人生初めての経験がいよいよ今日は重なる日だ。一つ目から列挙するとしたら、職員寮のベランダに着地したところまで遡らねばならない。いや、執事に妙な頼み事をしたところからだろうか? いずれにせよ、不名誉なレコードを刻むのはこれで最後にしたいものだ。誰かに言葉で憤りをぶつけることが、自分自身にとってもどれほど痛ましく悲しいことか……。それを初めて知った私は切にそう願った。
「繰り返しになりますが、彼に危害を加えるつもりは毛頭無かった。そう取られても仕方の無い結果とはなりましたが、少なくとも故意では無かった。すぐに取って返し浮き輪を投げ、船に上げた。そうして島の常駐医師の元まで案内したことからもお判りでしょう。海難事故を起こして私に得する事が一つでもありますか? 多少の財産があるからといって、昔話の悪代官のようにはいかないものです」
「あなたの言い分を受け入れましょう」
相変わらずの長広舌が織りなす醜い自己弁護はもうたくさんだったので、私はそれで打ち切った。源蔵氏は胸を撫で下ろし、テーブルに置かれていたカップを手に取った。口まで運ぼうとするその指先は微細に震えている。彼の心境を推し量ることは難しいが、反省の念が全く無いわけでもないらしい。私のうちにあった、彼を叱責する意欲はそれで完全に失われた。いかなる謝罪を聞いたところで、私が彼を許すことは金輪際無いと決まっているからだ。そんな無駄なことをするよりも、今はもっと重要な話がある。
「代わりに理由をお聞かせ願えますか。ずっと気になっていたのです。なぜあなたはこうも、私との婚姻を急ぐのでしょうか?」
源蔵氏にとって、この問いかけは好ましいものだったようだ。自尊心に溢れた不敵な笑みが戻ってくる。
「よろしい。先の不手際に対する陳謝の意も込めて、此度の婚姻が持つ重大な意味合いを明かしましょう」
「その言い方……。やはりメジロの没落だけが要因ではなかったということですか?」
肯定に先立って、「飲み物のお代わりなどいかがです」と彼は控えていたメイドを呼んだ。相応に話が長くなるだろうことを予感して、私はこっそり嘆息した。
それも仕方ない。ここは街と隔たれた絶海の孤島、そこにそびえる目黒のお屋敷。船を所有しているのは当主である源蔵氏だけ。日も暮れかけたこの時間帯となっては、泳いで渡るのも不可能だ。言い換えるなら、島においてほとんど絶対的な権威を彼は有していることになる。少々の長話で済むならむしろ可愛いくらいだ……。
「あの地下道が、ですか? にわかに信じがたい話です」
「しかし直にご覧になった今なら、その効用も実感できますでしょう? あの時のヘリからの誘導は、一種のデモンストレーションを兼ねてのことだったのですよ」
「まあ……」
思わず驚きの声を漏らしてしまって、少しばかり悔しくなった。あれが彼なりのお披露目だったなら、確かにこれ以上無いほどの説得力がある。市街地から数km離れた港まで、私は誰一人にだってすれ違うことなく港に着いた。もしあの地下道がトレセン学園を始めとした、市の各要所に繋がっているとしたら……。この都市でトレーニングに励むウマ娘にとって、まさしく革命的だ。
「私どもは常日頃から心を痛めていたのです。国内最高峰のトレーニングセンターが立つこの地には、全国から粒ぞろいの実力者が集う。優秀なウマ娘ということは、すなわち一定の実績を持った人物を意味する。中央、地方に限らず数々のレースに出走し、多くのファンに囲まれる。トップクラスともなれば、その知名度はテレビに映る陳腐な芸能人などとは比べ物にならない。……そういった方々が、無防備に街路を行き来していることに」
源蔵氏のプレゼンの結論を先取りするならば、つまり彼はウマ娘のために安全な経路を作りたいということだ。
地下に秘密の小道を巡らせれば、外出の際における他人との接触を最小限にできる。学園、ホテル、病院、ショッピングモール……そういった数々の施設を、気兼ねなく利用できるようになる。今はまだ試験運用段階で一部の者しか入れないが、ゆくゆくは全てのウマ娘が利用できるように――。これこそが目黒家が現在進行中の一大プロジェクトなのだと彼は言う。
「無論、保護としては過剰なのではという声もあります。しかし考えてみてください。既に知ってのことと思いますが、レース界隈の市場規模は並大抵のスポーツとは次元が異なる。選手一人の生涯収入は時に小国の年次予算に匹敵する。これほどの人物が、SPもろくにつけずに市街をうろついているなど海外では考えられないことです」
しかしそれも平和極まりないこの国では無理からぬこと――と彼は肩をすくめた。実際に私の学友達の中で、買い物に行くのに警備員を付き添わせるような人は誰一人存在しない。やや気弱な部分の目立つメイショウドトウでさえそうだ。
そもそも私達はウマ娘――不意をつかれたとしても、成人男性の一人や二人は秒で制圧できる筋力を皆、持っている。(ただし、私含めウマ娘は危険な状況ではまず逃げることを選ぶ。) そこへ更に日本の警察の優秀さを加えれば、ピンと来ないのも道理か。
