その日はよく晴れていた。洗い流したばかりの澄み渡った空に、ちぎりぱんみたいな雲が二つ、ぷかぷかと漂っていた。
ありふれた日常の天気を覚えていられるのは、そのとき衝撃的な出来事が起こったことの証左にほかならない。
仕事に追われる先生を案じて、少女は、先生のいる確率が最も高い場所を訪れていた。シャーレビル、そのオフィスだ。
そこは日常となんら変わりない。前に来たときと同じ物の配置をしている。
きめ細やかで神経質そうな感じの漂うオフィスは、少女にとって慣れたものだった。くたびれた香りのするそこをあとにして、少女は先生の私室を訪れる。声をかけても返事はない。寝ているのかと思って、そっとノブに手をかけて回す。泥棒みたいにこっそりと覗く。見当たらない。
その私室にはいつも本がある。奥から順に、積まれた三段のカラーボックスにも、枕元にも、ラグにもローテーブルにも、床にも。生活感があって文化的な暮らしを想像させる先生の部屋には、けれども、なぜだか物が少ない印象を抱いてしまう。
オフィスに戻って先生の帰りを待つことにした。
そこでふと、一つの非日常が目に入った。それは桃色と茶色の絵の具を溶かした筆洗いみたいな独特の色味の大学ノートだった。
いつも先生がパソコンをいじっている机にぽつんと置かれているそれは、まるでたった一つしか置かれていない三点リーダみたいに違和感があった。興味本位で手を伸ばす。
表紙には何も書かれていない。裏表紙にも、何もない。
置いてあるということは、読んでもいいということだろうか。少女には判断できなかった。理性は「先生の許可をとったほうがいい」と訴え、感情は「最初の一ページを読んで決めればいいんじゃない?」と訴えた。
○
『私は人を信じることができません。
いいえ、嘘です。私は、自分を信じることができないために、自分が信用に値すると思った人間でさえ信じることができないのです。哀れに思うでしょうか。それは見当違いと存じます。
なぜなら、私は嘘をつき続けて自分不信に陥り、そのせいで人を信じられなくなり、さらに嘘をつくようになった愚か者だからです。負のループにはまった愚か者と言い換えていただいても差し支えありません。
ですからこれを読んだ人が私に向けるべき感情は、哀れみではなく、お道化に対して向けるようなものでなければなりません。侮蔑、嘲り、あるいは虚無。少なくとも、人をあたたかな気持ちにするようなエネルギーのある感情であっていいはずがないのです。
アスファルトのひび割れから光を受けて力強く咲き誇る草花に向けるようなものであってはいけないと、私は、これを読み返したときに自分が抱くであろう感情に対してここに釘をさしておきます。
廃園となった遊園地のメリーゴーランドに、救いの手は差し伸べられません。ジェットコースターのレールにはがたつきが目立ちます。どのアトラクションのシートもぼろぼろで、中に入っていたスポンジはかぴかぴに乾いて露出しています。動かすと、軽快なBGMの代わりに金属の軋む悲鳴のような音が響き渡ります。靴による泥や経年によって剥げた塗装、老朽化による錆。そういったものが至るところに散りばめられています。
喧騒と笑顔が彩ったそこは、あるたった一つの気づきによって破壊され、心の潮流に抗えず、ついに閉ざされました。
私はそこに横たわるピエロなのです。人をあたたかにすることなどできましょうか。心に芽吹いた漠然とした悪感情が体に根を張り、四肢までそれが伸びて私を蝕んでいるのです。私はそのために歩く能力を失ったお道化なのです。
人を騙し続けることがたまらなく苦しいのです。だからこうして、罪滅ぼしの真似事をしている。滑稽なものです。人を欺くことを覚え、その感触を忘れることのできないところにまで堕ちてしまったというのに、自分を構成している薄汚い要素のどこかに人間性の欠片が残っていると思っている。
家にある冷蔵庫とは違うのです。
『何か食材あったっけ?』
『冷蔵庫に何かあると思うよー』
蓋を開けると、そこからは冷気を帯びた空気が流れ出します。
残念なことに調理できそうな食材は一つもありません。ですが空っぽというわけでもないのです。生チョコを長年放置したような異物が、一段目にも、二段目にも、三段目にも、チルド室にまで――詰まっているのです。
それが私です。
