「我が君、我が君……おや?」
ホームルームが終わり、トレーニングが始まるまでの時間はとても素敵だ。その時間、たいていトレーナー室に私の主君である彼はいない。今日のトレーニングや今後の出走予定について打ち合わせをしている。専ら、打ち合わせの相手はライトオさんのトレーナーさんだ。今日もその時間でトレーナー室の掃除をし、机の上を整理整頓し、部屋の隅でひっそり主張する観葉植物に水をやり、部屋をいい匂いで満たそうと思ったのだが。私の勘違いか、それとも急きょ打ち合わせがなくなったのか、彼は在室していた。机に突っ伏して、居眠りしている。
「お疲れでしょうか? あまり無理な姿勢でのお眠りは、お体を痛めますよ」
話しかけてみるが、まるで起きそうにない。よほど根を詰めているのだろうか。だとすれば、心当たりはある。最近別のウマ娘と契約し、彼女のトレーニングメニューを考えるので手一杯なのだろう。私と彼女であれば、これからトゥインクルシリーズを走ってゆく彼女に時間を割いてしかるべきだ。
「ゆっくり、お休みくださいね」
椅子にかかっていたスーツの上着を彼の肩から掛けて、私は部屋の掃除を始める。起きた時にまた、感謝してもらえるように。
思い返せば、この主従関係は長いようで短かった。私のようなスプリンターやマイラーは、中長距離を走るウマ娘たちより活動期間が長い傾向にあるから、それだけトレーナーと一緒にいる時間も長いように思われている。だが、変わらず手厚いサポートはあるものの、必ずしも専任、トレーナーとウマ娘が一対一の関係のまま続くとは限らない。メイクデビューやクラシックレースを控えるウマ娘たちを並行して担当するパターンも多い。彼もご多分に漏れず、そのタイプだった。初めは猛反対し、頑張って専属を続けてもらえるよう粘ったのだが、他のウマ娘も平等に見られてこそ良い君主だと言われると言い返せず、途中から私は彼にとって「担当の一人」になった。
「デュラン、ダル……」
それでも、担当の中で一番引退時期が近いであろうウマ娘として、大事にしてくれたことは伝わっている。実際に私が引退し、トレセン学園の卒業も秒読みという今にあっても、彼の態度は変わらない。それが本当に嬉しい。私は「担当の一人」でありながら、ただの一人ではなかったのだと思える。よっぽど疲れて深い眠りに入っているのか、時々寝言が聞こえるが、一番に私の名前が出てくるあたり、彼に主従関係を結んでもらって本当によかったと思う。
「あなたのもとを離れたら……次は、どこへ向かうのでしょうか」
行き先はまだ、はっきりとは決まっていない。先に引退し、進路希望の提出が同タイミングになったライトオさんと、奇しくも同じ選択肢だった。社会人アスリートとして引き続き走る道を選ぶのか、それともトレーナーや学園の教官といった、教育者の道へ進むのか。あるいはURAの職員や、レースやアスリートウマ娘とかかわらない、一般の道も用意されている。そのどれもが魅力的であり、同時にどれもが彼と離れ離れになることを意味する。
「わがままを申し上げたいわけではない、はずなのですが」
彼を独占したいだなんてわがままを言っている場合ではないし、それが許されないことを分かっているつもりでもあるのだが。やっぱりどれか進路を選択した瞬間にこの関係が切れる気がして、踏み出せずにいた。
「デュランダル、こっちおいで……」
「……っ!? はいっ」
だから急にものすごくはっきりした寝言が聞こえてきた瞬間、ぴしっと背筋を伸ばして返事をしてしまった。寝言に返事するのは良くないと分かっていつつも、そこまではっきり名前を呼ばれてしまっては、お側に控えないわけにはいかない。その優しい声色に抗うことなんて、できない。
「いかがいたしましたか、我が君」
「今日、も……そうじ、してくれたんだな、えらい、ぞ……」
「い、いえ。我が君が普段お仕事をなさる場所を清めるのは、騎士として当然の務め。感謝されるほどのことでは」
「ごめん、な……デュランダル、も……俺の、担当の一人、なんだけど……」
「私はトゥインクルシリーズから退いた身。これから一生に一度しか経験できないレースに望む臣下たちを差し置いて、私が主張を強めることはできませんから」
「それ、でも……我慢、してくれてた、よな……つらかった、だろうけど……後進への助言も、たくさんしてくれたし……デュランダルは、みんなの見本になる……素晴らしい、ウマ娘だ」
「そ、そんな……滅相もございません」
これまで彼と歩んできた何年かのことを思い出し、じわりと涙がにじむ。我が君の愛情を一度たりとも疑ったことはなかったが、それでもこうして、はっきり言葉にして頂戴する機会は少なかった。たとえ寝言だとしても、これは間違いなく彼の本心なのだ。
「デュランダル、……もう、独り立ちしても、大丈夫だろう。君は……もう、立派に、一人前の騎士だ……」
「そ、それは……」
「でも……一つだけ、心配で……」
「我が君に、ご心配をおかけしていたとは……申し訳ございません」
「君が、卒業後、どの道に進むのか……本当、は、一トレーナーの心配することじゃ、ないんだけど……」
私と彼は、これだけ長い間心を通わせた間柄。私の悩みなど、彼にお見通しだったのだ。彼にとって私は、青春時代の貴重な何年間かを預かった教え子。私が今後どうするのか情報が入っていないなんて、心配して当然だろう。
「そんなにご心配をおかけしていたとは……何と、お詫びすればよいか」
「もし、よかったら……うちに……」
「…………えっ?」
彼の言葉を疑った。もし、よかったら、うちに?
