あなたのために紡ぎます
88の祈り
50の祝詞
立ち止まってはダメよ
振り返ってはダメよ
あなたは選んだのだから
後悔してはいけない
代わりに私が祈ります
誓いが嵐にちぎれぬように
明日の朝日が上り続けるように
もういらないとあなたが言うまで
「正直なところ、燈ちゃんが本当にバンドメンバーを連れてくるとは思ってなかったんだ。……いや、違うか。想定はしてたけど、可能性は低いかなと思ってた」
シュークリームを頬張って、日菜ちゃんはあっけらかんと言った。花音さんを連れてスタジオにやってきて、日菜ちゃんを交えての自己紹介を済ませた後。私と花音さんの出会いの顛末を聞いての発言がこれだ。
私は、そうだろうなと納得しただけだった。日菜ちゃんは私に優しいけれど、過剰評価してくれているわけではない。私にできることとできないことの境目を、もしかすると私よりも詳細に認識していて、私がほんの少しでもその境目をズラしたときに褒めてくれるだけだ。
だから今日も「頑張ったね」と言われた。子供扱いされているように感じるそれが、どういうわけか心地よい。
「人集めはあたしよりも燈ちゃんの方が向いてるかもね」
「……そうかな」
「うん。人を集めるだけならともかく、バンドメンバー探しなら、燈ちゃんの方がピンとくる人を見つけられそうな気がする。能力とかじゃなくて、そういう星の下に生まれてそうというか……」
これも、たぶん本心。
シュークリームのおしりのところからクリームが出てしまいそうになるのを慌てて受け止めて、ウェットティッシュで手のひらを拭った。
「花音ちゃんはどう思う?」
「燈ちゃんが向いてるかってこと?」
「うん」
「……向いてるんじゃないかな。私をここに連れてきてくれたのは燈ちゃんだし、私はそう思ってるよ」
花音さんはそう言いきった。
日菜ちゃんは考え込むような表情。
「あたし、メンバー探しに時間を割く余裕がないんだよね」
言うか言うまいか、と日菜ちゃんは迷っていたようだった。軽い調子の声音だったけれども、そこには誠意のようなものが見て取れる。
「もちろん、ツテを当ったりはできるよ? けど、わざわざメンバー探しのためだけに行動するのは難しいかも」
バイトがね〜、と付け足して、日菜ちゃんはシュークリームを食べきった。バンドというのは、相当にお金がかかる活動らしい。そんな当たり前のことを、私は未だにしっかりと理解できているとは思えなかった。
私が生きるのにどれくらいのお金がかかっているのか。このスタジオを2時間借りるのに、お父さんやお母さんがどれくらい働けば良いのか。1度のライブをするのに、どれくらいのコストがかかっているのか。
私にとってのお金とはお母さんからお小遣いを貰うことによってのみ入手できるもので、そしてそれはなにか労働の対価として得ているわけじゃない。
だから私はお金の重みというものを全く理解していないのだと思う。
ライブをするのにお金がかかることも、バンドを組んで初めて知った。
まりなさんのようなブッカーに請われてライブに出演するのでもなければ、私たちのようなバンドは、ライブをするのにチケットノルマが課せられる。例えば10枚のチケットノルマだったとして、私はその10枚をお客さんに売りきらなければならない。
そして、もし売り切ることができなければ、そのチケットは自分で買いとることになってしまう。
これもお客さんがライブに来ないってことだから、いい顔はされないんだけどね、とまりなさんが言っていた。私たちは今のところノルマをクリアしているけれど、どこかで盛大に空振りする可能性を考えればある程度まとまったバンド資金は必要だ。
ノルマを超えてチケットが売れた分は、一部がバンドに戻ってくるとも聞いた。私たちはまだまだチャージで潤うには未熟だけれど、ライブに来てくれるお客さんが増えれば日菜ちゃんもバイトを減らしてくれるんだろうか。
楽器の維持にもお金がかかるだろうし、スタジオ練習に掛る費用もそれなりだ。望みは薄いような気がした。
「うちのバンドはあんまりビジネスライクにやるつもりもないし、できれば燈ちゃんに寄り添ってくれる人を見つけたい。効率は悪いけど、そういう人を見つけるには足で稼ぐしかないと思うんだよね。ライブをしたり、色んなところに行って、たくさんの人に会って、話をするの」
だからさ、と一呼吸。
「前にも言ったけど、バンドメンバー集めは燈ちゃんに任せるよ。もちろん、手伝ったりはするからさ」
花音さんは、黙って話を聞いていた。私はというと、やる気と恐れが半分半分だろうか。花音さんを引き入れられたことは、私の自信になっていた。だから、頑張りたい。
元々、バンドメンバーを増やしたいと言ったのは私で、これは、私が何年かぶりに見つけた「やりたいこと」なのだった。
「うん、頑張る」
日菜ちゃんは満足気に頷いた。
日菜ちゃんの期待に応えたいし、ずっと手を引いてもらっているままでもいたくない。私への配慮がなければ日菜ちゃんなら直ぐにバンドを組めそうなものだし、やっぱり今の私が足を引っ張ってしまっているのは間違いないのだから、メンバー集めくらいは私自身で、と強く思う。
「……いちおう訊いとくけど、花音ちゃんはアテがあったりしない? ベースと、できればギターかピアノがいると楽しいかなって思うんだけど」
「ううん、全く……ピアノをやってた友達はいるけど、いまは吹奏楽部で忙しそうだし」
ピアノ、と言われてふと引っかかった。
羽沢珈琲店にあるピアノ。グランドピアノではなくて、たしか、アップライトピアノと呼ばれるタイプのものだったはずだ。それがカウンターの奥まったところに置いてある。
インテリアとしてすっかり馴染んでいてあまり気にしていなかったけれど、店に置いてあるからには誰かが弾くためのものなのだろう。いつもの優しい店員さんに今度訊いてみよう、と頭の中のメモに書き留めた。
「それじゃあ手がかりはゼロかぁ。ま、気楽にやろうよ。……送った譜面は見てくれた?」
「うん。叩けてないから、読んだだけだけど……」
「おっけー。初心者が作ったパーカッションだから、直せそうなところがあったら教えてくれると嬉しいな。……というわけで、演奏してみようか」
スタジオの時間も勿体ないし、と会話もそこそこに日菜ちゃんがギターを担ぐ。手持ち無沙汰にドラムを触っていた花音さんがスティックを握り直した。私は急かされるようにスタンドマイクの前に立って、深呼吸を一つ挟む。
「花音ちゃん合図おねがーい」
「うん」
ワン、ツー、ワンツー。華やぐように
イントロの数秒で、メンバーを集める決意をして良かったと実感した。晴嵐の印象が一変する。静かに訴えかけるような曲調から、足音を思わせるドラムの音が加わって、ずっと前向きなニュアンスが加わる。
楽器ひとつ加わることで、これほどまでに変わるものなのか。だとすればさらにメンバーが増えたときに、この曲はどこまで羽ばたいてしまうのだろう。
恐ろしいような、楽しみなような。
息を吸う。
花音さんの音に合わせてか、日菜ちゃんの音色も弾むような調子だった。私はどうしよう。いつも通りでいいのか、込める感情をアップデートしていくべきなのか。
迷って、いつも通りに歌い始めた。歌い出しの部分は、私の暗い思い出から。それから日菜ちゃんと出会って明るくなるサビの方へと進むにつれて、声は上向きに、力強くなっていく。
二番に差し掛かって、いつもよりも言葉のキレを意識する。一音一音が際立つように、息の吐き方を調節する。
歌い方は少し意識してみた。けれどもあくまでこの曲に込める感情は、私と日菜ちゃんのもの。花音さんと出会ってからの歌は別で作るのだから、なんでも混ぜてしまうのは良くない……はず。
「ドラムの有無でだいぶ違うなー。あたしも弾きやすいし、何より演奏のパワーが桁違いだよね」
「……うん。すごい。花音さんが入ってくれて、よかった」
「そうかな……? 人と演奏するの、初めてだから……沢山失敗しちゃったけど……」
