「……」
ある日の放課後、寮の自室にて。ダイイチルビーはとある本を前にして、ちょこんと座りじっとそれを見つめていた。
「これが、世に言う『ラブコメ』……」
由緒正しき家で品格ある女性になるための教育を受けてきた、正真正銘のご令嬢である彼女が、いかにも大衆的に見えるそんなマンガを自ら買ってくる可能性は低い。とすれば、
「これ! これ今チョーキてるから! お嬢! お嬢にも読んでほしい!」
「……こちらは如何様な物語なのでしょうか」
「んー、あー……分かんない! でもとにかくズッキューン! ってキて、ほわわわ……ってなる!」
「ヘリオスさんがどのあたりをお気に召されて私に勧められるのか、分かりかねますが」
「とっとにかく! お嬢に読んでほしい! で、感想も教えてほしい! よろッ!」
しばしばぶっつけで遊びや食事のお誘いをしてくる、ダイタクヘリオスからの推薦だった。推薦というより、半ば押しつけられたような形だが、本を読んでというお願いなこともあり、断れずに持って帰ってきてしまった。
「ん……珍しいもの持ってるね」
「ミラクルさん」
「その表紙、すごくいいよね。ラブコメにしては攻めてるって、一時話題になってたなあ」
「ミラクルさんはこの本、ご存じなのですか」
「ちょっとね。おれもヘリオスに勧められて、最初の方をちょっとだけ」
「そうですか」
「でもルビーが読むなら、おれも読もうかな」
「無理をなさる必要はありませんよ」
「いいや、おれが読みたいから読むんだ。それに、せっかくひとに勧められたのに、読まないとか、読んでもないのにそれらしい感想を言うのは、やっぱり失礼かなって」
同室のケイエスミラクルが帰ってきたが、荷物を置きに来ただけのようで、すぐにトレーニングに出て行ってしまった。もう一度一人と一冊、しんと静まり返った部屋の中に置かれて、ルビーはじっと本の表紙を見つめる。
「そこまで奇をてらった作品であるようには、見えないのですが」
おすすめされたからには、無碍にしないために丁寧に一ページずつ読む。ヘリオスは少々押しが強いところがあるが、それが善意100%であることはルビーも分かっている。分かっているからこそ、断るたびにちくっと心が痛むのを感じて、自分のスケジュールがあまりにも過密であることを恨んだりする。華麗なる血の証明のために、自分で選んだ道とはいえ、もう少し柔軟に対応できるだけの余裕があればと思ってしまうのだ。
「なるほど……そのような、新鮮さですか」
主人公がウマ娘であることにルビーは驚くが、すぐに我に返る。最近ではもはや、その手のマンガや小説も珍しくない。しかも、中央地方問わずトレセン学園に通うような、トップアスリートなウマ娘ではなく、ヒトの女の子に混じってごく普通の学生生活を送る、周りよりちょっと足が速いだけのウマ娘。トレセン学園に通えている方がウマ娘としてはほんの一握りであるという事実は、ルビーももちろん知っていた。しかし慣れとは恐ろしいもので、自分たちがそのほんの一握り側であるというのを意識する機会は、いつしかすっかりなくなっていた。
さらに読み進めてゆくと、だんだん風向きが変わってきたのをルビーは感じた。ごく普通のウマ娘がかっこいい男の子に恋をする、そんなストーリーだと思っていたのが、どうやら違うらしいということが分かったのである。主人公であるウマ娘の一人称視点で話が進んでいたが、クラスメイトのヒトの女の子がやたらと視界に入っていることに気づいたあたりで、ルビーは柄にもなく心中が騒がしくなるのを感じた。
「これは……まさか」
社交辞令に最新のスポーツ科学と、あらゆる事柄に精通しているルビーだが、唯一世俗に疎いというのは名家の令嬢の宿命かもしれない。しかしそれでも、長く同じ時を過ごした相手とは性別関係なく想い合ってしまうその感情は知っていたし、理解できると思っていた。学園を卒業後、かつての担当トレーナーと結ばれるウマ娘が多いことがその証拠。
「なぜ、このようなストーリーの漫画を、ヘリオスさんが……」
最終的に性別を超えて、種族を超えて想い合う主人公とそのクラスメイトの姿に、ルビーはページをめくる手が止まらなくなっていた。一瞬のうちに読み終えた後、自分がそれほどまでに集中していたという事実に驚く。マンガを読むこと自体それほどなかったというのに、なぜそれほどまでに引き込まれたのか。それは、あのヘリオスが勧めてきたからではないか。もしかして、勧めてきたのもそういう意図があってのことではないか。
「……ッ!」
そんなことを考え出すと、いよいよ体が熱くなってくる。今忘れ物を取りに来たとかでミラクルが帰ってきでもしたら、いよいよ変なことになりそうだとすらルビーは考える。明日どんな顔をして教室に行くか、今から考えなければ大変なことになる。ただでさえ名家の中の名家、華麗なる一族の令嬢、そして短距離路線で華々しい実績を残した経験と、自覚できるだけでも数多くの属性を持つ自分だ。今まで考えたこともなかったが、実はクラスメイトにもそういう目をルビーに向けてくる子がいたのかもしれない。その存在を知らないのと、可能性を考えられる程度の知識を持っているのとでは、天と地ほどの差がある。
「ヘリオスさんが……? いえ、ミラクルさんも読みたいと思われているということは……」
考えれば考えるほど深みにはまる。ミラクルがトレーニングから帰ってきても、平静を装うことに100%意識を割かないといけないくらいに動揺していた。
「どうしたの? 体調悪いとか?」
「……いえ。至って、健康です」
「無理はしないで。まだ、レースは先だしね」
「それに関しては、そっくりそのままお返しいたします」
いつも通りに言葉の応酬をミラクルとしたはずなのに、言い過ぎてはいないか、自分のちょっとした言動がミラクルを傷つけてはいないか、やたらと気にしてしまう。こんな状態ではまともに寝つけやしない。
「……ミラクルさん」
「なに、ルビー」
「……少し、私の手を握っていただけませんか」
「どうしたの、いきなり?」
「戯れです。少し、手の大きさを比べてみたくなった――私がそう申し上げれば、ミラクルさんは疑いますか」
「まさか」
ぎゅ、とお互いの手が合わさる。寝る前の道具の手入れをしていたミラクルは、嫌な顔一つせずにそれに応えてくれた。何をしていても、自分が声をかければ応えてくれると分かっていてやってしまったと、ルビーは後になって自覚する。やっぱり何をしても、相手のことを意識してしまう。それは、同室として多くの時間を過ごしてきたミラクルが相手だから。
「明日、平気な顔して登校できそう?」
「…………なぜ、それを?」
「ずっとそわそわしてたからね。おれ、ちゃんと内容は読んでないけど、あらすじは知ってて。だからルビーがこうなることも、何となく分かってたっていうか」
「私を、泳がせていたというわけですか」
「それは人聞きが悪いよ」
「では、落ち着くまでこうしていていただけますか」
「それ、朝まで……なんてことにならない?」
「朝まで、こうしておいてよいのであれば」
「それは困るなあ……」
そのマンガを読んだルビーがすっかりその気になってしまって、ヘリオスの突発的な誘いにも乗ってくれるようになるかどうか。そんな変化球をヘリオスが投げてくる可能性は低いだろうとルビーは思ったものの、きっとその気になってしまっているのだろう、と自覚したことは事実。ルビーは少し、ミラクルの手を握る力を強くして、ふう、と息をついたのだった。