「うーん。うーん? うーん……」
ともえとイエイヌは重苦しい曇天の下、相変わらず水晶の塔目指して歩いていた。水晶の塔までジャパリラインのレールをガイドにして歩いているが、代わり映えのしない景色と暗い空が続いていた。川は濁って水かさを増していて、もうじき雨が降ってくることを予感させた。
「思い出せないなあ。ここまで出かかってるのに……」
ともえは自分のノドをちょんちょんと指差してぼやいた。そして、ともえの数歩前を歩くイエイヌは先ほどからのともえの唸りとぼやきを綺麗に無視していた。
「うーん、思い出せないなあ……。もうちょっとなんだけどなあ」
ともえはイエイヌに聞こえるようにうーんと唸った。
「ああもうウルサイですね。さっきから何なんですか!?」
「実はね、さっきから思い出せなくて!」
「別にきいてないですよ! 静かにしろって意味で言ったんです!」
よくぞ聞いてくれましたと顔を輝かせたともえに向かってイエイヌは冷や水を浴びせるように言った。
「いいじゃん聞いてよー」
「嫌ですよ、どうせくだらない」
イエイヌはマントを口元まで上げて、もう喋らないぞと無言で主張した。
「実はね思い出せなくて」
「それさっきも聞きましたよ」
イエイヌはつい突っ込んでしまい、やってしまったと悔やんだ。それを見て、ともえはニヤリと笑った。
「で、何を思い出せないんですか」
「うんとね、何かを言おうと思ってたんだけど、それを思い出せなくなっちゃったのよね」
「はい?」
「だから、何を忘れたのか思い出せないの」
何かを忘れてるはずなんだけど、と繰り返すともえにイエイヌは呆れ果てたような視線を向けた。
「聞かなければ良かったです」
「ええー。喋ってるうちに思い出すかもしれないじゃーん」
「あなた、退屈なんですか?」
「それもあるけど。大事なことだった気がするんだよ」
「忘れてるのに?」
「うん」
「忘れなければ思い出せないし、思い出そうとしていればいつか探し物は見つかるんじゃないんですかね」
知りませんけど、とイエイヌは付け足した。
しばらく歩いていると、ガイドにしているジャパリラインが崩落している箇所が見えてきた。
「あれがアヅアエンで降りた理由です」
イエイヌがその箇所を指差して言った。
「じゃあここまで乗ってくれば良かったんじゃ」
「その後どうやって降りるつもりなんですか」
ジャパリラインは高さ10メートル弱の線路上を走行する列車だ。空でも飛べなければ駅以外で下車するのは無謀だろう。
その線路の上をちょこちょこと歩いている獣がいた。フレンズではなく獣だ。その獣は線路の途切れた場所に着くとなんとか向こう側に渡れないものかと逡巡し、それが無理だとわかるとなんとか降りることができないかキョロキョロと足場を探し、それも無理だとわかると元来た道を引き返しはじめた。
「アヅアエンで降りなかったら、ああなるのがオチですよ」
「あれ、でも……」
ともえは不思議そうな顔で続けた。「それならアヅアエンを出発したジャパリラインはどこに行ったの?」
「だから、ああなるんですよ」
イエイヌは線路をとぼとぼと引き返していく獣を顎でしゃくった。
「なるほど……。あれ?」
降りることもできずに今来た長い道を引き返すのかと哀れんだともえの目に、はるか後方から音も立てずに接近するジャパリラインが映った。
「あれ、まずいんじゃない?」
「ですね」
列車はまったく無感情に線路の上を滑っていく。それに気付いた獣は引き返してきた道をさらに引き返して走って逃げる。獣は必死に走るが列車の速度には敵わない。獣は轢かれる直前に振り返って列車を見た。接触の瞬間、ともえは思わず肩をすくめて目を閉じた。音はほとんどなかった。撥ねられた獣は線路から弾き出されて地面に落下した。
「うへえ」
ともえは獣のそばに駆け寄って開口一番そう漏らした。
「これは助かりませんね」
イエイヌは獣の状態を一瞥してそう言った。
「これは何だろう、アライグマ? レッサーパンダ?」
「タヌキですね」
タヌキは首があらぬ方向に折れていて、肛門から内臓が飛び出してしまっていた。息も絶え絶えに、苦痛の中で死を待っていた。
「助けてあげなくちゃ」
「できることなんてないですよ」
ともえは何かないかと知恵を振り絞るが何も浮かんでは来なかった。困り果ててポケットの中をまさぐると、寝床から持ってきて突っ込んだままのサンドスターが指先に触れた。
