「泳ぎ出しと比べたら、パーマーの勢いも弱まってる。ここが踏ん張りどころだ!」
「トレーナーざんっ!?」
反射的に叫んでしまったせいで、盛大に水が口に入り込んでくる。ごっほごっほと苦しむ私のそばを、見覚えのある水上バイクが横切った。それは前方でターンすると、速度をぐっと落として併走の形へと並んでくる。
「大丈夫か!? 焦っちゃダメ、落ち着いてペースを整えるんだ」
「むぐぐっ!」
緑のラインが印象的なそのバイクを操っているのは、私のトレーナー以外の何者でもなかった。喉まで出かかった百の言葉を必死に呑み込む。それでも涙がにじむのは堪え切れなかった。幸いなのはここが海上で、極少量の塩水は一瞬で流されたこと。更に一つ付け加えるなら、こんな状況だからなのか、トレーナーも私からの返答を期待していないらしいことだった。
「いいかアルダン、もう少しいったら、せり出した浜の影響で波の弱まる場所がある。そこでスパートに入るんだ。君の爆発力なら、その間に絶対に追いつける。それまで力を温存するように」
分かりました、と頷ければどれほど良かっただろうか。
あれだけの事をしたのに彼が助けに来てくれた事、いつものように的確なアドバイスをくれる事……なにもかも心臓が破けそうなほど嬉しい。感じていた疲労感など彼方に吹き飛んで、同時にクリアになる視界。先を行くパーマーに照準がしっかりと合った。
あれほど遠のいて見えた姿は、よくよく見ればもう鼻の先。そうだ、相手だって疲れは溜まる。後は私が決死の覚悟で渾身の追い抜きをかければいい。
「おっとそこなトレーナー君! 真剣勝負に邪魔立ては不要だ! バイクに乗り込むまでは見逃してやったが、ここから先はそうはいかんぞ」
その時、後方から例のメガホンが聞こえた。水上バイクとは段違いのモーターの駆動音。息継ぎのついでに少しだけ振り返ってみれば案の定、小型のフェリーが向かってくるのが見えた。出っ張ったその舳先でふんぞり返っているのは、やはり源蔵氏。メガホン片手にトレーナーにがなり立てる。
「君とアルダンお嬢様の間に結ばれていた契約は、今朝のやり取りで正式に破棄されている。つまり今の君は単なる一般人、何の権限も持っていない。これ以上、私達目黒家の問題に首を突っ込まないでもらいたいね!」
小型とは言っても、一人が跨れるだけの水上バイクとフェリーでは差は比べるべくもない。白波を立てて迫りくるフェリーから逃れるように、トレーナーは機体を滑らせた。間近に見えた彼の優しい横顔も見えなくなってしまう。
怖気づいたようなその対応を見て、源蔵氏はたいそう気分を良くしたらしい。豪快に笑いながら、挑発じみた呼びかけを始める。
「そもそも君はいったい何をしに来た? もはや専属ではない一介のトレーナーが、ウマ娘に付きまとうのは明確な迷惑行為だ。トレセン学園から厳重注意やら減給処分を受けたくなかったら、とっとと街の港に帰るがいい!」
それとも今ここでストーカーとして通報してあげようか、と付け足して更に源蔵氏は声を張り上げた。
居丈高なその姿勢を見て、私はようやく目黒家の要求の真意を悟った。トレーナーとの専属契約を解除させたのは、私にレースを止めさせるためではない。単純に、トレーナーが私といるのを嫌っただけだ。
まぁ理解できなくはない……男性として、妻となる人物にねんごろな相手がいるのは常識的に考えて好ましい状態ではないだろう。それはそれとして、地下道で一瞬抱いた源蔵氏への好印象は地に落ちて塵芥と化した。
「さぁ、分かったのならとっとと港に向けてターンしろ。まさかとは思うが、島に上陸しようなどと考えてはいないだろうな? 君のような部外者の侵入を、私が許可するはずがないだろう」
「誰もあなたにそんなこと頼んじゃない!」
彼の否定が貫いた。源蔵氏と違ってメガホンなんて持っていない、それでも私の耳には、しっかり聞こえた。
「専属だとか、目黒家だとかなんて関係ない。俺はアルダンが心配だから来ただけだ。俺達二人は永遠を誓った! 覚悟を決めて戦っている彼女の元に駆け付けることが、そんなにおかしいことか?」
「たわごとをほざくな!」
