「主殿! 何か手助けが必要なことはございませんか!? 不肖イズナ、全身全霊で主殿の期待に応えてみせますぞ! ニンニン!」
当番の少女は、普段よりやけに気合が入っておりました。そうして甲斐甲斐しく私の世話を焼こうとするのでした。
狐の尻尾を犬のように振りふりし、パソコンに向かう私を覗きこんでみたり私の周りをうろついてみたり、ファイリングした資料を取ろうと腰を上げると先回りして「こちらでしょうか!?」と差し出してきたり……とにかく動作が忙しかったのです。
普段から元気いっぱいの少女だったのですが、さすがに今日は元気すぎました。まるで、自分がそのようにしていなければ世界が滅ぶかのように、気負いの感じられる明るい振る舞いでした。
「何かあったんですか?」
「ひゃい!」
「いつもと違うように感じられますが」
私が尋ねると、イズナは嘘がばれた子どものように尻尾をぴんと立たせました。ぎこちない動作で振り返り「いえ何も」とつっかえながら話します。目が泳いでいました。
嘘をついているのだと私は察しましたが、特に追求する気も起こらずに流しました。
「あ、主殿のほうこそ……大丈夫でしょうか……!?」
「大丈夫とは、ずいぶん抽象的ですね」
と、そんなことを聞いてくる有様でした。両手を胸の前で祈るように組んで落ち着かなげに動かしています。座る私を見つめる視線から、何かを期待していることは明白でした。
しかし私は、その内容までは分かりませんでした。さっとオフィスチェアを引いて彼女の全身を捉えました。そうしていつものように、人が喜びそうな言葉を、まるで川辺からきれいな石でも探すかのように選んで手渡しました。
「業務等については問題ありませんよ。激務ですが、なんとか。これもイズナが力を尽くしてくれるからこそです」
イズナは笑顔になり、尻尾も感激をあらわにしています。途中ではっとしたらしく「で、ですが!」と食い下がりました。
珍しいことだと、思いました。嫌な予感がしました。私はこの予感を信頼しています。身構えたくなるのをぐっと堪えます。
イズナは言葉を選んでいるらしく、慎重に話し始めました。
「本当に、大丈夫なんですか……?」
「大丈夫の示すところは分かりませんが、今のところは」
「……本当に、ほんとうに?」
「ええ。本当に、ほんとうに」
「本当の、ほんとうの、本当に?」
「……なんだかゲシュタルト崩壊しそうですね」
苦笑した私を見つめるイズナの視線が変わりました。なんだか上目遣いで様子をうかがってきたのでした。私は椅子に座っているので彼女を見上げる形になっているのですが、そう感じたのは確かです。大人の不自然を目の当たりにした子どもが人差し指を顎に当てて首を傾げるような調子でした。
私は決まりが悪くなりました。
「……いま、主殿……話をそらしませんでしたか?」
ぎくりとしました。焦る私とは対照的に、イズナは殴りつけられた子犬のような目で私を見つめます。彼女は言葉で殴りつけられたのでした。
私は答えに窮しました。生まれた沈黙こそが雄弁な回答でした。
「やはり……」
どうしてそんなふうに、悲しげな表情をするのだろう。私は混乱しました。意味の分からない要因で心配され、意味の分からないことで今度は悲しまれたのです。さとり妖怪以外にはどうしようもありません。
ひとまずオフィスチェアから立ち上がってイズナを宥めようとします。両手を軽く前に出しました。
勢いよく頭を下げたイズナに、その動作は阻まれました。
「あ、あの! 申し訳ありません、主殿! その……イズナは、ノートを見てしまって……」
ノートと一口に言っても、その指し示す範囲の広さから察するのは難しいです。しかし私はイズナへの違和感と自分の犯した失態から、おおよその当たりをつけました。
彼女がなぜ今それを口にしたのかは判然としません。私が秘密を話してくれないから、いっそ自分から秘密を話せば相手も話してくれるだろう――そんな心理学を応用した打算があったのかもしれません。また、私のノートを見てしまった罪悪感が日にひに増してゆき、今の私の言動で表面張力を破って滴り落ちたのかもしれません。
いずれにせよ、絶望的な間の悪さで二人が見つめ合ったことだけが確かでした。
「つらいことがあるようでしたらイズナが……!」
顔を上げたイズナは、ゆっくりと表情を変えました。
私はそのときに見た琥珀色の揺らぎを、生涯忘れることはないだろうと思いました。あれは、人が傷つけられたときの揺らぎです。同時にそれは、私の心にはっきりとした跡となって残り、死んでも消えないとも思いました。
私はおそらく、ありありとした失望を顔に出してしまったのです。
イズナの表情からは、未来に起こることをある程度予測していて、それがその通り起こったような絶望が見て取れました。
純真無垢な正しさ。子どものみが持ちうる真心。彼女は気の赴くままに、善であると信じた方向に邁進したのでしょう。子どもとして誇らしい行いだと思います。私のノートを見たことを悪だと正しく認識しており、嫌われるかもしれないと恐れながらも言葉にしてくれました。
それを向けられた私は、その善性を踏みにじったのです。底冷えのする声でした。
「あなたには分かりませんよ。きっと」
そう言って、はっとします。これはあまりにも恥知らずの物言いだ。私は緩く首を振りました。
「いいえ、違いますね。分からないほうがよいのです。これが分かるということはすなわち、大人に近づいているということなのだから。知らないほうがいい」
