異様な光景だった。
ひどい目にあったと、屋根から降りたカラカルの目に飛び込んできたのは、泣き腫らしたともえと背を向けて座るイエイヌ、それを海から遠巻きに眺めるアシカとイルカの姿だ。
「お……お邪魔だったかしら?」
カラカルは持っていたスケッチブックをスススッと背に隠した。これを渡してもたぶん混乱するし、そんな中を船という逃げられない密室で過ごすのはちょっと嫌だなとの考えがよぎったからだ。スケッチブックを渡すなら陸地がいい。なにせカラカルは警戒心が強いのだ。
愛想笑いの行き交う気まずい空気が流れる中、混乱をもたらした張本人であるリョコウバトが船の上に舞い降りた。
「ハロー! みなさん。ご機嫌いかがですか」
「旅は道連れ世は情け、袖擦り合うも他生の縁、さあ一緒にジャパリホテルを目指しましょう!」
「あらリョコウバト。久しぶりね」
これ幸いと、まずアシカが闖入者に食いついた。
「じゃあ出発するか」
と、イルカも合わせる。
リョコウバトは気まずさや違和感などまったく気になっていないようで、椅子に腰掛けて二人でペチャクチャと会話しはじめる。
こうして船は新しく四人のフレンズを乗せて航行を再開した。
やがて船はジャパリホテルに到着した。
ホテルは海に半分以上沈んでいる状態で、海から出ている部分も倒壊寸前の廃墟といった佇まいだった。屋根は傾いていて、ヘリポートを表すマークが見えてしまっていた。
船は建物の横に伸びている非常階段の踊り場に接舷した。
「じゃあウチらはこれで。船はここに置いていくからさ」
「イエイヌちゃん、後はよろしくね」
アシカとイルカのふたりはイエイヌに向かってそう言った。ラッキービーストが直れば船は自動運転で桟橋まで戻っていくのだ。イエイヌはまかせてくださいと笑って返事をした。
「それからともえちゃん。あなたにはこれを」
アシカはともえを呼び止めて、掛けていた眼鏡をともえに差し出した。
「ここまで旅を頑張れたご褒美。また会いましょうね」
アシカはそう言ってともえの頭に手を置いた。
「ウチからはこれだ」
イルカは口を開けて歯を一本掴んで一気に引き抜いて、それをともえの手に強引に握らせた。ねちょっとした唾液の滑りけと抜きたての歯の生温かさとおぞましさとで、ともえの背に悪寒がはしった。
「あの、これ……取り返しがつかないやつじゃあ?」
ともえは恐る恐る尋ねた。
「心配しないで。私の眼鏡はいずれまた生えてくるから」
アシカは笑って言った。
「え、じゃあイルカさんの歯も生えてくるんですか?」
「馬鹿なこと言うなよ、サメじゃあるまいしさ」
ともえの問いに、イルカはあっはっはと笑って返した。
「あ……ありがとうございます」
「じゃあ達者でな」
アシカとイルカはそう言い残して、ザブンと海に潜って帰って行った。
ホテル非常口から中に入り、廊下をしばらく進むと大きな広場に出た。広場は天井が高くとってあり周りを窓に囲まれていて、会食用のテーブルが複数置かれていた。カラカルたちがぼんやりしているとオオミミギツネがやってきて、いらっしゃいませ、お部屋の準備ができるまでこちらにどうぞ、と言って席に案内した。
他のテーブルにはリョコウバトが座っていて、アリツカゲラと何やら商談めいた話をしていた。
――実はわたくし、フレンズに快適な旅を提供するツアーを計画していまして……。
――パークの各地をまわりながら、このホテルを目的地にするのはどうかと。
――いいですねぇ。中継の宿泊所なら任せてください!
――旅の目玉はズバリうみのごきげん!
