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ともえとイエイヌはブタに連れられて、ホテルの中を下へ下へと降りていった。ホテルの中は防水シャッターが至る所で降りていて、迷路のような様相を呈していた。ブタの言うことでは、シャッターで海水の侵入を抑えているが、サンドスターのおかげか結構大丈夫だということだった。通路は暗く傾いてはいたが、清掃はきちんと行き届いていた。ブタにとっては慣れた道のりのようで、当たり前のようにスタスタと歩いていく。
一番下の階まで辿り着くと、大きな部屋に出た。その部屋は間接照明でぼんやりと薄暗く、天井まである窓が一面に張られていて、窓の外には藍色の深い海がどこまでも広がっていた。見上げると、はるか上の方にある海面はまるで海に蓋をするかのように白くゆらめいている。その光の中を魚たちが鳥のように横切っていく。海底の白い砂の上にはウミユリが群生していて、ゆらゆらとそよぎながら藍色の光を鈍く反射していた。窓の前にはフレンズたちが横一列に並んで、『うみのごきげん』が現れるのを今か今かと待ち構えていた。ともえはカラカルの隣に並んでそのときを待った。
――来ましたよ。
ブタがささやいた。
視界のどこから来るのか、ともえは目を皿のようにして待ち構えた。不意に、何の前触れもなく、世界は暗く沈んだ。ホテルから発せられた暗闇が海底を覆っていくようだった。暗闇に飲み込まれたウミユリはすみれ色に鋭く輝いた。やがて『うみのごきげん』は、ともえの頭上から現れた。なんの音もなかった。黒く輝く巨大なそれは流れる黒雲のようにゆっくりと空を覆い尽くした。エイともクジラともつかない姿をしたそれは翼を広げて悠然と空を泳ぐ。エラのような部分から生やした長い触手は尾のように垂れてホテルをひと撫でした。
『うみのごきげん』の尾鰭の周りには、そこから発生するプランクトンを狙う魚が群れになって追従していた。そして、その魚を狙う大型の肉食魚やウミガメたちもまた群れをなして襲う隙を窺っていた。シャチやイルカは『うみのごきげん』のヒレや触手に身を擦り付けて遊んでいた。魚たちの群れは『うみのごきげん』の尾となってどこまでも長く続いていく。ウミユリたちは黒い修道女のように頭を垂れて祈り続けていた。
やがて『うみのごきげん』一行が遠ざかると、マリンスノーが無数の光の粒子となってゆっくりと降り注いだ。
◇
その夜、ともえとカラカルは同じ夢を見た。
二人は土埃舞う荒野にそびえる一本の木の枝に並んで腰掛けていた。視界のはるか先はどこまでも砂岩に囲まれていて、空との境目にでこぼことした不規則な稜線を描いていた。
キャッキャと騒ぐ声に目をやると、ある一ヶ所にフレンズたちが集まっている。ひとりのフレンズが地面にスタートラインを引き終わり、今まさにリレーが始まるところだった。羽根の刺さった水色の帽子と青いベストを着たそのフレンズは肩からカバンを提げていて、「よーい、ドン!」と、手に持った木の棒を振り上げた。それと同時に駆け出したフレンズはロードランナーとカラカルで、二人の勢いあるスタートダッシュはそのフレンズの帽子の下にわずかに見えている緑色の髪を揺らした。
「これがあんたの記憶ってわけね」
カラカルは隣に腰掛けているともえに言った。
「そして、あそこにいる子があんたの正体?」
「うん、そうだけど……」
そう言ってカラカルは木の棒を手に持っているフレンズを指差した。ともえは服装から髪の色まで、そのフレンズとよく似ていた。
「あんたにそっくりね」
「うん……」
「でも、あんたはあの子じゃない。そうでしょ?」
ともえは伏し目がちにそのフレンズを見た。ともえの記憶の中にはフレンズたちとリレーをした思い出が確かに存在していた。なのに、そこに立つフレンズはともえとよく似てはいるが、ともえではなかった。
「わたしの相棒はサーバルよ。それは絶対変わらない。だけど……。
なつかしいな。あの子の名前はキュルル。お腹を空かせているのに言い出せなくて、お腹が鳴るまで我慢しちゃうような子よ」
カラカルは目を細めてキュルルを見た。
「えー、わたしだったら催促しちゃうな」
「普通そうよね。まあ一緒に旅するうちに少しずつ変わっていったんだけど」
「どんな風に?」
「生意気に」
ともえは一呼吸おいてから、たまらず噴き出して笑った。それを見てカラカルも笑った。
向こう側のオアシスにも木が一本立っていて、水の中のワニと木の上のヒョウが喧嘩しているのが見えた。ワニが木を一息に駆け上がると、驚いたヒョウは水の中に飛び込んだ。ワニが木の上から何事かをヒョウに叫ぶ間に、ヒョウは水の中を泳いで逃げてしまった。
「わたしたちはきっと大切なものを受け継いでいるのよ。だから大事にしなくちゃいけない。けれどね、だからってあんたがキュルルになる必要なんてない。だってあんたはあんたなんだから」
カラカルはスケッチブックをともえに差し出した。ともえは両手でそれを受け取った。
「あんたはここまでどうやって来たのか、ちゃんと思い出しなさい」
ともえはカラカルの目を見て、力強く頷いた。スケッチブックを開いて一枚ずつちゃんと味わいながらめくっていく。
「わたしって絵が上手かったんだね」
「キュルルがね」
ともえが思い上がったようなことを言い出したので、カラカルがすかさず訂正した。
「そうだ、カラカルの絵を描いてあげようか」
「あらいいじゃない! 一枚頼むわ」
ともえはサラサラと慣れた手つきで描き込んでいく。
出来上がった絵を見てカラカルは、
「下手ねぇ……」
と、小さく呟いた。