水底に沈んでゆくの
それが正しいのよ
溶けてしまうの
心も骨もないわたしたちは、すべてが水泡へと還るのよ
けものが土へ還るように、わたしたちは水に還る
ただそれだけなのよ
ああ
許せないのなら、去ってしまいなさい
夜に流れ込む前に
西へと泳いでゆきなさい
音楽って、すごい。
ライブって、すごい。
ライブハウス『CiRCLE』で行なわれた、たった20分間、3曲だけのライブ。それは間違いなく、私の見ている世界に新たな色彩をもたらした。
私が決して上れないと思っていたステージに上がるための階段は、思ったよりも近いところにあった。きっと普通の人は、友達と一緒に振り絞った勇気のひとさじでこの階段を上るのだろう。私の場合は日菜ちゃんにおんぶにだっこで、ステージの上からぐいと持ち上げられたようなものだったけれど……でも、逃げ出したりはしなかった。緊張したし、怖かったけれど、私は歌いきった。
生まれて初めてスポットライトの下に立って、その熱に浮かされたまま、無我夢中だった。「晴嵐」を歌いきったあとの、呆然としたような拍手。続けて2曲歌っているときの歓声、ライブが終わって暗転した後の「最高だった」という言葉。興奮と感動にエネルギーが迸って、右手を思い切り握りしめた。力を込めすぎた腕がぶるぶると震えて、力を抜く。
「燈ちゃん、やれたじゃん! あたしたちサイコーだったよ!」
日菜ちゃんが抱きついてきて、左腕にギターが軽くぶつかった。その感触に気が付いたのか、我に返ったように「あ、ごめん」と慌ててギターを下ろす。
そんな仕草がかわいくって、堪えようと思ったのに笑い声が溢れてしまう。
「もー、何笑ってんのさ!」
「うん、ごめん……日菜ちゃんも真剣だったんだなと思ったら、やっぱり嬉しくって」
「本気も本気、大真面目だったよ! あたしだってちゃんとライブやるの初めてだったし、あたし達の曲が受け入れられるかもけっこー不安だったんだからね」
私たちの曲。私の心を連れ去ってくれる晴るの嵐。練習では何度も歌ったのに、ライブで歌うとまるで感覚が違った。歌いながら何度も泣いてしまいそうになったし、その場に崩れ落ちてしまいそうなくらいに心が揺さぶられた。
私が綴った言葉を受け止めてくれた日菜ちゃんが、その言葉が世界に飛び立つのに相応しい翼を授けてくれた。
私の頭上を飛び越えて羽ばたく影に、エメラルドの光に包まれて、私の言葉が観客に届いたのが、直感的に分かった。私が初めて聴く曲に少しの共感と親しみを覚えて好きになるように、観客のうちの数人には私たちのうたが響いたのだと。
それは──それは幸せな事だった。
友達を作るために頑張って話を合わせるのとは違う。取り繕っていない私の本心が──よく分からないと首を傾げられ続けてきた
日菜ちゃんに見つけてもらった瞬間の、あのふわふわした期待感が形を伴って降りてくる。
私はこのステージの上で、息をすることを許されたのだ。
そして、産声を上げた。産まれたての赤ん坊ができる唯一無二の存在証明で、存在表明を。
「日菜ちゃん。……ありがとう」
「うん、どういたしまして! それと、あたしからもありがとう!」
「……どういたしまして」
お礼も、一応受け取っておく。私が一方的にお礼を述べる立場だと思うのだけど、日菜ちゃんはそう思わないらしい。うしろめたいけれど、嬉しい。日菜ちゃんが私の言葉に価値を見出してくれているという証拠だから。……今更、日菜ちゃんの事を疑っているわけではないんだけど。
日菜ちゃんが楽器を片付けているのを尻目に、汗を拭う。特別な衣装を用意したわけでもなく、普段から着ている服のままライブに出たから着替えは必要ない。私たちの前には派手な衣装を着ている人たちもいて、着替え時間を守るのに苦労していそうだった。
「はぁ。よかったぁ」
「日菜ちゃんも、ドキドキしてたの?」
「それはワクワクしてたかってこと? それともハラハラしてたかって質問?」
「ハラハラの方。心配した、みたいなことを言ってたから……」
「あぁ、うん。心配はしてたよ」
ロビーの方へ移動する。未だにふわふわしている私とは違って、日菜ちゃんはとりあえず冷静さを取り戻したらしかった。私から見てわかるくらいはしゃいでいる日菜ちゃんは可愛かったのに、残念。
「燈ちゃんの心配をしてた。燈ちゃんが失敗すると思ってたわけじゃなくて、あたし達がスベる可能性を危惧してただけなんだけどね。あたし達の歌が観客に響くかなんて、結局あたしには確信できなかったから。前にも言ったでしょ? あたしはすっ転んでも平気だけど、巻き込まれる側はそうじゃない。燈ちゃんだって転んだら膝を擦りむくだろうし、もしかすると骨だって折れちゃうかもしれない。……それは、回り回ってあたしの痛みにもなる」
誤解をしていたことに気がついた。日菜ちゃんのお姉さんの話を聞いたときに理解できたはずなのに、私はきちんと日菜ちゃんの事を受け止められていなかったのかもしれない。
日菜ちゃんだって痛みは感じるんだ。私みたいに些細なやり取りに傷付いたり、遠巻きにされることにショックを受けたりはしないだけ。人と違うことを日菜ちゃんは気にしないけれど、自分が原因になって親しい人が傷付くのは日菜ちゃんだって苦しいんだ。
お姉さんや周りの人が傷ついて離れてしまったことを悔やんでいるわけじゃなかった。日菜ちゃん自身が周囲の人を傷付けることを悔やんでいた。
……やっぱり私は人の心の機微に疎い。ここまで直接的に言われてようやく察せられるくらいに。
人間関係は、常に裏と表で進んでいるような気がする。表裏はもちろん連動しているけれど、私には表しか汲み取れない。他の人たちは裏側を読みながら表でコミュニケーションをしているから、私だけが足を踏み外すことになる。
私たちの年頃の場合は、それがよく色恋沙汰に表れていると思う。好きな人を取ったとか取られたとか。ドラマで見たのは、恋愛相談はイコールでライバルへの牽制なのだとか。こう、あまりカタにハマったようなものではないらしく、私にはまるで適応できない。
「まあ、まあ、いいじゃん。今日はとりあえず上手くいったんだし、一回上手くいったのならこれからも大丈夫だよ。少しくらいは躓くかもしれないけど、正解がわかったんだからなんとかなる!」
ロビーに戻ると、まりなさんが忙しなくフロアの方へ戻っていくところだった。こちらに気が付いたまりなさんが「後で感想聞かせてね!」と手を振りながら遠ざかっていく。
そこで一旦思考が途切れて、お母さんのことを思い出した。