「で、ですが……!」
一歩分だけ近づいてくる華奢な肩を押しました。
私のほうが力が弱いにもかかわらず、またほとんど力を入れていないにもかかわらず、
首を振る私を、イズナは黙って見上げていました。そうして輝きを徐々に失っていったイズナの瞳は、私の仄暗い影をより強いものへと変化させました。
私はまた、自分の人間性を自覚しました。
イズナはおそらく、人から拒絶されたことがないのでしょう。だから不用意に人の懐に入ろうとするのです。
人から傷つけられたことのある人間は、いい意味でも悪い意味でも臆病になるものですが、イズナにそういった傾向は見られません。相手の懐ががら空きだと思って、まさかそこが冷たく固い感触の金属なわけがないと思って、きゃんきゃんと抱きついてくるのです。
私にはそれが勇敢にも無遠慮にも感じられました。平生であれば弾力のある返しができるのですが、今日はできませんでした。
ノートを隠し忘れる失態を演じたあの日、本来であればオフィスには誰も来るはずがなかったのです。ですから、用を済ませて戻ってきて、その事実に気づいた私は平静を取り戻すことができたのです。
それがまさか、後ろからいきなり刺されるなど、誰が思いましょうか。いたいけな少女が苦しそうにしながら、私を心配する様子を見せながら深々とナイフを突き立ててくるなど、誰が思いましょうか。
人を欺いて赤い血を流すことが得意な私は、他人からもたらされた赤い血を隠すことが不得意なようでした。
懸命に言葉を探してはどうにか言い募ってくるイズナに、私は拒絶の返答をしました。なおも言い縋るイズナに向かって、果ては「もう今日は帰ってくれませんか。業務はあらかた片付いて、一人でも進められますから」といったことまで口にしました。
怒気を滲ませることは決してしませんでした。怒りを覚えるだけ労力の無駄になることもあるのだと、私は曾祖母の経験から学んでおりました。
「……出直してきます、主殿。申し訳ありません。イズナが、主殿への配慮が行き届かないばかりに……」
しゅんと俯くイズナの耳が垂れ下がっていました。尻尾の毛先がリノリウムの床に若干擦れています。彼女が丁寧にそれを手入れし、できるだけ汚さないようにしていることを私は知っていました。今のイズナには溌剌とした所作の面影がありません。
「それは違いますよ。私が悪いのです。イズナは確かにあのノートを見たのでしょう。魔が差したとしても、それはいけないことです。ですが謝ったのですから、イズナはもう悪くありません。私がいけないのです」
「よいですか?」そういって頭に軽く触れるのを、イズナは黙したまま受け入れました。
「いい子ですね、やはり」私は軽くほほえみかけました。私を視界に収めたイズナは、下唇を噛んで、やがて再びうなだれました。
なんでもないのだと念を押しました。注意深い口調で伝えたものがどれだけ正確に伝わっているのか、私には分かりません。深い悲しみを与えられた様子の小さな背がオフィスのドアとともに隔たり、それからしばらくして、一本の石畳を駅に向かってとぼとぼ歩く様子を私は眺めておりました。
それは春のことでした。あたたかな日差しと肌寒い風のよく似合う、気持ちよく晴れた日のことでした。散った桜の代わりに新たな生命の息吹が鮮やかに芽吹き、未来を待っているかのようでした。小さな背はもう見えません。
オフィスと外では、温度になんらの変化もないはずです。それなのにどうして、冷たい風すら吹かない閉ざされた箱は、こんなにも寒いのでしょう。
彼女はその日を境にして、私のことを「主殿」と呼ばなくなりました。
○
百夜堂が海に出店を構えるといった内容だったと思うのですが、とかく私はその計画の相談をされ、海へと向かいました。
一日目を終えて、翌朝のことです。慣れない場所での活動だったため、私は肉体が疲れていると踏んでいたのですが、その予想とは正反対に早朝に目が冴えてしまいました。
仕事をしようにも心持ちが優れず、特別の考えもなしにスニーカーに足をつっかけました。私服というには面白みのないシャツとジーンズ姿で、海岸線を気の赴くままに歩きました。
なんとなしに波止場で足を止めました。
私はずいぶんと久しぶりに波の音を聞きました。今では動画サイトや環境音として配布されているものですが、やはり実物とは違うと思いました。それは音が違うというよりも、周囲の景色や波以外の葉擦れの音、香りなどが影響しているのでしょう。
朝日を照り返した海面がきらめいて見えました。周囲の遠景には山が連なり、一本道の長い歩道と砂浜が続いている中にぽつんとある波止場で私は足を止めたのでした。
強いでも弱いでもない風が肌を撫でて私を追い抜いていきます。塩っけのあるべたつきに、洗濯が面倒くさくなるなあ、冷酒でもあればいい肴になりそうだなあ、などと考えておりました。
長い間、ぼうっときらめきの一枚を眺めていたと思います。
「先生!」
出し抜けに背後から声が聞こえました。私は一瞬どきりとしましたが、何食わぬ顔で振り向きます。イズナでした。
愛用しているかわいらしいサブマシンガンが握られているのみで、彼女は特にこれといったものを身に着けておりませんでした。髪は結ばず、髪飾りもつけておらず、目もとの化粧もなく。それでも彼女は、少女として完成された美しさを持ち合わせておりました。普段よりも清楚の色が強くなっているでしょうか。私は自分の目を当てにしていないため考えることをそこでやめました。
