ともえとイエイヌはようやく海の見える場所に着いた。海のはるか彼方に目指す水晶の塔が建っている。二人の頭の上には相変わらず鉛色の空が広がっていて、波打ち際に波がざぱーんざぱーんと小気味よく寄せては返していた。
「それで、ここからどうするの?」
「ちょっと待ってくださいね」
これ以上行けないじゃんとふてくされたような声を出すともえの隣で、イエイヌは何かを見つけ出そうとうーんと絞るように目を細めて遠くを見渡した。
「あっ、いたいた」
視界の端に何かを見つけたイエイヌは砂浜の上を造作もなく駆け出した。ともえも慌てて後を追いかけたが、砂浜に足を取られて思うように前に進めなかった。同じように駆けているのにどんどん遠ざかるイエイヌの背中に、ともえは焦燥感を覚えた。
遠くに見えていた桟橋の上の建物にともえが到着すると、イエイヌはその建物の主人であろう二人と仲良く談笑しているところだった。イエイヌは表情こそは変わらないが尻尾をバタバタと振ってしまっていて、二人の主人に好意を寄せているのが丸わかりだった。
「あっ、ともえさん。こちらがカリフォルニアアシカさんで、こちらがバンドウイルカさんです」
イエイヌはにこやかに紹介した。
「こんにちは、ともえちゃん」
カリフォルニアアシカは2メートルはありそうな背をさらにぴんと伸ばして立っていて、品のある声でともえに呼びかけた。モデルのような小さな顔には眼鏡が掛かっていて、黒くて長い髪と合わせて理性的かつエキゾチックな魅力を醸し出している。体のラインに沿ったウェットスーツの下にたくましくしなやかな筋肉が浮かんでいて、スタイル抜群のカリフォルニアアシカにともえは思わず見とれてしまった。
「よっ」
バンドウイルカもカリフォルニアアシカに負けず劣らず高身長で、銀から水色へのグラデーションに染まった髪を大胆に後ろに流している。そんなイルカは大きくて派手な目でばちんとウインクして威勢よく声を掛け、ニヤリと笑った。口元から鋭く尖ったギザギザの歯が覗き、八重歯っぽい一本がキラリと光る。短く切り揃えた髪と色を合わせてある、ツナギのようなウェットスーツは胸元が大きく開いていて、その下にはサラシを巻いている。こっちのお姉さんはちょっと怖いかもと、ともえは直感した。
じゃあ、いくよ。
せーの……。
二人は小声で息を合わせて、
『こーんにーちはー!』
「はじめまして。私はカリフォルニアアシカ!」
「はじめまして。わたしはバンドウイルカ!」
『海の家にようこそ!』
二人はコンビの挨拶を披露して、手をひらひらとともえに向けて振った。二人はそのまま手を振り続けてともえに「次はあなたの番よ」と目配せをする。ともえは閃いてイエイヌの鞄から『一本まんぞくジャパリバー』を二本取り出した。
「あの、これどうぞ」
そう言ってともえはジャパリバーを二人に差し出す。
「これはなあに?」
アシカは眉根を寄せて怪訝そうな顔をした。
「あ、ご褒美です! 挨拶できてすごく偉いから!」
ともえはハキハキと答える。その言い方にアシカはフッと鼻で笑い、イルカは「お前なあ……」と呆れた声を出した。
「失礼ですよ、ともえさん。早く自己紹介してください!」
イエイヌはともえの脇を肘で小突いて非難した。
――あれ、これで合ってるはずじゃあ……。待って。合ってるって何と……? 私はこの二人と前にも会ったことがある……?