トレーナーの言葉は源蔵氏の地雷を思い切り踏み抜いたらしい。源蔵氏はメガホンを勢いよく海に放り捨てると、操縦席へ駆けこんでいく。直後、フェリーの船体が大きく鳴動した。唸るようなエンジン音と共に、トレーナーの乗る水上バイクへ向けて急加速する。
「なっ!?」
さしものトレーナーもこの無茶苦茶な行動には反応が遅れた。フェリーはそのまま猛スピードでバイクのすぐ横を突っ切り、ついで生じた大波が襲い掛かる。バイクは呆気なく転覆し、トレーナーは海上へと投げ出された。
その一部始終を目にしていた私は、即座に進路をトレーナーへ変えた。パーマーのことも勝負の行方もたちまちどうでも良くなった。脳内に残ったのは彼の安否、それだけ。
彼はちゃんとライフジャケットを身に着けていたが、万が一を考えると冷静さなんて瞬時に吹き飛んだ。落ちた際に頭を打っていたら? 水が気管に入っていたら? なにより穏やかとはいってもここは海の真っただ中。救助を呼ぶにしても、実際に助けがくるまでに多大な時間がかかるだろう。一刻も早く、彼を安全な場所へ連れて行かねばらない。現状、それができるのは私一人。ならば迷うことは何も無い。
島への直進コースを大きく逸れて、彼の元へと急ぐ。ジャケットのお陰で彼はすぐに海面へと浮かんできていた。しかし意識は曖昧なのか、力無くその場を漂っている。遠目にも青ざめたその表情を見ているだけで、時限爆弾を抱えているような焦燥感に襲われる。
緊張のあまりクロールの仕方も私は忘れ、しまいには犬かきになりながら、やっとのことで彼を捉えた。
「トレーナーさんっ! トレーナーさん!」
肩を揺さぶって呼びかけるも、一向に目を開かない。やはり落下の衝撃が酷かったのだろう、完全に失神している。私に寄りかかるその身はどっしりと重たく、手を離せば今にも波にさらわれてしまいそうだ。縋らせるものはないかと転覆したバイクを探したが、流されて遠くにいってしまっていた。こうなったらもう私が島まで抱いて運ぶしかない。そう決めて数百メートル先に見える桟橋を睨んだところ、不愉快な声が聞こえた。
「アルダン様! こちらです」
フェリーの上から、源蔵氏が私に手を振っていた。僅かなりとも良心は残っていたらしく、手には救命用と思しきロープに繋がった浮き輪を抱えている。
「お手を煩わせてすみません、すぐに引き上げますので」とか何とか言いながら、自分が落としたトレーナーの安否を気遣うような素振りすら見せている。よほど怒声を浴びせかけてやりたい気持ちをぐっと堪えた。今は個人的な感情でなく、トレーナーの命が最優先だ。いくら源蔵氏でも、この状態のトレーナーに危害を加える真似はしないだろう。
「ありがとうございます……」
投げられた浮き輪にトレーナーの身体を預けようとしたその時、けほっと彼が水を吐きだした。さらにゴホゴホと咳き込み続けるも、徐々にその焦点は眼前の私に合ってくる。
「こほっ……。アルダン?」
「良かった、ご無事で……」
張りつめていた感情が一気に和らいで、私は彼をぎゅうっと抱きしめた。しかし安心したのもつかの間、いきなり彼は素っ頓狂な声を上げると、身を仰け反らせた。私から離れようとするかのように、手足をわたわたとばたつかせる。溺れかけたせいでパニックを起こしているのかと思ったが、表情を見るにどうもそうではないようだ。むしろ何と言うか……恥ずかしがっているような? あれだけ青白かった頬が、ほんのり赤くなっている。
「と、トレーナーさん? どうされたんですか?」
「い、いやアルダン……。その……あんまりくっつかれると、ちょっと。君すごい恰好してるし……」
たっぷり十秒以上をかけて、やっと私はトレーナーが言わんとしていることを理解した。そう言えば現在、私が身に着けているのはパーマー由来の水着もどきだった。それも激しく泳いだり抱き着いたりしたせいで、布というか紐というか、とにかく色々な部分が捲れ上がりかかっている。トレーナーはほとんど真横を向いて、露わになった私のそれらを視界に入れないよう四苦八苦していた。
「失礼しました、お見苦しいものを……」