私がこのような形で心情を文字に起こしているのは、先ほどの冷蔵庫のような軽い調子で己の過失を語りたいからではありません。そんなことをしてしまったら、まるで反省していないようだ。人は怒りを覚えるでしょう。それは、私の好むところではございません。
ですから私はこうして手記という形で残しているのです。己を痛めつけ、文字に起こす苦痛を味わうことで、実物として形に残すことで、まじめにやっていると人に訴えかける。打算ありきの誠実さ。これほど不誠実なことはないでしょう。
それでも、合理的な判断をくだせないほどに自分を責めていたのだと思わせればよいのです。私は己を善人に見せかけることが得意でした。人を欺くことは、いい人であればあるほどやりやすい。今までの人生で学んだことです。ですから、親切をモットーに掲げているのです。
迫ってくる魔の手が階段から私を突き落とすまでその瞬間まで、私は、人類という種族を欺き続けるのでしょう。
私の曾祖母は自害しました。顔も声も服装も好きなものも、何一つ覚えてはおりません。遺影が一枚、仏壇に飾られているという事実しか記憶しておりません。ただ、年長者が漂わせる生きたもののくたびれた体臭を漂わせていたことは記憶しています。人によってその定義は様々でしょうが、それは、おばあちゃんの香りと一括りにされるものが近いことと思います。
曾祖母はときたま、私が歩いて三分もかからない小屋に倍の時間をかけて向かい、同じくらいの年代の方と刺繍らしきものをしていました。六畳くらいの部屋の中に女性が四人も五人も団子みたいに集まって、そこにさらに刺繍の道具があるものですから、大変ぎゅうぎゅう詰めだったと記憶しています。
そこへご飯ができたと呼びに行くのは私の役目でした。家族の中で私が一番、元気がよくて、声が通って、懐いていたものですから。保育園から帰ってきて文字の勉強を済ませて、絵本を読んだり動画を見たりして、夕方になったら散歩も兼ねて曾祖母を呼びに行く。私は週の半分ほどの夕方をそのようにして過ごしました。
二人はそうして、私が来るときの倍の時間をかけて帰るのです。なにぶん田舎なものですから、その道中にはたった一つの木の電灯があるばかりでした。冬場は暗く、また雪のせいで足元は悪く、倍の倍くらい時間がかかったのかもしれません。特別の会話もなかったと記憶しています。
しかし、薄暮れと適切な距離感で共存できていた時間が、人が不安に襲われる逢魔時にあたたかく弱い光を振りまいてくれる曾祖母の長い影と歩く時間が、私にはとても大切なものでした。人生における幸せの最高点を決めろと言われたのならば、私は迷うことなくこの時期を挙げるでしょう。
曾祖母が好きだった紫陽花は、いつしかすべて刈り取られておりました。コの字型の家の外周をぐるりと囲むようにあったそれは手入れが大変なのはもちろんのこと、マムシやヤマカガシが出没する危険があったからでした。
私は活動的な子どもでしたから、外によく出て、家の周囲でヘビを何度も見ていました。シマヘビやアオダイショウだったりもするのですが、多くはマムシでした。夕飯でそれを話すと、決まって家族は「あんなもの早くどかせばいいのに」と言うのです。険しい顔で曾祖母を見るのです。曾祖母は何も言いません。
今思い返せば、このころから、家族に明確な立場の差が生まれていたのだと思います。
家族は対等だとか、助け合うものだとか、綺麗事を言う方がいますけれども、それは世界の一部分だけを見ての発言だと私は考えます。もっと正確に言えば、都合の悪い闇の掃き溜めからふいと顔を横にやって、何もないまっさらな、もしくは健全な人の営みを見て、綺麗でしょう? と共感を得ようとしているにすぎないのです。それは詐欺師と同じです。
草食動物であればそんなことは言えなかったでしょう。
とにかく、曾祖母は家のことをほとんどやりませんでした――やれませんでしたから、どんどん隅に追いやられていくのは自明だったのです。
やがて家族は、曾祖母が大切にしていた紫陽花と私が怪我をするかもしれない確率とを天秤にかけて、後者を選びました。私は今、その事実に対して、子どもへの愛にあふれた最も残酷な判断だったと考えております。曾祖母は紫陽花のあった場所を、薄暮れから帰ってきて家に入る前に、よく眺めておりました。そのときばかりは、私の拠り所だった光が弱くなるのでした。
遠くにある霊峰を眺める目から光が吸い取られている感じがしました。