「あの、こんにちは。わたし、ともえっていいます」
ともえは混乱したまま言われるがままに自己紹介した。
「はい、よくできました」
アシカは微笑んで、ともえの前に膝をついて胸元から『ジャパリチャップス』を取り出してともえに渡した。
「ははっ。ある意味その生意気さが自己紹介になったっつうことだな」
イルカも破顔して、ポケットから小さく包まれた『ジャパリキャンデー』を取り出して、ともえに手渡した。そして受け取ったともえの頭をガシガシと撫でた。
「それでですね、また船を借りたいんですが」
イエイヌがアシカに切り出した。
「うーん。それがね……」
アシカは難色を示した。船を貸すのはもちろんかまわないけれど、ラッキービーストが壊れてしまったらしく自動操縦が効かないので困っているということだった。
「ホテルまで行くんだっけ? ウチらが泳いで押してもいいんだけれど、帰りも押すとなるとちょっとなあ」
「イエイヌちゃん、なんとかならない?」
イエイヌは顎に拳を当てて熟考する。そして、考えがまとまったかのように目に光を宿して、ともえをチラリと見やってから「できます」と元気よく返事した。
それから少し後、一行は海の上にいた。クジラを模したマイクロバスほどの大きさの遊覧船は、両サイドに伸びたヒレにアシカとイルカが掴まって、両足を尾びれのように使ってスイスイと泳いでいる。二人の息はぴったりで、遊覧船はまっすぐ目的地へと向かっていた。空と海の境のない一面のグレーの中、船はゆらりゆらりと上下にのんびり揺れている。イエイヌは船の先端に取り付けられていたラッキービーストを取り外して分解し、中の部品をひとつひとつ丁寧に確かめている。出発する前、イエイヌがラッキービーストを修理しようとしていると、ホテルまで押して行くから道中で直してちょうだいとアシカが言い出した。「ホテルで道具を借りれるかもしれないし、そうしてもらえると助かります」とイエイヌは見たこともない表情をしながら聞いたこともない丁寧な口調でアシカのお姉さんに返事した。「ホテルに着いたらウチらは帰るからさ」「あとはよろしくね」二人はそう言ってウインクし、イエイヌは頬を少し赤らめたのだった。体よく押し付けられただけじゃないか。ともえはそう思ったが、せっかく運んでくれるのだしと口には出さなかった。
「ねえイエイヌ」
ともえがイエイヌの背に声を投げるが、イエイヌはスルーする。耳すらピクリとも動かさなかった。
「イエイヌは海がこわくないの?」
「別に怖くはありませんね」
質問の形式だと判断してイエイヌは答えたが、ともえはそんなこと全然気にしていなかった。
「そうなんだ。警戒心が強いと海が怖いのかと思った」
「誰かと勘違いしていませんか?」
「そうかも。誰だと思う?」
ともえは船の縁にたまった海水に手を乗せて薄く広げた。水の表面にともえの顔が歪んで映る。
「知りませんよ」
イエイヌは答えた。
「そうだよねえ」
ともえはため息をつき、濡れた手を服の裾で拭った。
ともえが退屈さにかまけて、のぞき窓から海中を眺めていると、海の底のほうに色褪せて劣化したステージのようなものが沈んでいるのが見えた。アイドルがライブをするようなそれだ。ステージは屋根と客席ごと海底に沈んでいる。白を基調としたステージは色とりどりの飾り付けが煌びやかに光を反射していて、海底にはおよそ似つかわしくない人工的な建造物だった。
「ねえ、あれなんだろう」
ともえはイエイヌに話しかけた。けれどイエイヌは背を向けたまま、ともえを無視した。
「ねえ、あれなんだろう」
ともえもイエイヌを無視して、ヒレに掴まって優雅に泳いでいるアシカに尋ねた。イルカはちょっと怖いのでこっそり避けた。
「あれは遺跡ね。この海の上にもペパプのライブステージと同じようなステージが建っていたらしいけれど、それももう昔の話。沈んでしまって、今ではこの辺りのフレンズの遊び場になっているのよ」
「わたし……いや、『ぼく』あそこに行きたい!」
「おっ、キャラ変か? いいねえ、本当の自分はこれだーってね」
話を聞きつけたイルカがともえをからかった。
「じゃあウチが連れていってやるよ。その辺に陸のフレンズ用のスーツがあるからチャチャッと着ちゃいな」
イルカは船の縁に手を掛けて、顎でともえに場所を指し示した。ともえが目をやると、ゴワっとしたブカブカのツナギと金魚鉢をひっくり返したようなヘルメットが転がっていた。