努めて冷静を装いつつ、その紐的な部分を元の位置に戻した。しかるのち、トレーナーを浮き輪の中に突っ込んだ。そうして彼がまだこちらを見ないでいるうちに、海中へと潜って全力で泳ぎを再開した。全てを忘れるべく、ばしゃばしゃ水に八つ当たりしていると、いずこから楽し気な声がする。
「アルダンさーん、もっと見せてあげればいいのに! 良い雰囲気だったじゃん!」
「パーマー!」
事ここに至って、私はこの遠泳勝負の真意を把握した。なぜ私にこんな水着を渡したか、なぜ勝手にスタートを切ったか、そしてなぜトレーナーがバイクに乗ってここまで来たか……。
ライアンが『ああ』だったのだから、つまりパーマーも『そう』だったわけだ。
「あっははは! いっつもお堅い外見のお嬢様だけにギャップの破壊力が凄いというか? トレーナーさんのあの顔見た!? もう完全に夢中じゃん!?」
「あなたという子は……っ!いくら何でも怒りますよ……っ」
「ごめんなさーい! でもでもこういうのだって、二人にとって大事な思い出になると思うわけ。勢いとノリと……多少の下心? トレーナーさんだって男の人なんだし」
「違いますっ! トレーナーさんはいつも紳士的なっ……方でっ……」
パーマーの声がする方へ向かって、がむしゃらに泳ぎ続ける。もう尽きかけだったと思っていた体力がどこからか無尽蔵に湧いてくる。あれだけ重苦しかった波が、今は嘘のように道を開けてくれる。そう言えばトレーナーが言っていた、浜に近づいてからがスパートの掛けどころだと。
「紳士的っつったってさー、あれだけがっつり見てちゃねぇ。それにぶっちゃけアルダンさんだって、満更でもなかったんじゃない? 嬉しかったっしょ? トレーナーさんをとりこにしちゃったりして」
「あなたっ……! なんてこと……!」
口では否定したが、内心は図星だった……かもしれない。確かにそう、ほんの少しだけ私はよろこんでいた。トレーナーの視線が私に注がれていたと知って。彼にとって、私はそういう対象になるのだと分かって。
実はずっと不安に思っていることがあった。風邪を引いて病室まで見舞いに来てもらった時、病院食は慣れたものですと冗談を言う時、たくさんの常用薬が入ったケースを見られた時……。それら全ての場面で必ず耳にする、「大丈夫、アルダン?」というトレーナーの声を聞くたびに。
私は怖くて仕方なかった、三年ずっと一緒にいたせいで、いっそう恐ろしくてたまらなくなった。こんな私は男性にとって……本当に魅力的な女性であるのかと。
「でも仕方ないよねー! アルダンさんほんっとマジでスタイルいいんだもん、ほっとかないよ並の男なら。だからあと一押しっつか、一肌脱いだらいけちゃう系じゃない? 理性がぷっつんする三秒前的な?」
「しませんしっ……脱ぎません! 私達はっ……清く正しくっ……!?」
っだから違う! そうではなかった。私の目的はメジロの大願を果たす事。危うくパーマーの誘導に引っ掛かるところだった。パリピなるものを気取ってふざけているようだが、やはり彼女もメジロの子。油断も隙も無いが、相手にとって不足も無い。気付けば島の桟橋はもうすぐそこ、間近に見える近くの浜辺に立っている人影は誰もいない。裏を返せば、パーマーはまだゴールしていないということ。勝利のチャンスは残っている、道中色々とあったが、ここで彼女を抜き去れば全て解決だ。
「ねぇさぁアルダンさん。正直になりなよ。メジロのためってそれ本当? 私にはどーしても、アルダンさんの覚悟がそのためだけとは思えない。さっきの一幕見て確信したもん。だってアルダンさんは迷わず勝負を――」
「背泳ぎとはっ……良い度胸ですねっ……!」
やけに流ちょうに喋り続けるから不思議だったが、あろうことかパーマーは背泳ぎでのんびりゴールに向かっていた。勝つ気があったのかすら分からない、ふんだんに寄り道していた私が追いつくのも当然だ。
悠々自適な彼女の話を最後まで聞くはずも無く、私はその横を突っ切った。そうしてついに足先が浅瀬の砂地に触れる。立ち上がると自然に右腕が上がった。誰がこの勝負で一着を取ったのか、誰の目に見ても明らかとなるように。