「思ってたよりも叩けてたよ。そもそも技術は二の次だし、演奏を聴いててノイズにならないくらいに叩けてれば十分なんだけど」
歌い終わって、ペットボトルの水を飲む。今までにない感覚、未だに心の中で響いて身体を揺らす振動に、意識まで揺れそうだった。
ぼやぼやとした思考を現実に引き戻したのは、またしても日菜ちゃんだった。
「じゃあ、来週あたりにライブしよっか」
「ふぇぇっ!? そ、そんなに早く!?」
「花音ちゃん普通に叩けてるし、やれない?」
日菜ちゃんが心底不思議そうに首を傾げる。すぐにライブをやろうという日菜ちゃんの提案に面食らったらしい花音さんは、考え込むように口を噤んだ。
日菜ちゃんはいつも、私が想定しているよりも一歩進んだ提案をする。やると決めたことはすぐやるし、後回しにする意味はないと言う。私から見ればいささか生き急いでいるように見えることもあるけれど、言われなければ突っ立っているばかりの私には、それが眩しくて有難い。
花音さんもどちらかと言えば私に近い感性だろうという気がしていた。
だから、日菜ちゃんを不快には思わないだろうとも。
私が無意識に引いてしまう「できないこと」のラインを、日菜ちゃんは簡単に飛び越えさせてしまう。逆上がりが難しくて、夕暮れの公園で悩んでいる私の、背中をそっと押してくれる。まだ一人で踏み切れない私を、高い所へ連れて行ってくれる。
それと同じ。
流れに逆らって泳げるようになりたいのだと言った花音さんを導いてくれる新たな潮目が、日菜ちゃんだ。
「頑張るよ」
「うんうん。じゃあ明日にでも予約しとくね」
土日で大丈夫? と予定を確認してから、日菜ちゃんは日曜日にマルをつけた。
「それから、燈ちゃんの歌詞はどんな感じ?」
「えっと、いちおう、書き直したんだけど……」
「それなら、練習終わってから読ませてもらおうかな」
たのしみ、と本当に心から楽しそうな笑顔。
「花音ちゃんも来たし、あたしも作曲頑張らなきゃね」
「日菜ちゃんって、どれくらいギターやってるの?」
花音さんが、不意にそんな疑問を投げかけた。そういえば、私も日菜ちゃんがどのくらい音楽をやっているのか知らない。始めたばかり、とは言っていたものの、作曲も即興も普通にこなしているから音楽経験はそれなりにあるんじゃないかと思っている。
「えーっと、3ヶ月くらいかな」
「……え?」
「一月にギターを買ったから、ちょうど3ヶ月だね」
「その前は何かやってたの? 他の楽器とか、作曲とか……」
「音楽を初めてやり始めたのがギターだったから、その前はなんにもやってないよ。作曲も晴嵐が初めてだし……まああれはギターメロディー作っただけみたいなものだけど」
花音さんの動きが止まる。
3ヶ月。日菜ちゃんみたいなすごい人にとっては、物事を修めるのにそのくらいの時間があれば十分なのかもしれない。私なら何年かかっても日菜ちゃんみたいにギターを弾きこなすことはできなさそうだから、結局日菜ちゃんの技術水準がどれほどなのかはよく分からなかった。
「さ、3ヶ月……」
「何考えてるのかはだいたい分かるけど、深く考えない方がいいよ。あたしはずっとこうだから」
「……うん、ごめんね?」
「いーよいーよ、それよりドラムのことだけど──」
日菜ちゃんが話題を逸らして、二人はドラムの話を始めた。なんとなくのニュアンスはわかるのだけど、専門用語が混ざり始めるとついていけない。仕方がないからノートを拾い上げて、日菜ちゃんに見せる予定の歌詞を見直すことにした。
日菜ちゃんにしては、話をバッサリと切り捨てたなという印象が尾を引く。私にはあっさりと開示してくれたし、何かを隠されているような感じもしないけれど、日菜ちゃんにも……例えば、コンプレックスのようなものがあるのだろうか。お姉さんのことについては以前少し話してくれた。だけどそれ以外に、私が常日頃感じている疎外感と似たような立ち位置にある負の感情を、日菜ちゃんが抱いていないとも限らない。それは単純に分かり合えない相手と話すことへの煩わしさかもしれないし、孤高に付帯する寂寥かもしれないけれど、「人間じゃない」日菜ちゃんだってきっと人間なのだと思う。
日菜ちゃんが自分の感情を隠してしまえば、私にはきっとその取っ掛りさえ掴むことができないだろうから、考えても詮無いことなのかもしれない。
けれど、目を背けてもいけない。私の手を握ってくれた日菜ちゃんに報いたいのなら、決して目を逸らしてはいけないはずだ。
手元のノートに目を落とす。こんなことを書くわけにはいかない……というのはさておいて、白紙に引かれた罫線に沿って連ねられた文字の羅列は、混沌としている。
文字をひたすらに列ねることは容易だ。私の心から溢れだしてくる衝動は、ときに腕の動きが追いつかないくらいに加速する。一方で、文字を削って整理することは難しい。本当に伝えたいことを伝えるには。もしくは、できるだけ少ない言葉で多くを伝えるにはどうすれば良いのかを考えなければいけない。
言葉を減らして、音を揃えて、整列させられた私の言葉は途端に熱を持つ。
刀と同じだ、と日菜ちゃんは言っていた。鉄を打って不純物を取り除き、形を整え、刃を研いで鋭い切れ味の刀を作り出すように、言葉を選んで形を整え、端々を削ってその鋭さを増す。
誰かの心に向ける切っ先を研いでいるのだ。
「おまたせ、燈ちゃん。もっかい晴嵐やろう。せっかく集まったんだし、ライブするなら早めに形にしときたい」
「うん。私もいろいろ試したいな」
花音さんが確かめるように同じフレーズを何度か叩いてから、ゆっくりと頷いた。
もう一度……今度はドラムにつられないように歌ってみようと心に決めて、マイクスタンドの前に立つ。右足に重心がかかって、親指の付け根に力が入る。
日菜ちゃんの鈴のような声が響いた。ワンツー、ワン・ツー!
──深く息を吸う。
♦
雨音に最も近い音を出せるのはピアノだ、という日菜ちゃんの持論を聴いてから、雨の日にはいつもそのことを思い出す。
3日後にライブを控えた今日、私が足を向けたのは羽沢珈琲店だ。背負った鞄の中にはチケットが2枚。絶賛私の頭を悩ませている。
ノルマとして私に渡されたチケットは5枚だった。お母さんが1枚買い取ってくれて、クラスのバンド好きの子達が2人、私から買ってくれたけれど、あと2枚が手元に残ったままだ。
日菜ちゃんは、売れなければ前日までに渡してくれれば何とかする、と言ってくれる。だけど、できる限り頼りたくはなかった。私と花音さんのノルマは5枚なのに日菜ちゃんは15枚を引き受けてくれているし、その上でその5枚さえ売れませんでした、とは言いたくない。
ほんのちっぽけなプライドだ。
「いらっしゃいませ! いつもありがとうございます!」
雨音に釣られて、ピアノが置いてある羽沢珈琲店のカウベルを鳴らした。いつもの店員さんが、2人がけのボックス席に案内してくれる。
クッション性の高い椅子に凭れて、カフェオレを注文した。
私よりも少し短いくらいの茶髪を綺麗に揃えた店員さんは、弾むような足取りで厨房の方へと戻っていく。店内はそこそこ盛況、という感じだった。席が埋まって待ち時間が発生するほどでは無いけれど、人は常に流れている。
「アイスカフェオレです」
「ありがとうございます」
「ごゆっくりどうぞー」
「……あの」
「はい?」
すぐにお盆に乗ったカフェオレがテーブルに置かれて、店員さんが微笑んでくれる。カフェオレを注文したときからピアノのことを尋ねようと思っていたから、業務に戻ろうとする背中に慌てて声を掛けた。
「あの、ピアノなんですけど」
「……ああ、なるほど。……去年くらいまではよく弾かれてたんですけどね。今年からはめっきり」
「……そう、ですか。……誰が弾いていたんですか?」
「うーん、ナイショです」
お盆を抱き締めて、店員さんが悪戯っぽく笑う。
「お客さまは、バンドをやってらっしゃるんですよね?」
盗み聞きするつもりはなかったんですけど、と眉尻が下がる。