「ちょっと! ともえさんの言うことなんか聞かなくていいですよ。先を急ぎましょう!」
イエイヌが口を挟む。
「ええー。別にいいだろちょっとくらい」
「そうよ。せっかく会えたのも何かの縁だし、楽しんでいって貰わなきゃ」
イエイヌは不満をイルカとアシカに嗜められ、ぐぬぬと顔中で表現しながらラッキービーストの修理に戻っていった。ともえはベーッと舌を出し、スーツに袖を通した。
ザブンと海に飛び込んだともえの両脇をイルカが後ろから支えて、イルカが足で軽くひとかきふたかきするだけでグングン海底が近づいてくる。
「すごいすごい! イルカさん、『ぼく』こんなの初めて!」
ともえは魚になったような初めての体験に声を弾ませた。
「ははっ、海は自由でいいだろう。ところで」
イルカがともえに尋ねる。
「お前、いまウチに話しかけたけど、ウチが海の中で話せるって知ってたっけ?」
「知ってましたけど、言われてみたらなんでだろう」
「まあいいか。ほら着いたぞ」
大陸棚の緩やかな海底に沈んでいるステージはまるで童話の中の世界を模しているかのようだった。ともえがイルカの手を離れてステージに立つと、観衆のざわめきが聞こえてくるような気がした。
「ねえ、イルカさんは何か思い出さない?」
「思い出すって何を?」
「このステージのこととか」
「うーん。わからないなあ」
イルカは困ったような顔をしてともえに言った。ともえはキョロキョロと辺りを見回して、壊れて沈んだ球状のブイを手に取った。
「イルカさん、じゃあ行くよ」
ともえはそう言ってブイをイルカに向かって放り投げた。イルカはそれを無言で受け取る。
「違う違う! 手じゃなくて鼻でチョンって私に跳ね返すの。じゃあもう一回!」
そう言ってともえは手を広げて投げてと催促する。イルカは「馬鹿らしい」と言ってブイを床に投げ捨てた。
「ええーっ? じゃあ次はこれ!」
ともえは床からフラフープのような輪っかを手に持って「ここをくぐって!」と言った。
「やり方がわからないなあ。ちょっと貸して」
イルカはそう言ってともえからフープを受け取り、「ちょっとやってみてよ」と言った。
「だから、こう!」
ともえは魚になった気持ちになって掲げられたフープに向かって一直線に泳いだ。フープをくぐる一瞬、手と足をぴたりと閉じて勢いよく通り抜けた。
「ははは、うまいうまい。やるじゃん」
イルカは手を叩いてともえの芸を賞賛した。
「違う、『ぼく』がイルカさんを褒めたいの! じゃあ次はイルカさんの番ね」
「だからしないって」
「してよ。きっと楽しいよ!」
「お前なあ……」
イラつくイルカを尻目に、ともえはステージ上部で揺れている丸い飾り付けを指差して「ジャンプして鼻であれを突っついてよ」と言った。イルカはツカツカと歩いて言い含めるようにともえの両肩に手を置いた。
「あのな、ともえ。そういうことはあまりしない方がいい」
「ええー、なんで? やれば思い出すかもしれないでしょ」
「お前が何を思い出させたいのかわからないけれど、私はそれをしたくないんだ。わかるか?」
「わからないよ! イルカさんが思い出してくれたら『ぼく』のことも一緒に思い出すかもしれないでしょ」
イルカの脳裏に奴隷のように使役されたいつかの誰かの記憶がよぎった。
「ウチが思い出しても、それはともえのことじゃないよ」
「え……?」
「ウチの記憶の中にいるのはともえじゃない。ともえはともえだ。そうだろう?」
イルカは「そろそろ戻ろうぜ」と、ともえの脇を掴んで、来た時と同じように帰った。海面がグングン近づき、同時にステージはどんどん遠ざかって行った。海の中には何の音もなかった。
「どうしたの?」
海面に出て、アシカが浮かない顔をしているイルカに尋ねた。
「いやちょっと……」
ともえを船に乗せようと持ち上げながらイルカは言い淀んだ。
「イルカさん、『ぼく』と輪くぐりしてくれなかった」
船に上がったともえは納得のいかない表情でアシカに訴えた。目にうっすら涙をためている。
「あらそうなの。遊んであげれば良かったのに」
「すみません。ウチには無理です」
「そう。そうよね」
アシカは口を固く結んだイルカの背に手をやった。
「そうだ、ともえちゃん、はいこれ」
アシカはそう言って胸元からジャパリまんを取り出して、ともえに投げて渡した。
「さあ、こっちに放って」
