がある、という話。そして、その住所が記載されたパンフレットを貸してくれた。今考えると酷く怪しい話だった。
「その先輩は嘘を吐いている。ここは地権者不明じゃない。土地も、建物も、どちらも権利の所在ははっきりしてる。私たち……というより高槻神祇官は、その男を探していた」
名を、
「今の話で確信できた。犯人は恐らくそいつ。多分、あんたの大学に興津って人間いないんじゃない?」