駆け寄ってくる彼女を無言で迎え、またしばらく海を眺めました。イズナは私の後ろに立ったきり一言も発しませんでした。
私はきまりが悪くなって振り返りました。「あっ」イズナは私の後ろ姿を見ていたらしく、目が合いました。
「ランニングでもしていたのですか? 体力作りとは感心ですね」
イズナはどうやら桜色の寝間着姿のまま走ってきたようで、健康的な手足が曙光を反射しています。格好を見る限り明らかに違うのですが、私はとりあえず話の取っかかりとして口を開いたのでした。あわよくば帰ってもらおうと考えておりました。
彼女は非常に気まずそうな顔つきで視線を横にやりました。
「いえ、先生がどこかに行ってしまうのではないかと……」
「そんなことはありませんよ。少し、何をする気にもならなかったので歩いていただけです」
「でしたらお側にいさせてください」
「構いませんが、面白くありませんよ」
「イズナがそうしたいのです」
それきり私は言葉を失いました。少女の献身を一身に受けながら、帰れなどと、誰が言えましょうか。自身が傷つけた少女にそれをさせている罪の意識に支配されそうな体を動かして、まぶしい景色を見ます。
爽やかな日差しと、澄んだ空気を運ぶ風。ときおり涼やかな声で鳥が鳴いています。どれもこれも私の不徳を責めているようにしか感じられません。一人のときには気にならなかったものが私の意識にノイズを走らせます。
彼女はとなりに並びません。
私はもう一度背後を見ました。
「あっ」やはりイズナは私を見ておりました。
彼女は私の視界に入ることを遠慮しているような慎ましやかな所作で、私の後ろに立っていました。胸に抱かれたサブマシンガンにちょこんとついている狐と目が合います。その近くで重ねられた手には、キツネ色のマニキュアが施されていました。
「あなたは、ずいぶんと不思議な生徒ですね」
私がイズナを突き放した日から、彼女と私は、霧の中を歩くような距離感を保っておりました。互いの正確な距離が分からず、あるときは近づきすぎて、またあるときは遠くなりすぎて、とぎこちなかったのです。それでも彼女は私との距離を見つけようと頑張っていました。
私が話しかけるとイズナは顔をぱっと明るくして、それからきょとんとした顔になって首を傾けました。
「不思議……ですか? 初めて言われました!」
「そうですか。ではみなさんは、あなたのことをなんと評するのです?」
うむむ、といった感じで首をひねり、唸り、尻尾を揺らす彼女はやがてぽつぽつと単語を列挙し始めました。
「元気いっぱい」「はつらつ」「明るい」「かわいい」打ちつける波の音が邪魔してときおり聞こえませんでしたが、概ねこのようなことを彼女は言いました。客観的に見てその評価は妥当なものだと思いますし、だからこそ私の評価軸の異質さが際立って感じられました。
彼女は私の持つ陰鬱な気を、まったくもって照り返してきません。そのため、私はある種の安心を彼女に覚えておりました。光を反射しづらいという点で黒色に近い女の子でした。仕草の色味は晴れやかなものですが、私にとって、彼女はまばゆい黒さをもっていたのです。
自然と目もとが緩んでいたのでしょう。彼女は再びきょとんとした表情になって私を見上げました。一度、尻尾が揺れました。
「どうかされたのですか?」
「いえ」私はゆっくりと首を振って答えます。そして海へ視線を戻そうとして、体ごともう一度彼女に向き直りました。
「となりに並んではいかがですか。毎度振り向いて話すのは、少々億劫ですから」
彼女は目を輝かせて、それはもう尻尾をぶんぶんと振ってとなりに立ちました。
彼女のほうを見ながら話す義理などないのですが、それを言ってはおしまいです。
私はイズナと並んで話したかったのではありません。私は、ここまでの奉仕を受けながらそれを不躾に拒絶する自分に耐えられなかったのです。
耳をぴこぴこと跳ねさせながら海面に顔を向ける彼女には知る由もないでしょう。
「きれいですね……! さすが主殿――先生ですね!」
「主殿でも構いませんよ。呼びやすければ、なんとでも呼んでください」
「先生は、気づいていないのですか?」
「何をです?」
「いえ、なんでもありません」
ばちゃぁん、とひときわ大きな波がテトラポットに打ちつけられました。朝の清純な空気に、その音はやけに大きく響きました。イズナの本心が音として伝わるのを阻むように、誰かに私たちの会話が聞かれることを阻むように、あるいは、二人の間で停滞した会話を打ち切るように。
人に興味を持つことをとうの昔に忘れた私は、しかしひどく気になるのでした。ものを隠すようなあくどいことに意識の向かないイズナが言葉を濁したのですから。となりに目線を下げれば、彼女の尻尾がメトロノームのように一定の周期で、小さく揺れていました。
「私は」
口に出すか迷い、区切ります。
ぴくっと尻尾がわずかに上を向きました。恐る恐るといった具合いで彼女も顔をわずかに上げました。イズナの瞳が嫌いだと、私は強く自覚しました。ですが彼女には、私が嫌いな瞳のままでいてほしいとも思いました。
家族にあたたかなエネルギーを注いでいたころの自分に憧れがあるのかもしれない――私はそう思いました。イズナの振る舞いはどこか過去の私に似ているものがある気がしたのです。