「また、未成年の生徒達が警備員を雇用すること自体、非常にハードルが高いと言えます。ゆえに本来ならば学園側がそういったシステムを構築すべきなのですが……。喜ばしいと言うべきか、秋川理事長は生徒の自主性を最大限に尊重されるお方だ。過去には学園議会からそれに近い提案もありましたが、生徒会からの猛烈な反対もあって即座に却下されています」
「そういった経緯のもと、目黒家がこの取り組みを始めたと? たいそう殊勝なことですね」
私の聞き返しは意地悪く猜疑心に溢れたものとなった。流れだけを見るなら非常に立派なこころざしに聞こえる……。しかしどうしても、トレーナーを海に突き落としたこの男の言い分を信じる気にはならなかった。朝方のヘリの中での会話だったなら、もう少し印象も違ったかもしれない。
しかし当の本人は皮肉をまるで意に介していないようだった。むしろ賞賛されたとでも思っているのか、自慢げに鼻を高くする。
「ええ。そもそもVIPの警備でしたら、名家としての歴史を歩んできた我々には一日の長がある。ご存知ですか? メジロのお嬢様達の傍らで常に目を光らせている無数の使用人……あれらはほとんど目黒が用意したものです」
「初耳ですね。有難いことです」
正直不愉快だったし、深堀しても良い事は無さそうだったので適当に流した。だが源蔵氏はまたしてもこれを素直に受け取って、にこやかに微笑んだ。
「いえいえ、当然のことをしたまで。それはさておき、そんな私どもの力を持ってしても全生徒に警備を配置することは難しい。ましてや常日頃からともなればなおさらです。この不可能を突破するために、私は当主として重大な決断を下しました。それがまさしく地下道の整備だったわけです」
学園の自由な気風を妨げることなく、警備員の雇用手続きといった煩雑さも無い。地下の掘削にはコストこそかかるが、必要と思われる通算の人件費を鑑みれば、十分釣り合いは取れるだろう。一石二鳥を優に超える妙手、それを源蔵氏はやってのけたということか。
少々感心しかけた私だったが、この話の出発点を思い出してその考えを取り消した。計画が真に順調に進んでいるのなら、わざわざそれをここで解説したりしないだろう。メジロ家と婚約を結ぶ必要性も無い。
私がそれを指摘すると、源蔵氏の表情はついに苦々しいものに変わった。
「遺憾ながらその通りです。計画は最終段階に進み、予定していた大半を掘り進んだところで問題が発生しました。つまりその――」
「資金が足りなくなった?」
おばあ様との晩餐会を思い出して、何となくそう言葉を継いだら源蔵氏は手を大きく横に振った。
「違います! そのような愚かな見込み違いを犯すはずがないでしょう。スポンサーは十分な援助をしてくれました。当初の想定通りにいけば、今年度中には開通できるはずだった!」
「しかしそれは叶わなかった。なぜですか?」
「ぎりぎりの段階になって、URAが契約を反故にしたのですよ。……確かに私どもの地下道はウマ娘の方々を思って敷設したものですが、決して慈善事業ではない。利用期間と人数に応じて、一定の通行料をいただく予定でした。その料金設定についても、計算法含め詳細にあらかじめ公表していました。だというのに、最大の取引先であったURAが今更になって契約に不満があると言い出したのです」
「ふむ……少々信じがたい話ですね。彼らはウマ娘の健全な育成のためなら、助力は惜しまない方々と思っておりましたが」
「よいですかアルダン様。昨今の民間企業というものは、おしなべてコストダウンしか頭にありません。URAとてそれは一緒。聞くところによると、今後は海外レースへの積極的な挑戦も視野に入れているそうですからね。資金はいくら溜めても飽きることはないでしょう。カットできそうな費用があればとことん貪欲になりますよ、彼らは」
URAはトレセン学園の経営母体とも言える団体だ。経営の多角化が進んだ今でこそ直接的な運営権は手放したが、依然として不可分の上下関係にある。その学園に通う私達ウマ娘の目からすれば、まさしく父母のような存在。……悪しざまに言われて気分が良くなるはずもない。
私の向ける視線の刺々しさに気付いたが、源蔵氏は慌てて「ですが彼らの言い分にも一理あります」と流れを改めた。
「料金改定を迫る理由に、URAは信用性を挙げました。私達の供する安全は形を持たないサービスだけに、互いの信頼が価格に直結するといっていい。通気性、耐震性、細かな部分の利便性といったスペックは当然公開していますが、彼らが求めたのはそれ以上のこと。『本当に目黒家に任せて大丈夫なのか?』という根本的な部分に疑問を持たれたわけです」
「それはまぁ……あなたは土木工事を専門とする大工さんには見えませんし」
そう相槌を打つと、源蔵氏はなぜかガクッと椅子から転げ落ちそうになった。コホコホと咳き込みながらも居住まいを正す。……虫でも飛んできたのだろうか?
