闇夜に走り去るドーベルを見送った私だったが、遅れて重大な懸念に気付いた。
あの子、今晩どこに泊まるのでしょう……? あからさまに源蔵氏に反発していたし、しかも彼女は幼い頃から引っ込み思案。素直にお屋敷に行って『私を泊めてください』など果たして言えただろうか? かといって今の時間から市街まで戻る船があるとは思えない。
にっちもさっちもいかず困った挙句、野宿しようとか思っているのでは? ああ見えて妙なところで強情だから『敵方に情けをかけられるくらいなら、野露に一晩晒される方がマシ』とも考えていそうだ。
「いけません、そんなこと……!」
ぼうっとしていた私は慌ててスマホで連絡を試みた。しかし何回発信しても繋がる気配がまるでない。仕方なくメッセージも送ったが、やはり既読すらつかなかった。とうとう嫌われてしまったらしい。……あれだけのことをしたら当然か。
「ドーベル! 出てきてください。謝りますから、仲直りしましょう! 外で寝たりなんかしたら風邪を引きますよ!」
私は役立たずのスマホをしまって砂浜中を駆け回ったが、一向に彼女の姿は見つからない。仕方なく、ベンチの向こう側から広がる森へ捜索を切り替えた。うっそうとした草むらの中を歩きながら、もう一度大声で叫ぶ。昼間は緑溢れていた木々の景色も、今は黒いシルエットが折り重なるばかりで、数歩先すら覚束ない。
「ドーベル、ドーベル! 恥ずかしいのでしたら、私から目黒の人にお願いします。あんなに大きい屋敷だから、一人くらいきっと変わりません。どうしても不安なら私と同じ部屋でもいいですから!」
さすがに喉が辛くなってきたので、いったん立ち止まって呼吸を整えた。砂浜からすぐ近くにあるこの森は、島を取り囲むようにして大部分を覆っている。目黒の敷地はその一部を切り開いて立つ形だ。源蔵氏は無人島を開拓したなどと話していたが、実際に訪れてみるとそれが誇張表現だったことが良く分かる。……あるいは彼ならば『島の自然環境保護のため』と言い訳するかもしれないが。
「ドーベル……。お願いですから私を安心させてください。不快なことを口にしたとは分かっています。何ならもう一発殴ってくれたって構いません。ですからどうか顔を見せてください。ドーベっごほっ……!」
乾ききった喉が激痛を発し、堪え切れず私はその場にうずくまった。何度も何度も咳き込んでいるうちに、自然と涙が伝った。頬の腫れは引くどころかますます熱を帯びていくようで、彼女への罪悪感をも膨らませる。あんなことを言わなければ良かったという後悔が次から次へと湧いてきた。
ずっと自分の内にしまっておけば良かった、どうしてそれをドーベルにぶつける必要があった? 私はメジロの皆の笑顔を守りたかったはずなのに。
湿った地面と雑草に身体を横たえていると、今朝から必死に保ち続けてきた根性の糸が一本一本抜けていくよう。酷使した脚の筋肉、マンホールで足場を掴んだ際の腕の違和感、低温の海中を泳ぎ続けたことによる震え。……先送りにしてきた何もかもが、どっと押し寄せてくる。元来人より弱い身体は今にも崩れ落ち、粉々の硝子片に消えてしまいそう。
でもそれらよりずっと、胸の痛みの方が深刻だった。あの瞬間から感じ続けている――抑え込み続けている私の内にある衝動。ドーベルに打ち明けたせいなのか、もう爆発しそうなくらいに高まっている。
「メジロバトル……でしたか。ふふっ……」
地面に転がって仰向けになって、夜空に向かって笑った。都会から遠く離れて、星々はその本来の輝きを余すことなく発している。
「言い得て妙ですね。私は今この瞬間も、私自身と戦っている」
独り言で口にして初めて、やはりそういうものだったと深く納得できた。覚悟とは己の弱い心に負けないあり方を指す――ならばこれも一つの戦いだ。
地面の固い寝心地は最悪だったが、身体をじっとさせていると多少は体調も落ち着いた。さてドーベル探しを再開しようと起き上がったら、懐のスマホが振動した。立ち上げてみると、なぜかパーマーが掛けてきている。彼女と言えば勝負の後、船着き場で別れてそれきりだ。一応、私は引き留めたのだが『あっちの方でやることあるから』と源蔵氏の用意した船でそそくさと去ってしまった。あの時は不思議でならなかったが……つまりドーベルを迎えに行っていたのだろう。
電話を取るなり「あーもしもし、ドーベルからなんだけど」とパーマーは言った。
「アルダンさんあてに伝言的なものを預かってて。殴ったりしてごめんなさい、もう二度とこんなことはしません。だからどうか屋敷に戻って来てください……だって」
「え? 私が、ですか?」
「他に誰がいんの、しっかりしてよぉ。めっちゃ心配してるよ? アルダンさんが全然帰ってこないーって。てかそんなら自分で電話しろって話だけどさ」
「ちょっと待ってください。もしかしてあなたのすぐ近くにドーベルもいるんです? というか、あなたは今どこにいるのですか?」
「普通に目黒さんの家だけど。あ、この島にある方のね。本土にも別荘たくさん持ってるそうだから」
「まあ……」