どうして私はこのとき、曾祖母に寄り添ってあげなかったのでしょう。
お腹が空いたからと、どうしてご飯を急かすばかりだったのでしょう。
無知は罪ではありません。しかし、無知であるがゆえに功績が生み出されることもありません。それは厳然たる事実として、人々の行動を決めるのです。
ただ、それだけのことだったのです。
曾祖母の室内は、半分が物置のように扱われるようになりました。部屋の奥に五つほどあった千羽鶴の束は気づけばなくなっていて、曾祖母はベッドの上で、一から作り始めておりました。日にひに、ベッドの近くをゆらゆらと不規則に揺れる自由を失った小さな鳥は増えてゆきました。私はそれが増えていくのが好きで、まるで居候にあてがったような薄暗くてじめじめとした部屋を訪れるたびに喜んでおりました。
増えたね、と。
曾祖母は笑っていました。その笑みの形を、私は覚えておりません。思い返すと、私は、ちゃんと家族の一員だったなと思うばかりです。
生きてきた証を少しずつ取り払われて、人生の断崖絶壁へと追いやられていく体験をして、曾祖母は何を思ったのでしょう。歩く角度が少しずつ上へと向かっていく心地がしたのではないでしょうか。
もしかすると、曾祖母はあの目をするようになった日から、行き着く先が高い山の峰しかないような角度の緩く長い坂を孤独に歩んでいたのかもしれません。
遺書という遺書は見つかっておりませんから、実際のところは藪の中です。曾祖母が首を吊ったのも、ちょうど藪の中でした。
こんなふうに書くと、私を含む家族が人道に
共感能力に欠けているのは間違いありません。いいえ、これも正確なところではありません。これではサイコパスの心理学的な定義になってしまいます。私の知る限り、そういった言動はしていません。
『実利の天秤の傾きを正しく理解し、それに見合う程度の犠牲を許容できる』とでも言いましょうか。アルバス・パーシバル・ウルフリック・ブライアン・ダンブルドアのような方です。偉大な存在なのでしょう、私の家族は。事実として、何かの分野で、よく分からない功績を残していたと思います。もしかすると大多数の他人の命を救ったのではないでしょうか。詳しいところに興味はありませんけれど、一人の命を損なったことだけは確かでした。
曾祖母にしていた仕打ちについて私が気づいたのは、彼女が亡くなってから七年が経ったころになります。紫陽花のあった場所をコンクリか何かで固めて、歩けるようにする話が家族間であがりました。そのときにふと気づいたのです。
途端に、私は、生まれてからずっと一緒にいた存在が恐ろしく感じられました。
私の大好きだった人を連れ去ったのですから。今でもときどき夢に見る、聡明になるようにと私の頭を撫で、私が寂しがっているときに手を包みこんでくれた、あの、水分のないシワだらけで硬い感触の曾祖母を、連れ去ったのですから。
私が人生で初めて覚えた怒りでした。
そして私は、中学三年に上がってからは自室にこもるようになりました。ご飯をわざわざリビングに取りに行って自室まで運ぶ始末でした。最初は不審に思っていた家族は私から『理解のある存在』だと思われたかったのでしょう。反抗期かもしれないとからかって、それきり触れてこなくなりました。
しかし、私が困っているとみたときには手を差し伸べてくれました。
すると今度は私が苦しくなります。何せ両親へ抱いていた恐ろしさは怒りとなり、やがて憎悪へと変貌を遂げていたのですから。一方的な愛情を向けられることはつらかったのです。あなた方の、勉学において非常に優秀だった息子は、腹のうちではあなた方を憎悪している。冷ややかな侮蔑と熱をもった後悔が渦巻いている。けれどもそれを両親へ振るうようなまねはしませんでした。一ミリグラムほど存在していた良心が私を止めたのでした。
関わりを慎むべきだ、その関わりは忌むべきものだ。私がそう考えていた者たちは、無条件に私を助けてくれる。
矛盾は私の思考を支配し続けました。中学三年の大半を使って出した結論は、分からない、というものでした。もう疲れ果ててしまって、何もする気が起こりませんでした。中学時代について、私には特にこれといった記憶も思い出もありません。家族はそれを都合よく、受験によるストレスだと誤解してくれました。担任もクラスメートも、確か私にとって都合のいい解釈をしてくれたのだと思います。
