「誰もいないわね」
カラカルは桟橋に建てられた海の家で、ベンチにどっかりと腰を下ろして言った。
風には波の音しか乗っていなかったし、匂いはこの海の家を最後に消えてしまっていたし、どんなに目を凝らしても海には何も見えなかった。海は鉛色の空を反射していて、上も下も切れ間なくどんよりとしている。その中でただひとつ、水晶の塔だけが白く光っていた。
「あの子たち、きっとあそこへ向かってるのよね」
「そうかもね」
「こうなると、さすがに打つ手なしね」
カラカルは背もたれに両肘をかけて、うーんと伸びをするように天を仰いだ。
どうしたものかとぼんやり空を眺めていると、やがて鳥のフレンズが二人やってきて、カラカルたちのはるか頭上を旋回しはじめた。フレンズは二人とも手に大きなピンク色のキャリーケースを持っている。
「ねえサーバル、何かしらあれ」
カラカルは二人を指差してサーバルに言った。
「うーん、なんだろう」
サーバルはよくわからなかったが、とりあえず二人に手を振ってみた。空の二人はそれを合図にしたように動きを止めた。やがて風を切る音、そして落下してくる二つのキャリーケース。
「まずい!」
カラカルとサーバルはさっと身を翻して、フレンズが落としたキャリーケースを避けた。キャリーケースはゴスっと鈍い音を立てて、先ほどまでカラカルとサーバルがいた位置に寸分違わず着弾していた。
「何よあいつら、頭おかしいんじゃない!?」
キャリーケースはそれぞれベンチと桟橋にめり込んでいて、ピンク色のかわいい見た目とは裏腹にとんでもない質量があることを示していた。
「あら、落としてしまったの?」
「そこのあなた、大丈夫って合図したじゃない」
そう言って、空から二人のフレンズが舞い降りた。
「なんだ、リョコウバトだったのか」
サーバルが言った。
「あらサーバルじゃない。その節はどうも」
リョコウバトはにこやかに言った。
「知り合いなの?」
「うん」
「そう」
サーバルが笑いながら返事したので、カラカルはそれ以上なにも聞けなかった。
「ところでカリフォルニアアシカとバンドウイルカを知りませんか? ここにいるはずなんですけれども……?」
「ちょっと待ちなさいよ。あんたたち、こんなもの人に投げつけておいて何もないわけ?」
「ごめんなさいね。アシカとイルカと私たちがいつもやってる遊びみたいなものなのよ」
「あなたたちのこと、あの二人と勘違いしちゃっただけなのよ。許してくださる?」
二人のリョコウバトは言った。そんな二人をカラカルはまじまじと見つめる。
「あんたたち、まるで見分けがつかないくらいそっくりね」
「ええ。私たちのような関係は珍しいとよく言われるわ」
「私たちはそれぞれ別のチホーで生まれたの。自分によく似た珍しいフレンズがいると噂で聞いてね、旅の中でついに出会ったというわけ」
「旅は道連れ。それから時折こうして同じ場所へ旅をしたりしているの」
「そうなんだ」
カラカルは珍しいものを見るような好奇の目を向けて、サーバルはそんなカラカルの姿をにこやかに見つめていた。
「ということは、この先に珍しい何かがあるってことね?」
「ご名答。満月が近いから、うみのごきげんが見れるかもしれないの」
「最近地震も多いし、もしかしたらチャンスかもと思って、この先にあるジャパリホテルに向かうところだったのよ」
二人のリョコウバトはやや興奮気味に言った。
「ふうん。それなら飛んでいけばいいじゃない。ここに何の用があるっていうの?」
「旅というのは過程をこそ楽しむものなのですよ」
「アシカとイルカへのお土産もありますし、船でゆっくりと向かうのもまた旅なのです」
「ゆっくりねえ」
カラカルは心に何かひっかかるものを感じた。もっとゆっくり時間が流れて欲しいときほど時間は忙しく過ぎ去っていき、急いでいるときほど歩みは遅々として進まず、全力で駆け出せるときほど行き先がわからない、なんていうことが過去にあったような気がした。
「お土産ってこれ?」
サーバルがキャリーケースを指でちょんちょんとつついて言った。すっかりめり込んでしまっているキャリーケースはまるで動く気配がない。
「ええ、そうです」