「ピアノ担当を探していたりするんですか?」
「……えっと、そう、です。ぜんぜん、見つからなくて……あと、ベースも」
「じゃあ、ライブはまだだったり?」
「ライブは、やります。……明明後日」
「え、すごーい!」
頬が熱くなった。きっと紅くなっているに違いない。
冷ますためにカフェオレに口をつけた。
「観にいきたいんですけど──あ、ごめんなさい、また後で」
すみませーん、と後ろから声をかけられて、店員さんは慌ててそちらのテーブルへ歩いていってしまった。
何を言いかけたんだろうか、と首を傾げて、1つ息を吐く。こういう急な展開に巻き込まれると何も話せなくなる。直したいところだけれど、一朝一夕にとはいかないだろう。
鞄の中、クリアファイルに綴じられたチケットが折れ曲がっていないか確認して、ノートを取り出す。
歌詞を書き始めてからも、日々溢れる言葉をノートに書き込み続けてきた。作詞のときに感じていることを一挙に列ねるだけではなくて、これまでのノートからその時々に綴った言葉を持ってきて再編集する。自分が生み出した言葉を何度も噛み砕いて、反芻して、「高松燈のうた」の密度をあげていく。
店員さん──常連らしき人に「つぐみちゃん」と呼ばれていた──は、注文がいくつか重なったらしく慌ただしそうにし始めた。彼女が注文を捌いている最中に、知り合いらしきおさげの女性が入店してきた。
「つぐ〜!」
「ひまりちゃん! お好きな席へどうぞ! ……注文は少しだけ待ってね!」
「はーい」
ひまりちゃん、と呼ばれた女性はちょうど私の隣の席に座った。……少し気まずいような。
「ひまりちゃん、ご注文は?」
「えーっと、パンケーキセット、カフェラテで!」
「承知しました!」
すぐ隣で注文のやり取りが始まって、落ち着かない空気に急かされるようにまたカフェオレに口をつけたところで、今度は矛先が私に向かう。
「それで、さっきの話なんですけど……ライブのチケットって、売ってもらえたりしませんか?」
「え、えっと、お金……かかっちゃうんですけど」
「う、うん。……もちろんそれは払いますよ!」
話が噛み合っていない感じのまま二三言交わしたあと、カバンからチケットのファイルを取り出す。
「ひまりちゃん、一緒に行かない?」
「え、何の話?」
「お客さん、バンドやってるんだよ。……えーっと、氷川先輩のバンド」
「へー、興味あるかも。チケットってまだありますか?」
「最後の2枚、なので買ってくれると嬉しい、です」
氷川先輩、という言葉がリフレインする。聞き返そうかと思ったが、話の腰を折るのは憚られて、1度言葉を飲み込んだ。
「日曜日かぁ。夕方なら行けそうだし、私も買いまーす!」
「……! ありがとう、ございます」
チケット2枚を手渡して、4000円を受け取る。頭を下げると、楽しみにしてるねと笑いかけられた。
ひらひらと揺れるチケットが頼りなさげに光を反射する。
売り切れた安堵感と、初めての人と話す緊張感。ピアノのことはほとんど聞けず終いになってしまいそうだけれど、悩みの種がひとつ消えたのは歓迎すべき事象だ。
「名前、聞いてもいいかな。私は上原ひまりだよ」
「高松燈、です」
「羽沢つぐみです。ライブ、楽しみにしてますね。……じゃあひまりちゃん、少々お待ちください」
「はーい!」
店員さん──つぐみさんがまたもや厨房の方へと引っ込んでいく。春の陽気が窓の外から射し込んできて、これが学校の授業中だった眠くなっていただろうと確信できるほど心地よく背中を温める。
「燈ちゃんって呼んでもいい?」
「……はい」
「じゃあ燈ちゃんはなにか楽器やってるの?」
「私はボーカルなので……なにも」
「そっかぁ」
おしぼりで手のひらを拭う。ひまりさんは私と違って、人見知りという言葉を知らないみたいだった。たまたま席が隣になっただけの私に、もしかするとクラスメイトよりも気さくに話しかけてくれる。
「でも、もちろんバンドメンバーは楽器ができるわけだよね。楽器が弾ける人ってすごいなぁって思わない?」
「……思います。私はたぶん、できないから」
「だよね〜。私も
ピアノをやっている友達。それはもしかして、ここのピアノを弾いていた人なんだろうか。つぐみさんとひまりさんは仲が良いみたいだし、その人が共通の友人でもおかしくはないと思う。
「燈ちゃんは楽器やるつもりないの? ほら、ギター持って歌ってる人もいるじゃん」
「……考えたこと無かった。……でも、私は歌うので精一杯だから、難しい、と、思います」
私が、楽器。無理だろう、と思う。やる前から決めつけるなんて良くないとはわかっているけれど、これまでの経験から言って難しいのは自明だった。のめり込めたら、ある程度のところまでは上手くなれるのかもしれない。けれどもきっと、歌いながら並行作業で演奏するなんて芸当は私には不可能だ。
あちこちへフラフラするよりも、歌うと決めたのなら歌い通した方が良いはず。
「燈ちゃんのバンドってこれ? ランニングライト」
「そう、です」
「へー、ほんとに氷川先輩がギター弾いて歌ってるんだ。なんかフシギな感じ」
SNSの画面を開いて、ひまりさんが私たちのライブ映像を示した。少し遠目に、日菜ちゃんが映っている。
「……あの、日菜ちゃんのこと、知ってるんですか?」
「知り合いってわけじゃないけどね。私もつぐも、氷川先輩と同じ学校に通ってるってだけだよ。……ほら、あの人有名人だから」
「そうなんですか?」
「……あっ、悪い意味じゃないからね!? と言っても私も入学したてだし、あんまり知らないんだけど……でも、入学したてでも知ってるくらいには噂になってるよ。天才って言われてたり、テストでずっと学年一位だーって言われてたり」
学校での日菜ちゃんは、どんな顔で過ごしているんだろう。私みたいに緊張と気まずさで強ばった表情はしていないだろうな。
少しだけ、私と同じであって欲しいと思う自分がいる。私がランニングライトに心を預けてしまっているように、日菜ちゃんも生きるよすがをバンドに求めていて欲しい。
何も成していない私がそれを願うのは傲慢だとわかっているけれど、夢想せずにはいられない。
「燈ちゃんは、氷川先輩と仲が良い……んだよね?」
「私の、いちばん大事な友達……です」
「そっか〜。なんかライブ、すごい楽しみになってきたかも」
日菜ちゃんが動かしているアカウントの投稿を遡りながら、ぽつりぽつりとバンドの話をする。ドラムの花音さんが入ってくれたこととか、ピアノやベースを探していることとか。
ひまりさんにパンケーキとカフェラテを運んできたつぐみさんは、増えてきた客に対応するために店の中を忙しく動いている。
「……ん、ピアノ、探してるの?」
「はい」
「それ、つぐにも言った?」
「えっと、……はい」
「うーん、なるほど……。と、とにかく、ライブ楽しみにしてるね!」
ひまりさんの様相が少しおかしくなって、彼女はパンケーキの前で深く考え込んでしまった。
ピアノ。この店に置いてあるあのアップライトピアノが、私の言葉によってにわかに存在感を取り戻したみたいだ。
それからひまりさんとの会話もほとんどなく、お会計をして店を出た。結局、ピアノのことは何も分からなかった。チケットを2枚売るという成果を持ち帰れただけマシだろうか。
店を出てもまだ雨が降っていた。
音楽が好きになってから、雨の音が昔よりもずっとバラエティに富んで聴こえるようになった。アスファルトに落ちる雨粒の、ピシャリと弾ける音。水溜まりに跳ねる音。雨樋や屋根を叩く音。金属に当たる甲高い音。雨粒はそれぞれ大きさが違うし、それに加えて風が抑揚をつける。
バタバタと傘を叩く雨音が、ギャロップのように私の横をすり抜けていく。今日の雨は三拍子だった。新しい曲とおなじ。
♦
三回目になっても、ステージに立つのには全く慣れない。
「こんにちは、それと、初めまして。……ランニング・ライト、です。……今日から、花音さんが──ええと、ドラムが参加してくれることになりました」