親もとを離れる決心をした私は、それなりの知名度の大学へ進学することにしました。そうして、すべてを途絶えさせる決意をしたのです。周囲との関係も、家族への感情も。途絶えさせるというよりは、リセットといったほうがいいでしょうか。少し陽気な言い方をすれば、何もかもをリセットしてフラットにしたかったのです。私自身、私が抱いている感情が、私を不健全な成長へ導いていることを知っておりました。
それを決めたのが、中学三年の秋です。高校の進路を変えることはありませんでした。なぜなら私は、期待に応えるという空虚な理由で県内一の進学校を目指しておりましたから。
問題は高校に入ってから起こりました。私が調子を崩したのです。
睡眠時間が減り、食が細くなるに連れて体も同様の変化を遂げていきました。これでは、いけません。矛盾について考え続けて疲弊しきったことが大きな理由だったのだと推測しました。私は強情にも心理カウンセラーにさえ相談しませんでしたから、心理学的な知見から物をいうことは難しいです。
解決策として私は、とりあえず薬漬けになって寝る、むりやりにでも食べるという力技を実行しました。功を奏したとは言い難く、高校生活の思い出がたった一つしかできなかったと言えるほどにつらい日々でしたが、私はそれを完遂しました。
ところで私は、高校生活の思い出がたった一つしかないと書きました。
私は進学校に進みましたから、大学の進路もそれ相応のものが大半です。
その中に一人、あまり勉強が得意でない女の子がおりました。私はたまたま、その子と付き合いがあったのです。それは男女関係といったものではなく、席がとなりだったことが続いただけという奇縁だったのですけれども、とかく付き合いがありました。運動会や文化祭、修学旅行などでも何か縁があったのかもしれませんが、それは普通のクラスメートの範疇に収まるものだったのだと思います。
私と教科担任とで例の女の子の勉強を手伝い、ときにメンタルのケアをして、受験に望みました。
私と彼女とを比べると、私のほうが勉強という種目が得意で、彼女のほうが目指している場所が高かったことを先にお伝えしておきます。ここに双方の向上心と人生への意欲が見て取れることと思います。
結果は、私は片手間で進めていた受験勉強で志望校に受かり、その女の子は、全身全霊をかけた受験勉強の末に落ちて、自害しました。もともと気を病んでいたふしはありましたから、私に与えられた驚きは、もしもと想定した未来がその通りになぞられた程度のものでしかありませんでした。人生を決める神様が盤上に彼女の地図を広げていて、その一筋につうと指を走らせたに過ぎないのだと、私は静かな衝撃をもって事実を受け止めたのです。人とは存外、呆気なくその一生を終えるのです。
私はそのとき、彼女の人生と、教科担任の人生と、彼女の家族の人生を大きく歪めたことをここに自白いたします。もとより歪んでいたであろう私の人生はそう大きくは変わりませんでした。
最も勇気のある一歩を踏み出した彼女を、勇気のない軟弱者と非難する人もおりました。後者の方々について、私は怒りを覚えませんでした。このころの私は自分に失望し、家族を含めた周囲に失望し、そういった心持ちにはなれなかったのです。
そして私の胸には、彼女を励ますためだったとはいえ無責任に「大丈夫」と言い放った己への罪の意識が常に重くのしかかるようになるのでした。これは鍵のない手枷のように、私の行動を制限させた意識でした。
今、私は、最も嫌っている人間の、その人間性がよくあらわれた記憶を書き記したいと思います。
それは真白な雪の積もる霊峰に、さらに雪の積もる日のことでした。暖房の効いた自習室の中でとなり合って座っていた例の女の子の手が、ふと止まったのです。
彼女は常に緩やかに滑らかに振動している子でしたから、私はそこに異変を嗅ぎ取りました。骨に雪見だいふくの外側を貼りつけたような手がシャーペンを握っていたことだけは鮮明に思い出せます。
彼女は唐突にルーズリーフから顔を上げて外に目をやりました。私もつられて外を見ました。私はそのとき、ああ、彼女もまた曾祖母と同じように旅を始めたのかもしれないと思いました。薄暗い外、彼女の視線の先には、曾祖母が眺めていたものと同じ名前の山がありました。
