「トレーナーさん。私、もっとトレーナーさんとの距離を縮めなければと思うんです」
「どうした、いきなり」
もうすぐトレーニングの時間ということで、ジャージに着替えた担当のヴィルシーナがトレーナー室に来ていた。デスクワークがもう少しできりのいいところということで、終わるまでの間トレーニング理論の最新論文を手渡し、読んでもらっていた。それはしばしの静寂が訪れた中、ふと彼女の口からこぼれた言葉だった。
「もちろん、ジェンティルさんに負けないだけの力をつけること、一つでも多くあの方に勝てることを見つけることも重要ですけれど。妹たちの見本になる、憧れになることも大事だと思って」
「もう十分、憧れの対象になってると思うけど」
「シュヴァルは最近、一緒のベッドで寝てくれなくなりましたし」
「そりゃ、高校生にもなればな。いろいろと困ることもあるんだろう」
「ヴィブロスだって、あまり私におねだりをしてくれなくなったんです」
「それは由々しき事態だ」
ヴィブロスが姉のヴィルシーナにおねだりをするシーン。二人が一緒なら毎度のように見る光景だ。いかにヴィブロスが大人になったとはいえ、身近で頼りになる姉への態度が変わるというのは、よほどのことではないか。
「ヴィブロスも最近、あの子のトレーナーさんを意識しているようですし、おねだりの質が変わったのかもしれませんが。でもやっぱり、おねだりされて、頼りにされることに安心していたというか」
「そりゃ、な」
「シュヴァルもようやく少しずつ自信が出てきたみたいで、昔ほど人生相談もしてくれなくなって」
「そんなに頼られることが必要かな? 二人ともいずれは自立しなきゃいけないって考えると」
「いいえ、これからどれだけ時間が経とうと、私は二人のお姉ちゃんですから。これは必要なことなんです」
そう言いながら彼女は立ち上がり、俺の隣に椅子を並べて座り、そっと腕を組んできた。
「シーナ?」
「私はウマ娘である前に、一人の女です。あなたから信頼されているということを、妹たちにも示さないと」
「ここまでしなくても、十分信頼してるよ。だからちょっと離れようか」
「? 十分距離を取って指導を受けているかと思いますが」
「そろそろヴィブロスが……」
「おねえちゃーん、……あ、失礼しましたーっ」
シーナを呼びに来たヴィブロスが、ドアを開けて一瞬固まり、すぐに閉めて逃げるようにどこかへ行ってしまった。
「ほら。ヴィブロスにも分かってもらえたはずです」
「絶対誤解してると思う」
「ヴィブロスは私たちの関係を誤解したりなんてしませんっ」
「誤解したからあんなに焦ってたと思うんだけど!?」
それでもシーナは腕を組むのをやめない。さすがに距離が近すぎる。風紀的にいろいろまずいのではと思い、彼女に気づかれないようにそっと少しずつ距離を取ったが、気づいてすかさず詰めてくる。
「嫌ですか? こうやって、二人一緒にいるのは」
「嫌とかじゃなく、むしろいいんだけど、ここまでは」
「私たちは将来結婚を約束していますから。これくらいはためらいなくこなさなければ」
「その割にはめちゃくちゃ力強いし……というか、そもそもそんな約束」
ジェンティルドンナのことが頭にあるのかな、とは思う。ジェンティルは一足先に卒業し、それとほぼ同時にトレーナーを婚約者として迎え入れた。トレーナーと結ばれる多くのウマ娘が嫁入りを希望する中、婿入りさせたのはさすがというべきか。そんなジェンティルが近くにいたから、彼女が絡んだり、彼女を意識するようなことにむきになりすぎるところがある。
「だめでしょうか?」
「う、そう言われると」
断れるはずもない。すでにシーナは妹二人に「そういう相手として」俺を紹介し、三人のご両親にもあいさつを済ませているのだ。あとは俺が首を一度縦に振り、シーナの卒業が確定すれば、すぐにでも新婚旅行へ出かけることになるだろう。あっという間にそこまで話を進めてきたあたり、彼女はしたたかで恐ろしい。
「そういえば、あなたとのデートも断られてばかりです。つれないですね」
「それはまだトレーナーと担当だから……っていうかいつの間に『あなた』って」
「『まだ』ですよね? そうですよね」
「しまった」
「私の隣に立つ方として、自覚が足りないのではないですか?」
「まだ学生の子相手に自覚は難しいな」
「そこまで言うなら、今日のトレーニングは中止ですっ。着替えてきますからちょっと待っててください」
「あ、ちょっと勝手に」
ギリギリまで距離を詰めていたところから急に身を翻し、シーナは部屋を出て行ってしまった。仕事がまだ片付いてないんだよなと思いつつ、しかしどうにも手につかないでいると、彼女が戻ってきた。
「さあ、行きましょう」
「えっ」
「まさかお仕事優先とは言いませんよね?」
ウマ娘ならではの強い力で引かれ、カフェにナイターをやっている球場に映画館にと、あちこち連れて行かれた。そのどれもで手をつなぎ、場所を変えるたびに彼女との距離が近くなってゆく。いまだかつて、彼女がこんなに積極的になったことはない。俺に決断を迫っている証拠だ。
散々「カップル」として動き回った末、彼女は海岸沿いのベンチに俺と並んで座り、やはり腕を組んできた。
「これも、予行演習……?」
「ええ。あなたは他の誰にも代われない、私の『一番』ですから」
「なかなか責任が重たいことを」
「ウマ娘一人の人生を預かるというのは、そういうことですよ」
「トレーナーとしては、散々やってきたはずなんだけどな……」
何度ジェンティルドンナというウマ娘に打ち負かされてきたことか。今でも無意識のうちに唇を噛んでしまうほど、悔しい思いをしてきた。だがそこで折れずになんとか踏ん張って、一番になる道を探し続けた結果今がある。ほとんど意地だったのかもしれない。それができたなら、一人の女性として彼女を守ることくらい、なんてことはないとは思う。
「さて。休憩もできたことですし、行きましょうか」
「え、早いかも」
「夜景が見たいんです。あそこはどうでしょう?」
シーナが指差したのは、横浜ランドマークタワーの展望フロアだった。ここまでで結構いろんなところに行ったはずなんだけどな、という意思を目線でシーナに伝えるが、
「……ダメですか?」
とヴィブロスのようなおねだりをされたのであっさり折れてしまった。必要とあらば妹の手段も使ってくるシーナ、その時の彼女には決して敵わない。
「もう少し、付き合ってくださいね。あなた」
再びシーナに手を引かれ、俺たちは夜空に浮かぶ庭園へ走り出した。