「しっかり柔軟しておいてよ~。もち溺れたら助けに行くけど、それはつまり私の勝ちっつーことだからね」
パーマーは行儀の悪い事に、制服の下に水着をつけていたらしい。脱衣所に行くことすらなく早変わりを終えると、柔軟体操を始めだす。十月も終わりかけと言えども、今日は爽やかな秋晴れ。気温は最高で二十六度にも届くだろうと、朝のニュースキャスターは言っていた。海で遠泳をするには、なるほど適した状況と言えなくも無い。
「で、水着のサイズはどう? さすがに屋敷からアルダンさんのを持ってくる暇は無かったからさ~。その辺の店でテキトーなの見繕ってきたんだけど。良さげ?」
「サイズは合ってます。ええ、サイズは……。ですがデザインの方はもうちょっと何とかならなかったのですか? こんなの……恥ずかし過ぎます」
「あはは! っぱ気になる? いや~ごめんね、シーズン過ぎてるせいか品揃えが悪いのなんの! むしろそれが一番マシだったの。つーわけでそれで勘弁して? 今更、買い直しに行くってのもお互い都合悪いっしょ?」
これが一番マシですって……? この、何と言ったいいか……布切れというかもはや紐のようなものが? 水着と言えば学園指定の競泳用しか着た事の無かった私からすると、驚天動地の代物だ。それらが一定の需要の元に、世に存在しているとは私だって無論知り及んでいたが……。よもや自分が身に着ける日が来るとは思ってもみなかった。
普段の私なら絶対に着ないし、たとえお願いされても必ず拒否する。それこそよほど特殊な状況下に無い限り。しかし残念なことに、メジロ家が現在置かれているのはまさしく極めて特異な状況だった。
「でもだいじょーぶ、すっごい似合ってるから、アルダンさん。あーもったいな! これが本場の夏だったら皆の視線独り占めなのに」
「ならあなたが着れば良いのではないでしょうか。そして私があなたの競泳水着を着れば全て解決します」
「いやーとてもとても。恥ずくて無理……じゃなかった、私のじゃサイズ合わなくって、アルダンさんが泳ぎにくいじゃん? それで勝っても嬉しくないし、卑怯ってかスポーツ精神にもとるってか」
パーマーはもごもごと言い訳を続けていたが、ともかく着替えに応じる気が一切無いのは良く分かった。ならばここで押し問答を続けても意味が無い。私は気持ちを切り替えることにした。最初にパーマーが言ったよう、腕や脚が途中でつることの無いよう入念な柔軟体操に取り掛かる。
「よぉーし、いいね。じゃあ脚伸ばしながらでいいからもっかい聞いといて。ルールは簡単、このビーチがスタートラインで、目黒家の屋敷があるっつー島がゴールだよ。で、先に辿り着いた方が勝ち。ルートについては厳密に指定しないからどう向かっても良し。ま、普通に考えたら直線コースが一番早いから、そうしてね。あんま変なとこ行かれたら、勝負の判定がむずくなるから」
「一応、先に訊いておきますが、マックイーンやブライトが乱入してきたりしませんよね?」
「んなわけないじゃん! 警戒し過ぎだって。勝負としてやる以上、フェアにいかなきゃつまんないっしょ」
やたら正々堂々を強調してくるパーマーだが、その姿勢自体に違和感を覚えなくもない。というかそういった趣旨でやるのなら、水着も同種にすべきではないだろうか。
だが、この場において主導権を握っているのは私ではなく彼女。メジロ家の名を負って勝手な婚姻を決めた以上、メジロである彼女達の申し出を無下にするわけにいかない。内心、このような辱めを受けるくらいなら、源蔵氏のフェリーに今すぐ乗り込み逃げ出したいのが本音だ。しかし一度決めたことは何が何でもやり通すことこそが、私の覚悟でもある。現状どちらが優先されるべきかなど、考えるまでも無かった。
「さ、準備運動はこんくらいでいっしょ。そろそろ始めよっか。私達のメジロバトルを」