もしかすると彼女たちは、圧倒的な自然に対して我々が抱くような畏怖ではなく、行き場をなくした生き物の魂が降り積もって溶ける空虚を感じたのかもしれません。人に生命を感じさせるはずの自然は、すでにそれが尽きそうなものに対しては逆に、生命を吸い取るかのような働きかけをするのかもしれません。
私はそのとき、何もしませんでした。
いいえ、違います。引き戻そうと、したのです。確かにあの瞬間は決心したはずなのです。
しかし私は、彼女から寄りかかられることを大儀に感じて、伸ばしたかけた手をひょいと自分のほうに戻したのです。飼っているペットに餌をあげない悪戯をするみたいな調子で、私は決心と彼女に背いたのでした。
彼女の人生が立ち行かなくなったとき、私の人生には一陣の風が吹き抜けていきました。それは雲一つない晴天と花のない高原が似合う風でした。それは私の人生の未来まで吹き抜けていって、そうして底の見えない深く長い地下階段を作り上げたのです。一生をかけて、私はその階段を下っていくことを余儀なくされました。やがて手から滴り落ちた腐ったものがその階段まで垂れて、私がそれを踏んづけて足を滑らせていくことまでが決まりました。私はその覚悟をこのときに済ませました。
先ほどほんの少し触れたことですが、文字通り無責任に背中を押したのは私なのです。あろうことか手を伸ばして引っこめるという最低な行いをした私なのです。
私は罵声を浴びせられることに恐怖し続けました。そのせいで感情の矛先が怒りへと向く余裕がありませんでした。私はいつだって、自分を優先させる人間なのでしょう。なぜ矢面に立たされなかったのか、私はいまだに分かっておりません。もしかすれば、先生方や遺族の方々が働きかけをしてくださったのかもしれません。それすら分からない人間が私なのです。
教科担任の方々は自分の精神がまいっているにもかかわらず、私を心配してくれました。私はその気遣いを嬉しく思いました。人を一人、破滅へ導いておきながら。
私はもとより家族に対して憎悪を隠し続けていたのです。悲しみを他者の前で繕うことなどわけもありませんでした。しかし繕い続けてもいけません。人を突き落としていながらへらへらしていては、顰蹙を買うからです。私はときとして悲しみを繕い、ときとして悲しんでいないふりをしました。それは皮と肉の間を漂う妙技でした。自分の感情がどちら側に傾いているのか、このころの私は――今になってもですが――判断できずにおりました。悲しみを繕うという言葉がどちらにどのような意味合いを持ってかかっているのか判断できないのです。
私は色のない日常を演じ続けました。日常とは記憶に残らないものですから、私の高校生活はその点において非常に優秀に演じられたものと推測しております。
私の様子を見て、先生方は、何か得体のしれないものと関わっているのだという恐怖に襲われておりました。人でなし。私はそう呼ばれるにふさわしい化け物だったのでしょう。
自分も家族と同じ、卑しい存在なのだ。人を殺しておきながら平生を装うことのできる薄情な人間なのだ。進学のために一人暮らしを始めたあたりで、私は人生の方向を決定づける気づきを得ました。
私はこのころから徐々に、自分を、他人を信じなくなって――欠片ほど残っていたものが塵となって霧散するような変化でしたが、有か無かの差は大きいのです――いったのでした。雪の重みで木の枝が折れてしまうように、内包できる自責が許容量を越えたせいで、私は死人のように何も感じずに生きていくことが賢明だと判断したのです。不可逆の変化に片足を突っこんだのです。
自分を信じることができなくなり、他人――この際、家族もいれることとします――を信じることができなくなり、そのような欠陥の多い自分をやはり信じられなくなりました。
大学では粗相のないように、私は交際の範囲を極めて狭いものとしました。その中で両腕を広げて抱きしめる準備をしてくれた方に対してすら、両肩を押して拒絶を示しました。
私は、私の大切にしているものが、私や周囲の意思とは無関係に、ただ大きなものの力によって崩壊へと向かっていくのだと直感しておりました。そしてそれこそが最も人を傷つけ、狂わせる、魔性の力だと悟ったのです。運命。命を運ぶ流れ。そう言い切ってもいいでしょう。
私には三度目の衝撃を耐える余裕がありません。
私には抱いた汚泥を誰かに渡す気がありません。