それならばいつか、私は彼女から憎まれる日が来るのかもしれません。悲しくは、ありません。私はイズナから目を離して顔を水平線へとやりました。
「先生と呼ばれたほうが気が楽なのは、確かです。主、などと仰々しい呼び方をされると苦しくなるのです」
「それは……」
イズナは慎重に口を開きました。
水と空の境に目をやったまま微笑を形作ります。彼女からどう見えているのかは分かりません。
「先生とは、先に生み落とされただけの存在です。人間という立場を表したときに、上下ではなく横、もしくは前後に位置する軸なのです」
難しい顔をするイズナに、私は両手の人差し指を使って説明を付け加えます。右手が私で、左手がイズナ。私は右手を伸ばしました。左手は胸に近い位置に持ってきます。これは上下ではなく、直線上にある前後だと説明しました。
「主殿というのは、明確な上下があります。仕えるものと、仕えられるものですね」
「あっ――」
人から触られることを嫌う私は、しかし、このときばかりはされるがままになりました。彼女は何かに気づいた叡智を宿す探求者の瞳をしていたからです。人に触れる際に下心や打算などといった下卑たものが感じ取られないことが、彼女の美点と言えました。
イズナは私の手を動かしました。右手を胸に近い場所に持ってきて、左手を下げました。
「こう……ですか?」
「ええ、そうです。よく分かりましたね。そして私は、この上下の差に耐えられないのです」
「理由をお聞きしても……?」
「そこまでは、分かりません」
しゅんと瞳を下げた彼女は、はぐらかされていると感じたのでしょう。小さな頭頂に手を添えて、後頭部の輪郭をなぞります。
「本当に分からないのです。私は自分のことを、人の上に立てるような高尚な人間でないと感じているからかもしれません」
「イズナにとって先生は……!」
「ええ。そうかもしれません。ですからこれは私の問題です」
私は磯の香りというものを単語としてしか知りませんでした。鈍い私の鼻では、それが普段となんら変わらぬ香りに思われたのです。ですが、イズナと並んでいると、ああ確かに甘い香りの他にもあるなと気づかされました。
何かが始まったのかもしれない。その予感がありました。
「イズナは、先生を苦しめたくありません」
「そうですか」
「先生は主殿と呼ばれると、少し悲しそうな表情をします。最初はイズナの勘違いなのかと思っていたんですが……違うみたいで……」
目尻を下げて、イズナは儚く笑いました。溌剌とした印象は鳴りを潜め、そのせいで淑女と話している心地がしました。無論その印象は私が勝手に抱いたものであり、次の瞬間にはことごとく破壊されるのですが、私に悪い気は起こりませんでした。
「なんだか、う〜ん……あ、おはじき! いえ、ビー玉? のような……すみません、何を言いたのか分かりませんね……えへへ」
「思い出の品のようなものですか」
「はい! 透明で、おはじきとかを通して周りを見ようとすると、模様のせいでうまく見えなくなったりするんですけど、色つきのものとかだととっても綺麗なんですよ! 今度オフィスに持っていきましょうか!?」
「……機会があれば。おはじきの遊び方は知っていますか?」
「あ、あんまりしっかりとは……」
「でしたらついでです。私が知っているものを教えましょう。二人でするのもなんですから、忍術研究部の方々の日程が合うときにでも」
「本当ですか!? とっても楽しみです!」
静謐な空気を乱したイズナの声は、海の中に吸いこまれていきました。そのうち尻尾から風を切る音が聞こえ始めました。私には分からないメロディを口ずさむイズナが静かになってから、私は彼女に問いかけます。
「ところで、あなたはそれを、私に当てはめるのですか。いえ、別段感性が変だと言っているのではないんですが、あなたからはそう見えるのか、と聞きたいのです」
「見えますとも!」
力強く答えたイズナは間を置いて「何か変でしたでしょうか……?」と細い声を上げました。
私は彼女を安心させるために「気になっただけです」とほほえみを添えました。
私は彼女の評価を、嬉しく思いました。イズナが無邪気に世界を見ていることを考慮せずに、あのような生き様をさらしてなお透明だと言われて喜んだのでした。そうして気分をよくした私は、さらに彼女に質問をするのでした。それは質問ではなく不意にこぼした言葉みたいな感じを漂わせたところに、私は自分の作為を感じて嫌気が差しました。
「壊れやすいのですか」
「壊れやすくて、遠くにあります!」
「ガラスでできた霧のような……ああ、これは周囲にいる吸った人を傷つけますから、なかなか合っているのかも――」
「合っていません」
楚々とした断言の口調でした。イズナは胸に秘めたものを取り落とすまいと、自分の大切なものがどこかに吸い込まれるのを恐れるように、サブマシンガンを抱きしめる力を強めました。
私はよほど納得のいっていない顔をしていたのでしょう。
合っていませんよ、とイズナは口もとを淡い笑みの形に変えました。琥珀色のサーチライトが私の暗い部分を照らします。ですがそれは決して、その光によって浄化してやろうなんて魂胆のあるものではありませんでした。
「これはイズナから見た先生ですから」
「初めて言われました」
「こう見えて、イズナは先生のことをよく見ていますからね!」
私は答えに窮しました。イズナの言葉は理由にはなっていないのです。ですがイズナは根拠をもって断言しているように感じられました。
