気づけば、私は自分の足で立っていた。いや、立つこと自体はできるから、今できるようになったわけではない。それよりも、この足でなら走れるという感覚が、全身にとてつもない気力として巡っていた。
「これが……」
一歩、踏み出してみる。また一歩。さらに一歩。今度は踏み出す速度を上げて、やがて。
「走、れる……走れる……!」
確かに自分の足が、脳の命令に従って動き、ウマ娘の速度で走れている。今私はとてつもないことをやってのけているという自覚があった。もはやレースは不可能と、あの時診断を受けたはずの足が、こんなにも俊敏に、繊細で、かつ柔軟な動きをしている。
「どこまでも、走りたい……さすがの環境だ」
ウマ娘は本来、走りたい、競い合いたいという本能を極限まで追求する生き物だ。そこが一見人間と似たような姿をしているウマ娘の、人間とはっきり異なるところ。人間は走ることそのものをそれほど希求しない。東西南北どこまでも続く緑の大地は、ウマ娘の足を本能のままに踏み出させるのに十分すぎた。もちろん、それは私も例外ではない。
「ははっ、……はははっ、あはは……っ!」
ヒトもウマ娘も、嬉しくなるとこんなにも嘘のような笑い声が出るということに、改めて気づかされた。わざと、ごまかすように笑っているんじゃないかと言われそうだ。でもそうではない。私は今、本当に、心の底から笑っているのだ。ただ、自分の足で、疲れなんて知らないで走れているだけだというのに、それが本当に嬉しくて嬉しくてたまらない。このまま何千メートルだって走りたい。本能が、体が、そう訴えかけてくる。
芝の青いにおいが、鼻腔をくすぐり、私の中に眠る全ての記憶を呼び起こす。あの時のトレーナーが何を言っていたか。私のフォームの改善点はどこか。どのような走り方に変わっていったか。それらを全て順に思い起こし、今の私の知識と総合して、工学的、スポーツ科学的に整合性がとれているかを確認する。そしてこの永遠にも感じられる走りの中で、修正を重ねてゆく。まるで
「ST-2……」
走りを止めないまま、私はふいにその名前を空でつぶやく。それは私の生涯の集大成と言ってよい。彼女は私であり、私は彼女。そう言い切れるくらいに、私は彼女の完成に気力体力の全てを費やした。自分の足ではもう走れないと分かってしまったあの日から、私の夢はST-2に託したのだから、その努力は当然だ。
そう、だから、これは夢なのだ。
ほんの一瞬、忘れていた。今私がいるこの場所は、夢によって構成されているということを。私が今走れているのは夢という、なんでも実現しうる場所だからであって、目が覚めれば私は車椅子に戻ることになる。歩くことはできても、トレセン学園のウマ娘のように走ることはできない。ST-2のアップグレードで、彼女たちにはずいぶんと苦労と迷惑をかけた。私の個人的な、わがままとさえ言ってよい話に、純真な心で協力を申し出てくれた。門前払いされると思っていたところを、これだけのひとたちに助けてもらえた。それだけ、ウマ娘の本能は強いということだろう。
「……いや、いいんだ」
私はゆっくりと速度を緩めて、やがて歩行に戻り、そしてぴたりと足を止める。私は私自身の走りを思い出した。ST-2の体でこの走りを再現、いやそれ以上の走りをしてみせることが、理想だ。そのためにはまだまだ足りないところがある。技術の進歩を待たねばならないところもあるだろう。私はまだ、満足できない。ウマ娘の走りに完成、完全がないのと同じように、ST-2も私が究極に満足するレベルに到達することはない、かもしれない。それでも、私はこの手で生み出したST-2を育て上げるのだ。そう、誓ったのだから。
***
「……おや、お目覚めかな?」
「ああ……」
「どうだったかい、夢の居心地は」
「素晴らしいよ。見たい夢を、自在に再現できる。意識は明瞭としていて、五感の精度もほとんど完全……まさか、これほどまでの技術力を持つ現役のウマ娘が、トレセン学園にいたとはね」
「ウマ娘の走りたいという本能は、何にも代えられないものさ。それこそ、生活に必要な他のもの全てを投げ打ってしまうほどにね。それを一時的にでも満たせたのなら、研究者冥利に尽きるね」
「おかげさまで、自信がついたよ。少しだけ、かもしれないけれどね。人間でありながら、ウマ娘にも劣らない熱意を持つ、トレーナーの彼……その熱意を素直に受け止められずにいたが、今なら語り合うこともできそうだ」
「それはよかった。で? 彼の予定は今夜、空いているのかい?」
「どうも、そうみたいだ。ちょうどいいお酒を出すお店を見つけたところでね。この高揚が収まらないうちに、行ってみるとする。ありがとう、アグネスタキオン」
「その報告は要らないからね。私は大人のウマ娘が紡ぐ夢に関する報告書をいただければ、それで十分さ」
「分かっているよ」
車椅子の彼女が、ゆっくりと満足げに私の元を離れる。理科準備室の扉が閉まったのを見届けてから、私は背景となってもらうよう頼んでいた背後を振り返った。
「さて、ユニヴァース君。そろそろ出てきても構わないよ」
「……”ドクター”は、ネオユニヴァースを”理解”してる。”わたし”の隠蔽は、必要だった?」
「万一あれが、本当は夢ではないと勘繰られては都合が悪かったのでね。ソファのブランケットに全身丸ごとくるまってもらって、不便を強いたことについては謝るよ」
「それは、”オールグリーン”。この部屋は、”挽きたて”と”化学反応”が共存する、ふしぎな空間……でも、『居心地がいい』だから」
「気に入ってもらえたなら何より。たちまちに脳の回転を上げられる素晴らしい紅茶か、あるいは私特製のこの七色ドリンクか、よければ振る舞うがいかがかな?」
「ネオユニヴァースは、”英国”を所望するよ。七色の方は……”わたし”のトレーナーを光らせた”実績”があるね」
「おっと、覚えられていたか……ならば仕方ない。砂糖の量も選ぶかい?」
「アファーマティブ。”ドクター”をスフィーラにできたことに、”CHS”だね」
「この研究はまだまだ伸ばす余地があるし、伸ばしていきたいと思うんだ。ユニヴァース君には引き続き協力をお願いするが、構わないかい?」
「……”報酬”は?」
「そうだな……君が私に提供するのは、別宇宙とやらの観測を通じて得た情報、そこから予測しうる未来。その対価として、私は研究の委細を君に教える。君の予測精度のさらなる向上が期待できるだろう。これはいわば、NDAの締結、というやつだ。ちょうど博士とシャカール君がやっているようなね」
「アファーマティブ。”わたしたち”の世界では、”ABSS”は要らない。アグネスタキオンの”歴史”も、ネオユニヴァースがもっと早く”誕生”していれば、回避できたはずだから」
「私について、君が悔やむ必要はないよ。もともと私は君よりメイクデビューが早かったんだ。そこを変えることはできないさ」
ユニヴァース君に報酬としてプロテインバーの新味セットを渡すと、彼女はこちらにぺこりとお辞儀をし、ふわっとその場から消えた。あたかもテレポーテーションのようだ。つくづく、彼女の生態には分からないところが多い。いつか何日かかけて彼女の体をじっくり調べたいところだが、口に出していないのにそのことを考えるだけでユニヴァース君はなかなかに駄々をこねてくれるので、断念している。
「さて、博士……あなたの研究成果を、これからも楽しみにしているよ。ククク……」
私はユニヴァース君が手土産に持ってきた紅茶をぐいと飲み干して、デスクに戻る。次は誰で実験をしようか。今から楽しみだ。