真っ暗の中を落ちていく。バランスを失って入れ替わる身体の上下。仰ぎ見る天で、晴れやかな秋空が霞んで遠のく。気分はさながらウサギを追いかけて穴に飛び込んだ童話の主人公。けれど底に待っているのは不思議の世界でもなんでもなくて、舗装された固い地面に決まっている。
鉄棒の蹴上がりの要領で体勢を再度反転、しっかり足先を地面に向ける。しかし落下時間が長すぎた、このままでは着地で衝撃を殺し切れない。穴の幅が狭いことは入口のマンホールからも分かっていたので、壁面へ脚を伸ばしてみる。思った通りの手応えを感じたところで、より一層の力を込めた。壁を起点にジャンプするような形で、どうにか速度を緩めようと――したのだが、これは失敗。長距離を走り続けたことによる足の疲弊を考慮に入れていなかった。多少の減速はできたものの、せっかく立て直した姿勢がまたも崩れてしまう。
しかしこのまま叩きつけられたのでは、あまりに無様で幽霊になるのも恥ずかしい。藁にも縋る思いで右手を伸ばしたところ、金属の固く冷たい感触があった。即座に指に力を込めて、その手掛かりを握りしめる。一点だけを頼りにした、無謀極まりないぶら下がり。さらにこれまでのGも右肩へ一気にかかり、激しい痛みが走った。それでも腕の力は抜かず、左手も同じ個所へと伸ばす。両手がその突起物を捉えて、やっと私は一息つくことができた。
私の手が掴んだのは、マンホールから地下へ降りるための鉄製の足場のようだった。ホチキスの針の形をしたそれが、壁に等間隔で打ち込まれている。おそらく底まで続いているのだろう、本来はこれを伝って降りていく仕組みらしい。
腹筋に力を込めて身体を壁へと寄せ、脚を正しく足場に乗せた。カンカンと軽快な音と共に、底へと向けて下っていく。ふと上を向いてみたが、ライアンが追ってくる様子はやはり無い。勇ましい彼女なら、飛び込みはまだしも足場伝いに降りるくらいはしそうなものだが……。目黒の息が掛かったこの空間を警戒しているのだろうか? 別ルートで港に向かい、待ち伏せしているのかもしれない。ならばゆっくりしていられない、早く地下道へと降りなければ。
そこまで考えたところで妙な可笑しみが湧いてきて、私は思わず笑ってしまった。いったいなんなのでしょう、これは。レース中に地下に潜るなんて、前代未聞に違いない。トレーナーという罠を仕掛けてきた点ではライアンも同罪だが、私の方も相当だ。
ひとしきりクスクス笑ったところで落ち着いたので、一段飛ばしに足場を降りて、底の地面へと着地した。それと同時に、ぱぁっと壁面に備わっていた照明が自動で点灯した。
「まぁ……!」
狭い地下水道のような空間を想像していたのだが、それは大きく裏切られた。オレンジの光に映し出されたのは道路のトンネルのような場所。人間一人どころか、普通車でも一台なら十分に通れるほどの幅がある。天井までの高さも相応にあって、少なくとも3mはありそうだ。
気分が上がってきたので試しに「おーい」と叫んでみたら、壁に何度もこだまして奥に消えた。続いてはその昔に冒険小説で読んだ儀式の真似。人差し指の先端を少しだけ舐めて、頭上に高く掲げる。……本に書かれてあった通り、確かにひんやりとした風の流れを感じた。つまり、両方向ともにきちんと出口が存在している。
いったいこの空間、何の為に作られたものなのだろうか。源蔵氏の言葉を信じるのなら、港に続く地下道なのだろう。しかしそういった用途のためだけに、ここまで広大な空間を多大なコストをかけて掘削するか? となるとやはりこれは――。
「本当に実在したのですね……。都市の下に眠る謎の地下施設。おばあ様もヤエノさんも一笑に付しましたが、私とうとう見つけました」
これはぜひ武勇伝として皆に聞かせてあげなければ。使命感に駆られた私はスマホで写真を取ることにした。しかしスクリーンを立ち上げてみれば、真っ先に飛び込んできたのは無数の着信通知。全て同じ番号で、それも電話帳未登録の人物から掛かっていた。
折り返すべきとは思ったが、ここは地下。果たして電波が届くのか……と迷っていると、そんな心配を吹き飛ばすようにスマホが着信の振動を始めた。取りも直さず通話ボタンを押す。
「はい。こちらメジロア――」
「ご無事ですか!? お怪我は!?」
「ああ、目黒源蔵さんですか。私でしたら問題ありません」