「あの、日菜ちゃん……」
「なぁに?」
「今日、お母さんが来てくれてるんだけど……」
「ああ、言ってたね。ゴアイサツした方がいい?」
「……うん」
「どこかで話しておいた方がいいと思ってたし、大丈夫だよ」
お母さんがライブを観に来てくれたのは確認した。そのまま帰ってしまったのか、他のバンドを見ているのかは分からないけれど、私たちと鉢合わせる可能性は高い。お母さんは日菜ちゃんと一度話しておきたいと言っていたから、ロビーで待っているかもしれない。
お母さんが私たちのライブをどう受け止めたのか分からなくて、少し不安になる。喜んでくれる、と信じてチケットを渡したけれど、どうだろう。自分の勘を信じられるほど、私はお母さんのことをわかっていないような気がした。
「あ、あの人かな? ちょっと燈ちゃんに雰囲気似てる」
「うん」
果たして、お母さんはロビーの椅子に腰掛けていた。私たちが近付いていく音が聞こえたのかお母さんが顔を上げて、立ち上がる。
「燈! ライブ、すごく良かったわ。あなた、本当に歌が上手いのね」
「ありがとう。……それで、その」
「ああ。……あなたが氷川日菜ちゃん?」
「はい。燈ちゃんとバンド組ませて貰ってます、氷川日菜です」
「初めまして。燈の母です。燈と仲良くしてくれてありがとう。気難しい子で、きっと迷惑をかけている所もいっぱいあると思うのだけど……」
「いいえー、私も『変わり者』って言われるタイプの人間ですから。居心地が良くて燈ちゃんと仲良くさせてもらってるんです」
ね、と日菜ちゃんが笑う。うん、と頷くと、それを見たお母さんが安心したようにそっと息を吐いた。
「じゃあ、燈。お母さんは帰るから、暗くならないうちに帰ってくるのよ。打ち上げに行って遅くなるのなら連絡してね」
「うん」
「氷川ちゃんも、本当にありがとうね。この子がこんなに活き活きした表情で笑ってるの、久しぶりに見るわ」
保護者がしゃしゃり出るのも違うから、とライブハウスから出ていく背中を見送って、私も息を吐く。本当に顔を合わせただけ、みたいな感じだったけれど、お母さんの目的は果たせたんだろうか。
「うん、燈ちゃんを育てたお母さんだなって感じ」
「……どういう意味?」
「いい意味だよ。押し付けないタイプの人でしょ? 根は過保護に見えるのに」
押し付けないタイプの人。言葉を咀嚼しようとして、他の家庭をよく知らないことに気が付く。好き嫌いは良くないとか、挨拶はちゃんとしなさいとか、躾は厳しかった。でもやりたいことは否定されなかったし、やりたくないことを強制されもしなかった。玄関から見送る瞳が寂しかったけれど、一緒に学校まで着いてきてくれなかったから私は今ここに立てている。
小学校の時、クラスに苦手な子がいたのを思い出した。とにかくワガママな子で、給食で嫌な料理が出る度に癇癪を起こしていた。他の子が「アイツは一人っ子だから」と言っていて、きょうだいがいないのは良くないことなのかと驚いたものだけれど、きっとそういうことではなかったんだろう。授業参観の日に見たその子のお母さんは煌びやかで、そして子供に優しそうだった。
甘やかされて、微睡みの中に包まっているのも幸せだとは思う。けれどお母さんはそれを選ばず、私に靴を履かせた。
ガラスの靴ではなかったけれど、スニーカーは私の足に馴染んで歩きやすい。
「親って、子を写す鏡だよね。逆も然りだけどさ」
「日菜ちゃんのお母さんは、どんな人?」
「んー、すっごく穏やかな人かな。ガーデニングやってる」
日菜ちゃんに穏やかという言葉はあまり似合わないと思う。ガーデニングは、もしかすると似合うのかもしれない。庭木にホースから直接水を撒いている姿は容易に想像ができた。
親子が似ているという話ではなくて、こういう親からはこんな子供が育つ、という話なのだろうから、私のこの思考は的外れなはずだ。でも、穏やかな親から日菜ちゃんが育つイメージは湧かなかった。それよりも活発なお母さんの方がイメージに沿う。もしくは、生まれた時から日菜ちゃんは日菜ちゃんだったとか。
ついでだから残りのライブも見ていこっか、と日菜ちゃんが言って、私達もフロアに入った。私たちの次のバンドの演奏が始まるところで、観客がコールしている。
「お、さっきの子? 演奏良かったよ!」
「ありがとうございまーす!」
「でも、ギターだけじゃアレでしょ。メンバーを増やす気はあるの?」
「んー、考え中です。思ったより手応えがあったので、これでもいいかなって」
日菜ちゃんが、お客さんの一人と話していた。
まりなさんと同年代くらいの茶髪の女性で、ライブでテンションが上がっているのか距離が近い。
「ポエトリーリーディングは似合ってたけどねぇ」
──バンドメンバーを増やす。
ぽんと空中に弾けたその言葉に虚をつかれた。言われてみればその通りというか、どちらかと言えば今の状況が変なのだ。ドラムもベースもなしで、ボーカルとギターの2人編成というのは。
日菜ちゃんに言われるがまま、ライブをすることに特に違和感を抱いていなかったけれど、今ステージに立っているバンドみたいに、3人とか4人でライブをやるのが普通のはず。
日菜ちゃんがこのままで良いと言うなら、私もそれに同意する。今日のライブも、2曲目からはお客さんが手拍子をしてくれて、それに合わせて歌ったり、とにかく、盛り上がらないという感じは全くしなかったから。
演奏が本格的に始まって、そちらに気を取られた。ドラムと、ベースと、ギターが2本。最初、ボーカルの声が聴こえにくかったのが、少ししてから直った。
ドラムの迫力が全然違う。ベースの低音を伴って、フロア全体を揺らすように響く。ギターの音の主張は大きくない。
曲の土台はドラムだ、という言葉を何度か聞いたことがある。
今の私たちの演奏は、土台がないまま宙に浮いた演奏ということになる。
それでも構わないと思うのは、私が日菜ちゃんとの関係をこのまま保ちたいと考えているから。新しい人が入ってきて、釣り合いを保っている今の関係が崩れてしまうのが恐ろしい。
そして同じくらい、もっと上を目指せるならそれを見てみたいとも思っている。
演奏は佳境に差し掛かっていた。Cメロから最後のサビを、燃え上がるように息を切らして歌いきったボーカルが、満足気に首を下げる。アウトロを流して、会場が拍手に包まれた。
