「……もしもし? おい、なんだそのさっき起きたような鼻声は。もう少し人の慶事に出席することの重大性をだな? まったく、私はすでに出発する手筈まで整っているというのに……」
『ケイジ……あぁ! きょ、今日か!』
「貴様……まさか今の今まで忘れていたとは言わないだろうな?」
『あーいや、ちょっと、昨日は遅くまで起きてて……』
「よりによって、学生時代に面倒を見てきたウマ娘の結婚式の日時を忘れるとは何事だ? それでも私の元トレーナーか?」
『すまない、すぐ用意するから……』
「はあ……身支度だけは早いから救いがあるものの……」
私が在学していた間、彼の私生活についてはきっちり正したつもりだったのだが。出会った当初は、これでもウマ娘の人生を預かることができるのかと怒りを通り越し恐怖を覚えたものだった。私のトレーナーを務めるからにはどこへ出しても恥ずかしくない人間にしなければ、と思っていろいろ教えたが、今から考えるとあれは私の習慣やら癖やらを押しつけていただけだったのかもしれない。教えたことの半分以上が彼の身についていないことを考えると、彼の育ってきた環境とはいろいろ相容れぬところがあったのだろう。
『あれ? ……あれっ』
「今度はなんだ」
『俺のネクタイ知らないか、そっちにあったりとか……』
「たわけ、貴様が正装でうちに来たことなどないだろう」
『そうだよな……』
「少し考えれば分かることだ……ってなんだ次から次へと、まったく……もうそちらに行くぞ、いいな?」
『はい……』
白いネクタイがないと言ったのに続き、小物を探しているのか慌てふためきながら何かを倒す音が電話越しに聞こえた。いよいよ我慢ならなくなり、私は彼の家に行くことを決めた。もともと目的地の式場には彼の家の方が近く、寄り道する予定だったから、それが少し早まっただけで想定内の話だ。
今日はスズカの結婚式。彼女がかつての担当トレーナーとゴールインする日が来るとは思っていなかったが、私も彼と結婚秒読みであるあたり、周囲からは意外に思われているだろうし、人のことは言えないのかもしれない。
「失礼する……」
「ああごめんエアグルーヴ、わざわざ来てもらって」
「たわけ、こんな情けない形で家に嫁を入れるばかがあるか」
「エアグルーヴには何度もウチに来てもらってるだろ……?」
「そういう話ではない」
だらしないわけではない。彼の家に来ると無性に掃除をしたくなってしまうが、それは私の性分ゆえのこと。私が口酸っぱく言うようになってから、それなりの頻度で掃除や整理整頓はしているようだし、それによってトレーナーとしてより信頼される人にもなったようだ。昔に比べればずいぶんしっかりした男になったのだから、褒めてやりたい……と思ったのだが、やっぱりまだまだ粗があるようだ。
「やはり貴様の言い分を跳ねのけて、先に同棲しておいた方がよかったか……」
「いや、でもほら。俺だって、人に見られたくないものはあるわけだし」
「たわけ。私だって貴様に見られたくないものは……いや」
「いや?」
「なっ……何でもない! 早く支度をしろ……!」
彼にも彼なりに、譲れない生活習慣があるのだから、私の価値観ばかり押しつけるわけにはいかない。とは思うものの、結婚して一緒に暮らし始めれば、価値観をある程度は共有する必要があるだろう。新婚の忙しい時期にそのストレスが重なって大丈夫だろうかと、今さらながらに後悔する。
「終わったぞ、ごめん待たせて」
「うん? ……おい、何が『終わったぞ』だ?」
「え?」
「まずネクタイが曲がっている。裾も曲がっているし、それに……」
「あー、大丈夫だって、そのへんは向こうに着いてからでも……」
「ばかを言うな。式場に入る時点、いや家を出た瞬間から式は始まっているんだ。新郎新婦に見られている間だけきちんとすればよいなどという考え方はだな……」
ほとんど無意識のうちに彼に小言を言って、呼んでおいたタクシーに二人で乗り込んでから、自分の行いを顧みる。
『私は反対する気はさらさらないけど、これだけは覚えておいて』
『……? はい』
『あんたはトレーナーさんの嫁になるの。オカンじゃなくてね』
『はあ……何をおっしゃるかと思えば』
彼と結婚したいという旨をお母様に伝えに行った時、そう言われたのを覚えている。「担当トレーナーと結ばれる」ことは、学園を卒業したウマ娘にとってそう珍しくない。今も学園の歴史に名を残すお母様も当然知っているはずで、私もその道を踏襲することに何と言うか、そのことばかり考えていた。お母様の言葉に、私は素直に拍子抜けしてしまったのだ。しかしその意味が、今になって理解できてしまった。これでは私は彼の妻ではない、母親になってしまう。
「……考え方は、だな」
「ん?」
「……なんでも、ない。すまなかった、少々言い過ぎた」
「いや、大丈夫。俺が相変わらずだらしないっていうのは、よく分かってるつもりだし」
「とはいえ……」
「この話はこれでおしまいだ。……あれ、これ俺のセリフじゃないか?」
「そうだな……」
学園で活躍したウマ娘と、そのトレーナーの結婚式とあって、式場に吸い込まれてゆくゲストはみな顔見知りばかりだった。前を行くトレーナーが誰を担当していたかはっきり思い出せるほどに。まだ彼と結婚することは周りに言っていないし、それが悟られるのもよくないかと思い、タクシーを降りる直前で彼に耳打ちし、少し距離を開けて受付まで済ませた。
「意味、ないみたいだぞ」
「なに?」
「ほら、あそこも、そっちも。やっぱりトレーナーと結婚するウマ娘って、多いんだな」
「結婚しているとは限らんだろう……」
「でも指輪も結構見えるな」
「……生徒会にいた頃は、まさか自分までこうなるとは思ってもみなかったんだがな」
「俺と結婚するの嫌だった?」
「たわけ。そんなはずがないだろう」
反射的に言ってしまってから、慌てて口を覆う。これでは惚気そのもの。今日の式で最も幸福なのは、新郎新婦でなければならないのだ。
いったん式が始まると、滞りなくプログラムが進んでいった。ゲストもみなすっかり慣れた様子だった。思い出のムービー上映が、新婦の活躍したレースのダイジェストであるあたりも、良く言えば前例の踏襲、悪く言えばお決まりの流れ。お母様が私の結婚式で同じような動画を見ればきっと、「代わり映えしなくてつまらない」「あんたの学園生活をドラマ風に仕立てたムービーにすればいいのに」などと言ってきそうだが、なんだかんだで私も前にならってしまうのだろう。
「おめでとう!」
最後は屋外へ出て、誓いの儀式。彼の親友でもあるスズカのトレーナーが、初々しい様子でスズカのベールを持ち上げ、そっとキスをした。もう間もなく私も同じ立場になるのかと考えて、そわそわしてしまった。そんな中で、幸せは「次」へと受け継がれてゆく。
「エアグルーヴっ!」
スズカの一声を、私は確かに聞いた。私が確実に受け取れるような投げ方。ブーケの方が最初から居場所を探していたかのように、すっと私の腕の中に収まった。
「……ふっ」
「どうした?」
「いいや。……スズカも、ずいぶん粋なことをすると、思っただけだ」
「早く、挙げような」
すでに彼からのプロポーズは受け取っていた。普段はいろいろ抜けているところがあるくせに、そこだけは用意周到で、何も知らなかった私は素直に驚かされてしまった。もう、籍を入れるまでは秒読みだ。抱えた花束を見つめながら、私は彼に向って微笑んだ。