「ちょっと待って、お土産を投げつけたの?」
「いいえ、アシカとイルカならたやすく受け取ってくれるはずなので」
「私たちは落として命中させるのが得意なんです」
「嫌な特技ね……」
まあ怪我しなかったからいいけど、とカラカルが漏らすのを背に、二人のリョコウバトはぐっと力を入れてめり込んだキャリーケースを引き抜いた。
「そうそう、この辺りで珍しいフレンズを見かけませんでした?」
「珍しいって、あんたたちよりも」
「私たちが珍しい?」
「ええ、かなりね」
「私たち個人の珍しさとそれが二人揃う珍しさは自覚していますが、私たちからしてみれば一人しかいないあなた方のほうが私たちよりも単純に倍珍しいフレンズということになりますよ?」
「うっ、確かに……」
カラカルはぐうの音も出なかった。
「その珍しいフレンズはヒトかもしれないという噂です」
「なんでもヒトの身は舌もとろけるような美味で、その毛皮は見るものを惑わす美しさだとか」
「ああ、その姿をこの目に」
「そして、できればこの舌に」
二人はユニゾンするように言った。
「いやいや、食べちゃダメでしょ」
「……た、食べませんよ」
「ほんとに?」
「ただの冗談です」
リョコウバトは笑って言ったが、薄くあけた目の奥の瞳が笑っていなかった。
「なんだか信用できないわね」
カラカルは腕を組んで二人を疑いの眼差しで見た。サーバルもそれに共鳴するかのように腕を組んで難しい顔を浮かべる。
「ところでお二人はここで何を?」
今度はリョコウバトからカラカルに質問した。
「わたしたちは人探しよ。ある子に忘れ物を届けに来たんだけど、どうやら手遅れだったみたい」
「ということは、船に乗っている子が探し人ということですか」
「わからないけど、たぶんそう」
「その子ってもしかして珍しいフレンズなのでは?」
「かなり珍しいわね。少なくともわたしはあの子以外に知らないわ」
このとき、二人のリョコウバトの目がキラリと光った。
「それでは私たちはこのへんでおいとましましょう」
「そうね、そうしましょう」
リョコウバトがそそくさとキャリーケースを掴んで言った。
「それでは、ごきげんよう!」
リョコウバトはそう言い残して高く舞い上がろうとしたが、
「あっ、ちょっと待ちなさい!」
カラカルもそれを追って高く飛び上がり、リョコウバトのキャリーケースに手をかけた。
「あんたたちは物を落として命中させるのが得意でしょうけどね、わたしは飛んでる鳥を捕まえるのが得意なんだからね!」
「ひええ!」
リョコウバトは怯えた顔をして、空を飛んだままカラカルを払い落とそうとキャリーケースをぶんぶか振り回す。けれど、キャリーケースをしっかと掴んだカラカルはもはや離れる気配もない。
「わたしたちだってあの子に用があるんだから、あんたたちだけ行かせるわけにはいかないのよ。わかったらわたしたちも連れて行きなさい!」
カラカルはキャリーケースを登ってリョコウバトの胴体にしがみついた。
「ちょっと! そこにしがみつかれると上手く飛べないの! わかった、わかったから!」
「あんたの言った『旅は道連れ』の意味、わたしにも少しだけわかったわ」
「あなたの言う道連れは片道切符ね」
不敵に笑うカラカルに、リョコウバトは呆れ顔で言った。
それからカラカルとサーバルは、リョコウバトの持つキャリーケースの上部にうまく収まって、空を旅していた。リョコウバトは二人で風に乗って並走しながらペチャクチャと止まないお喋りに興じている。それでもキャリーケースは安定していて、多少の風ではびくともしないのはリョコウバトの力が強さが為せる技だった。
「ねえサーバル。わたしずっと考えてたんだけど」
「うん、どうした?」
「わたしの頭の中にずっと思い出せないことがあるのよ。けれど、忘れてしまっているというのともなんだか違っていて、それは多分わたしが体験していないことなの」
「うん」
「はじめはさ、まあそんなこともあるかなと流していたけれど、思い出さないというのは知らないということと同じでしょ」
「うんうん」
「でもそんなはずがないのよ。だってわたしはその子のこと知ってるんだもの。思い出せないだけで」