「燈ちゃんはどう思う? 新しいメンバーを入れれば、その方がバンドの演奏は良くなると思う。けど、人が増えるほど縛りも増えるし、適当で済ませられない部分も増えてくる。別に急ぐ必要はないんだから、あたしは当分2人きりでも別に構わないと思うし……燈ちゃんの意見を聞いてから考えたいんだけど」
「私は、演奏が良くなるならその方がいい……と思う。もし、良い人がいれば、だけど……」
「そうなの? ちょっと意外かも。……じゃあ、その方向で考えてみようかな」
日菜ちゃんは意外そうに整った眉を持ち上げた。それから、ステージ上のバンドに視線を戻す。2曲目が始まろうとしていた。
「技術はどうでもいいよね。なんなら初心者だっていい」
ライブが終わってから、日菜ちゃんとバンドに勧誘する人の条件を話し合うことになった。気があって上手くやれればどんな人でも構わない。けれど条件を決めておかなければ収拾がつかなくなるパターンが出来るかもしれないし、そもそもどんな人を探すべきかも分からない。そのような日菜ちゃんの言葉に、首肯を返した。
私たちと同じような孤独や悩みを抱えていて、気が合う人が理想と言えば理想。だけどそう簡単に出会えるわけではないし、初対面の人にずけずけと踏み込んで虱潰しにそういう人を探すこともできない。
「女の子がいいかなぁ。できれば中学生から大学生くらいまで。あたしたちと似たようなライフサイクルの人の方が、時間も取りやすいだろうし」
「うん」
「あとは音楽性? 燈ちゃんの歌詞を尊重してくれる人なら、あたしは特に文句もないけど」
駅までの帰り道、風は強いまま。日菜ちゃんはもう髪のことを完全に諦めたらしく、手櫛を入れることもしない。
「あたし達のライブを気に入ってくれる人がいたら誘いたいね。それから……掲示板での募集は辞めとこうか。もしお断りすることになったら心苦しいし、一旦気長にやろう」
あっという間に方針を立て終えた日菜ちゃんが、信号待ちの間にスマホを触って、SNSのアカウントを作った。ランニング・ライトというアカウント名がゴシック体で光っている。写真とか動画はそのうちね、とスマホをカバンに仕舞って、横断歩道の白線を跨いだ。
「日菜ちゃんは、私に会う前からバンドをやりたかったんだよね?」
「うん。でも、どうしよっかな〜と思ってたときに燈ちゃんに会ったから、結局なんにも動いてないよ」
「一緒にやりたいと思ってた人とか……」
「特にいないんだよねー。ベーシストの知り合いはいるんだけど、そっちは別でバンドやってるし」
強風で桜はほとんど散ってしまった。元々ピークをすぎて僅かに残るだけだったピンクの花弁が風に舞い上がる。
「まりなさんにも話すだけ話してみよっかな。アドバイス貰えそうだし」
「……うん」
じゃあ、打ち上げ行こっか、と日菜ちゃんが笑う。初めて食べたボロネーゼは、私の進歩の象徴になった。
・
日菜ちゃんとバンドを組んだけれど、毎日会えるわけじゃない。それぞれの生活があるし、私が私生活のほとんどをバンドに費やすことに、日菜ちゃんはいい顔をしなかった。
週に3回以上は会えるし、そこに不満はない。部活に出たり、クラスメイトと出かけたり、日菜ちゃんがいない日常を、私なりに生きている。以前と少し違うのは、私とクラスメイトの距離が近くなったこと。
「バイバイ、燈ちゃん」
「うん、また明日」
テニスコートに向かったテニス部の子達に手を振って、スクールバッグを手に駅までの道を歩く。ここ数日はずっと天気が崩れていて、今日も一面の薄曇りだった。
いつもの水族館へと足を向ける。平日で人の少ない館内に入ると、すぐに青い光が私を包み込む。光差す上階を避けて、海水魚の水槽ばかりの一階にあるベンチに座り込んだ。誰かが通ったあとの、香水の匂いが残っていた。この道をたどっていけば、香水をつけた女性が誰かと水槽を眺めているのだろう。警察犬には匂いがこんなふうに感じられているのだろうか。
イワシの群れが、竜巻のように渦を巻いている。銀色の鱗が、青い光に照らされて揺らめく。黒々とした影が、積乱雲のように青を遮る。
私が水族館に入り浸るようになってすぐのことだ。渦を巻くイワシの群れに、サメが真っ直ぐに突っ込んだことがあった。サメはイワシを捕まえて、そのアギトを閉じた。箱庭のように見えた世界に突如として訪れた死の光景に、私は恐怖した。人間規模で如何に大きくても、海に比べれば水溜まりみたいなものだ。すぐそばを捕食者が泳いでいる日常というのは、どれほど恐ろしいだろう。
銀の渦潮は、天敵のいない水槽では発生しないのだそうだ。だから、魚たちの自然な様子を展示するためには同じ水槽にサメを入れる必要がある。
水槽は箱庭のようなものだけれど、それを享受しているのはサメやエイだけだ。海原を泳いで漁船に絡め取られることもなく、水溜まりで寝そべっていられる。
ヒラヒラとヒレをはためかせてアクリルを登っていくエイに思考が断ち切れた。
知らなければよかったと思うことは沢山ある。この水槽の現実もそうだし、人の会話に表と裏があることもそう。私に何かが欠けていることも、日菜ちゃんほど世界のことを知っていても、結局は独りであることも。
順路に沿って移動する。大水槽の後には小型の魚の個別水槽があって、さらにそこを抜けるとクラゲの水槽の一角に出る。そちらにもベンチがあって、ミズクラゲの水槽を座って見られるようになっている。
今日は先客が座っていた。この水族館でよく見かける人だ。出会うのは大抵このクラゲの水槽の前で、いつも大体同じ位置に座っている。ふわふわとウェーブした水色の髪が、クラゲとよく似ていた。向こうもこちらに気が付いていて、ぺこりと頭を下げられる。慌てて会釈を返してから、つとめて意識しないように水槽に視線を戻した。知り合いでもない人の顔をまじまじと見てしまった不躾な行いを誤魔化す。
それにしても、青。空も、海も、日菜ちゃんも。近頃の私を取り巻く、私の好きな物は遍く青色をしている。水彩画のような足し算の青ではなくて、太陽が齎す引き算の青色を湛えた水槽。
白い幽霊のようなクラゲは、やっぱり無表情だった。
ふわふわと浮かぶその姿は幻想的だけれど、少し恐ろしい。こちらに関心を向けない無表情が、無味乾燥した起伏のない感情が苦手だった。
私に向けられる無関心に、よく似ている。
交差点の真ん中で蹲りたくなるような、あの瞬間の胸の痛み。傘を差した人々が行き交う中で立ち止まってしまう私は、人間という生き物の営みから完全に孤立していた。
誰も私を責め立てはしない。煩わしそうに、邪魔物を避けて通るだけだ。そこには同情が含まれているけれど、手が差し伸べられることはない。……そして、私にも差し出された手を掴む勇気は残っていない。