「ああ良かった……。いくら何でもそのまま飛び込むなんてどうかしていますよ。……本当に何ともありませんね? 緊急ならすぐに医者を寄越しますが」
彼はそれからもしきりに私の身を案じる言葉を投げかけてくる。その酷く焦った様子に、彼に抱いていた悪印象が多少ばかり好転した。おばあ様を詐欺にかけたばかりか、金と名誉絡みの政略結婚を平気で企てる人物だが、真っ当な部分もあるらしい。
「さて、アルダン様。お身体に問題が無いようでしたら、港方面へ急いでいただけますか。先も言ったよう、そこに小型フェリーを待たせてあります。一目で分かるよう、配下の者を立たせてありますので」
そうは言っても、地下道をどちらに進めば港方面に向かうか判断できない。もしも途中で枝分かれがあったなら、もうお手上げだ。私がその点を尋ねてみたところ、彼は「ご心配なく」と笑った。
「通路の壁には一定間隔で案内表示が張られているはずです。それを参照していただければ、迷うことはまず無いかと」
壁面に目を向けてみれば、なるほどそれらしい電光掲示があった。近寄ってみると、二方向の矢印で確かに行先が示してある。一方は言うまでも無く港方面。だが、もう一方の見慣れた名称に私は眉をひそめた。
「トレセン学園? なぜ地下道が学園に繋がっているのです?」
「アルダン様。その点について説明するとなると、多少のお時間をいただかざるを得ません。今はそのような状況ではないかと」
怪しい。あからさまに彼は何か不都合な事実を隠そうとしている。しかしライアンを振り切ったとはいえ、残るメジロはまだ四人。彼女達がどういった手で挑んでくるかも不明だ。彼の言うよう、のんびりと説明を聞いている場合では無い。
無闇にへりくだる源蔵氏との通話を適当に打ち切り、私は港への通路を走り出した。
ぼんやりとした光の包む通路を走ること数十分ほど。頬に吹きつける風に潮の香りが混じりだした。独特の芳香は次第にその濃さを増していき、どこからか波の打ち付ける音すら聞こえてくる。ついに海岸部に到着した――ようなのだが、ここからどうやって地上に出れば良いのだろう。相変わらず地下通路は同じ景色の繰り返しで、その果てが見えることは無い。てっきりトンネルのように出口が直接繋がっていると思っていたのだが……。よくよく考えてみると、マンホールから降りる段階で結構な深みを降りたのだから、そのまま出られるわけもない。
源蔵氏にもう一度連絡を取ろうかと思ったあたりで、降りて来たなら同じように昇ればいいのだと単純な答えに行き着いた。
道中で既に四枚は見かけた電光掲示。港の名称が入ったそれをしばらく歩いて探し求める。目当てのものが見つかったら、次に金属製の足掛かりが近くに無いか見渡してみる。思った通り、掲示のすぐ隣に複数の足掛かりからなるラインがあった。上へと昇っていくこれらの先に、マンホールがあってそこから港に出られるはずだ。私は勇み足でコの字の金具に飛びつくと、降りる時よりもさらに早いペースで上を目指した。
地下道のオレンジが届かなくなるほど昇ったところで、マンホールの蓋の内側が見えた。模様の隙間から射す陽の光が、その先に地上世界があると知らせてくれる。押し開くタイプではなかったから、どこかに蓋をスライドさせる機構があるのだろう。金具から右手を離し、壁面のあちこちを手探りしてみると、それらしきボタンを発見する。
えいやと押下すると、直ちに蓋が反応した。浜辺由来と思われる砂埃を巻き上げつつ、ゆっくり横へ。あたかも舞台の暗幕が開くように、真昼の太陽が徐々に視界を白へ染めていく。あまりの眩しさに、とっさに私はぎゅっと目を閉じた。その隙を狙いすましたかのようについてきたのは、誰かの人差し指。身じろぎ一つ取れないでいる私の頬を、いたずらっぽく凹ませた。
「やっほ、アルダンさん。待ってたよ」
まばゆい太陽に負けず劣らずまぶしい笑顔。頬にあてていた手で今度は私の腕を握ると、力いっぱい自分の方へ引き寄せる。あっという間に私はほの暗い地底から、真っ白な光の降りしきるビーチへ。あまりの強引さにつまずきそうになったところを、寸前で彼女に抱き留められた。ずっと日向に立っていたせいだろう、ぽうっと暖かい身体が私を包む。
「さ、じゃあ始めよっか。まさかこのままフェリーに乗って、高飛びできるなんて思っちゃいないっしょ?」
そう言ってメジロパーマーは朗らかな笑い声を上げた。