妻が怒っている。
妻と言っても、まだ正式にその関係になったわけではなく、あくまで近い将来なる予定、であるだけなのだが。とにかく、彼女がこの威厳ある部屋の、権力を示す椅子に座り、頬を膨らせてこちらに不満の意を示していることに変わりはない。
「私がなぜ怒っているか、分かるかな」
「……」
出た。男が一番困る質問。ただでさえ人の気持ちを完璧に理解することなんて、どんな人間だって難しいというのに。まして怒りというマイナスもマイナスな感情なんて、同じことを経験でもしていない限り、推測なんてできない。彼女が一向にハンコを押そうとしないまま書類に目を落としつつ、時々こちらの反応をうかがうためにちらちらと見てくる。そんなふうにされたって、分からないものは分からない。
「ウマ娘たちの安定、充実した学園生活や、レース界の健全な発展……それらが脅かされるようなことがあれば、私もはっきりと遺憾の意を示す。逆にそれ以外、いかに生徒会長といえど私が怒ったところでどうにもならないことに関しては、そういったマイナスな感情を働かせないように心掛けている。君も私の伴侶になる者として、それはよく理解しているはずだ」
「……ああ」
「ではなぜ私が怒っているか? 一トレーナーである君に怒りを示しているのだから、レース界がどうこうというより、学園生活に関してだ。ここまで言ってもまだ、心当たりはないかな?」
ルドルフとは長い付き合いで、彼女がうちに泊まりに来たことも何度もある。学生ゆえ、同棲らしい同棲はしていないが、彼女の卒業後には最後の確認のために少し一緒に暮らし、すぐに結婚する運びとなっている。そう考えると、やはりまだ妻と呼ぶには早いのかもしれないが、熟年夫婦のような貫禄が僕たちの間にあるというのもまた事実。
そんなルドルフと二人の時間を過ごす中で、彼女が怒るのを本当に見たことがなかった。学園生活だけでなく、プライベートでも。実はなかなかの甘え上手なのだが、もしかしてそれが関係あったりするのだろうか。なんてことを考えているとそれが顔に出て、余計に怒られそうだったので、すぐに頭からそんな思考を追い出して真面目に考え始める。
「……申し訳ないけど、全く見当がつかない。教えてくれないか」
「……君も知っている通り、私はもう間もなく生徒会長の職を降りる。生徒会のトップとしてやるべきことは一通りやった。それに、後進に道を譲るというのも先達の重要な仕事だ。その引き際もなるべく粛々と、清廉潔白でありたい。この心情を理解してもらえるかな」
「それは……もちろん」
つい先日、新生徒会長を決める選挙が行われ、テイオーとマックイーンの一騎打ちの末、テイオーが生徒会を率いることになった。テイオーといえば、”皇帝”シンボリルドルフを慕い、いつかその背中を追い越すと言ってはばからないほど、ルドルフとの関係は深い。テイオーはマックイーンにかなり差をつけて選挙に勝利したが、まさかそのあたりを疑っているのだろうか。
「そのまさかだよ。テイオーのことを普段から可愛がってくれている君か――あるいは、テイオーのトレーナーがもしかして関わっていたりしないか、と思っていてね」
「そんなことを言われても……そもそも、トレーナーが介入できるのはそれぞれのウマ娘のトレーニングまわりのことだけだし」
「それは建前とも受け取れる。君としては、介入した証拠はどこにもないと言いたいところだろうが、こちらとしては介入していない証拠もまた、どこにもないのでね」
「それは悪魔の証明ってやつだろ……この前の選挙結果に、不満があるのか?」
「有り体に言えば、ね。テイオーには、無事に生徒会長という仕事を続けるのがどれほど成しがたいことか、理解しておいてほしいんだ。圧勝と呼べるほどの支持を集めた状態だと、そこにもやがかかってしまう。ひねくれた親心なのかもしれないけれど」
「言いたいことは、まあ、分かるけど……」
とはいえ、ルドルフも頭がいいので、僕に潔白の証明ができないことくらいは分かっているだろう。そう考えると、テイオーへ生徒会長の仕事を引き継ぐため、最近のルドルフが忙しくしていたことを思い出した。すでにトゥインクルシリーズからは身を引いているとはいえ、もはや生ける伝説と言っても過言ではないルドルフの走る姿を見たいファンは多い。かく言う僕もその一人。一ウマ娘としてのルドルフの仕事をサポートする僕から見ても、このスケジュールと生徒会の活動を両立できているのが不思議だった。いくら体が丈夫なウマ娘であっても、何度か倒れていそうなものだが。