ひとしきり会話を済ませた私たちは、なんだか私が負けたような雰囲気のままそこに佇んでおりました。
戻るときになって、彼女は迷う素振りを見せました。どこを歩こうか悩んでいたようでした。
「お好きな場所を歩くといいですよ」私の声を聞いて、イズナはおずおずと、私のとなりに並びました。
彼女は今さらになって、起きてすぐに来たことを恥ずかしがっておりました。「イズナは今すすすすっぴんですからぁ、あっ、あまり見ないでいただけると……!」と曙光に照らされるその顔は、赤らみも含めて、イズナの純な部分をぎゅっと凝縮したような輝きを放っておりました。
○
何事もなく業務を終え――不良連中との戦闘は茶飯事ですから何事もないとカウントします――撤収作業を終えた百鬼夜行の面々は、疲れと海の塩っ気を運んできた風を流すためにすぐさま宿へと引き上げていきました。
私は終わっていないシャーレの業務をひとまず頭の外へと追い出して波打ち際に佇んでいました。余光を眺めたい気分だったのです。また、磯の香りについて一人で考えたくもありました。
すでに太陽は水平線の下へ潜っています。鮮やかなオレンジ色の光が入道雲に染みて、空の大半を侵食している夜の輪郭に抗っておりました。
ざざ、ざざぁ、と強さもリズムもまちまちに波が砂浜に打ちつけられます。まるで不健康な人の鼓動みたいです。生を全うしようと頑張り、その代償として溜まった疲労が鼓動にあらわれる。地球も生きづらいのかもしれません。だから地震や噴火なんてものが――科学とかけ離れた思想であることは承知しておりますけれども――起こるのです。あの鳴動は地球の悲鳴でしょう。
吸い寄せられるように歩を進め、水に足を入れました。横着してジーンズをまくらずに入ったため、それが海水を吸って重くなり足取りを遅くしました。
「先生!」
朝と同じ人の、けれどもどこか切羽詰まったような声でした。振り返るとやはりイズナでした。百鬼夜行の生徒と帰ったと思っていたのですが、わざわざ引き返してきたのでしょうか。忍者走りをする余裕もなく駆けてきます。日焼けを知らない白磁の肌が淡いオレンジを受けていました。
私は自殺願望があるわけではありませんが、あれを見たイズナにとっては違うのだと思います。しかしその違いを懇切丁寧に説明するほど私は彼女に近づこうと思いませんし、私の問題を彼女に預けるつもりもありません。
イズナからすれば取れない染みのように残ってしまって気になるのでしょうが、私はそれを解消するすべを持たないのです。
波打ち際までやってきたイズナは足を止め、何度か足を踏み出そうとしてはためらう素振りを見せて、立ち尽くしたままの私と足下の水とを交互に見て、やがて、決心したようにばちゃんと海に足を入れました。彼女の細い体がぶるぶる震えたのは、おそらく寒さとのためではないでしょう。尻尾がものすごい勢いで毛羽立っています。
私がいる場所はせいぜい膝までしか濡れません。
服が濡れた私よりも遅く歩く彼女のもとに近づきます。イズナのいる場所は、波は高くとも脛のあたりまでしか来ませんでした。
「水が怖いのですか?」
助けを求めるようにイズナは私を見上げます。波を避けるように、ばさばさの尻尾がぴんと天をついています。彼女は体を抱きしめるようにして身を竦ませたまま固まってしまいました。オシャレしようと店で頭を悩ませたであろう水着も、ほっそりとしていながら手指の沈みこむ弾力がある腕も、女性的な肉感を帯びた長い脚も、すべてが寒々しいものに感じられました。
「そんなに怖いものではありませんよ」
前に手を出しますが、彼女はそれを取りません。
「気が乗りませんでしたか、失礼しました」
「あっ――」
私の手が遠のく様子を、まるで地獄に垂れてきた蜘蛛の糸が途中で地上へと引き返してしまったみたいに絶望をあらわにして眺めます。
私は困り果てて、再び手を前にやりました。
ゆっくりと手が伸びてきます。途中で二回、イズナの脚が波に打たれたせいで悲鳴とともに手が止まりました。私は彼女の手を無理に取ることはしませんでした。
「大丈夫ですから」
しっかりと握られました。軽く握ると、ものすごい力で握り返されます。イズナは涙すら浮かべそうな表情です。ざわざわと毛羽立っていた尻尾がほんの少しだけもとの毛並みを取り戻しました。
「ひとまず戻りましょう」
「離さないでくださいね! 絶対、ぜったいですよ!?」
「フリじゃないんですから……」
「やめてくださいね!? イズナは部長ではありません! お慈悲を! お慈悲を~!」
元気だなという感想は胸の中にしまって、足が鉛にでも変えられたようなイズナをゆっくりと陸に引っ張ります。
道中で大きな波――といっても陸が近かったのでお察しの規模です――が押し寄せた際に驚いたイズナが腕に抱きついてきたのですが、彼女はそのことについて、砂浜に戻ってから蒸し返しませんでした。今は深呼吸をしています。「怖かった」と、ひたすらに繰り返していました。
私は彼女を尻目にジーンズのことを考えました。纏わりついてくる塩っ気は汗が冷えるのと同じくらい不快で、その冷たさは冷房が効いた部屋に入ったときみたいに爽快です。ですが私にとって自然とは、生命を吸い取るものにはなりえませんでした。
夕日を反射してきらめいていた水面は今や深い藍色をたたえ、夜の訪れを視覚的に教えてくれます。雲に残ったオレンジ色は、先ほどよりもずっと少なくなっています。気がついたら深まっているのが夜です。それは人間関係にも、時間の経過にも言えることなのかもしれません。