「えっ? なんですそれ」
聞き覚えのないウマ娘の名前が出てきたかと思ったが、何の事は無い。どうやらメジロの家名に『戦い』を意味する英単語をくっつけただけらしかった。興味深いのは、どういった経緯でそのような不可解な造語が生まれるに至ったかだ。問い詰める私に、パーマーはけらけら笑いながら言う。
「それがさー発案者はあのドーベルなのよ。私達五人によるアルダンさんへの挑戦は、いわば一つのイニシエーション。両家悲願の婚姻へと至るまさに通過儀礼ってこと。ならそれっぽいちゃんとした呼び名が無いと、なんかこう締まんないじゃん?」
「だからといってメジロバトルはあんまりでしょう。何と言いましょうか……お腹のあたりがむずむずします」
「まー細かいことは気にするなって。どうしても嫌ならアルダンさんが考えたら?」
「あら、よろしいのですか? なら私は――」
決闘、果たし合い、デュエル……。これまで読んできた数々の物語から、それらしい単語が浮かんでは消えていく。そうしているうちに一つの感慨がつられて湧いた。古来より剣を手に争うは王族に貴族や騎士、あるいは侍の務め。彼らは時に名誉、時に領地を保つべく、果てしない戦乱に身を投じた。
しかし私は思うのだ。強くありたいと人が最も願うのは、大切な誰かたった一人を守る、その瞬間だけなのだと。愛すべき姫、彼女のためならば、王も騎士も無限に強くなれる。多くの小説と歌劇は常にそう語りかけてきた。
「……だから私もそうなんです。彼のためなら私は何回だって勝ちましょう。神話に描かれる英雄のように」
決め台詞のように言い切ってみせたものの、パーマーからの相槌は一向に無し。不思議に思って隣を見たら、彼女はとっくの昔にスタートを切って、海の中へと飛び込んでいた。陶然と天を仰いでいた私を置き去りにして。
「パーマー! スポーツマンシップはどこへ行ったのです!?」
当の本人はバシャバシャと波をかき分けることに夢中で、謝罪も言い訳も返ってこない。陶然憤りを覚えたし、この水着にだってまだ納得いっていなかったが、さておき私も浜辺を走り出した。ぐずぐずしている間にも、どんどん差を広げられてしまう。先に島へたどり着かれたら、何を言ったって彼女は勝ちを譲らないだろう。
湿った砂地はダートとはまた違った感触で、走る脚をもたつかせる。はだしの足先が初めて海水に触れた時には、既にパーマーは100m以上先に見える小さな影となっていた。想像よりずっと冷たかった水温と合わせて、とっさに愚痴が口をついて出る。
「あの子ったら……もう!」
けれどそれで最後にした。腰まで浸かった時点で、一気に身体を波間へ投げ出した。まだ1mにも満たない水深の中を、出せる最大速度で突き進む。パーマー特有のレーススタイルを考えたなら、これ以上のリードは看過できない。一二も二にも、とにかく距離をつめなければ。
その水温にしたって、すぐさま気にならなくなった。当初こそ氷水のように思えたそれは、今やトレーニングで用いる温水プールと何ら変わる所がない。無論、両者の間には絶対的な温度差があるのは言うまでもない。要は、皮膚の神経がそういった些末な問題に無関心になってくれたということだ。ただしそのやせ我慢がいつまで保つか、私のひ弱な身体に今後どういった影響をもたらすか未知数ではあるけれども。
パーマーは素敵な水着こそ用意してくれたが、その他一切の便宜は図らなかった。水中ゴーグルはまだしも、せめて髪を纏めるためのキャップは欲しかった。一応、潜る前にヘアゴムで可能な限り束ねたが、それでも煩わしさは免れない。彼女が言うには「せっかくの水着コーデなのに、ダサい水泳帽なんか被ったら台無しじゃん」とのことだったが……。いったいどこから文句をつければ良いのやら。強いて言うなら、準備不足だった自分の計画性の無さを呪うべきなのか?
