「やっと追いついた! 朝からずっと探してたんだぞ」
トレーナーは捲し立てながら、コンビニの駐車場を突っ切ってこちらへ向かってくる。その背後には彼の乗用車である緑色の軽自動車が見えた。おそらく職員寮からあれに乗って、ここまで私を追ってきたのだろう。
いいや、そのようなことはどうでもいい、なぜ、どうして彼がここまで!?
「なぁアルダン。もう一回ちゃんと話そう? 諸々の事情はライアンからも聞いたよ。君の肩にどれだけの物が乗っているか、俺には想像することもできないけど。担当トレーナーとして、まだやるべきことがたくさん残っているんだ」
どこまでも優しく、柔らかい声に反して、彼は近寄る速度を緩めない。もう一瞬でも間を置けば、その手が私の腕を掴むことだろう。今度こそ、二度と逃がして貰えない。そうなったら本当にお終いだ。だって私は彼に抵抗なんて本来できない。あの職員寮での攻防が一回きりの奇跡だったというのに。
逡巡の猶予は僅か三秒の間だった。彼に一言たりとも応答することなく、私はさっと踵を返した。その勢いのまま、脱兎のごとく駆けだす。「なっ!」背中越しに聞こえた、彼の驚く声。しかし私が逃走を図ると予想自体はしていたか、遅れてエンジン音が届いた。
専用レーンへ私が舞い戻ったところで、駐車場から緑の軽自動車が飛び出してくる。タイヤを騒々しく擦らせて、左レーンに乗った。ライトの両目が照準を合わせる先は、もちろん逃げ行く私。
「トレーナーさん……!」
これから始まる愚かな逃避行の全容が、瞬間、無声映画となって脳内に映し出された。全速力で走り続ける私を、どうにか止めようと車で追いすがるトレーナー。そのシーンがだけがエンドレスに流れる。
「あああっ……!」
これほど凄惨な拷問が世にあるだろうか? 耐え切れず嗚咽が喉から溢れ出して、それと一緒に恨み言がほとばしった。
「酷い、こんなのって……! こんなのあんまりです、いったい誰が……あっ」
涙を振り切ろうとかぶりを振ったところで、その下手人とちょうど目線が合った。真向かいのレーンをひた走るウマ娘、彼女は何かを言うよう口元を動かした。
「ごめんなさい……アルダンさん」
心底申し訳無さそうに謝るライアンに、ようやく私は合点がいった。
――騙された、これは最初から勝負などではない。トレーナーが追いつくまでの時間稼ぎだ。そう考えれば辻褄が合う。先を行く私がやりたい放題である点だとか、詳細なルールがおざなりであった点だとかも。全ては私を納得させて、地上に下ろすための作戦だったのだから、細かい部分はどうでも良かったわけだ。
「ライアン! ゆるしま……っ」
それでも彼女に『許さない』とは言えなかった。私を思っているからこそ、こんな悪辣な罠を仕掛けたとはすぐさま理解できた。後ろから着実に迫るトレーナーの気配を感じても、メジロの妹分達を嫌いになれるわけなんて無かった。
だがしかし、それで諦めるかと言われれば話は別。途中に障害が立ち塞がったとしても、動き出した車輪は止まらない。それを為せるのは、始動に用いた分量に相応しい力だけ。例えトレーナーが泣いて縋りつこうが、この脚で振り払って見せ――。
「アルダン、お願いだ! 話しだけでも聞いてくれ!」
「っトレーナーさん!? ダメです、運転中は窓から顔を出してはいけません!」
いきなり彼がとんでもなく危険な行為をするものだから、私は仕方なく減速して軽自動車の横につけた。こちらの怒気が伝わったのか、彼は座席にちゃんと座り直してくれる。
「なんてことをするのですか。ハンドル操作を誤ったら大事故に繋がるのですよ!?」
「あ、ああごめん。つい……」
「分かってもらえたなら良いのです。私の方こそ、急に大声を出してすみませ――ごほっ!」
そこでやっと、自分が毎時50km近くで走っている最中だということを思い出した。当然、まったり会話するだけの余裕などあるはずもなく、呼吸が窒息寸前まで苦しくなる。
「アルダン!? いけない、すぐに走るのを止めて。えっと……そこのファミレスは見える? あそこに俺も車を止めるから」
「はっ……はい、トレーナーさん。分かりま――」
違う! 分かってはだめだ。
いつもの調子で危うく頷きかけたが、そういう状況では全く無かった。酸素不足で明滅する意識を必死に叱咤して、脚の回転力を元に戻していく。軽自動車の加速力を僅かに上回って、私は車両の前方部へと出た。それでも彼の声は聞こえてくるが、今度こそ決して振り返らない。先ほどのように彼が運転席から顔を出さないことを祈りつつ、さらに速度を上げていく。
どうにか車両のエンジン音から一定の距離を取ったところで、横車線から一筋の影がこちらに合流してきた。ライアン……向かい側にいたはずだが、どこかの横断歩道から渡って来たのか? いずれにせよ、彼女は凄まじいパワーで一気に追い上げてくる。僅か一瞬のうちに、二バ身ほどの間合いに詰められた。
舗装された道路へと次々に打ち込まれる蹄鉄の音。そのテンポはあからさまに早まりつつあり、ライアンの加速がいまだ頂点に達していないと示している。対する私は文字通り息も絶え絶えで、トップスピードの維持で精一杯。このままでは抜かれるのは時間の問題だ。通常のレースなら、根性での逃げ切りを画策するところだが、最悪なことにこのレースにゴールは無い。
