右手の方向に窓。左手の方向に壁が来るようにして、歩く。そうすれば最奥につく。
つまりは、その逆に向かって歩いていけば、いつか出口へとたどり着く。方角も階段も、何の関係もない。
ここはそういう場所なのだ、と伊澄夜刀は嘯いた。
「じゃあ、ほぼ一本道ってこと?」
「間違ってはいないね。でも、このペースだと入り口まで一〇分以上はかかる」
少し前の、無我夢中で走り回っていたときの記憶がよみがえってくる。必死の逃走の、それが結果だった。
急激に沸いた徒労感に押しつぶされないよう、奈央は小さくため息をついた。――ため息をつくだけで、済んだ。
情報交換を終えたのが数分前。二人は通路を引き返していた。一般市民である奈央の保護を優先したためでもあり、先ほどのように「黒不浄」の抜刀を制限される状況を避けるためでもある。
ただし、ヤトは渋々といった様子であったが。
境界異常発生の疑いがあるエリアに、神祇官以下一般職員は立ち入れない。ヤトは一度、奈央と共に病院の敷地から出なければならない。
それが面倒だと、口には出さないまでも、顔にはっきりと書いてあった。
奈央にとっては幸いにも、一人で歩けと言われることはなかった。祓魔師だって一応公務員、そんなことを言うはずがないのだが、ヤトなら言いかねない、という印象ができあがっていた。
「担げばすぐ出られるけど?」
「……遠慮しとく。年下の子にそれはちょっと」
「そう」
しかし印象に反して、ヤトは幾度かそういう提案をしてくる程度で、あとは黙って奈央を先導していた。
話しかければ応じるし、時折、はぐれていないかチラチラと振り向いて確認しさえしている。〈骸被り〉との戦闘を目撃していた奈央には、その歩度も自分に合わせたものなのだとわかった。
気を使っているわけではないのだろう。さりとて、苛立ちを飲み込んでいるわけでも、高槻の命令に盲従しているふうでもない。ただ、状況を受け入れるのが早い。
(悪い子ではないのかも)
今では、そう思いつつあった。命を救われておいて偉そうに、なんて自己嫌悪も忘れずに。
「……そもそも、ここって何なの?」
「結界術には『回廊』っていう空間をループさせる技法がある。入り口と出口は存在するけど、正しい道を選ばなきゃ、決して脱出できない道。ここがそれ。呪詛犯罪者がよく使う」
内部の空間の構造・性質を操作する乙種結界は、迷宮を形作るのに向いている。
侵入者を惑わせるため、または脱出を阻むための。外周を覆う認識阻害の甲種結界とは異なる、もう一つの結界。それが穢れの漏出を低減させ、今まで病院内の境界異常を隠し通してきたものだった。
――ここは“巣”だ。
あるいは“工房”、あるいは“城”。呪詛犯が築き上げる「自分のための」空間。
マンションの一室や、使われていない公民館の中を「改造」して作られたものには、ヤトも覚えがあった。しかしこれほど大規模なものを目の当たりにするのは初めてだった。
注連縄のように、後付けの結界要素は廃墟内には見当たらなかった。つまり病院の設計段階で結界による「内側」への拡張を想定していたということ。
“要塞”とすら形容すべき規模だ。
「その割に単純だね。行き来だけって」
まあ、あたしは見事にぐるぐる回ってたんだけど。そう自嘲する奈央を、ヤトは無言でじっと見つめた。
「ひょっとして余計なこと言ってる?」
「言ってる。けど、まあいいよ」
実際、奈央の疑問はもっともだ。“巣”を持つほどの呪詛犯の手になる『回廊』は、もっと煩雑な
たとえば全く代わり映えのしない十字路を二度突っ切った後、同じ十字路を右に、次に左に、次は真っすぐ、といった具合に経路が決まっていたり。二〇分間無制限に現れる界異から、逃げ延びなければならなかったり。
侵したものに
翻って、この『回廊』の戒律は、ただ方向を絶対座標ではなく「背景」に対する相対座標で決定することだけ。
「しなければいけない」ことは一つもなく、よって罰則も存在しない。
「誰かが新たに築いたんじゃない。ここは五〇年前から、ずっとここにある。だから回廊の設計が「古い」」
「……古いんだ、これって」
奈央はいい加減見飽きた背景に目をやった。呪詛なんて古めかしい響きのものにも、流行り廃りや進歩なんてものがあるのが、驚きというか拍子抜けというか。
「そもそも祓魔師だって昔はいなかったでしょ」
「言われてみればそうだ。……じゃあ、ヤトちゃんは最先端だね」
「“ちゃん”?」
「ごめん、調子のった」
ヤトはふん、と鼻を鳴らして前方に向き直った。奈央は気まずくなって、ほんの少しの間だけ黙っていたが、やがて好奇心の赴くままに様々なことをヤトに尋ねる。
今何歳?