話を聞きつけたオオミミギツネが会話の輪に加わる。
――当ホテルとしては大歓迎です! ああ、いつかペパプの5人もいらっしゃらないかな……。
そこに、でかいのは耳だけにしておきなと、別の席で会話を盗み聞きしていたハブが毒を吐いた。
カラカルは頬杖をついて隣に座っているともえを見た。ともえはサバンナで会ったときのように萎縮しているが、あのときとはちょっと違うように見える。無知ゆえの萎縮ではなく、知ってしまったゆえに掛ける言葉がなく、扉が開けられるのを待っているようにちらり、ちらりとカラカルに目をやっていた。
やがて、ともえは意を決したようにカラカルに話しかけた。
「カラカル。さっきのジャンプ、すごくかっこ良かった」
「よく言われるわ」
「よくって、前にも言われたことがあるの?」
「あれ、どうだっけ。よく覚えてないや、ごめん」
確かに言われたことがある気がするのに、思い出そうとすると頭の中の黒いモヤモヤが急に萎んでなくなってしまう。カラカルは耳ごとうなだれた。
「あの、覚えてるかな。『ぼく』と一緒に竹林でパンダさんたちと遊んだときのこと」
「あんたと? 覚えがないわね……」
興奮気味に身を乗り出したともえと対照的に、カラカルは身を引いた。
「レッサーパンダさんが泣いちゃって困り果てたり、公園の遊具を直してあげたりしてさ。本当に覚えてない?」
「覚えてない、というよりまったく知らないわ。人違いじゃない?」
「そっか。カラカルは忘れてしまったのかもしれないけれど『ぼく』たち、いいチームだったんだよ」
「ふーん」
そんなはずはないと、ともえは瞳に憤りの色を浮かべた。なんとしても思い出させなければならない、さもないと自分という存在が消えてなくなってしまう。このような焦燥感にともえの視野は狭められる。
「思い出して欲しいな。そうでないと……」
「あ、思い出した!」
「え! 本当に!?」
ともえは顔をパッと明るくしてカラカルを見た。けれどカラカルはともえの期待とは裏腹に、スケッチブックをテーブルの上に置いた。
「これあんたの忘れ物でしょ。やっと渡せたわ」
カラカルはそう言ってスケッチブックをススッと、ともえの方へ寄せた。
「いや、これじゃなくて……」
「ともえさん!」
そのとき、戻ってきたばかりのイエイヌがともえに声をかけた。
「もう新しい友達ができたみたいですね」
「あっ、イエイヌ。紹介するね、この二人はカラカルとサーバル」
ともえはイエイヌにカラカルとサーバルを紹介し、次にカラカルに、
「こっちの子はイエイヌっていうんだ」
と、紹介した。
「会うのは二度目よね。よろしく」
カラカルがイエイヌに向き直って言った。
「すいません、ともえさんが迷惑をかけたみたいで」
イエイヌは立ったまま目線だけカラカルに向けて言った。
「別に迷惑なんて思ってないわ。イエイヌの方こそ、この子を一人でここまで連れて来るの大変だったでしょう。ご苦労様」
「なんであなたが誉めるんですか」
「えっ?」
カラカルは労いの言葉のつもりだったが、イエイヌの予想外の反応に面食らった。
「ともえさんを無事に縄張りまで送り届けるのが私の使命ですので」
イエイヌはそう言って、ともえの両肩に手を置いた。
「行きましょうか、ともえさん」
イエイヌが有無を言わさない声色だったので、ともえは諦めて立ちあがろうとした。
「あっ、スケッチブック!」
カラカルに呼び止められたともえはスケッチブックを取り上げてパラパラとめくった。これを描いたのは確かに『ぼく』だ、と自分に言い聞かせた言葉が崩れてしまわないように、一枚に時間を掛けないようにしてページをめくった。
「これはカラカルに持ってて欲しい。『ぼく』の大切な思い出だから。それに、何か思い出すかもしれないし」
そう言って、ともえはスケッチブックを机の上に置いた。
「さあ行きましょう、ともえさん」
イエイヌは座っているともえに手を差し出した。ともえはその手を取って立ち上がった。ともえが立ち上がるとイエイヌはすぐに手を離し、背を向けて歩き出した。
ともえとイエイヌは非常口から外に出て、踊り場に接舷しているボートに乗り込んだ。ボートの先端には修理されたラッキービーストが据えられている。イエイヌがともえの手を取ってラッキービーストの顔の前にかざすと、「再起動シマス」と音声ガイドが流れた。
「ともえさん。スケッチブック、良かったんですか?」
イエイヌがぽつりと呟いた。
「うん。『ぼく』にはもう必要ないものだから」
「あのスケッチブックの最後のページがどうなっているのか、ともえさんはご存知ですか?」
「うーん。なんだっけ、観覧車が描いてあったかな?」
ともえはぼんやりとした記憶を手繰り寄せるようにして言った。最後のページが破られていたことを思い出すことはなかった。
「そうですか。それでしたらもう、わたしが言うことは何もありません」
イエイヌはそう寂しそうに言った。
ラッキービーストから再起動完了を告げる音声ガイドが流れると、イエイヌは「お願いラッキーさん。海の家へ行って」と命令した。すると船のエンジンがかかり「3プンゴニ出発シマス。足元ニゴ注意クダサイ」とのアナウンスが流れた。イエイヌは船から踊り場に上がった。ともえもそれに続いた。
「ともえさんにも新しいお友達ができたことですし、わたしの使命もそろそろ終わりなのかもしれません」
岸を離れ始めた船を見守りながらイエイヌは言った。
「イエイヌの使命って『ぼく』を縄張りに連れていくことだっけ?」
「ええ。ともえさんの縄張り」
「どんなところなんだろうな」
「きっと居心地がいいと思いますよ。疎外感もなく、誰にも受け入れられていると感じるはずです」
船は見ている間にどんどん小さくなっていった。
そこに、ブタがドタドタと慌てた足取りで現れて、ともえとイエイヌを大声で呼んだ。
「おふたりとも、『うみのごきげん』が来ましたよー! 早く来てください!」