私の右後ろにはドラムセットがあって、花音さんが座っている。私の左には日菜ちゃんが
初めましてのお客さんと、見覚えのある人が半分半分。つぐみさんとひまりさんの姿もあったし、クラスメイトの二人も来てくれていた。
「えっと、ボーカルの高松燈、です。それと、ギターの日菜ちゃん」
日菜ちゃんが観客に手を振る。何人かが拍手を返してくれて、少しだけ安心する。話すのは苦手だから、このMCが1番緊張する。
「今日は4曲、歌います。まずは【
セットリスト──どの曲をどの順番で歌うのかは、私が決めることになっている。日菜ちゃんや花音さんも意見をくれるけれど、最終的に選ぶのは私だ。
それで今日は、晴嵐を最初に持ってきた。晴嵐なら、最後まで歌い通せる。私と日菜ちゃんの始まりの歌だから、たとえ演奏が止まっても、野次を飛ばされたって歌い続けられるという自負がある。
幸い、今日は晴れていた。ライブは屋内だけれど、この歌を歌うのに最高のロケーションであるのには違いない。
花音さんがスティックを打ち鳴らす。1,2、1,2──
花が開くように、ドラムが世界を彩る。日菜ちゃんがステップを刻んで、その後ろを風が吹く。
蓮の花が咲くときには音が鳴る、という逸話があるのを思い出した。ぽん、と勢いよく弾けるように、軽やかに音が鳴るのだという。仏教に関わりの深い花だけあって、木魚のような音がするのだろうか。花音さんのドラムを聴いて、花が咲く音に思いを馳せる。
打楽器の音は、単にスティックで太鼓の表面を叩いた音というわけではない、と思う。しなやかに振り下ろされたスティックがスネアドラムのヘッドに当たって……そして、空洞の中で増幅されて私の耳に届く。ドラムの音は、空気の音でもあるのだ。だから、単に物を棒で叩いた時よりもずっと複雑なニュアンスが生まれるし、音に色がつくんだと思う。
力の入れ具合。スティックのしなり。叩いた場所。湿度。
乾燥した空気だと、パリッとした音になる。湿った空気だと、よく響く奥行きのある音になる。そんな感じで、ただ机を叩くよりもずっと深みのある音が、ライブハウスの空間を席巻する。
軽やかで、華やかで、けれども胸の奥に響いてくるような鼓動が、日菜ちゃんの爪弾くギターに追従する。
日菜ちゃんが嬉しそうに振り返った。花音さんと目を合わせて、試すようにギターの音が迫力を増す。私は慌てて、喉の調子を確かめた。
私の舌が、日菜ちゃんとの出会いを紡ぐ。晴嵐のAメロに入って、日菜ちゃんや花音さんに向かっていた視線が私へと集中する。
心は晴天直下の草原へ。
日菜ちゃんが「フライト」と呼称する私たちのライブだけれど、気象現象に関わりのある曲ばかり作っている。晴嵐を歌いきって、2曲目は本来ピアノの伴奏がついた歌謡曲を、日菜ちゃんのギターアレンジで歌う。3曲目は2回目のライブの時にリクエストがあった曲を。そして、4曲目は、できたばかりの新曲を。
「最後は、できたばかりの新曲、です。まえは、海月が苦手だったんですけど、花音さんと話してから、違う見方もできるようになりました。……えっと、曲は日菜ちゃんが書いてくれて……その、歌詞は私が書いてます。まだ拙い言葉だけど……聴いてください。【海月のワルツ】」
ワルツとは主に、三拍子の円舞曲を指すらしい。花音さんと出会って、水族館に行った雨の日のことを五線譜に列ねた。
無表情の海月が恐ろしかったこと。寄せては返す波に翻弄される海月という存在に、僅かながらも親しみを覚えるようになったこと。花音さんが自らの鰭で泳ぎ始めることを決めた瞬間のこと。暗い水色に染まった空と、滴り落ちる雨粒の音。
傘を差して行き交う人々が、くるりくるりと傘の柄を回す。建物の窓から見えるそれが、まるでドレスを翻すようで、雨粒のピアノに合わせて踊る舞踏会みたいだった。
色とりどりの傘を持った、クラゲたちの舞踏。波に合わせて揺れる。
波の音と雨の音はよく似ていると思う。降り注ぐ雨が地面を濡らして、土を泥に変える。ぬかるんだ水溜まりに種が落ちて、蓮の葉が小舟のように浮かぶ。小さな海に無数の小舟が浮かんで、やがて中心から伸びた茎の先に蕾ができた。
蓮の花の三拍子。泥濘の中から、純白の花が咲く。
水溜まりを避けて、蓮の葉につま先を預けていた私の頭上に、花の音が雨のように降り注いだ。
──すごい、すごい、すごい!
日菜ちゃんが次々と情景を切り替える間に、花音さんが熱を高めていく。
雨の冷たさを蒸発させてしまうほどに、私の心は昂っていた。
叫ぶ度に喉に引っかかる痛みさえ心地好い。
運命の波濤に抗ううたを歌う。
自分で道を選ぶうたを歌う。
アスファルトの隙間でも、足を取られそうな泥濘の中でも、自分が芽吹くと決めた場所で花は咲く。
雨を飲み干して、光を浴びて、白く弾ける。
左手を伸ばした。握った虚空に、尊いものを掴んだ気がして腕が震える。
長靴を履いた足で水溜まりを踏みしめる。跳ねる水の音を伴奏にステップを踏んだ。
熱が篭もる。雨雲さえ吹き飛ばしてしまいそう。
私は──
──つぐみさんと、目が合った。
「やー、ドラムがいると違うもんだね〜」
「……うん、凄かった」
「私もほっとしてるよ。大きなミスはしなかったし、みんな喜んでくれたみたいだし……」
「うん、大成功も大成功!」
ライブが終わっても鼓動は昂ったままだった。日菜ちゃんに言われるがままに深呼吸をしてみたけれど、収まる気配はない。三角形に向かい合って衝動的に肩を抱き合った余韻からは抜け出して、楽屋で着替えを済ませた後、ロビーに戻る。
イントロでミスをしたとか、日菜ちゃんがアドリブを入れたのに釣られたとか、私がスタンドを倒した時に音が入ってたとか、演奏中に一瞬スティックの左右が分からなくなったとか。次から次へと溢れてくる感想を一度さえぎって、花音さんが口を開いた。
「……改めて。燈ちゃん、私を誘ってくれてありがとう。日菜ちゃん、私を受け入れてくれてありがとう。あのままじゃ私、人前でドラムを叩くことなんて一生なかったと思う」
「…………どういたしまして。……私も、えっと、私からも、ありがとう。花音さんが入ってくれて、私の言葉がもっと遠くまで飛べたような気がした」
「あたしもどういたしまして〜! なんにもしてないけどね。見切り発車で始まったバンドだから、参加してくれてすっごく助かってる。……ありがとね」
私たちのバンドは最後の1つ前だったから、このタイミングで帰る人は少なかった。お客さんもほとんど通らない廊下をぬけて、最後のバンドの演奏を聴きにフロアへ戻る。
「そういえば、喫茶店の子いたよね。燈ちゃんがチケット売ったの?」
「……うん。お店のピアノのことを訊いた時に、流れで……」
「ふーん。ピアノはダメだったんだっけ」
「今は、誰も弾いてないって」
「じゃあさ、ピアノ弾ける子知らないか聞いてみるのはどうかなーって思うんだけど」
紹介してもらったとしても、その人と私たちが合わなかったらややこしい事になるんじゃ、と思うのもつかの間、日菜ちゃんが私の背中を押した。
「ほら、あそこにいるよ! 勢いつけてレッツゴー!」
ぽんと弾き出されたのは、ひまりさんとつぐみさんの目の前。日菜ちゃんがひらひらと手を振って、花音さんと話しに戻ってしまった。
何を言えばいいのか考えてもいないのに困る。言葉を探して口をもごもごと動かしてみるけれど、ライブの感想を聞くのが恐ろしくて躊躇した。
「燈ちゃん、すっごく良かったよ!」
「ありがとう、ございます」
「1曲目と4曲目は燈ちゃんと氷川先輩が作ってるんだよね?」
「そうです。日菜ちゃんが曲を作ってくれて……」
ひまりさんが助け舟を出してくれて、ほっと息を吐く。
何かを考え込んでいるようなつぐみさんと、ライブを楽しんでくれたのが目に見えてわかるひまりさんで対照的だった。つぐみさんには退屈だっただろうか。
「すっごく良かった! 私は4曲目の方が好きだったかも。歌詞が……ええと、自分で自分の道を決める歌だったでしょ? 友達に被るところがあって、ちょっとうるっと来ちゃった」
