「……最低」
制服の上から下までしっとりと雨で濡らして帰ってきて、部屋のドアを開ける直前、自分にしか聞こえないくらいの声でそっとつぶやいた。アタシじゃなくて、トレーナーが。それなりの期間一緒にやってきた彼のことを、かつての関係から「トレーナー」なんて呼ぶのは仰々しいのかもしれないけれど、でもやっぱり距離感のあるそんな呼び方を使うしかないと思っていた。
「おー、スカーレッ……」
いつも部屋に戻ったら声をかけてくれるウオッカにも、何も返せなかった。うつむいて、明らかにただ事じゃない雰囲気を出しているのに気づいて、ウオッカの声が途中で止まる。泣き腫らしてみっともない顔を見せてるなと気づきつつ、でもやっぱりウオッカに事の
「……言っちゃった」
「『別れる』とか」
「言うつもりなかったのに……」
こっちが何を言っても、何も分かってくれないんだと思って、ついそんなことを言ってしまった。「もういい、アンタとはもう別れるから!」と。一回言ってしまったら引き下がれなくて、逃げるように帰ってきてしまった。最初のうちこそ自分は悪くないと思っていたけれど、そんなのはただの強がりで、少し考えれば自分の方こそ悪いことくらい、すぐに分かってしまった。
『ダメだ。スカーレットはトレーナーに向いてない』
『なんでそんなこと言うわけ!? アタシが何になろうがアタシの勝手でしょ!』
『担当に厳しく接するだけがトレーナーの仕事じゃないんだ』
元はと言えば、アタシが進路調査票に「トレーナー養成学校」と書いたのが彼にバレたのがきっかけだ。別に隠す気はなかったし、彼の背中を見て自分もああなりたいと思ったから正直にそう書いただけなのに。でもそれは、「彼も素直に応援してくれるだろう」という前提を信じて疑っていなかったからだった。
『俺に憧れてトレーナーになりたいって言ってるなら、他の道を考えた方がいい。これは提案じゃなくて、忠告だ』
『……なに? 自分が追い越されたくないから、そんなこと言ってるわけ?』
『違う』
アタシだって、惚気とか親密な関係とかの延長線上に仕事を置いてはいけないことくらい分かっている。そんなことをしたら学生気分で考えるなと言われるのは目に見えているし、彼にそれを言われるのが一番嫌だった。だからどうして自分がトレーナーを目指すのか、きちんと理由を考えて、面と向かって言えるようにしてきたつもりだった。でもそれもやっぱり、彼にある程度肯定してもらえることが前提になっていた。まさか、真っ向から否定されるなんて夢にも思っていなかったのだ。
『俺がスカーレットに追い越されるのは全然構わない。むしろ後輩に追い越されてこそくらいに思ってる。でもそれは、スカーレットがトレーナーに向いていたら、の話だ』
『……じゃあ、何よ』
『その性格じゃ、担当の子に恨まれて終わるだけだ。それが手に取るように分かるから、やめておけって言ってるんだ』
『そんなの……やってみなきゃ分からないでしょ』
『やってみなくても分かるから言ってるんだ。常に一番であり続けることを、担当に強要しない自信があるか? 真っすぐ俺の目を見て、それでも言えるなら、トレーナーになるのを応援してやってもいい』
その時、「やってやるわよ」と言いながら、彼の目を見れなかった。ちょっとうつむき加減で、ぼそっとぼやくように言ってしまった。それが何よりの証拠であることを、彼に見せてしまった。
どんなことでも、自分が一番にならないと気が済まなかった。レースも、勉強も、食堂の順番待ちだって。一番になれないと分かったら、体の奥底からムズムズして、いてもたってもいられなくなる。だから一番になるために頑張るべきことは、なんだってやってきたつもりだ。
『自分が当たり前のようにやってきたことが、他人も当たり前のようにできるとは限らない。トゥインクルシリーズが終わってからも、俺はスカーレットにそれを教えてきたつもりだったんだが』
『……そんな言い方しなくたっていいでしょ』
『若い子の夢を絶つ真似はしたくないけど、それが今の俺の評価だ。スカーレットが見習いトレーナーになったら、遅かれ早かれ俺の下につくだろうし、その時に文句を言われるくらいなら今忠告しておいた方がいいと思う』