ライアンが路上レースを仕掛けてきた段階で、メジロの皆がなりふり構わず私を止めようとしていることは分かっていた。港に辿り着ければ終わりだなんて、そんな甘い話あるわけないと十分推測できたのに。
しかし後悔先に立たずとはまさにこのことで、手足と身体をいくらばたつかせても、パーマーとの間合いが縮まらない。早くも1kmは泳いだように思うが、互いの速度は均衡で釣り合ったまま。あたかも数学でありがちな問題のように、延々と等速直線運動を続けている。遅れて発進した点Bであるところの私は先を行く点Aに追いつけないまま、時間と距離だけが空費されていく。
ここが芝の上なら、絶対にこんな展開はさせないのに。焦れったさのあまり、息継ぎよりも奥歯を噛みしめる方を優先したくなった。
メジロ家随一の逃げウマ、パーマー。彼女の最大の特徴でもある『爆逃げ』は、一見何も考えず走っているようで、実際のところ本当に何も考えていない。ひたすら気力と根性とテンションのおもむくまま、気持ち良く先頭を走り切ってゴールまでぶっちぎる。こう表現するといい加減極まりない策に聞こえるかもしれないが、いざ相手にするとその恐ろしさが分かる。なぜならスタートで距離を稼がれたが最後、加速力で上回らねば確実に負けるということだからだ。
彼女のような逃げウマを攻略するにあたっては、真っ向から力勝負を挑んでは不利だ。コーナーや坂、時には他のウマ娘との位置関係をも利用して、技巧的に追い詰める必要がある。例えばそれは遠心力だとか、前方のウマ娘によるスリップストリームだとか。そういった複数の要素を活用し、一息に追い抜くのが定石である。
しかしここは海の中で、コーナーも無ければ坂も無い。一対一なので他ウマもいないし、なんなら互いの位置を把握することすら困難だ。どこで力を抜くべきか、どこでスパートをかければ良いか……そういった駆け引きもまた存在しない。代わりに要求されるものがあるとすれば、それは体力の一点に尽きる。豊富なスタミナと、酸素不足に負けない根性。この二点で勝るものが明確に有利だと言える。
そして改めて説明するまでもなく、パーマーはその二つを持ち味としている。反対に私は――。
「けふっ……!」
いよいよ呼吸が苦しくなって咳き込んだ。その拍子に喉に絡みついた海水が、いっそう息継ぎを難しくする。口中に広まる苦味に近い塩辛さ。数えきれないほど海面に叩きつけてきた両腕は、温度はもちろんのこと触感すら失いつつある。それでも無意識で動かし続けているから、感覚的にはまるで自動のスクリューが肩に付いているよう。頑張らなくても進んでくれるのは実に結構だが、その分やってくれるのは現状の維持だけ。ペースを上げて前方の相手に追いつくなんてとてもとても。
水しぶきでぼやけきった視界では、パーマーが一位を悠々と泳ぐ。その向こうには着実に迫りつつある目黒の島が見えた。港では遥か遠くに霞んでいたそれが、今では岸辺に備わった桟橋すら確認できる。勝利を狙うなら、もう猶予は幾分も残っていない。追い抜くのは厳しいとしても、どうにか隣にまではたどり着けないか?
残った体力を振り絞って、死に物狂いで両脚を打つ。その瞬間、ふっと頭にある予感が去来した。……あるいはそう、限界を迎えた私の身体が海の藻屑と消えるのが先かもしれない。これほどまでの距離を、全力で泳ぎ続けた経験は過去にも無かった。一番長く泳いだとすれば、去年の夏合宿での遠泳トレーニングの時だろうか。
けれどあの時は溺れる恐怖なんて微塵も感じなかった。常にトレーナーが見守ってくれていたから。水上バイクに乗った彼は、泳ぐ私に声援で道先を示した。後少しだ、もうちょっとでゴールだよ……彼のそんな励ましが、どれだけ心の支えになったか知れない。「アルダン!」彼の声が、降り積もった疲弊を何度だって吹き飛ばした。
「アルダン! 頑張って! まだ勝負はついてない!」――そう、いつだって彼はこんな風に私を勇気づけてくれた。……『こんな風に』? 冷たい水中だというのに、ぞくりと背筋に怖気が走った。