私は、歩くのが遅かった。
最初は、みんな列に並んで、引率の先生を先頭に足並みを揃えていたはずだった。歩くのが遅い私はいつの間にか、みんなよりも遥か後ろを歩いていて、ついぞ引率の先生どころか、同級生たちの背中さえ見失った。
目的地も分からないし、道程も分からない。完全なる迷子に陥った私は、銀色の渦から弾き出されてしまった。
尾びれを振る度に、銀の鱗が剥がれ落ちる。
無感情な視線が、私のほんとうを暴いていく。
ここに来たのは、私の心と向き合うためだった。日菜ちゃんに寄りかかり、あまつさえその日差しの全てを独占したいと思ってしまう浅ましさを自戒するためだ。
2人きりから脱却する提案をしたのも、そのひとつ。
今の関係を変えてしまうのは惜しい。
そしてそれ以上に、私が腐ってしまうのが恐ろしい。
日菜ちゃんが手を引いてくれて、私は前に進みつつある。だけれども、きっと日菜ちゃんは普通の人よりもさらに歩くのが速い。手を引いてもらう間だけ歩くのでは、合わせてもらったはずの歩幅がまた揃わなくなって、私はその背中を見送ることになるだろう。
だから、一人でも歩かなければならない。日菜ちゃんと一緒にいるために、日菜ちゃんから離れて歩かなければならない。たとえそれが、回し車を回すような無為な行ないだったとしても、歩き方を忘れてしまわないように。
隣を見れば、先程までそこにいたはずの少女の影は跡形もなくなっていた。
深く息を吐く。サファイアを流し込んだアクリルガラスのスクリーンに、クラゲ達が浮かんでいく。私はそこにどうしても、美しさ以上の不気味さを覚えてしまう。
・
バンドメンバー探しは難航していた。
あれからもう一度だけライブをして、それからクラスメイトや、ライブハウスで知り合った人に何度か声を掛けた。けれども、まあ、そう上手くは行かないもので。
クラスメイトにはお小遣いで楽器を買うのは厳しいと言われたり、バンドを組むのもハードルが高いと言われたり、そもそも部活で忙しい人が多かったり。
ライブハウスで出会った人はクラスメイトよりも好感触だったけれど、やっぱり学生は部活で忙しかったり、既に友人とバンドを組んでいたりする。
「なんか矛盾してることを言うみたいだけど、国語の問題は感情で読んじゃダメだよ」
いつもとは違う、ライブハウス「CiRCLE」の近くにある喫茶店で、私は学校で出された国語の宿題を広げていた。それを対面の席から眺めながら、日菜ちゃんは赤くペケがつけられた回答を指さした。その手元には、私が預けたノートが置かれている。
ごめんなさい、先生。ぼくは今から、先生を裏切る。
昨日会ったあのお姉さんは、相手の人生に身体ごと飛び込む決意ができないなら、巻き込まれる決意ができないなら、罰なんて与えるべきではないと言ったらしい。本当だ。ぼくも本当にそう思う。
ぼくは、言った。 「今すぐここで、ぼくの首を絞めろ」
これが条件。うさぎの命でダメなら、あれが器物損壊なら。ふみちゃんの心が器物なら。ぼくの命を使って、お前の人生を縛ってやる。 「そうしなければ、お前はもう二度と医学部に戻れない」
それが怖いんだろう? それを回避するために、今日ここに来たんだろう?
誰かが背後で息を吸い込む音を聞いた。パイプ椅子の倒れる音がする。秋山先生が立ち上がり、ぼくに駆け寄る。その音がする。
だけど、市川雄太とぼくの方が、距離が近い。
声を受けた市川雄太は目を見開き、それからしっかりと、力強く、頷いた。
彼が立ち上がり、ぼくの喉に向けて腕が二本伸びてくる。それを見て、ぼくは思う。ああ、本当だ。何が、医学部に戻るつもりがないだ。自分自身のことに興味がない、だ。
見届けてくれていますか、秋山先生。この人は結局、自分のことがとても大事で、医学部に戻りたいだけなんだよ。
── 【1】下線部の文について、この描写から感じ取れる市川雄太の感情をひとつ選びなさい。
「まず、3は違うよね。首を絞めないように決意した、ワケない。その後首絞めてるんだから、最初に除外しよう。それから、下線部についてって書いてあるんだから、下線部の文章を読まなきゃダメ。目を見開き、って書いてあるから、市川は驚いたんだ。そして、力強く頷いた。決意したんだね。首を絞めることを決意した。だから、医学部に戻れないことを飲み込んだのもバツ。……確かに、人の首を絞めるような人間は医学部に入れないけど、この時点で市川がそれを把握してるとは書いてないし。医学部に戻るために、自分以外の誰かを害してもいいんだって決意したんだよ。だからその文脈に会う選択肢を選べばいい。書いてあることだけを読めば、それが答えになる」
解答欄に2と書き込む。
書いてあることだけを読む。それがどうにも、私には難しいような気がした。
「文章の裏を探っちゃうのが癖になってるのかな。感情移入しちゃって、行間を読み過ぎちゃう。評論の点数はいいんだから、多分そういうことだよね」
羽沢珈琲店、と店名が書かれたメニューを指さして、日菜ちゃんがブレンドコーヒーのおかわりを注文した。茶髪の店員さんが、注文を受けてにこやかに立ち去っていく。
「現実の人間感情はぐちゃぐちゃしてるけど、逆に小説の人間感情は丁寧に整頓されてるんだよ。特に、こんな問題にされるような作品はね。だから動作や描写が何を示しているのかを等号で結べば、ほとんどは苦労せずに解けるようになってるの」
「……難しい」
「ま、慣れだよ慣れ」
そういうことを学校で教えて欲しい、とは思ったけれど、学校で教わるべきは文章の読み方であって問題の解き方ではないのかもしれない。
すぐに日菜ちゃんの手元にブレンドコーヒーが届く。私のカフェオレはまだ半分近く残っていた。羽沢珈琲店の店内は満席という程ではなかったけど、頻発にカウベルが鳴るくらいには混んでいた。その間を小鳥のように行き来する店員さんは、自然な笑顔で歌うように注文を取っている。
「それで、読み終わったんだけどさ」
「うん。どう、かな」
コーヒーに砂糖を加えた後、日菜ちゃんがノートを開いた。新曲の歌詞の草案を、日菜ちゃんに見てもらっていたのだけれど、正直なところあまり自信がなかった。どうにも、自分の心を正しく文章に書き起すことよりも、上手く歌詞としてまとめてしまおうという思考が先に来てしまっているような気がして、薄っぺらく感じる。
「うーん、やっぱり第一稿は荒削りのままでいいよ。上手くまとめようとしてくれたんだよね?」