高校生?
なんでこんな仕事してるの?
試験ってどうやって受けるの?
彼氏とかいる?
タイプの芸能人は?
「さあ」
「そう」
「関係ないでしょ」
「募集ポスターの番号にかければ?」
「は?」
「知らない」
ヤトはこの上なく鬱陶しい、という態度を隠さず、それでも無視するようなことだけはせずに、一つ一つに応じた。奈央はそのたびに、何が嬉しいのかひそやかに笑う。
そうしたやりとりが二〇分ほど続いて、無限に続くかに見えた旅路は終わりを迎える。
終点は断崖絶壁だった。
「……なにこれ」
「渡り廊下」
正確には、それがもともとあった場所。診療棟と入院棟の間にはただ夜闇ばかりが横たわっている。
「向こう岸」までの距離はおおよそ一〇メートル。地面までは六、七メートルほど――のはずだが、わずかな星明りはそこまで届いておらず、底なしの奈落がぽっかりと口を開けているようにも見える。
益体のない空想に身を震わせて、奈央はじりじりと後ずさった。
「私走り幅跳びなんてやった覚えないんだけど」
「そうだろうね。けど正しい入り口はここ」
正確には、対角線上にあるもう一つの入院棟から診療棟を通り抜けて、対岸の入院棟に渡る。
そして踵を返し、診療棟に戻れば、それは『回廊』への道となる。逆ではダメだ。
「でも「横道」がいくつかある。あんたはそこに入って『回廊』に迷い込んだ」
「じゃあ、帰りもその横道使えばよくない?」
そもそもどうやって出るの――とは言えなかった。答えを聞くまでもなかったし、聞きたくもなかった。絶対にろくでもないからだ。
それでも、ヤトが本気になれば奈央の抵抗など何の意味もない。そんなことはわかりすぎるほどにわかり切っていた。せめて、覚悟を決めたと思い込めるまでのわずかな時間が欲しかった。
案の定というべきか、ヤトは「無理」と一言で切り捨てた。
「私は入れないし、そもそも意味がない。横道が繋がってるのは「こっち」じゃないし」
「えーっと、説明してくれると嬉しいな」
「私は面倒だし嬉しくない。それに、今だって別に安全なわけじゃないんだけど?」
にべもなかった。無駄な時間稼ぎをするなと、ヤトは言っている。魂胆を見抜かれていることを悟って、奈央はただ「ぐぅ」と呻くことしかできなかった。
そうして、ヤトは奈央の想像通りのことをする。
鍛えているとはいえ、あまり背丈も変わらないのにどこにそんな力があるというのか、軽々と奈央の体を担ぎあげた。ファイヤーマンズキャリー。そのまま、(元)渡り廊下に向かって歩いていく。せめてお姫様抱っことかにしてほしい、という悪あがきは華麗に無視される。
想定外だったのは、ヤトが崖際で立ち止まったことだ。
「あ、あの、うるさくしたのは謝るから、投げ落とすとかはやめてほしいんだけど」
「……ここの結界には侵入条件がある。
あんたたちが認識阻害の対象にならなかったように、被呪下にある人間を選択的に中に通す。
はじめて界異に襲われた時点で、あんたたちは結界の内部にいた。元の廃墟とそっくりな風景の結界にね。
「横道」はそこと『回廊』を繋いでるだけ。だから通っても結界の外に出られるわけじゃない。これでいい?」
「……何の話?」
「あんたが説明しろって言ったんでしょ。本当に投げ落とされたい?」
「あっあっごめんなさい! よーくわかりました!」
本当は半分だって理解していなかったが、そう答えざるを得なかった。
まさか本当に投げ落としはしないだろうが、「どうせ投げ落とす気なんてないんだろう」と言おうものならためらいなく実行するだろうことは予想が出来た。それくらいには、ヤトの性格を理解し始めていた。
「で?」
「え?」
「他には、何か聞きたいことないの」
それだけに、わからない。ここで奈央にいちいち説明する理由などないというのに。どうしてそんなことを聞いてくるのかが。
