「あ、やば」
放課後。自分の部屋に戻り、一式を机に広げてさあ勉強しようと意気込んだところで、教室に数学の問題集を置いてきたことを思い出した。面倒だなと思いつつ、急いで教室へ向かう。寮の部屋が端っこにあるから、いくら建物が道路を挟んで向かい合わせにあるといっても、案外遠いのだ。
「……あれ、まだ誰かいる」
「おや……? これは、珍しい
「ゼファーさん……」
たとえクラスメイトでも、無意識のうちにかしこまってしまう。あまり話す機会がないからというのもあるだろうが、それ以上にあたしと彼女では、残した実績があまりにも違う。
「何してんの、こんなとこで」
「季節風に貿易風……普段あれほど吹く風も、この時刻になると途端に凪ぐのですね」
「……?」
「よければ、ご一緒にいかがですか?」
窓が開いていて、その近くにゼファーさんが陣取っていたので、一緒に風を感じようということかと思ったら、違ったらしい。とん、と机の上で立ててこちらに見せてきた参考書の表紙には、
『良問の風 物理 頻出・標準 入試問題集』
と書かれていた。
「げ、物理……」
「スポーツ科学……ウマ娘の風の受け方や足の動かし方などを理解するには、物理も必要だそうですよ」
「そりゃそうかもしれないけど……っていうか、なんであんたがそんな勉強……」
一般入試を受けなくたって、ゼファーさんならこの先の道が無限に広がっているはずだ。ヤマニンゼファーといえば、短距離から中距離まで、数々のレースを勝ちに勝ちまくった名ウマ娘。自分から言わなくても、ドリームトロフィーリーグへの移籍はあっさり叶うだろう。社会人アスリートとしてもやっていけるだろうし、最低限大学のスポーツ推薦は取れるはず。未勝利戦から勝ち上がれずにタイムリミットを迎えてしまい、ウマ娘がスポーツ推薦を取ることの難しさを痛感しているあたしとは、まるで違うはずなのに。
「私は、私の背中を押してくれる烈風に、抗うことを承知の上で……ごく普通の学生としての道を、進むことに決めました」
「……っ!?」
「今は私の行く手を阻む向かい風が、いつか
「……なんで」
相変わらず風にばっかり例えて、ぼかして伝えてくる。けれどこの時ばかりは、何が言いたいか分かった。普通に考えれば、ヤマニンゼファーという名ウマ娘の走る姿をもっと見たいと思うファンは多い。G1レースの歓声は、思っているよりずっと大きく、激しく、そして何より元気をもらえる。ゼファーさんだってそれは分かっているはずだ。歓声を一身に受けたくないウマ娘なんていない。走って、勝って、応援を受けてまた走る。そんなレース界に背を向けて、普通の学生になろうとするなんて。あたしは反射的に、ずるいと思ってしまった。
「トゥインクルシリーズから身を引いた私に、元より順風があることは分かっていました。それに逆らうのをよしとしない方がおられるということも……。しかし、この
「でも……! あんたが走らなきゃ、誰が走るっていうの……!」
他の誰に言われたわけでもない、自分で選んだ道なんだということは伝わってきた。でも悔しかった。なんであたしを置いて、そんな道を選んだんだと、あたしは理不尽に怒っていた。ゼファーさん一人が走らなくなったとて、他にウマ娘はうんといるはずなのに。
あたしは全然勝てなかったし、ライブをやってもずっとバックダンサーの位置で踊るのは辛かった。ライブの時間になったら着順の差はセンターかサイドかそれ以外かの違いになるだけで、スポットライトの当たり方は違っても、感謝を伝える気持ちは変わらない、変わってはいけないなんてことは知っている。頭では分かっているけど、体がその通りに動いてくれるかは別問題だ。自分より後から出てきた子がセンターで踊って、また次のステージへ上がってゆくのを見るのは悔しかった。あたしより先に、大舞台へ上がっていったのなら、それだけ増えたファンの声援に応えなきゃいけない。だからゼファーさんクラスの子がターフから去り、きっぱりレースから離れるなんて、無責任だと思ってしまったのだ。
「あなたは、私と同じ風に乗った走りをするウマ娘が、もう二度と現れないと。そう、思われますか?」
「……っ!」
「その顔が物語っています。どんな年でも必ず、ジュニア級やクラシック級には嵐を巻き起こすウマ娘が現れる。シニア級に上がってから台風の目となるウマ娘もいる。もちろんそれぞれに個性があってこその、私たちウマ娘ですが……全員が全く違う走りをすることは、ありません。それは、誰かの走りを見て、憧れ、真似をして自分のものにしてゆき、次の世代へつなげるということを、私たちが繰り返してきたから。そしてこれからも、そうやって誰かの走りが受け継がれてゆく。あなたの走りもきっと、どなたか偉大なウマ娘の走りに夢を見て、完成されたもののはず」
「……でも」
「私の走りも、いつかどこかで誰かが真似をして、自分のものにしてくれる。私は、それでよいと思っています」
ウマ娘がレース界に身を投じるにあたっては、歳を重ねるごとにケガをするリスクが高くなる。それは人間も同じことだ。中学生高校生より、おじさんおばさん、さらにはおじいちゃんおばあちゃんの方がちょっとしたことでケガをしやすいに決まっている。ドリームトロフィーリーグには確かに、レジェンド級ウマ娘がその走りで観客を魅せるお祭り的側面がある。そうはいっても、ウマ娘の出せる速度で走り、競うことに変わりはない。そして一度ドリームトロフィーリーグでケガを負ってしまったら、大事を取って引退、少なくともしばらく休養するという選択を取るウマ娘が多い。そのリスクを負ってでも目の前にいるファンのために走り続けるのか、それとも全盛期をもって潔く身を引くのか。どちらがいいのかは、あたしにははっきりとは言えなかった。
「……」
「例えば、生まれつきの足の弱さでレースの道へ進めなかったウマ娘がいる。あるいは、レースの中で競走人生を断たれかねないケガをしてしまうウマ娘がいる。奇跡のような復活を遂げても、一度負った傷ゆえに
ゼファーさんはあたしなんかより、ずっとたくさん考えていた。考えて考えて、普通の学生になる道を選んだのだ。あとはあたしの子どもっぽさが、でもだってと駄々をこねているだけ。それが分かっていたから、何も追撃できなかった。あたしもトレセン学園卒業を間近に控えて、そこそこ大人になったということかもしれない。
「この学園も、日本全国に山のようにある学校の一つです。卒業した生徒たちが、思い思いの風に乗って進むことは、何ら不思議ではない。あなたも、そう思いませんか」
「……そりゃ、そうだけど」
時々、勘違いしそうになる。本当はあたしみたいな、中央のトレセン学園を卒業したんだと堂々と言いにくいくらい、うまくレースで成績を残せなかったウマ娘がほとんどなのだ。ウマ娘なんだから身体能力はずば抜けてるんでしょ、と厳しく見られて、スポーツ推薦が取れるか取れないかの狭間でもがいている。結果、レースとは全く関係のない道へ進んだウマ娘もたくさんいる。あたしもなんだかんだで、その道を進むことになるかもしれない。でも、それを引け目に感じる必要はない。
「忘れ物を、取りに来られたのではありませんか?」
「……え、うん、そうだけど」
「あぁ、でも。1問だけ。お付き合い、願えませんか? 今吹いてきた
「何それ、どんな風?」
予定は変わったものの、悪い気はしなかった。ゼファーさんの方へ机をくっつけて、ノートのページを一枚破ってもらい、二人で力学の問題を読み始めた。