イズナの息が整うまで待って私は口を開きました。
「心配でしたか」
「……はい。すみません」
「謝ることではありませんよ。私はかなりふらふらとしてしまう
イズナは隣に立ちました。私が立ち去ると言うまで、彼女はそこから動くつもりがないのでしょう。私にはそれが奇怪なことに思えて仕方ありませんでした。若者にとって貴重な時間を私が与えられているなどとは思わないのです。
響いていたヒグラシの声が少なくなっていました。二匹ほど、今日がまだ続くことを願って鳴いています。そういえば、曾祖母と歩いた時間もときおり鳴いていましたね。
「謝ったら許されるというのが、子どもの理屈です。それは大人になるまで適用されるべきなのです。その経験が人を寛容にするのですから」
「ですが、それでは……」
「一方的に許されるのが癇に障りますか? 大人とは、責任を取らなければならない生き物です。謝るとは大人にとって、その責任を追う覚悟を表明したことと同じ」
私は卑怯な人間です。ここで、イズナを突き放したことを謝ったほうがいいと分かっていながら、彼女を諭すためにごまかしているのですから。再三口にしますけれども、私は大人です。謝罪を口にすれば責任を取らなければならないのです。
では、謝った拍子に「でしたら責任を取ってイズナがどうすれば責任を取れるのか教えてください」なんて言われたらどのように応対をすればよいでしょう。彼女の善性を信じている私は、自己への不信のためにそれを口にしないのでした。
「イズナは、一足飛びにでも大人になりたい……!」
「いいことなどありませんよ」
『大人とは裏切られた青年の姿である』私はその文言に概ね賛成の立場を取ります。身の程知らずな自身の行いと、羊の皮を被った狼みたいな家族に、勝手に期待して勝手に傷つけられたことを『裏切られた』などという身勝手な表現をしてもいいのであれば。
イズナには反論できるような手札が残っていないようでした。尻尾が不規則に動き回っています。何度か砂を叩いていました。
「せっかくの艶がなくなってしまいますよ」
「へ……?」
「いえ、砂を叩いていたものですから、少し、もったいないと思いまして。尾の話です」
ありがとうございます、と不器用に笑ってイズナは下を見ます。さーっと風が吹いて、その視線の先にあるいくつかの砂を運んでいきました。
「あとから手入れのし直しですね……これは。海に入っていないので軽くでもいいと思っていたのですが……失敗です」
ビーチサンダルで砂を弄びながらイズナは言います。そういえば、彼女は足の爪にもキツネ色のペディキュアをしていたことを思い出しました。闇に紛れてうっすらとしか見えないそこは、砂に埋もれています。
「気を遣っているのですね」
「先生がよく見ていますから」
「……そんなにですか」
「う〜ん……分かりません。えへへ。イズナがそう思っているだけかもしれません。でも気のせいでないなら、ちゃんとしたほうがよくありませんか?」
「ちゃんとすると決めて自分を苦しめるのはよくありません。適当に手を抜いていいのです」
「イズナがしたいことなのですよ」
ちゃんとすると決めて苦しんだ彼女は、今のイズナのように美しくは笑っておりませんでした。美しい横顔は「朝も本当は化粧をしたかったのですが……」という苦笑に変わってしまいました。
折を見て口を開きます。
「そもそもイズナは、大人になるとは、どういったことだと考えているのですか?」
「それは……」
「考えなしに発言するなとは決して言いません。ですが、自分の発言がどういった場所でどのような効果をもたらすのか考えて話さねば、大人とは言いがたい」
あの日イズナを突き放した男が何を言っているのでしょう。
あの日、彼女の夢に向かう眼差しを無責任に肯定した男が何を言うのでしょう。
おそらく私は自己満足を満たすためにイズナを傷つけています。自分ができないことを人に求めているのです。愚か者と、私を罵る声がやみません。
「なぜ、大人になりたいのです?」
本来、大人になどならなくてもよいと思います。バッタが蛹にならずに気づけば成虫となっているように、大人とはそんなふうになるものだと私は考えます。
そのため私は彼女が大人になりたがる理由を見極めようとしました。それが私にまつわることならば止めようと考えておりました。
問いに答えは返されません。そろそろ帰ったほうがいいかもしれないと、闇のせいで輪郭のぼやける周囲を見て思います。先に宿に着いた生徒が心配するでしょう。
「イズナは、先生のノートを無断で読んでしまいました」
その自白はなんの脈絡もなくもたらされました。カラスが口に咥えたクルミをひょいと落とすように唐突なものでした。そのクルミが割れたのか、何を指しているのか、それはイズナのみぞ知るところです。発したイズナですら分からないのかもしれません。
「イズナは、責任が取りたい……! 先生の、先生の過去を知ってしまった責任が取りたい……!」
「それは大人がすべきことですよ。そしてあなたは大人ではない」
「イズナは!」
半ば被せるようにしてあげられた乱暴な声。
はなはだ疑問でした。私はさぞ険しい顔をしたことでしょう。嫌だったわけではありません。イズナへの無理解がそうさせたのです。