私は地下階段を共に転げてほしいと思いません。
私は自分を誰に打ち明けるでもなく、抱え続けました。原型を留めなくなるほど腐っていったとしても、これは自分の片鱗ですから、こぼれ落ちないような振る舞いをしたのです。冷蔵庫を開けられてもあふれ出すことがないように流体と固体とを奇妙な割合で共存させたのです。
すでに手枷のはまっている私は、それを抱えることでさらに行動の範囲を制限されました。
孤独を全うすると私は心に固く決めました。二度目の背信行為をしないようにと、もう遅いながらも誓ったのです。
ですが、ですが、こうして立ち止まりたくなるときもあるのです。
私は周囲から傷つけられたために孤独でいるわけではありません。
私は周囲への絶望のために孤独を愛しているのではありません。
私は周囲への諦念のために孤独を選んだわけではありません。
清水のように湧き出てくる毒沼のために孤独でいるのです。
私が意志薄弱の人間であることは、短く実のない人生の中で嫌というほどに思い知っております。ですから決意を歪めないために、今このような形で改めて愚物の生涯を文字としたのです。また、己の罪への意識を多少なりともそらすためにこれを書いたのです。
これくらい後悔しているんですよ、という周囲から同情を買うための証明書としているのです。
私は誰かに見せるためにこれを書いたわけではありませんから、それが効力を発揮することはないでしょう。
この書の先のほうで、私は一言『人を騙すことが心苦しいのだ』と、そう記載いたしました。冷蔵庫の話をしたせいですっかり忘れていましたけれど、読み返して気がつきました。私はここについても、自分に対して釘をさしておきたいと思います。
人には必ず、周囲が発する感情の電波みたいなものを拾うアンテナがあると思います。私はその感度が高いがゆえに、人を敏感に察知してしまうのだと思います。自分が嫌いだという確固たる芯のある私は、しかし、自分の軸がありません。常に周囲をうかがって、自分を出す割合を決めているのです。それは神様が左手で支えているような危うい均衡でした。その上を私は歩いてきました。
ですからころころと意見の変わることがあるように思います。たとえば――いえ、具体的な名前を出すことはいたしません。とかく、人からの誘いに対して軽い返事をしてみたり、誰かを誘ってみたり、人の意見に同調してみたりと、そういったことはすべて不安定なお道化精神のためなのです。苦しくて身動きが取れない状態でも、少し休んで私はむりやりに動こうとするのでした。
優柔不断なわけではなく、電波を拾いすぎてしまうがゆえなのです。そうしてちぐはぐな態度を取り続けて自分を摩耗させていくのです。ぼたぼたと音を立てて自分の一部だったものが階段に滴るのです。
嘘で塗り固めた人間関係を嫌っているわけではありません。嘘をつくことによって毒がどんどんと蓄積していき、それが内側から湧き出てくる自責や自分を嫌う性質と合わさって相乗効果を生んで足を滑らせやすくなることをこそ嫌っているのです。
それを避けるために私は人から離れた場所にいたがります。私は一人で生きるという点においてだけは、決して曲げません。一種、償いのような心持ちでいます。
それを改めて、ここに記します。
階段をしっかりとした足取りで下る猶予を、どうかもう少しばかりください。私はいずれ来たるその衝撃に備えて、身辺の整理を常にしております。本以外はすべて排除して生きています。
今は毒を補充するか逃がすかのどちらかの処置として、本来は墓まで持っていくつもりだった事実を書いているのです。衝動と思い出の狭間にあるやわらかい苦痛の海を漂う快楽を味わっているのです。
いつの日か、暗くおどろおどろしい私の知らない存在が私に追いついて背を押す瞬間まで、私は生き続けるでしょう。
一切合切の間、私は大人という唯一無二の存在としてキヴォトスで力を尽くしたいと考えました。これは愚物に与えられた使命なのだと確信しております。
私は、私にできることがしたい。いいえ。これもきっと、私のアンテナが周囲から向けられるものを拾ったに過ぎません。私はもう、私という存在が分からなくなりそうです。
とにかく、私は今日も、生きなければなりません。
その使命の指し示すところが不明瞭なままに。私がこれを読み返したときに、少しでも業務を続ける意思を持ち続けられることを願っています』