いや、一応あるにはあるのだが、港まではいまだ相当の距離がある。それまでの間、ライアンの猛追を裁き切れるのかと問われれば、不可能と答えるのが無難だろう。そして一度でも追い抜かれたなら、私の敗北が確定する。これまでの努力は何もかも水の泡だ。それだけは何としてでも回避しなければならない。
死中に活を求めんとして、私は辺りを見渡した。一つ閃いたのは、交差点で何度かやったショートカット。ここまで迫られたら、もうズルも何も無いだろう。ルートを上手いタイミングで切り替えれば、ライアンの追跡を交わせるかもしれない。ただし交通上危険ではない範囲で、だ。
「アルダン様! こっちです!」
その時、上空からメガホンと思しき大音声が響いた。見上げてみれば、源蔵氏のヘリコプターがビルの谷間を縫って、こちらへ目掛けて向かってくる。彼とドーベルには着陸地点での待機を厳命していたはずだが、いったいどういうつもりだろうか。
「港に至る直通の地下道があります。そちらからなら、他の車両にも邪魔立てされません!」
そこへ誘導しようと言うのか、ヘリはぐんと高度を下げると、私の前方で速度を合わせた。
「ここから数えて三つ目のビル! そこを越えましたところの谷間に小道があります。直進して頂ければ、入口が開通していますので!」
応じるのは癪だったが、トレーナーを振り切れるなら拒む理由は無い。ライアンはともかく、彼という存在は今の私にとって枷そのものだ。
ともすれば転がりそうになる脚を気合で制御し、ビルの山脈を一つ、二つ。乗り越えた先の三つ目で、レーンから思い切り左へと曲がる。急激な進路変更にも、ライアンは猛然と食らいついてきた。メガホンの音声は彼女にも当然聞こえていただろうし、私がその通り動くこともほぼ確定している。むしろ見事なコーナリングによって、さらに速度を増したようですらあった。
あらかじめ定められたコースのように、私達二人は街中の裏路地を走っていく。しかしトレーナーの駆る軽自動車はそれを見送るしかない。遠ざかる幹線道路の喧騒を耳にしながら、余計な感傷を胸にしまい込む。もう彼とは私は分かたれた、今更になって元のさやに納まろうだなんて有り得ない。
「ファミレス……行けばよかったのに」
「っ」
右斜め後方、今や一バ身差で走るライアンが呟いた。走行中に喋ることによる不利など考えもせず。それともこれは余裕の表れか? あれこれと考えの過ぎる私をあたかも嘲笑うかのように、ライアンは喋り続けた。
「どうしてそう頑なに振舞うんですか? トレーナーさんと一緒に、テーブルに座ってお茶でもゆっくり飲んだら良かったんです。それがあなたにとって一番の幸せじゃなかったんですか?」
彼女の言葉を受け流そうと、必死に前だけに集中する。地下道とやらへの入り口はまだ先なのだろうか。そもそもの話として、この付近にそういった道が敷設されていたか? 開通とかいう妙な文言を用いていたし、あるいは目黒家の専用道の類かもしれない。
「トレーナーさん、ちっとも怒ってなんかいなかったですよ。ずっと、ただずうっと心配してました。アルダンがあんなこと言うわけない、きっと深い事情があるんだって。俺は少しでもその力になりたい。それをせずして、潔く諦めるなんてできるものか」
ピークに達しようとする疲労が、脳裏に幻想の彼を描き出す。笑ってる顔、悲しんでる顔、恥ずかしそうにしている顔――。大切に積み上げてきた『今』の記憶の数々が堰を切って溢れ出そうとする。
けれど寸前で抑え込む。私の内にある衝動が、それを奥深くに閉じ込めてくれる。この感情だけが、私の唯一の味方。
「アルダンさん、本当に……なんで!?」
今日だけで何度その理由を聞かれただろうか? ドーベルもブライトもライアンも、そしてトレーナーだって。口を揃えて私にこの決断に至る過程を問うた。ならば私は何度でも、全く同じ答えを彼女達に返そう。
「メジロのためです。全てはそのためだけに」
ひたすら真っ直ぐ続く、ビルの谷間の薄暗い路地裏。地下に潜る入口などどこにも見えない。さては源蔵氏に一杯食わされたか、とほぞを噛んだその時。
そこら中に響き渡る鈍い音がして、小道の中途にあったマンホールの蓋が横にスライドした。上にずれたとか開いたではなく、本当にそっくりそのまま、自動扉のように平行に移動したのだ。代わって出現する、ぽっかりと空いた穴とそこから続くだろう暗闇の地下。
私は刹那も戸惑うことなく、疾走の速度そのままに穴深くへと身を躍らせた。慌てたのはライアンの方で、落ち行く私に向けて彼女の叫ぶ声がする。
「ちょっと! 本気ですか!?」
その様子からして、さすがに追って飛び込むまではできなかったらしい。誰に伝えるでもなく「良かった」という言葉が漏れた。ライアンをこれ以上私のワガママに付き合わせるのは忍びない。間違いなく危険だし、その結果として彼女が得るものは一つも無いのだから。
もう一つ付け加えるなら……あのまま競り合いを続けていたら、間違いなく私は負けていた。