「今日はあと……ええと……」
トレーナーどうしの打ち合わせが二件あり、へとへとの状態でトレーナー室に戻ってきた後、わずかな癒しを求めて椅子に腰かける。小腹が空いているのか空いていないのかも分からない状態、体調が悪いと言われればそんな気もする。この後は担当のヴィブロスのトレーニングに付き合って、若干被せているもう二人の娘のトレーニングメニューのチェックも進めなければならない。少し休憩して、水を一杯飲んでからヴィブロスを待とうと考える。
「……いけない」
「少し」休憩をするつもりが、五分も座ってぼうっと遠くを見つめてしまっていた。自分がひどく疲れているのは分かっている。分かっているが、分刻みのスケジュールの中で、ゆっくり物思いにふけっていられる時間はそう長くはない。喉が渇いたし水を飲もう、いややっぱりお茶にしようかと思い直して席を立ち、冷蔵庫の方へ向かおうとした。その途中で、力尽きて倒れてしまっていたらしい。
「トレっち……あれ、トレっち……トレっち!?」
迎えに来ないのを不審に思ったらしいヴィブロスがトレーナー室に来て、倒れた私を発見し、彼女には珍しく慌てた様子で声をかけてくれていたことだけは、記憶に残っている。
***
「ん……」
「あ、トレっちお目覚め? もー、心配したんだよ?」
「あれ……ヴィブロス」
お粥っぽい匂いが鼻腔をくすぐり、どうしてそんなものを作っているんだろうと考えてから、自分がベッドの上に寝かされていることに気づいた。ぐつぐつした鍋の前で、ヴィブロスは分かりやすくぷりぷりと怒っていた。声は全く怒っていないのに、体にはぐっと力が入っている。こういう時のヴィブロスがいちばん怖い。
「聞いたよね、最近無理してない?って」
「言ってたかな、そんなこと」
「……ふうん、そういうこと言うんだ」
「ごめんなさい、嘘です。無理しました」
普段めったに怒らないからこそ、怒った時の怖さたるや。そもそも、ヴィブロスはあんまり容量のよくない私が複数人担当することに猛反対していた。それを今後のヴィブロスのためにもなるし、トレーナーとして経験を積まないといけないからと無理やり主張し続けて、最終的に彼女が折れて今がある。ヴィブロスはそれ見たことかと思っているに違いない。
「やっぱり、やめた方がいーよ。複数担当なんてさ」
「でも、ずっとヴィブロスだけ見てても、トレーナーとして成長はできないし」
「それで倒れてたら意味ないよ? しかも、私に看病されるなんて」
「う……」
基本的に私は何も言い返せない。ただ、ヴィブロスが嫌だとかそういうことではなく、本当に純粋に、私自身のこれから先のことを考えるのであれば、複数担当も経験すべきという考えは変わらない。ちょっとでも回復したところを見せないとと思い、起きあがろうとすると、すとんとヴィブロスが私の足の近くに腰かけてきた。
「えっ」
「トレっち今起きあがろうとしたでしょ。ダメだよ、ちゃんと動けるようになるまで起こしてあげませんっ」
「そ、そんなことないんだけど」
「抵抗するんだったらこうだよ」
今度はだらんと私に重なるように寝転んで、いよいよ私は寝返りを打つことすらままならなくなる。もっとご飯を食べろと指導するほど華奢な体型といえど、さすがにウマ娘。体に入っている力も並大抵ではない。
「お、起きれない……」
「ようし、じゃあこのまま横に行っちゃうね」
そのままごそごそと私の隣に潜り込んでくる。あったかーい、と彼女が嬉しそうに尻尾を振る横で、こほこほと咳き込んでしまった。自分でも分からないうちに、相当体調を崩していたらしい。
「風邪うつっちゃうから、距離とって」
「やだー」
「心配しなくても、これ以上は無理しないって」
「ほんとかな〜」
「ヴィブロスに黙って忙しくしてたことは謝るから……」
ヴィブロスの表情や尻尾を見るに、すぐ近くでスキンシップを取れる嬉しさ半分、そんなトレーナーが自分に黙って倒れるまで無理をしていたことに対する不満半分、といったところだった。さっきより怒り成分はちょっと減った気がする。
「トレーナーさんはさ。私と一緒にセレブな世界とかみんなを見て、どう思った?」
「どう思ったって……」
「一緒にドバイ、行ったよね? 香港も……私がずっと憧れてたセレブな世界とか暮らしとか、いっぱい見せてくれた。トレっちだって、何も感じなかったワケじゃないでしょ?」
「……うん、まあ」
感じたことはいろいろある。栄誉ある中央のトレーナーとはいえ、その暮らしは石油王とは比べ物にならない。しかし彼女が言いたいのはそこではない。もっとぎゅっと、彼らの暮らしをまとめるとすれば、それは「余裕」だ。日々の食事、余暇の過ごし方、所作の一つ一つ。それら全てに華と、「余裕」がある。
対する私はどうだろうか。とにかくこのままじゃダメだ、成長しないとという気持ちばかり先行して、元からそれほど時間的、体力的な余裕もなかったのに複数担当に手を出してしまった。そして仕事のあまりの多さに自分が今何の仕事をしているのか分からなくなっても、それを今まさに成長している証だと勘違いしていた。余裕なんてものはなくて、単に周りが全然見えていなかったのだと、ようやく気づいた。
「私以外の子を見ちゃダメって、言ってるわけじゃないよ? 私と似たような……ライバルになりそうな子ばっかり狙ってスカウトしてるのは、どうかと思うけどさ」
「う……」
「だけど、他の人から見ていっぱいいっぱいって状況、ダメだと思うな。トレっちが倒れてトレーナーできなくなっちゃうの、ヤだし」
これまでヴィブロスを諭す機会はたくさんあったが、逆に彼女に諭されるのは珍しかった。それだけ彼女から心配されるようなことをしていたのだろう。その可能性にいったん気づくと、体のあちこちが痛く、完成したお粥をよそいに行くヴィブロスを目で追うことしかできなくなってしまった。
「はい。これ食べて、お仕事はしばらくお休み。トレっちはお仕事したがりだけど、あと何日かはしちゃダメだからね」
「……うん、分かった」
ヴィブロスは用意周到で、私の仕事用のパソコンをカバンから取り出し、どこかへ持っていってしまった。グラウンドに出て担当のタイムや状態を見なくとも、文献やデータを見るという形でいくらでも仕事ができてしまうのが、トレーナーのよくないところだ。周りにも確かに成長はしているけれど、そうやって無理をしている人が何人もいる。彼らは多少無理をしていてもプライベートでの息抜きの仕方、つまり「余裕」の持ち方が分かっているのだろうけれど、仕事とプライベートをついごっちゃにしがちな私にそのスタイルは向いていないのかもしれない。
「どう? おいしい?」
「……ん、ちょっと味薄いかも?」
「ダメだよ、そんな味濃いの食べたら。がまんがまん」
「はーい……」