「いやそういうことではなく。URAが指摘したのは、目黒家が結局のところウマ娘を輩出する家系では無いということです。レースに関わってこそいますが、私どもはウマ娘の身内どころかトレーナーさえ擁していない。そのような組織が、彼女達の安全を取り計らうと言ったところで、どれほど信用に値しましょうか。実に耳に痛い言葉でした」
そこまで聞いたところで、遅まきながら私はピンときた。源蔵氏が頑なに両家の婚姻にこだわり、またそれを急いだ一番の要因。それは目黒家の一大プロジェクトにあったわけだ。
「ゆえに、メジロ家が出てくると。なるほどURAを納得させるには打ってつけでしょうね」
「ええ、おっしゃる通りです。なによりメジロは高貴な家柄として、業界に名を轟かせている。その方々が自らを守るために愛用していると聞いたなら、宣伝効果は計り知れません。利用者は加速度的に増え、ゆくゆくは多大な利益を稼ぐことでしょう。……メジロの債務など軽々帳消しにできるほどにね」
いわくありげに源蔵氏はそう付け足した。メジロの債務とは言うまでもなく、おばあ様が取り組んでいたメジロ養成施設に端を発した借金地獄のことだろう。晴れて両家が結ばれれば、回り回ってそれも解決される。話としては出来過ぎなくらいだ。
「逆に婚姻が遅れれば、それだけ開通も遠のきます。地下道のメンテナンスにはそれなりに費用がかかります。それも決して少なくはない額の。また、そもそもの資金源はスポンサーからの投資ですから、計画に不備があったと知られれば、彼らがそれらの早期回収に踏み切る危険性もある。そうなったらさしもの目黒家とてお終いです」
「当然、メジロを救うだけの力も失う……」
「いかがですか? 例えるなら、私達は同じ沈みかけの船に乗ってしまっている状態なのです。この窮地を脱するためには、両家が力を合わせて新たな船を作る必要がある。可能な限り早急に! 私の今朝からの蛮行も、理解していただけるでしょう?」
広々とした応接室に、源蔵氏の高らかな声が響き渡った。テーブルの反対側に座る私を見つめ、承諾の返答を今か今かと待っている。しかし――。
忘れてはいけない、おばあ様の養成計画がとん挫したのはそもそも目黒家のせいだ。一見、彼の論調は筋が通っているようだが、その内実はマッチポンプに近い。自分で窮状を創り出して、その解決策とうたって私に決断を迫っている。
一口に言って、信用などできるはずがない。この男との交渉を担当したURA職員の気持ちが良く分かる。この二枚舌に大切なウマ娘を託そうとは思わないだろう。
「委細承知しました」
それでも、私は頷いた。全部が仕組まれた策謀だと気付いた上で。だってこれしか道はない。メジロ家も、私も。
「明朝にでも、役所まで必要書類を届けに参りましょう。本当はすぐにでも向かいたいところですが、さすがにこの時間では間に合わなさそうです」
窓から覗く斜陽を横目に見ながら言った。細長く伸びた窓枠の影が、テーブルを真ん中で区切っていた。