私は、なぜ私が好かれているのかを理解できませんでした。何度も突き放し、手ひどく扱ったのです。虐待を受けたペットは人間を恐れるようになります。人間よりも賢くない野生動物ですら、そうなのです。ですがその道理がイズナには通じず、私はうろたえました。
「イズナにできることなら、なんでもします」
「そういった態度がいけないのです。しっかりと考えて」
「考えていますっ! い、イズナは、主殿のためでしたら、なんだって……!」
恐怖と羞恥。はっきりとは見えませんでしたが、イズナはそんな顔だったと思います。尻尾が逆立って忙しなく動いています。
私は誰かを愛する心が分かりません。物理的に愛された私は、精神的に愛されなかったのだと思います。いえ、精神的に愛されることを自らの意思で拒んだのです。家族という幸せの形態が、私にとってはそうでなかった。したがってそれを育むことも決してできないでしょう。
しかし冷ややかな視線を向けてイズナの熱を冷ますのは忍びない。
頬に紅を引いたような顔で声を上ずらせるイズナにどのような顔を向ければよいのでしょう。私は迷い、水平線から視線を移すことができずにいました。ちらと何度もイズナを見るばかりでした。
「お、大人になるとは、そういったことをすればよいのですか……!? 先生が相手をしてくだされば、イズナは大人になれますかっ!?」
「落ち着いたほうがいいですよ、イズナ」
責任を取って、離れていろと。もう二度と関わらないでくれと。
もしも私が口にしたら、彼女はどうするつもりなのでしょう。私がそんなことをしないと信じているのでしょうか。それとも思い浮かんでいないのでしょうか。
どちらでもよい話でした。私はそんな強さを持ち合わせていないのですから。私は私の持っている浅はかさと小ずる賢さと醜さと弱さが嫌いです。相手を突き飛ばす強さよりも、相手を突き飛ばせない弱さのほうが人を傷つけることがあるというのに。
「ひとまず深呼吸をしましょう」
それは自分に向けての言葉でもありました。
鳴いていたはずのヒグラシはすべて眠りにつき、代わりにフクロウや小型の虫の声が波にまざります。自然が生んだ大合唱でした。私は黙ってその音に耳を傾けました。
「できないのですよ」
意味も目的物もなく投げた言葉はイズナの琴線に触れたようでした。
イズナは嫌々と首を振ります。ぺたんと萎れた副耳が頭部に貼りついているように見えました。イズナは全身で聞くことを拒んでいました。
「なぜそこまでして、あなたは責任を取りたがるのですか」
困惑をあらわにする私を見上げた顔は、なぜだかぐちゃぐちゃに歪んでいました。二人の間に横たわる無理解がイズナの顔をそうさせたのだと思います。
「先生の笑顔が、見たいから……! 先生がまた私を撫でて、笑いかけてくれるなら、イズナはなんだってします! あんな、あんな悲しそうな顔は見たくありません……!」
私はひどく不機嫌に見えるような顔をしたのかもしれません。見つめ合ったイズナの表情が歪みから別の歪みに変わっていって、私は自分の表情のひどさに気がつきました。
「どうして先生は、離れようとするのですか……? そんなにイズナのことが」
イズナの肩が跳ねました。涙をこらえようとして深呼吸をしたようでした。それでも大粒の水滴は膨らんでいき、地面に引かれて色のない軌跡を作ります。
化粧が落ちてしまう。そんなことを考えた私は姿勢を低くしてイズナの目もとを拭いました。眦の紅が、しかし涙で滲みました。
彼女は下唇を噛んでしました。ぐず、ぐず、と鼻を鳴らして、ひぃ、と音を立てて無理解を吸って。そうして余計に苦しそうにするのでした。
あるじどの、と弱々しい声で言いながら、イズナは私にぎゅっと抱きついてきます。滲んだ化粧が私のワイシャツにつきました。彼女にそれを気にする余裕はなく、暮れなずむほんの僅かなモラトリアムが流れてゆきました。
彼女は頭を撫でられるたびに、より強く私に抱きついてきました。
まるで彦星と別れる間際の織姫のように、「離れないで」とせがむ子どものように。
触れ合っているのは確かですが、二人の間には飛び越えられない崖が広がっているような隔絶を感じているのだと思います。私は大学での経験をもとにしてイズナの心情を予想しました。
イズナが顔を上げたのが、撫でている頭の感触の違いから分かりました。
「お嫌いですか……?」
「そんなことは」
「でしたらなぜ」
イズナが一歩踏み出して全身が触れ合うほどになりました。私はそれに合わせて一歩下がりました。
「先生」イズナは追い縋り、彼女が愛銃を抱くときと同じように私に触れました。
ぬるい風が私とイズナを追い抜いて、どこか遠い場所へ吹いていきました。陰気でじっとり湿った海の風です。
「私は自分を信用しておりません。一番初めに書いたことです」
「はい」
イズナは私に寄りかかって頭をこてんと預けました。副耳が私の脇をくすぐるように動いています。イズナは私の左手を小さな両手で包みこみました。やわらかな手でした。銃の手入れによく似た手つきで、そっと撫でさすっています。
私をあばこうとする琥珀色の強い光が、下から上に向かって注がれています。
否定されることを恐れていると思いました。その瞳が揺れていたためです。ひょっとすると私にもそれは当てはまるかもしれません。
ですが彼女からは同時に、強情さと純情、それから勇気をも感じ取りました。私が持ちえない要素で、イズナは私に挑んでいる。そんな確信がありました。
当てられた私は、やはり、不誠実な人間でした。一貫性がないからそう感じるのかもしれません。
