私はあのヒトのことが嫌いだった。
いつも速くて、短距離ならどんなレースだって全速力で駆け抜けるし、一番にぶっちぎってゴールする。本当はゴール板がどこにあるかすら分かってないんじゃないかと思うくらいに、ゴール位置を過ぎてもほとんどトップスピードで。本当は私だってあの一群の中に混ざって、その背中に追いついて追い越したいのに。あのヒトに追いすがる子たちにも追いつけず、そもそも私はそういう大きなレースを観客の一人として見ることしかできなかった。
「おはようございます!」
「……おはよう」
「ほら、元気よく大きな声で! おはようございます!」
「……っ」
「どうしましたか! 具合でも悪いのですか!」
「……違う」
スプリンターとして、あのヒトに敵うウマ娘はいない。一緒に走る前からそう思わされるくらい完璧で。そのくせレース場以外では、まるで人畜無害なウマ娘かのように、校門前に立っていつも大きな声で気持ちよくあいさつをしていて。まるでよく似た別人がいて、別々に行動しているかのようだった。それくらい、レースの時に見せる覚悟の決まった顔と、こんな私のことすら名前までしっかり覚えて、声で吹き飛ばす勢いで話しかけてくる時の顔はまるで違っていた。レースの時に感じ取れる雰囲気は、恐怖などという生易しい言葉では表現しきれない。
「そうでしょう、そうでしょう! もっと褒め称えてくれてもいいのですよ!」
サクラバクシンオー。どうして爆風のようにトップスピードで駆け抜け、私のことなど気にも留めていないようなあのヒトに、そんなあまりにもぴったりな名前がついているのだろう。そんな名前をつけてもらえていることに、そしてその名前に恥じない走りができていることに、私は嫉妬と焦りしか覚えなかった。目の上のたんこぶですらない、遠い雲の上の存在なのに、同じ距離のレースを走り、ウマ娘の速さの限界に挑む同じスプリンターとして、私は常に彼女のことを意識していた。
『どなたですか? そんな名前のウマ娘、私は知りません』
彼女がどんなに強くたって、その一言だけは言われたくない。負けるだけならまだいい。私の力が足りなかっただけ、彼女が他をなぎ倒すほど圧倒的に速かっただけ。そうやってそれらしい理由をつけて、自分を納得させられる。でも私の名前を覚えてくれていないのは違う。こっちが散々意識しているのに、向こうは気にも留めていなかったなんて、そんなことを知りたくない。
分かっている。彼女がそんなことを言うようなヒトではないことは。これも学級委員長の仕事だと言って、クラス替えをしたら真っ先にクラスメイト全員の名前を覚えて一人ずつ声かけするのを忘れないサクラバクシンオーというウマ娘が、いくら勝てていないからといって私の名前だけピンポイントで忘れているなんて、そんなことがあるわけがない。それでも、彼女が勝負の時に見せてくる顔が、私をその都度恐怖に陥れてくる。
そんな彼女が突然、トゥインクルシリーズを引退すると宣言した。私は直接聞けなかった。スプリントの雄がまた一人ターフを去ると惜しまれ、あちこちで話題になっているのを、人づてに聞いたのだ。
「……ありえない」
最初にそのニュースを聞いた時、私は思わずそうこぼしていた。言うまでもなく、サクラバクシンオーはスプリント最強。史上最強のスプリンターとも言われるほどだ。どんなウマ娘だってキャリアの最後の方は次の世代のウマ娘たちに追いつけなくなり、やがて引導を渡されるのが世の常。全然勝てずに苦しんでいる私のところにさえ、次から次へと私より後にデビューしたウマ娘たちが現れて、そして飄々と勝ってはより上のクラスへ行ってしまう。それなのに、彼女は最強の名をほしいままにして、向かうところ敵なしなまま、第一線を退こうとしている。それが純粋に、許せないと思ってしまった。今の私なんかが彼女と同じ舞台に上がったところで、勝てっこないのに。弱いところを見せてくれないと困るだなんて、思ってしまった。
「……本当なの、引退するって」
「……? あぁ、そのお話でしたか」
衝動に駆られ、学園に戻り、血眼になって彼女のことを探した。教室にグラウンドに寮にと、いろんなところを探し回って見つからず。校外も探さないといけないかと諦めがつき、校門までやってきたところで、ばったりと出くわした。落ち着いた声色は、はっきり本人だと認識しておきながら声をかける相手を間違えたかと錯覚するほどだった。
「あなたも私のレースを見ていたのであれば、分かるでしょう。スプリント路線に、もはや私の敵はいません」
「そんな……そんなこと、許さない。ずっと強いまま、誰にもバトンを渡さずにいなくなるなんて」
「――さん」
ふと、彼女が私の名前を呼んだ。制服にもジャージにも、私の名前は書かれていない。彼女は私の名前を、はっきりと覚えていたのだ。そのことに驚いていると、彼女が追って言葉を投げつけてきた。
「……本当に強いウマ娘は、孤独になるのですよ」
「……っ!?」
「向かうところ敵なしとは、競い合い高め合えるライバルがいないのと同じ意味なのです」
「……なに? 私たちがまるで敵じゃないって言いたいの」
「その通りだと言ったら、どうしますか?」
「……っ」
そこまではっきり言ってこられるとは思わず、ぐっと顔をしかめてしまった。同時に、やっぱり薄々でもそう思っていたのかと、自分の中で確かめられてしまった。
「競い合うライバルがいなければ、私自身も強くなれない。速くなれない。そろそろ、そんなことを感じるようになってきました」
「だから引退するの? もう飽きたってこと?」
「私の役目はもう終わりました」
彼女の目にはどこか、寂しさが宿っていた。本当はまだこの世界に身を置いていたいという思いが
「役目……?」
「私がこれだけ速いところ、そして私に勝とうとたくさんの方たちがしのぎを削ってきたところをみなさんにお見せしたことで、スプリント路線を面白い、もっと見たいと感じる方が増えました。私がいなくなっても、もう少し前までのようにスプリンターたちの影が薄くなることはありません」
「……」
「あなたに私が飽きてしまったように見えたのなら、それでもかまいません。でも」
「……っ」
最後は誰も絶対に追いつけないほどのスピードで走ってみせます。
最後の最後まで、絶対に勝てないとみなさんに思わせてみせます。
「……っ!」
「ですから、最後のレースには必ず来てください」
有無を言わせぬ口ぶりで彼女は言った。その言葉に嘘はないだろうと思っていた。彼女はどれだけ走ってもまるで衰える様子がなかったし、追いつけるウマ娘が現れることなんてそうそうないとも感じていた。だから、彼女自ら引退戦と位置づけたG1レースで逃げ切り、圧倒的な速さを目の前で示された時、私はため息をつくしかなかった。そこには確かに、彼女がターフを去ってよかったのかもな、という思いがあった。
『私の役目はもう終わりました』
私が彼女の代わりを務めることはきっとできないし、彼女に追いすがるほどの速さもきっとない。それでも、彼女は私の憧れであり続ける。