「その、お友達は……ピアノの人ですか?」
「ううん、華道やってる子。ピアノの子は……一応確認しておくけど、ピアノができるバンドメンバーを探してるんだよね?」
「……そうなんです」
「それなら、紹介したい子がいるんだけど、どうかな」
「ちょっと、ひまりちゃん!?」
「いいから。つぐだってそのつもりだったでしょ?」
「そうだけど……」
ひまりさんが悪戯っぽく笑った。つぐみさんは気が進まないような、躊躇するような表情をしていて、そこには後ろめたさが滲んでいるような気がした。
「火曜日、羽沢珈琲店に来れる? 私のドリンク無料券あげるから、そこで話をしようよ。私が知る限り最高のピアニストを連れてくるからさ」
「……お願いします」
「うん、きっと後悔はさせないと思うよ。燈ちゃん達のライブを観てから判断しようと思って黙ってたけど、私から見ても相性良さそうだし」
ひまりさんは大きく胸を張った。それから私の手を取って、「私の親友をよろしくね」と微笑む。
「……後悔しても知らないからね」
つぐみさんが諦めたように言った。
私が理解できない、言葉の裏側に含蓄される情報だけで会話が進んでいるような気がする。日菜ちゃんに背中を押された瞬間から、私の周囲には私には見えない言葉が飛び交っている。
また火曜日に、とひまりさんが言ったタイミングで、ステージからけたたましくギターが叫んだ。最後のバンドの演奏が始まるのを察知して、私に手招きしている日菜ちゃんの方へと戻る。ひらひらと手を振る二人にモヤモヤとした感情を抱えたまま、少し心配そうな表情の花音さんに声を掛けられる。サイレンのように甲高くギターが鳴く。
「紹介してもらえそう?」
「うん。明後日には会えるって」
「火曜日か〜。あたしは行けないなー」
「……あ、私もバイトだ……! 燈ちゃん、一人で大丈夫?」
「大丈夫」
「悩んだら保留にしたり、相談してくれていいからね」
花音さんを誘ったときだって一人だった。日菜ちゃんは私を信用して任せてくれているし、見知らぬ場所に行くとかそういうわけじゃないから、そう不安になる要素もない。もちろん初めての人と会ったり話すのは恐ろしいけれど、少し慣れ始めてもいた。
ライブをすると知らない人に話しかけられることも多いし、顔と名前が一致しない知り合い未満も沢山できた。
「ま、大丈夫だよ。きっといい子だから」
「日菜ちゃんは知ってるの? あのピアノを弾いてた人のこと」
「予想だけどね」
日菜ちゃんの手のひらが、私の心臓の位置に重なる。
「燈ちゃんの心のままに、正面から向き合えばそれでいいよ。上手くいかなくたって、それはそれでプラスなんだし」
♦
先週の曖昧な天気から一転して、月曜日からよく晴れた。昨日は風が少し強かったけれど、火曜日の今日は春の陽気のピークという感じだ。植え込みのツツジが開花の最盛期を迎えて、生垣を彩っている。
いつもよりも心做しか人通りの多い商店街を通って、羽沢珈琲店のカウベルを鳴らした。
「いらっしゃいませ〜!」
「……ひまりさん?」
「そうだよ〜、今日は私が臨時店員。燈ちゃんの席はあそこね。ピアノの横のカウンター」
出迎えてくれたのは、つぐみさんではなくひまりさんだった。カフェの制服がよく似合っている。接客にも慣れた様子だから、よくここでバイトをしているのかもしれない。
「飲み物はどうする?」
「えっと、アイスカフェオレで」
「承知しました〜。じゃあ、少しだけ待っててね」
つぐ〜、とつぐみさんを呼びに厨房の方へ行ってしまった背中を見送る。店内は、私と同じ学校帰りだろう学生が数名いるくらいで、穏やかな雰囲気を保っていた。
「燈ちゃん、いらっしゃいませ」
「……お邪魔、してます」
ひまりさんが消えていった通路の奥から出てきたつぐみさんは、いつもの制服にエプロンだけを外した姿だった。優しく微笑んだ彼女は、接客時とは少し違う落ち着いた雰囲気で、ピアノの前の椅子に腰掛ける。
「このピアノはね、おばあちゃんが私のために買ってくれたピアノなんだ。……つまり、このピアノをずっと弾いてたのは私」
つぐみさんがピアノの蓋を開いた。少しだけ黄色みがかった白黒の鍵盤が覗く。鍵盤の上をつぐみさんがハンカチで拭った。
「燈ちゃんの演奏も聴かせてもらったから、お返しというのも変だけど、私のピアノも聴いてもらいたくなっちゃった」
よく考えなくても、つぐみさんの実家のお店に置いてあるピアノなんだから、つぐみさんやその家族のためのピアノだということは自明だった。ずっと仲が良い友達がいると言っていたから、その内の誰かなのだろうとぼんやり考えていたのが少し恥ずかしくなる。……日菜ちゃんはわかっていたんだろうな。
「間が空いちゃったから、下手になってるだろうなぁ」
椅子を調節することもなく、鍵盤の上に指を揃えて、つぐみさんが目をつぶった。一つ息を吸う間に、店内の音楽が小さくなる。
なめらかに指が滑るのと同時に、店の中が音楽で溢れた。
小鳥のさえずりのように、弾みのある高音。流動的で、けれども粒立っている。指先を追っていた視線がついていけないほどに素早く鍵盤を渡って、繊細で緻密なメロディーをたちまちに紡いでみせる。
何より、つぐみさんの感情がダイレクトに伝わってくることに驚いていた。
喜び、葛藤、高揚。
草原を駆け回る少女のようなあどけなさと、夕暮れの紅を見送る長い影の情景が私の網膜に叩き付けられる。
演奏は一分程度に思えた。実際にはどれくらいか分からないけれど、情報量に圧倒されるうちに演奏が終わってしまっていた。
「燈ちゃんは、映画とか観る?」
「……たまに」
「じゃあ、想像してみて。映画を観ている時、そのシーンが悲しいシーンなのか、熱いシーンなのか、楽しいシーンなのか、観客に教えてくれるのってなんだと思う?」
「………………えっと、役者さんの雰囲気、とか」
「もちろん、それもあるよね。カメラワークとかストーリーの流れもそうだろうし、正解はひとつじゃない。けど、一番シンプルで効果が大きいのは、音楽なんだよ。映画の中で感情を決めているのは、役者の芝居でもセットの演出でもなくて、音楽なの」
つぐみさんの右手が鍵盤の上を跳ねて、小さくメロディーを紡ぐ。さっきの曲となんとなく雰囲気が似ていた。
「人間の情報収集は8割が視覚に頼っているんだって。それから、人と人とのコミュニケーションでも、半分以上は視覚情報を宛にして私たちは生きているみたい。……なのに、感情表現に効果的なのは音楽だなんて、本当にすごいことだと思わない? 映画には当然、言葉でのやり取りがあって、役者さんの表情や仕草の芝居があって、映像効果があって、ストーリーがあるのに。私たちが頼るのは音楽なんだよ。それって、音楽は感情表現にとてつもないポテンシャルを秘めているってことだよね」
左手が、和音を奏でた。楽しそうな雰囲気が一転して、暗く悲しげな曲調に変わる。そこから、また愉快なコード進行に切り替わって、明るい曲調に戻る。メロディーは変わっていないのに、コードひとつで曲の雰囲気がガラリと変化してしまっていた。
「だからピアノをやっていたときには、私は感情表現を大事にしてたし、演奏を聴くときも奏者の気持ちを読み取ろうとしてた。……それで、ちょっとびっくりしちゃったんだ。燈ちゃんの歌って、全然取り繕わないよね」
取り繕わない、と言われて首を傾げる。
「すごく必死で歌ってる。感情で歌うというより、死に物狂いで叫んでいる感じ。感情は氷川先輩と歌詞に全部任せて、言葉を伝えることに全神経を注いでいるみたいな感じがしたの」
確かに、私の歌はただ心から叫んでいるだけのものだ。多少は歌い方もわかってきたつもりではいるけれど、依然言葉を紡ぐのに必死で息切れしそうになっているのには変わりない。
「ちょっと、勿体ないと思っちゃった。燈ちゃんの言葉はあんなにも真っ直ぐなのに、って。ランニングライトは、もっと誰かの心を動かせるバンドなのに」