「ねえ、これならどうかな?」
「うーん……可能性はないとはいえませんけれど、無理だと思いますよ」
「やってみなくちゃわからないよ!」
そう言ってともえはサンドスターを横たわったタヌキから1メートルほど離れたところに置こうとしていた。
「何をしてるんです?」
「タヌキの生命力を信じて自然治癒に掛けてみる!」
ともえは顔を背けてなるべく直視しないようにしながら、自分が近寄れる限界まで手を伸ばそうとしている。
「遠すぎますよ!」
「だって怖いんだもん!」
いくらサンドスターでもその遠さじゃ効果ありませんから、とイエイヌはブツブツ言いながら、ともえからサンドスターを引ったくった。そしてともえの代わりにタヌキの傍らに置いて、振り返ることなく前へ歩き出した。
「タヌキさん、がんばってね……」
ともえは薄目で遠間からタヌキに声をかけ、少し大回りに避けてイエイヌの後を追った。
止んでいた雨が再び降り始め、本降りになりそうな予感からふたりは雨宿りをするために近くの鐘楼へと向かうことにした。
鐘楼といってもしっかりとした作りのものではなく、二階建て程度の高さに築かれた木造の櫓で、二階部分にはほぼ剥き出しの鐘がいくつか並ぶカリヨンになっている。カリヨンといっても自動式ではなく、一階部分にある車輪サイズのハンドルを回すと鐘が鳴るようにできている。パーク内に設置されたささやかなアトラクションといった趣きの施設だ。
「う、うん、そうなんだ……」
イエイヌから鐘楼について説明を受けたともえだったが、上の空で返事をした。鐘楼の二階部分から目が離せなかったからだ。そこには全身黒ずくめで、羽のようなマントで身体をすっぽりと覆っているフレンズが手すりに腰掛けて足をぶらぶらさせていた。ぼんやりと薄暗い闇のなかで、光を飲み込んだようにそこだけぽっかりと黒い穴が開いているようだった。その顔にはモザイクのような靄が掛かっていて、極端に滲ませたような表情が絶えず揺らぎ続けている。まるで花が次々と咲き続けていくような靄の向こう側で、ともえはそのフレンズにずっと見られているように感じていた。
それからしばらくあと、二人は櫓の二階にいて、鐘の下で強まりはじめた雨を凌いでいた。埒が明かないから出発しようとイエイヌが持ちかけたが、雨の中を歩くのは無理だと言ってともえは断った。そうして雨宿りを決めたところ、黒ずくめのちょっと怖いフレンズが二階から音もなく地面に降り立って、なにやら踊り始めたので、ともえは逃げるようにして二階へ移動した。その後をイエイヌもなんとなく着いて行った。
雨粒が鐘を叩いてコンコンと厳かな音を響かせている。ランダムな雨音はやがて一定のリズムを刻み出し、雨粒の当たりどころによって変化する音程は音楽になった。ひらりひらりと舞い踊る黒いフレンズの動きは雨音のリズムに合っていることに、ともえは気が付いた。強拍で強く踏み込んで弱拍では滑らかに、音の空白ではぴたりと静止して弱拍から強拍で思い切りジャンプ。ともえはなんだか楽しくなってきていて、フレンズの踊りに魅入られてしまっていた。見ているうちに、そのフレンズの隣にはもうひとり誰かがいるように思えてきた。弱拍で手を伸ばすフレンズの指先は何にも触れられず、ただ雨音がすり抜けていくのがともえにはなんだか悲しく思えた。だからともえはフレンズの動きに合わせて鐘をコツンと鳴らした。するとフレンズの動きは変化し、隣にいた見えないもうひとりを受け止めて巻き込み、手を繋いでくるくると回転し、抱き合い慈しみ合う二人の姿が現れた。少なくともともえの目にははっきりとそう映った。
「思い出した!」
胸の前で手を叩き合わせ、イエイヌに聞こえるよう声に出して言った。
「……」
イエイヌは顔を他所に向けたまま耳すら動かさずにともえを無視した。
「あのー、ともえちゃんが思い出したって言ってますよー?」
「聞こえてますよ」
「じゃあ返事くらいしてよ」
イエイヌはそう言われて耳だけともえの方に傾けた。イエイヌのこの反応にともえは顔をしかめたが、不満で鳴った喉の音も鼻息もたぶん聞こえているんだろうなと考えを改めた。
「あのさ、ともえさんってどんな人だったの」
「急になんですか」
「だってほかにもいたんでしょ?」
「ええまあ」
「教えてよ」
「いろんな人がいましたよ」
「答えになってない。はぐらかさないでちゃんと答えて。じゃあ私のひとつ前の人は?」