うちにってどういうことだろう。家庭に入ってくれと?卒業後最速で身を固めるなんて選択肢は、さすがになかった。もしもそれが許されるなら、ちょっと冷静ではいられない。収まれ、収まれと念じているのに、尻尾がぶんぶんと揺れているのが自分でも分かる。そうだ。家庭に入ってしまえば、彼の一番近くで仕えつつ、こんなに急いで進路を考えなくともよくなる。私がこれまで彼のおかげで得たお金で、もう少しいい生活を送っていただきつつ、自分の本当の適性をじっくり見極める時間が取れる。
「デュランダルは……優秀で……料理も、上手いから……」
「りょっ、りょうりっ」
やっぱりそうだ。彼は家庭に入れと言っている。これがプロポーズ以外のなんだというのか。ウマ娘の将来を案ずるあまり、一番に食生活が乱れがちなトレーナーを食事面で支える。一アスリートとして学んだ栄養学の知識をフルに生かせる”職業”。鼓動が早まる。本当にいいのか。そんなベストポジションに私がついてしまって。
「そ、その……しかし、いきなり婚約というのは……卒業を間近に控えている身ということもありますし、ど、どうでしょう、まずは数年間、お付き合いという関係で様子を見るというのは……」
「…………」
「……っ!」
ダメだ。彼は今すぐ結婚してほしいと言っている。でなければこのタイミングでだんまりするはずがない。それだけ、私の卒業が待ち切れないということの裏返しでもある。トレーナーとかつての担当ウマ娘がゴールインするケースは少なくないとはいえ、暗黙の了解として卒業後数年は様子を見ることが多い。在学中、あるいは卒業後すぐに入籍となれば、相手が学生の段階でそういう相手として意識していたのか、といわれのない批判を受けかねないからだ。でも彼は、そういう批判を受けるリスクを踏まえたうえで、なお私にそう訴えかけている。そんなの、YESかはいかでしか返事できない。そうと決まれば早く誓いを立てて、今後の計画も考えなければ。子どもは何人欲しいなんて考えたこともなかった。あまりに考えなければならないことが多すぎる。ここは一度、二人きりになれる場所でじっくりと話し合って……。
「デュランダル、トレーニングの時間だぞ」
「えッ!?」
「なんだ、打ち合わせはしていなかったのか。私のトレーナーがいつもの時間に何やら参考書にかじりついていたのは、そういうことだったか」
「う、打ち合わせ? なんのことでしょう? まさか我が君と家庭を築くうえで今後の計画など話し合うはずがありませんし……」
「……? 何を言っているんだ?」
「い、いえっ、何も! そ、それよりライトオさん、トレーニングですよね? すぐに着替えてきますので……」
「顔が真っ赤だぞ。何があった? 騎士にあるまじき辱めでも受けていたのか?」
「な、何をおっしゃって……」
「あるいは惚気で頭がのぼせているかのどちらかだな。いずれにしろ一度豚汁を頭からかぶるといい。そして模擬レースでもして打ち負かしてやろう。勝負は直線1000mだ」
「そ、それはライトオさんに有利すぎるのでは!?」
「行くぞっ」
さっさとグラウンドに出ていってしまったライトオさんに追いつけるはずがない。ふと彼の方を振り返ると、むにゃむにゃと言いながら彼が目覚めた。
「……あれ、デュランダル。来てたんだ」
「我が君、先ほどの熱いプロポーズのお言葉、一生忘れません。今後とも誠心誠意、我が君にお仕えし、永遠を誓う所存ですので……」
「えっ、ちょっと、なんのこと?」
「それでは、いったん失礼いたします」
いまだ心臓は落ち着く様子がない。将来がこんな形で決まるとは思ってもみなかった。これからは家でリラックスしている時にも、彼に褒めてもらえる。それが嬉しくてたまらなかったが、まずはいつも通り、いやいつも以上にトレーニングをこなし、その努力を褒めてもらわなければならない。トレーナー室の掃除をするつもりで制服で来ていたので、私は急いで更衣室へ向かったのだった。