「……うん」
「そこはあたしにも手伝わせて欲しいし……燈ちゃんの
案の定、日菜ちゃんにも同じことを指摘される。
無関心な視線が苦手なこと。クラゲが少し恐ろしいこと。色々と書いてはみたけれど、私が主張したいことの軸みたいなものが、この歌では定まっていないような気がする。
普段ノートに書き綴っていたような、「よく分からない苦しさ」みたいなものから変わっていない。
「……考え直させて欲しい。ちょっと、整理したいから」
「ゆっくりで大丈夫だよ。……あ、でも、今日はここまでかな。バイト行かなきゃ」
小説の中の感情は整頓されている、と日菜ちゃんは言った。歌詞も同じだと思う。小説ほど説明する必要がなくとも、文章を作る人間の中では整理されていなければならない。赤色のパッション、黄色のポジティブ、青色のネガティブ。マーブル色だって構わない、とは思うけれど、他ならぬ私に「マーブル色を塗っている」という自覚がなければいけない。
そしてそれは、私の得意分野のひとつだったはずだ。私の胸腔を吹き荒れる正体不明の黒い風を照らして、一つ一つノートに書き綴ってきた。ベッドの上で襲ってくる感情、朝起きた時の感情、家を出た瞬間の風の匂い。黒い風に色と実体を纏わせてきた過程がノートであり、集大成が歌詞だ。
コーヒーを飲み干して、伝票を手に日菜ちゃんが席を立った。
「燈ちゃんはまだここで考える?」
「……そうする」
「じゃあ、また明後日ね」
もともと、今日会う予定はなかった。日菜ちゃんにバイトが入っていて練習時間を確保できないのはわかっていたから。それでも歌詞を一度読んで欲しいという私の我儘を聞いてくれて申し訳ない限りだった。
4月に入って私が日菜ちゃんやクラスメイトと出かけるようになってから、お父さんが私にスマホを買ってくれたから、このやり取りだって電話やテキスト越しにでも成立するものだったのに、日菜ちゃんは頻繁に顔を合わせる機会を作ってくれる。
去りゆく背中を見送って、ノートを閉じた。国語の宿題の続きを眺めて嘆息する。
日菜ちゃんのために上手くやりたいと思うのに、空回りしている。自分が情けなくなって、窓の外へと現実逃避を求めた。
見覚えのある背中だ、と気が付けたのは偶然だった。
クラゲに似た、ふわふわとした水色の髪。ちょうどこの歌詞を書いたときの情景を思い出していたから、その記憶にピッタリと一致した。
水族館で顔見知りになった少女が、ドラムケースを持って歩いていた。反射的にそれを目で追って、立ち上がる。ほとんど残っていなかったカフェオレ一口分を飲み干して、テーブルに広げていたノートやテキストをカバンに片付ける。
伝票を探そうとして、日菜ちゃんが支払ってくれたことを思い出した。
店員さんに「ご馳走様でした」とだけ告げて、カウベルの音に見送られるままに店の外へ出る。
先程の少女が歩いていった方へ商店街を歩けば、すぐにその背中が見えた。
……とはいえ、どうしよう。何も考えずに出てきてしまった。足は少女を追いかけて前へ進む。追い付いてしまう。言葉が見つからないまま、追い付いてしまう。荷物が多いからか、歩くのは私の方が早いみたいだ。その背中がみるみるうちに大きくなって、そして、ついにその影を踏んでしまった。
「あ、あのっ!」
思いの外大きな声が出た。通行人の何人かが私の方へと振り返る。もちろん私が追いかけていた少女も例外ではなく、アメシストの瞳をぱちくりと瞬かせて首を傾げる。
「わ、私ですか?」
「はい、その、楽器を持っているのが見えて……」
結局、無策での突撃になった。足を止めてくれた彼女は、穏やかに微笑む。薄青の髪が夕陽にほつれて、毛先を紫に染めた。
「ああ、……これ、今から楽器店さんに売りに行こうと思ってたんです。……もしかして、水族館によく来てる子?」
「えっと、はい。……楽器、売っちゃうんですか」
「うん。私、引っ込み思案で、自分を変えたかったんです。それでドラムを始めたんだけど、上手くいかないままで……もう、いいかなって」
寂しそうな微笑み。薄らと感じていたシンパシーの理由はすぐにわかった。私と同じで、今の自分が嫌いなんだ。水族館の中の静謐に包まれて過ごした時間に感じていた想いは勘違いじゃなかった。
「あの、私、バンドメンバーを探しているんです。ベースと、ドラム。……それで、その。私と、バンドやりませんか!」
勢いのままに走る。日菜ちゃんに相談なんかしてないし、相手の人間性も趣味もなんにも知らないのに、いきなりの直球を投げ込んだ。
「ええっ!? バ、バンド? ……ええと、ちょっと考えさせて、欲しい、です。……あっちの公園でお話しませんか? あなたのお話も聞きながら考えたいな」
空き地に作られたと思しき小さな公園を指し示して、控えめに提案してくれる。それに頷いて、公園へ移動する。屋根もなにもない、樹脂製のベンチに腰掛けた。夕日がちょうど建物に遮られて、私たちが座っているベンチは日陰になっていた。
「まずは自己紹介、しない? 私は松原花音。花咲川女子学園高等部の二年生だよ」
「高松燈、です。中学二年生」
「燈ちゃんって呼んでもいい? 私のことも花音でいいから」
「……うん。カノンって、どんな字を書くんですか?」
「花に音で花音だよ。ありがちな名前なんだけどね」
花の音。カノン。きれいな名前だと思った。ひらりと舞い落ちる花びらの音だろうか。それとも、蕾が花開く瞬間の弾けるような音だろうか。
「ねぇ、燈ちゃんのバンドの曲って、ここで聴けたりしない?」
「SNSに上がってる動画が……えっと、これ」
初めてのライブの動画。ライブハウスの方で撮影していたデータをもらって、「ランニング・ライト」のアカウントで投稿した。それなりに拡散されて、次のライブではチケットを売るのに苦労しなかったのが記憶に新しい。
花音さんはイヤホンを挿して、私たちの歌に没頭していた。晴嵐。私の始まりのうた。
少し緊張する。私の言葉が受け入れられるのか。クラゲが苦手な私の歌が、きっとクラゲが好きな花音さんにはどう聴こえるのか。
「いい曲だね。燈ちゃんが書いたの?」
「歌詞は、私が。曲は日菜ちゃんが作ってくれて……」
「……うん、歌詞が好きだな。変われないまま諦めようとした私にはちょっと眩しいけど……」
どうしよう、と思案げな表情。