「その子って?」
カラカルは海のはるか遠くを見つめた。空から眺める景色は地上のそれとは違ってどこまでも遠く見渡すことができる。けれども、目に入ってくる景色は結局どこまでも鉛色の空と海だった。そんなカラカルをサーバルは静かに見守っていた。
「うん。きっとね、わたしと、サーバルと、他にもうひとり、隣に誰かいたはずなのよ。全然思い出せないけど」
「うんうん、それで?」
「いま言葉にしてみてようやく実感できたわ。わたしはその子のことを知っている」
「うん」
「その子がいまここにいないことだけがはっきりしている。やっぱりわたし、思い出さなくちゃいけない」
「そうだね。カラカル。そうだね」
不意にどこかから誰かの叫ぶ声が風に乗ってカラカルの耳に届いた。注意ぶかく辺りを見渡すと、いつの間に追いついたのかほぼ真下に船があり、声はそこから聞こえてきていた。
「あっぶない。追い抜いちゃうところだったわね」
「いつの間にか追いついていたんですね」
リョコウバトはそう言いつつもすいーっと滑空を続ける。そのまま一行は風に乗ってぐんぐん先へ進んでいく。
「ちょっと! ストップ、ストップ! 通り過ぎちゃってるってば」
「重量過多なのですからおいそれと方向転換できませんわ」
「なんとかあの船に降りることはできないの?」
「仕方ありませんわね」
リョコウバトは体を斜めにして風の受け方を調整して大きく旋回し、くるりとUターンした。こうしてくるくると螺旋を描くようにして少しずつ高度を落としていく。
「もっと早く降りれないの?」
そのとき、再び船から叫び声が聞こえた。その瞬間、風は止み、海が凪いだ。時が止まったと錯覚してしまいそうな中にともえの叫び声が響き渡った。
「……カラカルさん、速く降りたいんですよね?」
リョコウバトは言った。風が止んでしまったせいで滞空するためには羽ばたくしかないが、なにせ重量オーバーなのだ。
「言ったけど、よく考えたらそんなに急いでないかも……」
顔を真っ赤にして必死に羽ばたくリョコウバトを見て、カラカルは遠慮がちに言った。ずり……ずり……と、リョコウバトは高度を少しずつ落としていく。
「アテンションプリーズ!」
リョコウバトは高らかに声を上げた。
「急な天候不良のため当ツアーは通常の運行が不可能と判断しました」
「つきましては重量過多となっている荷物を一旦リリースし、目的地への到着を最優先させることに決定しました」
「なんだか嫌な予感がするわね……」
カラカルは身を震わせた。汗だくのリョコウバトは小さく旋回して船の上に狙いを定めた。
「それでは、快適な空の旅《トラベル》をお楽しみくださいませ!」
「サンキュー!」
リョコウバトは高らかに宣言して、二人同時にキャリーケースを手放した。
「ちょっとおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」
「うみゃーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!」
自由落下をはじめたキャリーケースはあっという間に速度を上げ、リョコウバトは豆粒くらいに遠のいて、船はみるみるその存在感を増していく。耳をつん裂くような風切り音と風圧でカラカルは悲鳴をあげることくらいしか出来なかったが、その悲鳴さえも風にかき消された。その隣でサーバルはキャリーケースに魔女のホウキのようにまたがって人差し指をピンと立て、満面の笑みでこのトラブルを楽しんでいた。
「これは聞いてないわよ!」
船はぐんぐん接近し、鯨型の船のヒレ部分でアシカとイルカが笑っているのが見えた。
そして接触。
「「よっ!」」
インパクトの瞬間、二人は体勢を整えて船の屋根に足から上手に着地した。凄まじい質量によって鯨の船を中心として大爆発を起こしたような波紋が広がった。大きく傾いた屋根の上で二人はあっちこっちへ動いてバランスを取り、転覆を防いだ。
ともえは我を忘れて身じろぎもせず屋根の二人を見つめていた。金色の光が乱反射する世界の中で躍動する美しい獣の姿にともえは心を奪われた。ほんの一瞬のことなのに、目に焼きついた光景は永遠のようだった。