面と向かって、私が至らないと言われている。それが分かってなお、私の心が曇ったりはしなかった。
つぐみさんには、私が歌に込めたい思いが過不足なく伝わっているのだと確信できたからだろうか。
「手紙。……そう、手紙なんだよ。燈ちゃんは便箋にびっしりと言葉を列ねているけれど、それだけじゃダメなのはわかるでしょ? 字は大きく丁寧に。自分の名前を書いて、宛名を書いて、切手を貼らなきゃ相手には届かない」
不思議な感覚だった。日菜ちゃんがノートを拾ってくれたあの日とは違う。
私の言葉が、叫びが、つぐみさんに届いた。
「孤独の恐ろしさも、人と違うことの寂しさも、自分で道を決める勇気も、唯一無二の理解者と出会えた喜びも。……つぐみさんには、届いてる」
「紙飛行機にして投げたからだよ。私には刺さったけど、届かなかった人もいる。氷川先輩はわかっててそうしてるのかもしれないけど……うん、でも、勿体ないと思う」
世界中の全員に知って欲しいわけじゃない。ここに私がいることが、私みたいな人に伝わるといいと思っている。友達が欲しいとか、みんなと上手くやりたいとか、そういう思いもあるけれど、私は既に、音楽に心を奪われてしまっているみたいだった。
紙飛行機だって構わない。尖っていれば深くまで刺さる。夜間航空燈を付ければさらに目立つだろう。
困ったように、つぐみさんが頬をかいた。
「う〜ん、どうしよう。どう言い繕っても、火が消えてくれないや」
つぐみさんの左手が和音を奏でる。聞き覚えのあるコード。日菜ちゃんのギターが爪弾くのと同じ音色。
ボーカルをなぞって、ピアノの音色が店内の空気に溶ける。
「つぐみさんは、どうしてピアノを弾かなくなっちゃったんですか」
「……疲れちゃったからかな。どれだけ仲が良くても、どれだけ好きでも、ずっと一緒にはいられないんだって分かっちゃったから。……波って、言ってたよね。海月には逆らえない波。夕陽が西に沈むように、人生には決まった流れがあるんだって私も信じてる」
「……もう一回、弾きませんか」
「そうしたいよ。だから、この期に及んで迷ってるんだ」
つぐみさんが弾く晴嵐は、夕暮れの匂いがした。日が傾く時間の肌寒い空気。風が潤いを取り戻す匂い。
「人生にも、BGMがあればいいのにね。希望に満ち溢れた音楽が鳴り響いていれば迷いなく燈ちゃんに思いの丈をぶつけられる気がするし、マイナーコードの暗い曲が流れていればすっぱり諦められる気がする」
ひまりさんが運んできてくれたカフェオレに口を付ける。つぐみさんの視線を受け止めるだけの確固たる意見が私にはないから、思わず目を逸らしてしまった。
「……お手洗い行ってくるね」
ゆっくりと瞬きをして、それから指を軽く伸ばしたつぐみさんが、話は終わったとでも言うように席を立つ。
掛けるべき言葉が見つからないまま、私はその背中を見送った。
入れ替わりで、ひまりさんが私の背後に立った。
「……その、もしかして上手くいかなかった?」
「……そうみたいです」
「余計なこと、しちゃったかなぁ」
店内放送の音楽がいつの間にか音量を取り戻していた。エプロンを解いたひまりさんが私の隣に腰掛ける。逡巡した様子で、彼女はおもむろに口を開いた。
「つぐはね、とっても真面目な子なんだ。日頃から努力は欠かさないし、悩みとか辛いことがあっても抱え込んじゃうし……。今までは、仲良し友達のグループがあったからそこでなんとなくバランスを保っていたような気がするんだけど、少しだけ疎遠になっちゃってね。いつの間にかピアノも辞めちゃったし、このお店以外に近くの洋食屋さんで修行するとか言ってるし……余計なお世話だとわかってるんだけど、生き急ぎ過ぎてるように見えたの」
これ、ただの言い訳ね。とひまりさんが人差し指を唇の前で立てた。
「燈ちゃんの歌を聴いて、つぐ、泣いてたんだよ。……見えてた?」
「……知らなかった」
「だからって燈ちゃんに押し付けるつもりはないんだけど……うん、だから言い訳だ。それと、けじめかな。余計なことをしちゃったから、せめて燈ちゃんには話しておくべきかなって」
──私たちはもう、つないだ手を放してしまったから。
滲んだ後悔に、気の利いた言葉を見つけられないまま、戻ってくるつぐみさんの足音にひまりさんが席を立つ。帰ってきたつぐみさんはエプロンをつけていて、言外にこれ以上話す気がないことを示していた。
「そういうわけで、昔このピアノを弾いてたのは私でした! もったいぶっちゃってごめんね」
うまく言葉が出てこない自分を、今日ばかりは恨めしく思う。
私の歌で泣いてくれた。その言葉がリフレインする。一度聞いただけで晴嵐を弾いてみせたのにはどれほどの含蓄があったのか。ヒトの機微に疎い私が「突き立った」と読み取れるくらいの衝撃は、実際のところどれだけ大きかったのか。
「ライブ、ありがとう。すごく楽しかった」
私の言葉が届いた相手にさえ、結局私は何もできない。
それがどうしようもなく、痛かった。
『それで、なにも言えなかったんだ?』
「……うん」
『傷つけてしまわないように言葉をひっこめるのも優しさだと思うよ。そのうえでもし燈ちゃんがその子に何かしてあげたいと思うのなら──いっそ、遠慮せずにぶつかってみてもいいんじゃないかな』
夜、花音さんに電話をかけた。ヒントを求めるというよりも、逃避だったと思う。お風呂に入ったあと、ベッドの上でスマホの暗い画面を眺める。花音さんが話す声に呼応して、松原花音という文字列が緑色に明滅する。
『私は、燈ちゃんがぶつかってきてくれて嬉しかったよ』
「ぶつかる……」
『うん。燈ちゃんは、その子とバンドがしたいと思ったんだよね?』
つぐみさんとバンドがしたいのか。自分でもまだ思考が整理しきれていなかった。
つぐみさんのピアノを聴いた時、確かに私の言葉が感情の色をまとった気がした。最初の、情景に富んだ平均律クラヴィーアもそうだし、夕暮れの晴嵐もそうだ。私の言葉とつぐみさんの色。日菜ちゃんが私の言葉を曲にしてくれるのとも違う、私の声に彩度が増したような感覚。
何よりも、私は私のことをわかってくれる人と歌いたい。
けれども、つぐみさんに寄り添う言葉を私は知らない。生きづらいと思っていても、生き方を強制されたことは無い。孤独を感じていても、かけがえのない繋がりが遠ざかったことは無い。だから私が掛けられる言葉は空っぽだった。
「……うん。私は、つぐみさんとライブがしたい」
『なら、その感情のままに動いていいんだよ。燈ちゃんは、日菜ちゃんに言われたからバンドやってるの? それとも、燈ちゃんがやりたいからやってるの? ……私はね、もちろん燈ちゃんに誘ってもらったのがきっかけではあるけど、自分が燈ちゃん達とバンドをやりたいと思ったからここにいるよ』
「私は、私が日菜ちゃんとバンドをやりたいと思ったから、バンドやってる」
『でしょ? つぐみさんだって、きっとそうだよ。燈ちゃんがバンドに誘ったからと言って、つぐみさんがやりたくなかったら首を縦には振らないだろうし……燈ちゃんが遠慮する必要なんてないと思うな。……それとも、断られるのが怖かった?』
「……それもある、かも」
『あはは。私だったら絶対に、断られることに怯えちゃうなぁ。……でも、燈ちゃんは私に真っ直ぐぶつかってくれたでしょ?』
「あれは、勢いだったから」
『じゃあ、今回も勢いで行っちゃおうよ。燈ちゃんは「あの子がいい」って思ったんでしょ? ここで終わっちゃう方が、きっと後悔すると思うな』
……難しい。
何も考えずに、心の赴くままにぶつかるべきだという気持ちはある。けれど同じくらい、つぐみさんの心を踏みにじりたくないという想いがあって、私の右足は地面に縫い付けられたままだった。
それもこれも、分からないからだ。つぐみさんが何に悩んでいて、何を迷っていて、どうして苦しんでいるのか。
『ピアノ、捨てちゃうんですかって。そう訊いてみればいいんだよ』
言葉の間隙を時計の秒針が刻む。
『……日菜ちゃんに毒されちゃってるかな』