「……じゃあ、ルドルフ。どこか外食しに行こうか。ルドルフの食べたいものでいいよ」
「なるほど、そう来たか」
「気分を落ち着かせてもらうには、一番いいと思って」
「いかにウマ娘と言っても、私はそうそう食事では釣られないぞ?」
「いいよ、大丈夫」
結論から言うと、ルドルフはめちゃくちゃ食事に釣られた。二人で出かける前にテイオーに声をかけて三人で向かったのは、トレセン学園のウマ娘たちも行きつけのラーメン屋。
「カイチョー、お腹空いてるの? じゃあラーメンだよ! 大盛りヤサイニンニクマシマシにしようね!」
とテイオーが宣言し、馴染みの店ののれんをくぐることになった。僕としてはもう少し上の値段帯、たとえば焼肉やちょっといいお寿司をおごる気でいたのだが、これはこれで悪くない。ところでルドルフと交際を始めて以来、この手のラーメン屋には二人で行ったことがないのだが――
「では大盛りヤサイニンニクマシマシ……おっと、コールはまだだったな。今日はトレーニングの予定もあるし、胃もたれを考えてアブラは少なめにしておこう」
見るからにルドルフはウキウキしていた。おまけに負けじと凄まじい量のラーメンを注文しようとするテイオーをニコニコして見守っていた。テイオーが選ばれた選挙で不正があったかもしれないと疑っているなんて、とてもそうは思えない表情だった。オンオフの切り替えが上手いにしてもここまで来ると逆に不自然だ。実は不正があったなんてあまり思っていなかったのではないか。単に激務の連続で疲れていたとか。
「カイチョー、ボクにすら不満漏らしてたよ? 『最近彼との時間が取れていないんだ』ってさ。あーあ、ボクもそんなこと言えるようになりたいなあ」
ルドルフが少し離れた場所にある給水機に水を汲みに行っている間に、テイオーが耳打ちしてくれた。やはりそうなのか。構ってほしいと遠回しに伝えてくるあたり、ルドルフらしいというか。二人きりになるとあれだけ声色まで変えて甘えてくるのだから、ストレートに言ってくれてもいいのにと思うが、その二人きりの時間が取れていないのだからどうしようもない。まだレースをやっている以上、トレーニングの時間を減らし過ぎるわけにもいかないし、仮に減らしたところで余暇時間がそれほど増えるわけではなさそうだ。
「結婚、するんでしょ? カイチョーと」
「ああ」
「じゃ、カイチョーがご機嫌斜めにならないように、気をつけてあげないとね?」
「生徒会長をテイオーに譲ったら、ちょっとは時間に余裕出来るかな」
「任せてよ。ボクは二人の恋のキューピッドなんだから。カイチョーと安心して二人でいられるようにするからさ」
僕とルドルフでもし二人だったら、誰よりも気が合うトレーナーとウマ娘のコンビで終わっていた。彼女として、あるいはもっと進んで妻として、ルドルフがいればそれ以上いいことはないという恋心に気づけたのは、テイオーが間を取り持ってくれたから。テイオーには頭が上がらないと前から思っていたが、こういうところまで見抜かれるとは。
「おや、何やら二人でこそこそと話していたようだが」
「何でもないよカイチョー。でもトレーナーがカイチョーのこと、愛してるだってさ?」
「そういうことは面と向かっていってもらわないと、困るな。もう一度、私の耳元で言ってくれないか」
「いやテイオー、ちょっと……」
「あれ? 本人の前だと恥ずかしいの?」
「分かったよ……」
その日初めて愛してるという言葉と、卒業までもうすぐのルドルフと二人の時間を増やそうとささやく。本当に立ち上がってまで耳打ちしてくるとは思っていなかったのか、ルドルフはしばらく面食らっていた。
「……どうやら私は、君のことを見くびっていたようだ。なかなか……侮れないな、君は」
「ルドルフこそ、もうちょっと面と向かってしてほしいことを言ってくれないと困るな」
「ちょっとー? そこまでイチャイチャしていいってボク言ってないよー?」
その後すぐにコールのタイミングが来て、ルドルフとテイオーがとんでもない量の盛り付けを頼む。ウマ娘と結婚するとはこういうことなんだ、とまざまざと見せつけられつつ、最近食が細いんだよな、と困っている僕は全部少なめでオーダーした。着丼すると、同じ料理とは思えないほどの差だった。
「じゃあ、いただこうか」
ルドルフの顔は元通り、一目で機嫌がよさそうだと分かるものになっていた。