「……私は確かに、あなたのことが嫌いではありません。あなたを通して私は別のものを見てしまうし、自分の醜さが照らされてしまって自己嫌悪に陥るけれど、そんなふうに元気でいてくれるあなたは大変好ましかった」
これは本来しまっておくべき感情でした。ですが、彼女の誠意に報いたかったのです。一円の重さほどしかない誠意で報いたかったのです。
一方で私にはそれがいつしか彼女を傷つけることになると疑う余地がありませんでした。言葉を重ねます。
「私は自分を信用しておりません。ですから、その気持ちも信ずることができません。もちろん、第三者の言葉だったとしても、それは自分を通して聞いているものですから、同様に私はそれも信じません。絆されることはありますが、私を形作っている不信の魂まで変えることはできないのです」
イズナの反応を待たずに私は語り続けます。
「信じずとも生きることはできます。与えられた役割を演じることもできます。私はそのようにして生きることを決めました。幸せになりたい人には生きる理由や支えてくれる人が必要かもしれませんが、私には必要ありませんから――」
最初、私はイズナの反応を意図的に無視しました。話の妨げになると思ったからです。しかし今のイズナはなんだか、目をぐるぐると回していました。
毎日楽しく青春の日々を送っている彼女は、こんなことを考えたことがないのかもしれません。なんというか、毒気を抜かれた気分でした。
彼女の意識が戻るまでには相応の時間がかかりました。探されているかもしれないと思って、ひとまず一緒に来た面々に連絡を入れました。
イズナは唐突に、これがまとめですとでも言わんばかりの調子で、握ったままの私の手に力をこめました。
「……私が先生を信用する分には構わないということですね?」
「そうですが……私に同じものを求められても、できませんよ。それに」
「信じてもらえないことが、人を信じない理由にはなりません。それに先生は、私のこの振る舞いが好ましいとまで言ってくださいました。でしたらこのまま先生のおそばにい続けることになんの問題もありませんよね?」
いたずらが成功したような、そんな軽い声。イズナの顔は見えませんが、霧が払われたような晴れ晴れとしたものな予感がしました。
私は自分に否定的すぎるのでしょう。自覚はありますが、私はそれを人の命を奪った償いとして背負う覚悟でいます。
考えて、無言で彼女のつむじを一撫でしました。徒労に終わる学びもまた、人生では重要なのかもしれません。これもきっと、言い訳なのでしょうけれども。私の人生のマニュアルには、このようにしてホームランを狙ってくる人の対処法が書かれておりません。
私は釈然としない気持ちで帰りを促します。だいぶ心配されていました。
「戻りましょう。夏といえどこの時間は冷えますから、私の上着を使うといいでしょう。確かそのあたりに投げておりますから」
それを着たイズナは尻尾を緩やかに振って「先生のにおいがします」と、心底ほっこりしたような調子で言いました。
太陽は一切の活動を終えており、周囲には宵闇が広がっています。それをひっそりと月が照らしておりました。
○
「スイカ割りをしましょう! 先生!」
らんらんと私を起こしに来たイズナの尻尾が元気に揺れておりました。私はそのときにホテルで仕事をしていたのですが、彼女のそれがずいぶんと大きく振れる振り子でしたので、付き合うことにしました。
朝から水着を着て、化粧もばっちりで、彼女は遊ぶ元気に満ちあふれています。そうして私を、昨日の夕方に話した砂浜へと手を引いて案内するのでした。ほらどうですか、と言わんばかりにぐるっと振り向いた彼女の笑顔も含めて、どこもかしこも太陽のせいできらめいて見えました。
どこから持ってきたのか木刀やらスイカやらが準備されていました。
「先生が最初にどうぞ! イズナは忍術で察知してしまいますから!」
よく分かりませんけれど、イズナにとってはそうらしいのです。屈んだ私の後ろにさささっと回りこみ、イズナは鼻歌を歌いながら目隠しをつけました。
肌に照りつける太陽は熱く、風もまた熱く、今日も海の店は繁盛するのだろうと私の気分は沈鬱になります。同調するように私の視界はあっという間に黒くなりました。
「ささ、どうぞどうぞ!」
指示されて、私は動きました。イズナの楽しげな声が私の操縦桿となっていました。
やがてイズナの指示が細かくなります。イズナの声が大きくなっていくにつれて、私も確信を深めます。もうすぐおいしいスイカが食べられます。
やがて、何かが飛びこんできました。手を背中に回してがっしりと私を固定し、胸板に額らしきものがぐりぐりと押し当ててきます。
「もう離しませんぞ! 主殿!」
まっ暗闇の視界のなか、手を動かします。それは読みどおりにイズナの頭部に触れました。
目測はきっちりと合いました。彼女の身長は知りませんけれども、目測が完璧に合う程度には、私は彼女のことを知っているようでした。耳を避けて頭部の輪郭をなぞります。イズナはくすぐったそうな声を上げました。
喉に柔らかく湿った感触がありました。何かを吸うような音がしました。
「イズナ、これからも精進します!」
私はもしかすると、一度思い切り化かされるのかもしれません。それがよいことなのか悪いことなのか、私には判断できません。
丹念に手入れされた尻尾がぶんと風を切った音がして、イズナは嬉しそうに笑っているばかりでした。