続いてアシカは船から離れ、海面から首だけ出して言った。ともえは言われるまま、あまり面白くなさそうにジャパリまんを放った。ジャパリまんは風にあおられて飛距離が出ず、あわや海に落ちるかという瞬間、アシカは目にも止まらぬ速さで潜行しジャパリまんを鼻先で受け止めた。
「はっ、ほっ、ていっ!」
アシカはそのまま鼻でジャパリまんをお手玉し、かけ声とともにひときわ高く打ち上げた。そして身を海に沈ませて一瞬の後、凄まじい勢いで空高く飛び上がった。
「それーっ! ちゅっ!」
アシカは空中に浮いたジャパリまんに優しくキスをして、ともえの上に落ちるように仕向けた。
「さあ受け取って、ともえちゃん!」
ともえはちょうどいいところに落ちてきたジャパリまんをキャッチした。アシカはそれを見て微笑んで、とぷんと静かに着水した。アシカが水面に顔を出しても、ともえは手元のジャパリまんを凝視したまま棒立ちだった。
「ともえちゃん、よくキャッチできたわね。偉い! ご褒美にそのジャパリまんはともえちゃんにあげるわ!」
アシカはニコニコとして言った。
「違うんだ。こうじゃない……」
ともえは声を震わせた。
「アシカさんとイルカさんが芸をして、『ぼく』がご褒美をあげるんだ……。そうじゃなきゃダメなんだ……。それなのに……」
ともえは混乱していた。ともえの隣にはいつも誰かがいて、一緒に旅をして、出会ったフレンズに感謝の気持ちとしてご褒美をあげていたはずたった。これは存在しないはずの記憶なのに、既視感と思うにはあまりにも切実だった。そのフレンズたちが自分の名を呼んでいたはずだった。かつてそこにいた、いるはずのないフレンズの気配を、ともえは肌で感じていた。
「それで終わりですか?」
イエイヌはラッキービーストを組み立てながら、さもつまらなそうに問いかけた。
ともえはふるふると首を振った。こんなはずじゃなかった。けれど、喉が震えてとても声が出せるとは思えなかった。
「それでともえさんの気は済んだんですか?」
ともえはさらに首を振った。目に溜まった涙がこぼれて、ともえの手の甲に落ちた。
「何を思ったのか知りませんけど、人のことを何も知らないくせにこうだと決めつけたり、急に背伸びしたり、子供っぽいですよ」
「違う! 違う!」
「何が違うんですか。現にそうやって癇癪を起こしてるじゃありませんか」
「違う! 本当の『ぼく』は――」
「だからその『ぼく』ってなんなんですか。自分の呼び方を変えたところでともえさんはともえさんですからね」
ともえは俯いて拳を握りしめた。
「……ぅやだ」
「はい?」
ともえは小さくつぶやいた。よく聞こえなかったイエイヌは体を半分ともえに向けた。
「もう嫌だ!」
「……うわぁ」
イエイヌは低く声を漏らした。涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにして、今にも爆発寸前のようなともえを目の当たりにしたからだ。
「もう嫌だ! もう嫌だ! もう嫌だーーーーーー!!!」
ともえは船の縁に手をかけ、空に向かって大声で叫んだ。ともえの頭の中で知らない記憶がぐるぐると浮かんでは消えていく。大切な人を置き去りにしてしまったこと。自分のせいでみんなに迷惑をかけたのに逃げ出してしまったこと。恐ろしい怪物に食べられてしまったこと。ともえは記憶の自分とのあまりの違いに気が狂いそうな思いだった。
「うわーーーーーーーーーーー!!!!!」
イエイヌは呆れた顔を浮かべ、アシカとイルカはやれやれと笑った。
そのときだった。風がやみ、海がひととき凪いだ。鉛色の雲の隙間から金色の光が幾筋か降り注いだ。海の上は時が止まったようにほんの一瞬無音になり、ともえの鳴き声だけが信号音のように響いた。
「あら」
アシカが声を上げた。
「おや」
続いてイルカも声を上げた。
イエイヌは耳をぴんと立てて、急いでラッキービーストをかき集めた。
「なにやら声に惹かれてやってきたみたい」
上を見上げてアシカが言った。
「それともただの気まぐれか」
イルカがそれに続けて言った。二人ともにこやかに笑っていた。
「えっ……?」
静謐さを破るように風切り音が響き渡り、一瞬の静寂の後、船は大きな衝撃に揺れた。船体は海にぐわっと沈み込んで大きく傾く。凪いでいた海に大きな波紋が広がり、打ち上げられた波飛沫が陽の光を受けてキラキラと輝いた。