「これでもね、ドラムを買った時にはものすごく勇気を出したし、練習してバンドを組もうと思ってたんだ。でも、ダメだった。どこまで上手くなれば迷惑にならないんだろう、とか、私なんかと組んでもらうのは迷惑なんじゃないかとか、色々考えちゃって。それで、また勇気を出して辞めようと思ったのに、燈ちゃんに声を掛けられちゃった」
困っちゃうな、と花音さんは笑っていた。私は的確な言葉を返すこともできなくて、ただ黙っていた。
「燈ちゃんとは、クラゲの水槽のところでよく会うよね。クラゲ、好きなの?」
「ううん、苦手、です。無表情で見下ろされてるみたいで、怖くて」
「それなのに、あの水槽の前にいたの?」
「……恐ろしくないと、立ち止まることを許してしまいそうだから」
よく分からない、という表情。日菜ちゃんを相手に話している時のように、私の言葉が過不足なく完璧に伝わったりはしない。
それが正常なのだ、といつも日菜ちゃんは言う。馴染みの深い内輪ノリの会話以外は、互いの言葉の意図が完璧に通じ合うことなどほとんどないのだと。私の場合はそれが顕著に見えるだけで、結局は程度の問題でしかないのだと。
「私はね、クラゲが好きなんだ。知ってる? クラゲって自力では泳げないんだよ」
「知ってます。……だからあの水槽でも、弱い水流ができてるって書いてありました」
クラゲはプランクトンに分類されるらしい。プランクトンの定義とは、水流に逆らえるほどの遊泳能力を持たず、水面や水中に漂って暮らす水生生物の総称なのだそうだ。ミジンコなどの小さな生き物が多いが、クラゲも定義上はプランクトンになる。
水流のない水槽に入れられたクラゲは、やがて水槽の底に沈んでしまう。
水底に倒れたクラゲは、腐って水に溶ける。
「私もね、流されて生きてきたの。なんとなく学校に通って、何となく友達を作って、なんとなく部活に入って、なんとなく遊んで。自分がどこに行きたいか、よく分からないままに水流に身を任せてきた。だからクラゲが好きなんだろうね」
街がオレンジから赤色へと変わっていく。空を彩るグラデーションの東端に、星の煌めきが滲み始めた。あわいの紫と夕日から広がる赤と雲に跳ね返る白。
「運命っていうのかな。世界には決まった流れがあって、それに流されるままに生きていけばいいんだと思いたかった。……燈ちゃんとは真逆だね。私はクラゲこそが私の弱さを許してくれると思ってる。星も想いも時間も流れるものでしょ? 水に流されて生きる彼らなら、大いなるなにかに流されて生きる私の事だって肯定してくれるはずだって、そう思っちゃうんだ」
「でも、ドラムは……」
「うん。友達に触発されて買ったんだけどね。その子は芸能界のお仕事をしているんだけど、どんなに辛い状況でもいつだって前を向いて動いてるの。私も見習わなきゃと思ってみたのはいいんだけど……一人じゃダメだったみたい」
「……それなら。一人でダメなら、私たちとやりませんか。私も日菜ちゃんに助けられてばかりだけど、なにも出来ない私でも、水の流れにさえ置いていかれてしまうような、溺れてしまうような私でも、立って歩けるようになったんです」
それが困っちゃう、と花音さんが苦笑する。
「誘ってくれて嬉しかったんだ。燈ちゃんがそう言ってくれるなら、もう一度頑張りたいと思ってる。だから、ちょっとだけ時間をくれないかな。……もう時間も遅いでしょ? 慌てて返事をしてもきっと、良い事にはならないだろうし」
「じゃあ、明日、会えませんか。時間を置きすぎるのも、その、良くないと思うから……」
「……うん、じゃあ……そうだ、行ったことがない水族館に行ってみてもいいかな。一人じゃなかなか、そういう機会もなくって……」
約束ね、と連絡先を交換しあって、集合場所と時間を決める。二人で駅への道を歩く傍ら、私が日菜ちゃんと出会った経緯を話した。
何となく、花音さんは聞き上手だと思う。お母さんに話したときよりもずっと、口が軽くなってしまう。
人間関係が苦手なこと。それどころか、恐れてさえいること。視線を向けられるのが怖いこと。自分の言葉で誰かに何かを訴えかけるのが恐ろしいこと。ステージの上では、それら全てが吹き飛んでしまうこと。
ポジティブな話だけだと胡散臭く聞こえてしまうだろうかと思ったけれど、日菜ちゃんと出会ってからの私は常に上向きで、言うべきことがあまり見つからなかった。
日菜ちゃんを独占したいと思ってしまったことを話したのに、「日菜ちゃんのことが大好きなんだね」と言われただけだった。
電車の中から、先延ばしにしちゃってごめんね、と手を合わせた花音さんを見送った。
・
ドラマー候補を見つけた旨を日菜ちゃんに伝えると、「良きにはからえ」と胸を張るペンギンのスタンプが返ってきた。次の練習のときに連れてきて欲しい、というメッセージに私もスタンプを返す。頷くホットドッグのスタンプ。
そこまでが、昨日の顛末。朝一番に国語の宿題を提出したあとは、ずっと今日の待ち合わせのことを考えていた。日菜ちゃんに出会った頃のようだ、と思ったけれど、あの時は週に一回程度だったから、今日よりもずっと焦らされていた。それに、今日よりもずっと不安や不信感にも囚われていたと思う。あの頃の一週間分が一日に圧縮されて、私の心は水草のように揺れていた。
「……燈ちゃん、傘忘れちゃった?」
「ううん、どうして?」
「いや、ずっと外見てたからさ。予報では小雨って言ってたのに、普通に降ってるよねー」
「うん。でも、傘は持ってきてる」
「それなら良かった。私、傘もってくる度に忘れて帰ってるから、今三本あるんだよ」
隣の席のクラスメイトが声を掛けてくれる。上手く話せない私にも優しくしてくれるから、感謝してもしきれない。彼女にも仲が良いグループがあって、普段はそちらの子と話しているから、話す機会は休み時間のはじめとか、授業の空き時間とかばかりだけれど。
たとえば、私が彼女ともっと仲良くなりたいと思ったとして、こちらから積極的に話しかけてみればこの関係は変わるんだろうか。それとも、昔みたいに距離を空けられてしまうのだろうか。分からないから、躊躇している。
「ま、傘があるなら良かった。また来週ね」
「……うん。バイバイ。……また来週」
またね、という言葉が好きだ。次があることが保証されているみたいで、別れが辛くなくなる。
昇降口で傘を開いた。透明のビニール傘。傘を通して見る空は、水族館の魚たちが見ている景色と同じだ。灰色に潤んだ空。大降りの涙も、傘を貫きはしない。
雨が降っているから、待ち合わせは駅の構内になった。傷ついて落窪んだアスファルトに水溜まりができて、信号機の明かりを反射する。