「……あなたと同じようにパークの外へお送りしましたよ」
「その後は?」
「さあ。ヒトの縄張りで暮らしてるんじゃないですか」
「さみしかった?」
「はい?」
「いや、なんていうか、私だったらさみしくなるだろうなって」
「……するべき事をしただけですから」
「そのコは私に似てた?」
「なんてこと聞くんですか」
「だってぇ、聞きたいじゃん」
「なんでそんなこと聞きたいんですか」
「同じともえって名前なのに色んなひとがいるなんて面白いじゃない」
「あなたが最初のともえさんなら良かったんですけどね」
「何それ、どういう意味よ」
「あなたはともえさんじゃないんです」
「いや、ともえでしょ」
「違います」
「自分で名付けておいてそれはないわ」
「……」
「ねえ、最初のともえさんと私、どっちのほうがかわいかった?」
「チッ」
「あっ! 舌打ちした!」
「人の心に土足で踏み込むからですよ」
「土足じゃないよ、靴は揃えて脱いでるつもり!」
「めげない人ですね! 入ってくんなって言ってるんです!」
はい、この話はここで終わり、そう言ってイエイヌは話を打ち切った。
ひとりで踊っていた黒いフレンズはふたりの騒ぎ声に惹かれて二階まで飛び上がって、ともえの隣に着地した。あっという間のことで、ともえは身構える余裕もなかった。
『☆♪→¥$€%°#』
(私はカタカケフウチョウ。見ろ、この羽根の黒さを)
黒いフレンズは肩にかけたマントを目一杯拡げて、いかにも誇らしげにともえに語りかけた。
「え? え? え?」
『#%°€¥$☆♪→』
(夜の闇よりも暗い、本物の黒だぞ)
「あ、はい。こんにちは。今日は雨が冷たいですね」
ともえはえへへと愛想笑いを浮かべながら相槌を打った。
「どうしたんですか?」
イエイヌはともえの反応を怪訝に思って尋ねた。
「この人が何言ってるのか全然わからなくて……」
「ああ。挨拶みたいなものですよ」
「言葉がわかるの!?」
「わからないんですか?」
ふたりは互いに驚きあった。変なこともあるのですねと、イエイヌは自分をふんわりと納得させた。カタカケフウチョウと名乗った黒いフレンズはそんなふたりのやり取りを首を傾げて見ている。もちろんともえにはカタカケフウチョウの表情は見えていないのだが。
「なんて言ってるの?」
「私の羽根は黒いんだぞ、すごいだろう、と言っています」
「どういうこと?」
「聞いたとおり、自己紹介ですよ」
「それはわかるけど」
「おそらく、ともえさんをあやそうとしたんじゃないんですかね」
「私をあやす? なんでそんなことを」
「ともえさんもさっきレッサーパンダに私のことを紹介したじゃないですか」
「あれは泣いちゃってたから……」
「じゃあ泣いてるように見えたんでしょう」
「わたしは泣いてないよ」
「私に言わないでくださいよ」
ともえはカタカケフウチョウに向かって、
「わたし、別に泣いてませんから!」
と言った。だがカタカケフウチョウは首を傾げただけだった。ともえは通訳しなさいと言外に込めるようにキッとした目でイエイヌを睨んだ。イエイヌはため息をつきながら、『泣いていないから自己紹介はいらないと彼女は言っている』と告げた。カタカケフウチョウはその言葉にフッと笑った。それを受けてイエイヌもフッと笑い返した。カタカケフウチョウに笑われたことで、イエイヌは自分が少しいじわるな気持ちになっていたことに気が付いた。
「ともえさん、先程はすみませんでした。少々物言いがきつかったですね」
イエイヌは素直な気持ちでともえに謝罪した。けれど、イエイヌの言葉を受けたともえはカタカケフウチョウに顔を向けて、
「謝らないでください。言い方の問題じゃないんです。わたし、本当に泣いてないんですから」
と言った。
カタカケフウチョウは顔の靄の向こうでクエスチョンマークを浮かべながらともえとイエイヌに交互に目をやった。早く通訳してと、ともえはイエイヌを急かした。
『謝る必要はない、言い方の問題ではないと彼女は言っています』
イエイヌはスンとした表情でカタカケフウチョウに伝えた。
『彼女はなぜ怒っているんだ?』
『彼女は凶暴だから誰にでもすぐ牙を剥くんですよ。でも悪気はないんです。そういうフレンズなんです。だから許してあげてください』
イエイヌは再びいじわるな気持ちになり、仕返しの意味を込めてカタカケフウチョウに吹き込んだ。
『大丈夫、私は気にしないよ。なにせこんなに踊るのに向いている日なんだ。怒るなんてとんでもない』
