「……もしもし、兄さん?」
一人、横たわったベッドの上で横向きのスマホに語りかける。ダイヤちゃんはフランス遠征でいない。トレーナーさんも泊まり込みの研修でいない。そんな時に急にこれからのことが不安になって、地方のトレセンのトレーナーとして働く兄さんに電話をかけた。
「どうした」
「…………うーん」
「焦らなくていいぞ」
いざ声が聞こえると、何を言えばいいか分からなくなる。ぼんやりとした不安があるのは間違いないけれど、その正体が何なのか、はっきりとは分からないまま発信ボタンを押していたから。いったいあたしは、何を悩んでいるんだろう?
「……兄さん、ってさ」
「うん」
「怖く、ないの」
「怖い?」
「……兄さんが担当してるウマ娘が、ある日突然、弱くなったら。誰にも、勝てなくなったら。……とか、考えたことある?」
自分のことのはずなのに、口から出てくるのは「兄さんだったら」という枕詞。それが自分のことだったらと、まだ認められていないのは、自分でも分かる。
「考えたことは、ない」
「……っ!」
「俺の担当は、いつでも強くて、誰にも負けない。弱くなるなんてことは、ない」
「どうして。……どうして、そう言い切れるの」
「トレーナーとしての、責務だからだ」
兄さんなら、そう言うと思っていた。地方と中央、所属するウマ娘の差を身にしみて分かっている兄さんだからこそ。ダイヤちゃんにも、あたしのトレーナーさんにも相談できなかったのは、そのせいだ。二人が何も分かってくれないわけじゃない。
「逆におまえは、怖いのか?」
「あたし、は……」
「見たぞ、この前の天皇賞秋。泥のようなバ場で、おまえの得意な走りができていたようには、確かに見えなかった。タイムもはっきり、遅かったと言っていい」
「それでも、勝ったんだよ、あたしは」
「勝った『けど』なんだろ、おまえにとっては」
「……っ」
それがわがままで、ぜいたくなことを言っているとは、自分でも分かっている。どんなにバ場状態が悪くても、どんなにコンディションが悪くても。他に出走するウマ娘の実績がどんなものであろうと。「G1レースで勝つこと」の重みは凄まじい。クラシック級限定かそうでないか、世代をまたいだ勝負かそうでないかという点での優劣はあれど、同じG1レースどうしで上下関係はない。だから、あの時のレースの価値がどうこうなんて言うつもりは、全くない。
『どうして』
ゴール板の前を駆け抜けて、減速して。その時、自分が一着になったか、他の子たちはどうだったのか、その差はどれくらいだったのか、掲示板の方を見る余裕は全くなかった。いつまで経っても落ち着かない息。呼吸をすればするほど、暴れる心臓。
『なにかが おかしい』
半年前、天皇賞春を走り切った時はこうならなかった。あれだけの長距離を駆け抜けておいて、息は上がれど呼吸が追いつかないなんてことはなかった。爽快感すらあったと言っていい。あれに比べれば、天皇賞秋の2000mはずいぶん短いはずだった。
『これが 衰え』
その時、頭をよぎった言葉。全力で鍛えれば、自分も周りも信じれば、いつまでだって速く、速く走れると信じて疑わなかったあたしが、初めて「自分のことを疑った」瞬間。それはすぐに確信に変わった。何人も同じようなことを経験しただろうウマ娘を見てきたから。
ヒトならば、ピークは必ず存在する。それが遅いか早いかという問題で、ずっとトップレベルを維持できる人はどんな分野でも存在しない。ウマ娘がいかに人間とかけ離れた種族であっても、そこは同じはずだ。
「おまえは……おまえが、弱くなったわけじゃない」
「……兄さん」
「おまえがそうやって自分のことを責めるなんて、らしくないだろ。反省するのは、自分が不甲斐ないレースをした時だけ。自分がどれだけいい走りをしても、それを上回る走りをしたウマ娘が勝つ。そうじゃなきゃ、レースである意味がない」
「自分を鍛えれば鍛えるほど、追い込めば追い込むほど、強くなる。でも、それ以上に強くなったウマ娘が同じレースに出走してきたら?」
「……その時は、負けるよね」
どれだけ鍛えて、最高の状態でレースに出られたと思っても、相手がもっと練習して鍛えて、もっと強くなっていたら。その相手の強さが、あたしがどれだけ頑張っても届かないものだと思ってしまったら。
あたしは、そこで終わりなんだろうか?
「……いや。でも、終わりたくない」
「そうだ。……負けても、それが悔しいと思い続けられる限り、おまえは強い。悔しいと思えるのは、おまえが限界まで鍛えて、最高の状態でレースを迎えられているからだ」
いつしか、窓の外では雨が降り出し、ガラスに打ちつける音が時々響くようになっていた。雨は嫌いだ。しとしとと降っているだけでなんだか気分が下がるし、髪も尻尾も上手くまとまらなくなってしまう。それに、前にレース本番で雨が降って、足を滑らせた時のことを思い出してしまう。小雨でもなく、どしゃ降りでもなく。中途半端なその降り方が、いまいちまとまりきっていなかったあたしの気持ちを表しているかのようだった。
「頑張るよ。あたし……」
「ああ。おまえからもう一回、その言葉が聞けただけでも、俺は嬉しい。……今度はもっと、明るい声で報告、待ってるからな」
「うん。……ありがとね、兄さん」
二人分の声が響いていた部屋が、また静まり返る。しばらく、雨は止みそうにない。それでも、明日から気を取り直して頑張ろうという気持ちが、あたしの中でまた燃え始めていた。