奈央のことを案じているのだ、なんてありえない可能性さえ浮かんできた。
本当は心配しているのに、不器用な性格だから会話を続けて気を逸らせることしか出来ないだけだったりして。
所詮は空想だ。地上に大きな穴が開いているのと同じくらい、益体のない。
それでも、その空想が当たっていたらと思うと、つい微笑んでしまう。
――素直じゃないねえ、ヤトちゃん。
「ありがとぉぉぉぉぉぉおおおおお!!?!??」
その表情が気に障ったヤトは、奈央がお礼を言い終わるよりも早く、空中へと身を躍らせていた。
「……何かあったのか?」
「いえ、何も」
「お構いなく……」
十河病院敷地外。フェンスから少し離れた場所に仮設された指揮所で、高槻がヤトたちを出迎える。
風にあおられてぼさぼさに乱れた髪、腰が抜けて未だにヤトに担がれている理由。そのどちらのゆえんも、彼の知るところではない。
ただ二人とも、特に被呪者である桜田奈央に別条がなさそうなことに、安堵する。式神を介した遠隔
幸いにも、簡易祭儀そのものは成功したようだ。
――あとは、本人次第か。
高槻が少し憂鬱な気分で端末を操作しているうちに、ヤトは椅子を引き出して、そこに奈央を座らせた。
髪は乱れ、汗で剥がれたメイクの拭き残しが少し目に付くものの、目立った怪我はないようだった。
ヤトはその様子を見るともなしに軽く両手を叩くと、すぐに踵を返す。
「該当地域の探索完了いたしました。これより修祓業務に移行します」
「了解した。封鎖期限を」
高槻がそう宣言すると、周辺を飛び回るドローンの自動音声が修正される。
『現在、当地域は境界異常発生の疑いにより【一一時二四分】まで立ち入りを制限させていただいております――』
緊急性が認められる場合を除き、祓魔師の業務は二つの段階に分けられる。
すなわち封鎖地域の探索、ならびに生存者の捜索・避難誘導を行う予備作業。そして本格的に界異への対処を行う修祓業務。
とはいえ、制度としてはほぼ名ばかりで、実体としては予備作業に従事する人員が、そのまま報告なく修祓業務を行うのが慣例だ。ヤトにもそれはわかっているが、やはり例の生真面目さで律儀に手順を踏む。
とはいえ、それはある意味新人にこそ必要な態度でもあった。
境界対策課は神祇部の下部組織だが、神祇官は正式には祓魔師の上司というわけではなく、修祓業務においては対等と言っていい。
だからこそ、報連相によって相手を「巻き込む」ことも必要になってくる。何か致命的なミスを犯してしまったときに、責任を分散するために。
そういう意味では関心な若者と、言えなくもないが、高槻には、ヤトのそれは処世術なんて世慣れたものには到底思えなかった。
「……もう行っちゃうの?」
その背に、奈央が声を掛けた。ヤトは振り返ることなく答える。
「仕事が途中だからね。あんたのせいで」
「あはは……。えーっと、じゃあ、その、気を付けて?」
ヤトは答えなかった。そのまま少しだけ歩を進め、そこで初めて振り返った。
「命が助かった安堵感が抜けないうちに、絶望できる人間はあまりいない」
「……?」
「あんたはいつか喪失を意識する。布団にもぐったとき、自転車に乗ってるとき、ご飯を食べてるとき。とにかく、日常の隙間でね。
そんなとき、どうしても耐えられそうになかったら、私たちを恨むといい。あんたには、その権利がある」
そう言い残して、再び病院跡の廃墟に戻っていった。一足で高々と飛び上がった。
一六〇センチと少しの背丈は、瞬く間に闇に紛れて消えていく。
夜の黒と、密閉を乱されて不完全になった認識阻害の織り成す壁。その向こうでは三棟からなる病院の廃墟が、すでに死したはずの呪詛犯たちの“城”が、やはり物言わぬまま屹立しているのみだった。