カタカケフウチョウはそう言って手を高く掲げて、手のひらを空へと向けた。
「なんて言ってるの?」
ともえはイエイヌに尋ねた。
「今日はいい天気だね、と言ってますよ」
イエイヌはともえにそう伝えた。大ぶりの雨粒が手すりに当たって弾ける。ともえの顔に飛沫がかかる。空一面に重苦しい雨雲。
「本当にそう言ってる? 嘘ついてない?」
「じゃあ自分で話せばいいじゃないですか」
ともえは「確かに」と納得して、カタカケフウチョウに向き直った。
「こんにちは」
『雨が降っているが、踊るのに向いていない日などないのだ。特にこの鐘楼のそばではね』
「わかった! おなかすいてるのね、はい!」
ともえはポケットから食べかけのジャパリーメイトを取り出して、カタカケフウチョウに差し出した。
『なぜ急に食事を』
カタカケフウチョウは受け取ったジャパリーメイトをサクサクとかじりながらイエイヌに問いかけた。イエイヌは肩をすくめて返事した。
「これおいしいよね。わたしも好き。わたしの名前はともえ。あなたの名前は?」
『と、も、え』
カタカケフウチョウはともえの言葉を復唱した。胸に手を当ててともえ、そして手のひらをこちらに差し出した。つまりこれは自己紹介で、自分の名前はともえと言っているのだろうとカタカケフウチョウは推察した。
『さっきも言ったろう。私はカタカケフウチョウだ。見ろ、この羽根の黒さを。夜の闇よりも暗い、本物の黒だぞ』
カタカケフウチョウはマントを翻し、手のひらを天に掲げて高らかに名乗りを上げた。ともえは真剣な面持ちで口を結んだまま身じろぎせずカタカケフウチョウを見つめた。明らかに何もわかっていない表情を浮かべている。額に浮かぶ数粒の汗。
カタカケフウチョウがイエイヌをチラ見すると、少し離れたところでやり取りを見つめていた。口元がスカーフで隠れているが、その下に薄笑いが浮かんでいるのは明白だ。
『カタカケフウチョウ』
カタカケフウチョウは他人事のような顔をしているイエイヌを指差して、早く通訳しろといわんばかりに指先をクイっと動かした。
それから雨脚はさらに強まり、遠くで川のゴオゴオと鳴る音があたりに響いていた。
けれど、ともえは雨や風のことなど忘れてしまったかのように、身振り手振りでカタカケフウチョウと会話をしていた。
「わたし、カタカケさんに言いたかったことがあるんです」
『☆♪→°%#€$¥』
「はい。さっきの踊り、すごく素敵でした。まるで誰かと踊っているような」
カタカケの問いかけにともえは身振りを交えて返事をした。
『$€¥→♪☆%°#』
「変ですよね。カタカケさんは1人で踊っているのに、2人で踊っているように見えたんです」
「ともえさん、言っていることがわかるんですか?」
イエイヌは当たり前のように受け答えするともえの服の裾を引っ張って聞いた。
「え、うん、なんとなく」
『→♪¥$#$☆#』
そう言ってカタカケフウチョウはともえに手を伸ばした。はいと、ともえは返事して、その手を迷わず取った。
「ともえさん、今のもわかるんですか」
「うん。えっと、たぶん一緒に踊ろうって」
カタカケフウチョウは手を繋いだままともえの身体を軽々と抱え上げた。
『→♪☆¥$€%』
ともえはカタカケフウチョウの言葉に頷いて、その首に手を回した。そして二人はふわりと空を舞い、音もなく地面に着地した。
カタカケフウチョウがともえの前に跪いて手をかざし、ともえがその手に自分の手を重ねる。そしてカタカケフウチョウはともえの腰に、ともえはカタカケフウチョウの首に手を回して、ゆらり、くるりと静かにステップを踏む。たどたどしいともえの足捌きも段々とカタカケフウチョウの動きに慣れはじめ、二人は呼吸を合わせ出す。雨粒が鐘を打つ音、地面に落ちて弾ける音、雨どいから流れ落ちる音。すべての音がリズムになり音楽を奏で、ともえとカタカケフウチョウはすべてと一体になって舞い踊る。雨脚はいよいよ強まり、音楽は激しい感情を奏で出す。水を含んだ服の重さも濡れそぼる髪にも構わず二人は踊り続ける。濡れた二人の身体からは湯気が立ち上った。
イエイヌは夢中で踊る二人を櫓の上からつまらなそうに眺めていた。そんなイエイヌの目には、二人の身体から立ち上る湯気はまるで熱を奪おうとする雨の企みを拒否しているかのように映った。そんな二人を眩しく感じて、イエイヌはその光景から目を逸らした。