花音さんはまだ来ていなかった。ベンチが空いていたのでそこに腰かける。傘の水気を吹き飛ばして、ビニールを細く纏めた。
スマホにイヤホンを挿し込む。日菜ちゃんに借りた音楽プレイヤーは、結局私のものになった。日菜ちゃんに返却しようとしたときに、もう使わないから、と返ってきた水色の機械は、私の部屋のサイドテーブルに置かれている。学校に持ってきて没収されるのが怖くて、休日の外出にしか持ち出せていない。
雨の日のプレイリスト、とタイトルが付けられたプレイリストを開く。雨を肯定的にも否定的にも歌った曲が沢山あって、灰色の空にも色が見いだせるような気がする。
でも、雨はちょっと苦手だ。
日菜ちゃんと反対の空だから。
エリック・サティが流れる。雨の日はピアノ、と日菜ちゃんが言っていた。雨の音を最もきれいに表せるのはピアノに違いないから、と微笑む。
花音さんは20分後にやってきた。花咲川の制服のスカートの端に雨のしるしが残っている。
「待たせてごめんね! 駅の中で迷っちゃって……」
「大丈夫です。……集合時間2分前、だし」
「そうだとしても、待たせちゃったから。……それじゃあ、行こっか。道は調べてきたから大丈夫だと思うんだけど……」
初めて行く場所が苦手なんだ、と自信なさげな表情。左手のスマホの地図アプリを立ち上げて、私は頷いた。
ICカードを改札機に押し付けて、駅のホームへ。空気が湿っていた。
いつもは乗らない路線の電車に乗って、水族館の最寄り駅へ。
「今から行く水族館はね、展示されているクラゲの種類が多いの。代わりにクラゲの大水槽はないみたいだから、燈ちゃんのその、圧迫感? みたいなものは控えめだと思うんだけど……もし嫌だったら、すぐに言ってね」
「……うん」
駅には水族館への経路を示す立て看板があった。それから、来週からはサンゴ展が開かれるのだと書かれている。
雨はまだ降っていた。花音さんが水色の傘をさして、隣に透明な私が歩く。その足取りは少し不安そうで、私が半歩前を歩いた。10分ほどで水族館に着く。平日の夕方だと客足は多くないらしく、すぐにチケットを買うことが出来た。
館内に入る。どこの水族館でも、暗い順路にサファイアが照らす色彩は変わらないらしい。私たちを歓迎する大水槽から順番に、ゆっくりと順路をなぞっていく。
この水族館のイワシも、銀色の渦を作っていた。
渦は常に動いている。前へ進んでいる。閉ざされた箱庭でも、昏いものから逃げようと走っている。
そこに人間のエゴを見出して糾弾するとか、逆に感動を覚えるとか、そういうのは的はずれな事だとわかっているけれど、私はどうしても意味を探してしまう。
展示を進んでいくと、水槽はエメラルドグリーンに染まっていく。クマノミやハリセンボン、チンアナゴみたいな有名な魚がボード付きで紹介されている。それから、タカアシガニがこちらに背中を向けて黄昏ていた。ウツボがエアレーションのポンプの近くに寝転がっていて、ミノカサゴが悠々と一人泳いでいる。
「ミノカサゴ、あっちの子よりも大きいね」
「うん。でも、水槽が違うから余計にそう見えるのかも」
「こっちは混泳だもんね」
それからウミガメやタコのコーナーがあって、イルカやアザラシのゾーンを通り抜けてようやくクラゲのコーナーにたどり着く。それまでよりもいっそう暗くなった通路を、ライトアップされた水槽の光が照らしていた。
「運命って、本当にあると思う?」
「……あるとしたら、風みたいなものだと思う」
「風?」
「うん。強く吹く日もあるし、全く吹かない日もある。方向も決まってないし、勢いも分からない。雨雲を運んで来るときもあれば、雨雲を吹き飛ばす日もある。そんな……風みたい。逆らって飛ぶことができないほど強い日もあるし、そうじゃない日もあって……追い風が私たちを遠くまで運んでくれる日だってある……と、思い、ます」
花音さんは、目を瞑っていた。紫にライトアップされた小さなクラゲの水槽の前で、沈黙が横たわる。空調を動かす音だけがゆっくりと響いていた。
「それじゃあ、クラゲには逆らえないものだね」
「でも、波が行きたい所へ運んでくれるかも……」
「ううん、それじゃダメなんだよ」
振り返ったアメシストが、キラキラと光を跳ね返す。夕焼けに染まった暗い印象が一転して、それ自体が宝石であるかのように輝きを放っていた。
「カツオノエボシってクラゲがいるんだ。水面に浮かぶビニールみたいな浮き袋を持ってて、それを帆みたいに風を受けて移動するクラゲなんだけど……」
名前と大まかな姿くらいは知っている。青色がきれいなクラゲだけれど、毒が強くて電気クラゲと呼ばれていたはず。
「台風が来るとね、クラゲ達は風に煽られて浜に打ち上げられちゃうんだ。酷い時には、海岸沿いに青い線が引かれているように見えるくらいに。……だから、ダメなの。生きていくためには、風に逆らわなければいけない時がくる。どの風に乗るかを選ばなきゃいけない日も、きっと訪れる。それに……風が吹かなかったら……流れが止まってしまったら──」
流れが止まれば、水槽の中のクラゲは死んでしまう。
だから、ね? と花音さんは微笑んだ。
「流されるんじゃなくて、私の意志で決めたかったの。……燈ちゃん。私を燈ちゃんのバンドに入れて欲しい」
花が咲くような笑顔。花音さんの名前はきっと、蕾が弾ける音の方だったんだと納得した。開花の動詞に「
「よろしくお願い、します」
「うん、よろしくお願いします。緊張するけど、楽しみになってきたかも」
敬語じゃなくていいよ、と私の不格好な敬語に許しが下りる。私に甘い人ばかりだ、と思った。
クラゲは依然として水槽の中を泳いでいる。花音さんの手を握ったあとも、クラゲの展示を眺めて歩いた。私はウリクラゲが好きかもしれない、と順路を歩きながら振り返ってみる。名前の通りウリみたいな縦長のクラゲだが、水の中にふわふわと浮かんでいる姿は飛行船みたいだった。光を反射して七色に発光して見えるのも相まって、ランニング・ライトとシンパシーを感じてしまう。
クラゲのコーナーを抜けるとあとは屋外コーナーになる。今日はイルカショーも終了していて、雨も強そうだったからそちらを見るのは断念してしまった。
最後にお土産を売っているブースがあって、大きなぬいぐるみやストラップ、水生生物をモチーフにした雑貨なんかが置いてある。いつもの水族館よりも規模が大きいからか、品揃えも豊富だった。共通している商品と、その水族館独自の商品が混じっているらしい。