「うん。……ちょっと、花音さんらしくないかも」
『えへへ、そうだよね。……でも、本心だよ。言葉を尽くすのは苦手なんだよね? どれだけ仲が良くても、他人の悩み事に的確な言葉を投げてあげる事は難しいし、私達だって他の人に求めたりはしないでしょう? 燈ちゃんの凄いところは、剥き出しの心で、歌で、真っ直ぐにぶつかって行けるところなんだって、私は信じてる』
焦っていた体から力が抜けていくような感覚。
他ならぬ花音さんが言うことだから納得がいった。花音さんみたいな「普通」の人だって、人の悩みに言葉で寄り添うことが難しいと言うのなら、それが私に求められる役割じゃないと言うのなら──
嗚呼、違うか。
日菜ちゃんに掬いあげて貰って、自分の足でアスファルトの感触がわかるようになって、自分の輪郭を大きく捉えすぎてしまっているように感じる。
どうあっても私は等身大の高松燈で、目の前に広がる霧が晴れただけに過ぎないのに。
「私は──うん、もう一回だけ、つぐみさんと話してみる」
『それがいいと思う。……燈ちゃんは気にしがちだけど、人を巻き込むのって悪いことじゃないんだよ』
花びらのように柔らかな声が、私の鼓膜を通り抜ける。
二言三言交わしてから、おやすみなさいの交換をして通話を切った。充電器に繋いだままスピーカーモードにしていたスマホにイヤホンを挿して、平均律クラヴィーア曲集のアルバムをネットで探す。知らないピアニストの演奏を聴いて、記憶の中のつぐみさんの演奏と聴き比べる。
演奏の巧拙は分からない。半日前の、一度聞いただけの演奏と正確に聴き比べられるわけもないから、受ける印象がどう違うのか確かめたかっただけだ。私がつぐみさんのピアノに感じたドキドキが、
初めての場所に行くのに、前日になってから地図を確かめるような気持ちで、ピアノの旋律に耳を傾ける。
音楽は詳しくないし、演奏の巧拙も分からなければ、細かなニュアンスを感じ取る感性だって私にはないと思う。日菜ちゃんのギターと花音さんのドラムには特別な色を見出しているけれど、それは日菜ちゃんと花音さんという個人それぞれに私が特別な想いを懸けているからで、この感情の前に2人の演奏があったわけじゃない。
半月前の私が、目隠しをして花音さんの演奏を聴いたとして、今の自分と同じようにドラムの音を蓮の花に喩えたりするとは思えなかった。あくまでバイアスがかかっていて、日菜ちゃんや花音さんの人格というフィルターを通して二人の演奏を聴いている。
だからこそ不思議なのは、喫茶店での注文以外で言葉を交わしたことさえないつぐみさんの演奏に、どうしてあんなにも心揺さぶられたのだろうという一点だった。
きっと、音色に滲む感情に驚いてしまったからだ。私は感情を言葉で伝えるものだと思っていて、日菜ちゃんが紡いでくれる音色を、実のところは翻訳機というより拡声器のような感覚で捉えていた。
だというのに、つぐみさんのピアノはあんなにも感情を語る。それが不思議で、目新しくて、そして心に焼き付いていた。
それよりも幾分褪せて聞こえる演奏を再生するのをやめて、ベッドに寝転がった。豆電球のオレンジの灯りだけを残して部屋の灯りを消すと、再び私の呼吸音と秒針の音だけが時間の流れを示す。
迷う羊を数える間もなく、思考の狭間に私は落ちていった。
♦
翌日もよく晴れた。けれども空の端っこには分厚い雲が迫っていて、明日には雨が降りそうな雰囲気もある。夕焼けに照らされて、黒々とした羊が藍色の空を漂っていた。
放課後、直接羽沢珈琲店に行くのがなんとなく後ろめたくて、水族館で2時間ほど過ごした。相も変わらず無表情のクラゲたちの視線が、私の輪郭を正しく定め直してくれる。
苦手ではなくなったけれど、得意でもない。愛憎入り交じると言えば大袈裟な程度の感情が私とクラゲの間には紐づいていて、それらが複雑に絡み合って三つ編みの様相を呈している。
水族館を出ると、憂鬱な気分は多少マシになっていた。
つぐみさんに連絡を取る手段がないから、お店に行って会えなかったら諦めて帰るしかない。何度も通うのはなんだかストーカーみたいで嫌だなと思いながら、窓の外からちらりと店内を窺うと、店内にはちゃんとつぐみさんが立っていた。
ガラス戸を開けると、つぐみさんと、名前の知らないバイトの店員さんがいらっしゃいませと声を掛けてくれる。お好きな席へどうぞ、という言葉に従わずに、つぐみさんの丸い瞳と目を合わせた。
「あの、もう一度だけ、話しませんか」
「……それは、バンドの話?」
「はい」
「えーっと、10分くらい待ってもらえるかな」
突然で迷惑を掛けているのは承知の上だったけれど、嫌な顔もせずに受け入れてくれるつぐみさんに申し訳なくなる。
空いている席に腰掛けて、バイトだろう二人に何かを話してから店の奥に引っ込んでいく後ろ姿を見送る。
数分経って、予想通りにエプロンを外しただけの姿で戻ってきたつぐみさんは、そのまま私の手を取った。
「ここだと話しにくいから、外行こっか」
ピアノはないけど、と付け足して笑うのに頷いて、二人店の外へ出た。商店街の通りをぬけて、公園で遊んでいたらしい親子連れと何度かすれ違う。
空き地に木を植えてベンチを置いただけ、といった様相の小さな公園まで歩いて、つぐみさんがベンチに腰掛けた。倣って私も左隣に腰掛ける。
見上げた空はさっきよりも紫に近付いていて、空色が宇宙色に変わる境目だった。飛行機雲が横切って、グラデーションに枠を作る。
「あ、一番星……」
「ほんとだ、よく見つけたね。……私も見つけるの得意だったんだけどなぁ」
「星、好きなんです。いつも決まった順番で並んでるから……」
西に金星が光っていた。丁度木の影が夕陽を遮っていて、見やすい位置にあったからかろうじて見つけられたようなものだ。星が出るにはまだ空が明るすぎて、ぐるりと見渡してもこの明星が一番星で間違いなさそうだった。
首を傾げたつぐみさんが、仕切り直すように咳払いした。
「それで、バンドの話だっけ」
「それもなんですけど……どうして、ピアノ辞めちゃったんですか」
「昨日言わなかったっけ?」
「聞きました。疲れたからって……でも、あんなにピアノが好きそうなのに……」
「……うん、ピアノはまだ好きだよ。昨日だって思ったより忘れてなかったし、机を弾く癖だってまだ抜けてない」
公園の土の上には無軌道な足跡が残っている。帰り道を探して、蟻が複雑な道のりを右往左往していた。
疲れたから辞める。納得しやすくて、追及しがたい理由だ。私にとってそれは、十分に頑張った人の言葉だから。
「好きだから、辞めるの」
つぐみさんの視線が、沈んでいく夕陽を追いかけるように西へ渡った。
「ずっと一緒に育ってきた幼馴染がいるの。……ひまりちゃんと、私も入れて5人組でね、幼稚園から中学校までは何処に行くにも一緒だった。だけど、中3の頃に1人と4人でクラスが分かれちゃって……仲が悪くなったわけじゃないけど、部活も違うし、話せる機会も減るし、なんとなく1人だけ除け者にしているようになっちゃうこともあって気まずくなって……」
カラス達が夜から逃げるように神社の木立へと帰っていく。
クラスが分かれる。ただそれだけのことが、私たちにとっては友情に亀裂を入れる材料になり得る。私がふわふわとした交友を築いているクラスの人達だって、クラスが変わってしまえばほとんど話すことも無くなるだろう。友情が壊れるのではなくて、結んだ紐が解けてしまう。段々と話すこともなくなって、紐を結び直す機会が減って、そしていつの間にか解れている。
それは私にもわかった。身をもって実感したことはないけれど、学校の空気とはそういうものだ。
「バンドやろうよ! ──って、言おうと思ったんだ。部活はバラバラだったし、他にみんなでやれることはないかなって考えたときに、私に思いつくのはそれだけだった」
言おうと思った。つまり、つぐみさんは──
「結局、それどころじゃなくなっちゃったんだけどね」