『……もういい!』
ちょっと落ち着いて考えれば、すぐに分かることだ。すぐ隣にいるウオッカと比べても、体つきや走り方、得意な距離、何もかも違う。似ているところはあっても、同じところはない。自分の当たり前が、同じように当たり前な人は少ない。頭では分かっていても、トレーナーになったら担当の子にきついことを言ってしまうんじゃないか。彼に言われて、腑に落ちてしまった。さすがに何年もアタシのことを見ているだけある。
「担当に厳しく接するだけがトレーナーの仕事じゃない……か」
もちろん最初から厳しく接しようなんて思っていない。甘やかすつもりはないけれど、先達として、指導者として、尊敬されるウマ娘でありたい。なるからには一番優秀なトレーナーでないと意味がない。
「……そういうところがダメ、ってわけ?」
今頃彼はどうしているだろうか。アタシに何か言われたところで、今さら動揺するような人ではないと思うけれど。やっぱり考えれば考えるほど自分が悪いと思えてくるし、何か言わないとこのままずるずると、話さない期間が長くなる気がした。カバンからスマホを出して、意を決してえいっと発信ボタンを押した。
「はい」
「……もしもし?」
「どうした」
「…………ごめん」
「……」
面食らったようにちょっと黙った後、言葉を探し終えたのか彼が声をかけてきた。
「自分から謝ってくるなんて。偉いじゃないか」
「……なによ。子ども扱いする気?」
「俺から見たら、スカーレットはまだ子どもだぞ」
「そういう話はいいの……」
電話の向こうは静かだ。帰り道ではなさそうだった。歩いて駅まで行って、電車に乗って、家までまた歩くらしいから、まだ彼がトレーナー室にいるらしいことは電話越しにも分かった。
「……なに、してたの」
「なにって、まだ仕事だけど。次の担当の子、なかなか自分の適性が分からなくて迷走してるみたいでな。最近情報集めだけですぐ一日が終わるから困ってるんだ」
「…………なぁんだ」
スマホを胸に抱えて、ぱたんとベッドに倒れ込むと、自然に笑みがこぼれた。アタシがあれこれ悩んで、自分から謝るべきか連絡を待つべきかなんて考えていたのが馬鹿みたいだ。彼はアタシとこれくらいの関係になっても、ケンカをしてもどこまでも馬鹿正直で、担当ウマ娘のことしか考えてなくて。周りが見えていないのに、誰よりも未来を見ていて。そういうところが好きなんだと、改めて思った。
「なぁんだってなんだよ」
「いいえ? やっぱりいつものトレーナーなんだなって思っただけよ」
「その呼び方やめろよ……仰々しい」
「やめてあげない。アタシにトレーナーになるなって言ったから」
「根に持ってるんじゃないか」
「……でも、アンタの言いたいことは分かった。いったん学園から飛び出して、社会の勉強をしろって、そういうコトでしょ」
「……ああ」
ふと、少しだけ開いた部屋のドアの隙間からちらりとこちらをのぞくウオッカと目が合った。しゅっとウオッカの方が引っ込んだがバレバレだ。なんだか気まずくなったが、ここまで来たら行くところまで行ってやろうと決める。
「別れる、とか言ったの。……やっぱりナシでもいい?」
「何言ってるんだ。勢いで言ったことくらいバレバレなんだから、ハナから本気にしてないって」
「……なにそれ、そういう言い方ムカつく」
「とにかく、風邪引かないようにな」
「ねえ、寝るまで電話つないでてもいい? いいでしょ」
「その前にお風呂に入ってきなさい」
「……分かったわよ」
お風呂にも入らず悩んでいたことまでバレバレらしい。電話を切って、やっぱりまだ部屋の前にいたウオッカを呼ぶ。
「なんだよ、トレーナーとイチャイチャ電話するなら言えよなあ」
「でもいったん一人にしてくれたでしょ。……ありがと」
「珍し、ってか素直すぎて寒気するっての」
「なんですって?」
「それより風呂行こーぜ、まだなんだろ?」
「あ、ちょっと……もうっ」
風呂上がりは適当に走り回ってりゃ髪なんてすぐ乾く、と豪語するウオッカと違って、アタシは持っていくもの、準備しないといけないものが山ほどあるというのに。慌てて準備を終わらせて、そそくさと大浴場に向かってしまったウオッカを追いかけたのだった。