「わ、ミズクラゲの傘! かわいい……」
花音さんが手にしていたのは、クラゲの模様の傘だった。これは確か、いつもの水族館にはなかったはずだ。
「でも、汚すのが怖くて使えなくなっちゃいそう」
クラゲの傘をさしている花音さんを想像してみる。本人のまとっている雰囲気もあって似合いそうなものだけど、買うのは断念してしまったらしい。値札を見るとそれなりの値段だったし、使うのが勿体なくなってしまいそうというのにも同意できる。
「ねえ、なにかお揃いのものを買ってみない?」
「……お揃い」
「嫌だったらいいんだけど……」
「……ううん、嬉しい」
花音さんの提案に、大きく頷いた。お揃いのもの。本や漫画で読む度に、少しだけ憧れていた。物語の中では大抵、片方が無くしてしまったり壊れてしまったりするものだけど、そんなトラブルを乗り越えて絆を深める展開になったりする。現実ではそう大袈裟なことにはならないだろうけれど。
「……クラゲがいいな」
「苦手じゃなかったの?」
「得意ではない、けど……花音さんとの思い出を残すなら、クラゲがいい」
花音さんの話を聞いたあとなら、クラゲにもまた違った感情を抱けると思う。歌詞を書き直す前に、またいつものミズクラゲの大水槽を見に行きたい。
「じゃあ、これなんかどうかな」
花音さんが指さしたのは、タコクラゲのピンバッジだった。
「置物だといつか場所に困っちゃいそうだし、ストラップだとなくしちゃいそうだから」
「……いいと思う。かわいいし」
「じゃあ、これにしようかな。鞄につけるね」
「私は……私も、一旦は鞄かな」
花音さんが払ってくれようとしたのを、二人の思い出にしたいから払わせて欲しいと言って一つずつ購入した。包装から取り出したバッジをそのまま鞄に付ける。簡単には外れたり引っかかったりしない場所を選んだけれど、一応気を付けておこうと思う。混み合う電車に乗ることを考えると、筆箱につけた方が良いかもしれない。……悩む。
これで一件落着、と水族館を出た瞬間に気を抜いた。花音さんをどう説得しよう、と考えていたこともあって、少しだけ気疲れしてしまったらしい。雨はまだ忙しく降り注いでいて、傘についた雨粒が世界を歪曲させる。
花音さんに断りを入れてから、日菜ちゃんに連絡を入れた。ドラマーが加入してくれたことと、花音さんの情報をいくつか。既読がつかないトークルームを閉じると、思い出したように花音さんが言った。
「私、まだ日菜ちゃんとあったこともないのに、私を入れるなんて言っちゃって良かったの?」
「花音さんなら大丈夫、だと思う。日菜ちゃんもいいって言ってたし……」
「それならいいんだけど……ちょっとドキドキする」
ドラムは叩けるけど上手くはないからね、と念を押すように言った花音さんに、もう一度大丈夫だと返す。歴一年がどれくらいのものなのか私には分からないけれど、日菜ちゃんは初心者でもいいと言っていたし、加えて私の人選ならどんな人でも構わないと言ってくれていた。花音さんと日菜ちゃんが会ったときにどんな感じになるのかは全く想像がつかないけれど、悪いことにはならないだろうと思う。
「あ、そうだ、寄り道をしてもいいかな」
「うん、……どこに行くの?」
「この辺りに美味しいシュークリームのお店があるらしくて、寄ってみたいなって」
花音さんはスマホの地図アプリを開いて、唸るような表情で道順を確かめた。あっちかな、と指すのに従って、傘をさしたまま歩く。入り組んだ路地の方へと進んでいく。道幅が狭くなって、横に並んで歩いていた私たちは、時々縦一列に配置を切り替えた。
「私ね、雨も結構好き。髪が湿気でゴワゴワするのは苦手だけど……燈ちゃんは?」
「私は……嫌い」
ノートを書いているときの私の心は、激しい雨に似ている。あの台風の夜に感じた恐怖のようなものを、日菜ちゃんが吹かせた晴嵐に抱いた感動のようなものを書き綴っているのだから、当然と言えば当然だった。
幾重にも連なった雨と風のすきまに挟まれて、私の意識が溶けていく。あの日の私は、苦しかった。
「音が……」
「音?」
「誰かが怒っているみたいな音が、苦手」
一人でいると耳から入り込んできて、私の頭の中でずっと叫んでいる。誰かが来るまで、雨が止むまで鳴り止まない怒鳴り声のような音。
「……あの、花音さん。……本当にこっちであってる?」
路地の奥深くへと進んでいくものだから、会話を断ち切って尋ねた。住宅街どころか近隣住民の裏道のような道に差し掛かっている。緑色の大きなゴミ箱や、廃棄されたと思しき自転車が転がっていた。
「えっと、目的地がここなんだけど……」
「……違う道だと思う。左に曲がって、大通りに出よう」
「うう、ごめんね……私、方向音痴みたいで……」
顔を下げてしまった花音さんを先導して大通りに出る。雨樋や屋根に沿って雨水が滴る路地を抜ければ、雨が止んでいることに気が付いた。
「こっち、だと思う」
「早速情けない所を見せちゃった……ありがとう、燈ちゃん」
「ううん、大丈夫」
私が傘を下ろせば、それを見た花音さんも傘を下げて空を見上げた。
「……昔も、こんなことがあったの。迷子になって、雨の中を路地でさまよっていたんだったかな。袋小路になっている道をずっと歩いて、ようやく大通りに出たと思ったら雨が止んで。その瞬間に広がった空が、あんまりにも綺麗で。だから、雨の日が嫌じゃなくなった」
方向音痴は困るんだけど、と苦笑い。
電線から滴った雫が、私のつむじを打った。冷たさに肩を跳ねさせると、花音さんが上を見上げて、立ち位置をズラす。
雨の波紋が広がるように、身体中に言葉が広がっていくような感覚。
冷たさが心を冷やす。冷ややかになった心には、熱を持った言葉が際立って見える。
「……私も日菜ちゃんに、迷子みたいだって言われたことがあって……その、私の迷子は、人生の正しさが分からないってことで、その、まだ解決してはいないんだけど……私も、その空を見たい」
「そっか。それじゃあ、一緒に見ようよ。相談には乗るし……それに、これからライブもしていくでしょ? 燈ちゃんが目指すべき道が見つかったのなら、みんなでライブをして、同じ空を見よう」
あのお店だよ、と花音さんが指さす。クラウディ、と書かれた雲の意匠の看板に、シュークリーム専門店と小さく銘打たれていた。
「とりあえず今日は、曇り空ってことで。ね?」
「……うん。日菜ちゃんにも買っていきたいな」
「明日みんなで食べようか」
「うん」
ぼくのメジャースプーン 辻村深月著 より引用