「……だから、やめちゃうんですか」
「理由の一つでしかないけどね」
好きだからこそ辞める、という理由にはなっていない。そこに私には読み取れない含蓄が潜んでいるのかもしれないけれど、だとしても──
「燈ちゃんの歌、好きだよ。昨日言ったことは全部本心。だけど、同じくらい痛くて嫌いかも」
つぐみさんの言葉が鳩尾に突き立った。肺の空気がまるまるなくなってしまったような息苦しさを覚えて、息が詰まる。
「すれ違うことも、大切な人が
「……私が、人と違うことも。上手く話せないことも。この孤独も運命なら、私はきっと変われないままだ。……私は、ずっと、俯いたまま生きていくことになる」
「だから否定するの? ……氷川先輩とバンドをやってるのだって、運命かもしれないのに?」
「うん。……私は裸足で歩いていくことにしたんです。ガラスの靴がなくたって、いい」
こんなことを言うつもりじゃなかったんだけど、とつぐみさんは俯いてしまった。
「……ごめんね、これも八つ当たりだ」
「…………はい」
私のスニーカーが小石を弾き飛ばした。アスファルトの欠片が丸くなったような石は、砂地に少しばかりの存在感を発揮している。
「人生って、よく旅に喩えられるでしょ? 私の後ろには羽沢つぐみが歩んできた道がずっと続いていて、私の前には羽沢つぐみがこれから歩く道がずっと先まで見える。途中で左右に曲がることはできるけど、決して交わらない道だってある。途中まで道を同じくしていた人と十字路で別れることも」
「離れたくないのなら、手を繋いで歩くことだって──」
「そういうわけにはいかないよ。その一人に人生の全てを捧げる覚悟があるならともかく……二人きりで閉じた世界では生きられないんだから」
西明りが燦と目を突いた。
「……じゃあ。つぐみさんの道に、ピアノは鳴っていないんですか」
疲れてしまった理由は、なんとなくわかった。そして私にはどうにもならないということも。私はつぐみさんの幼馴染ではないし、彼女と道を同じくしたこともない赤の他人に過ぎない。
「鳴らしたくはない、かな。未来を力強く踏みしめるために、後悔は置いていきたい。近くを歩いていたら、きっと駆け寄りたくなっちゃうから」
過去を思い出すから、ということだろうか。ずっとピアノをやっていたというのなら、それに付帯する思い出だって多いはずだ。
「だから捨てちゃうんですか」
嫌なものを切り捨てたら私には何も残らない。
つぐみさんのそれは、……強い言い方をすれば、逃げだと思った。大事なはずの思い出を捨てて、未練を振り払おうとする。疲れてしまった、というのも事実なのだろうけれど、つぐみさんが顔を背けてしまったのもまた事実だった。
「……私は、決して忘れたりはしません。自分が普通からズレていると気が付いた日のこと。クラスメイトの囁きが耳に届いた日のこと。自分の正しくなさを指摘される痛み。正解が分からない苦しみ。小石のように積み上げてきた言葉と感情が、今の私を作っているから」
「……燈ちゃんは強いね。私は、何を弾けば良いのかもわからないや」
カラス達の残響が耳鳴りのように響く。ぼやけて伸びた影が、背高のっぽに揺れていた。商店街の時報のメロディが微かに聴こえてくる。風に翻る草の擦れる音が、茜に溶けた。
「前に進む方法を忘れちゃったの。『しょうがないね』って手を振ったあの日のことが、瞼を透かして目に浮かぶ。呪いみたいに疼く痛みが、ずっと指先に残ってる。過去に眩みそうで、目を逸らし続けてるんだよ」
草丈を撫で付けた夕風が、私の前髪を揺らした。つぐみさんが夕焼けの残滓を眩しそうに見つめて、ゆるゆると首を振る。
「歩きたい道なんて分からないよ。正しかろう道を選ぶので精一杯。不正解じゃないことさえわかっているなら、ひたむきに歩いた先にはいつか正しさが示されると信じてる。前を向きたいんだ。目を背けたいの」
つぐみさんが立ち上がる。軽く背筋を伸ばして、
「もう、いいかな。随分かっこ悪いこと言っちゃったけど、これで納得して欲しいな」
反射的に、つぐみさんの手を掴んでいた。
どうして私がつぐみさんのピアノに固執しているのか、自分でも上手く言葉にできそうにない。……けれど、この瞬間を逃してしまえば、私とつぐみさんの道は永遠に分かたれてしまうような気がした。
「……本当に、駄目ですか。ピアノを捨ててしまうこと、後悔しませんか」
「後悔はしてるよ。でも……うん、遅かれ早かれ、でしょ。それとも、燈ちゃんなら一生、私と手を繋いでくれるって言うの?」
「……つぐみさんが、そうしたいと思ってくれるなら。私はきっと、最期まで言葉を捨てたりはしないから……私の言葉をつぐみさんが許してくれる限りは、ずっと」
つぐみさんは驚いた顔をして、それから苦笑した。
見覚えのある自己嫌悪の色が滲んで、たちまち夕陽に溶けて消える。
ようやく心に追いついてきた言葉が私の胸中を埋めつくして、息が詰まりそうになった。
「大人になるのって、そんなに寂しいことなんですか」
「……さぁ。私が勝手に身構えすぎてるのかも。枝を落とせば真っ直ぐに伸びると思いたいんだけどね。もしくは、子供の殻を脱ぎ捨てる必要があるのかも」
つぐみさんが将来の話をするとき、誰かを思い浮かべていることに気がついた。誘えなかった幼馴染の一人だろうか。私はその人のことを知らないから何も言えないけれど、それほどまでに変わってしまったのだろうか。
蛹から翼の生えた蝶が現れるように、巣立ち前の雛の羽が生え変わるように、古い自分を捨ててしまわなければ大人にはなれないんだろうか。
「……私は、正しくなる方法を知りません。大人になる方法なんて見当もつきません。つぐみさんの悩みにも、迷いにも、苦しみにも答えを返せません。……だから、一つだけ。昨日のつぐみさんの言葉にだけ、答えを返させてください」
「うん」
「私は、迷ってばかりです。今日、つぐみさんに掛けるべき言葉の正解さえも知らないまま、迷路みたいな人生を歩いています。……だけど、ステージの上でだけは、私が決めた私だけの正解を歌っています」
深く息を吸う。言うべきことはまとまってきたはずなのに、それを正しい順番で言葉に起こすのに苦労していた。
つぐみさんの反応を見るのが怖くて、視線を落とす。掴んだままの右腕が、華奢な体温を主張していた。
「私の人生のBGMは、私が紡いだ言葉と日菜ちゃんが書き上げた曲です。私の感情を決める曲は、私が作ります。……だから、つぐみさんもそうすればいいと思うんです。BGMはつぐみさんが選べばいい。つぐみさんが良いと思った曲を、つぐみさん自身が奏でてしまえばそれで──」
くすりとつぐみさんが笑ったのが聞こえて、顔を上げる。
「こんなに言い募られたのは初めてかも。……燈ちゃんがいったい私の何処を認めてくれているのかは分からないけど……そこまで言うなら、私の人生に飾るべき曲を燈ちゃんが作ってよ」
即座に頷くべきだと思ったのに、束の間躊躇した。無責任な言葉を吐くのを恐れて、一度唾を飲み込む。
夕陽が沈んで、夜がやってきた。微かな残光が消えゆく西の空を名残惜しげに見つめて、つぐみさんが振り返った。
「それを、つぐみさんが弾いてくれるんですか」
「……うん」
「私たちと、翔んでくれますか」
「生え変わる前の、未熟な翼で良いのなら」
つぐみさんの腕を掴んでいた手を離す。中空でさまよった私の手を、今度はつぐみさんが掴んだ。
「本当に迷子の子どもみたいな顔をするんだもん。見てられないよ」
それに、と諦めたような表情。
「簡単に揺らぐ決意は、ただの逃避だったと思うから」
帰ろうか、と促されて公園を後にする。駅まで送ると言い張られて、商店街を店と反対側に向かって通り抜ける。段々と人通りが減って、道幅が狭くなっていく。
「その、幼馴染ってどんな人なんですか」
「頑固で真面目……なのかな。不器用で、真っ直ぐで……私が1番尊敬してる友達。……私は、蘭ちゃんみたいになりたかったんだろうね」
忘れて、という呟きが夜に溶けた。