よくよく話を聞いてみたところ、要するにドーベルもパーマーも既にお屋敷で休んでいるということだった。それならそうと早く教えて欲しい、残り少ない体力を非常に無駄に使ってしまった。私はせめてもの抗議の意を込めて、
「目黒源蔵さんはなにかおっしゃっていましたか?」とパーマーに訊いた。
「いや何も。目黒の秘密を伝えたのは、家の者を除けば、今のところアルダン様だけです」
「はあ、そうですか。では私の方からあなたにお伝えしておきます。あの男には決して気を許さないでください。今回の件は、全て彼のはかりごとです。今後、メジロの名を得た彼が今後どのような行動に及ぶかは分かり――」
疲れ切っていたはずの総身がぞうっと粟立った。。身を翻して声がした方を向けば、木の陰に男が一人佇んでいた。いつの間に、そしてどこから? 混乱するしかない私の元へ、当の源蔵氏はつかつか歩み寄ってくると、いきなり腕を振り上げた。
「きゃっ」
思わずたじろいだ私――の手から、彼はスマホを奪い去った。素早く指を動かして、直ちに通話を終了させる。
「何をするんです!」
我に返った私が怒りの声を上げた時にはもう、彼はスマホをこちらに差し出していた。「どうぞ、失礼しました」と臆面もなくのたまう彼に半ば気圧されながらも、それを受け取る。一応、アプリを呼び出してみるが、特に何かされた形跡は無かった。単にパーマーとの通話を中断させる目的だったらしい。それだけでも十分乱暴な事に変わりはないが。
「アルダン様……。お伝えしたか定かではありませんが、通常あのような話は内密にするものです。あなたのことは心から敬愛しておりますが、このような行動に出られますと多少の制限を加えねばならなくなる」
「……どういう意味ですか」
暗がりで源蔵氏の表情は窺えない。その声色もまたのっぺりとしていて、とかく感情の掴みどころが無かった。がさりと葉の踏む音がして気付く。無意識に私の脚は後ずさっていた。
「いえいえ、そのように身構えることではありません。ただ少々不便な思いを味わうことになるやもしれません……とご忠告しているまでです。私としても、それは本意ではない。小鳥は出来る限り自由に羽ばたいていた方が、美しく見栄えが良いというものです」
「その比喩は……あまり品が良いとは言えませんね」
「そうですか? なにぶん私はあなたと違って学が無いもので」
皮肉交じりの笑いが聞こえて、向こう十年はこの男と一つ屋根の下で暮らすという未来に軽い絶望が湧いた。それが自ら選んだものだということに、心底嫌気が差した。そしてほんの僅かにだけ、メジロの妹分達をこの魔手から守ったことに誇らしさを覚えもした。
「驚かせてしまったことについては謝罪します。先の会談で、一つ言い忘れていたことがありましてね。明日に回そうかと思っていたのですが、ちょうど良い機会ですので今お伝えします」
源蔵氏は視線を私から外すと、「あちらを」と言って後方の地面を指で示した。目を凝らしてみれば、明らかに土の色と違う円状の模様がある。近寄ってみると、それは見覚えのあるマンホールだった。
「ここから出てきたのですか。手の込んだことを……」
「現在、島には四か所の出入り口を設けています。そしてもうお分かりでしょうが、それらは海を隔てた市街地にも繋がっている。ですからあの港から、やろうと思えば島まで歩くことができたのですよ。あの際はご足労をかけまいと上がっていただきましたが」
私は源蔵氏と極力顔を合わせないようにしつつ、足元のマンホールを観察した。見た目は一般的なそれらとまるで変わりはなく、開閉用のボタンなども見受けられない。おそらく手動では内側からしか開かないようになっているのだろう。
私の沈黙を都合よく解釈したらしい、源蔵氏は得意げに話を続ける。
「どうですか? どんな機材を用いても、これは正規の手段以外では開きません。周囲のコンクリートごと剥ぎ取られれば別かもしれませんが、そのような大事を秘密裏に行うのは不可能です」
「正規の手段とは? 遠隔操作のリモコンでもあるのですか?」
「ご明察です」
源蔵氏は服の胸ポケットから、鎖付きのロケットを取り出した。淡い星明りのもとに、銀色の光沢を放っている。ずいぶんと気取った見た目だが、それがいわゆるリモコンであるらしい。
「当初は中央の管制室のみが作動できるようにしていましたが、それでは緊急時の対応に遅れがあると指摘されましてね。改良案を審議した結果、このような携行端末が考案されました」
「わざわざそのようなものを作らずとも、皆が普通に持っているスマートフォンにアプリとして入れればよいのでは?」
「良い質問です、さすがはアルダン様。しかしこのご時世、電子機器ほど情報を漏らしやすい物は無い。安全を商品とするにあたって、雑多なウェブサイトやアプリに繋がるスマホを媒体にするなど、火中の栗を拾うに等しい。たった一つでも端末がウィルスに冒されれば、それで全利用者が危険に晒されるのですから」
「それでこのような時代錯誤のアクセサリーですか。技術力は果たして進歩しているのやら後退しているのやら」
「ですが童心がくすぐられるでしょう? 聞いた話によると、あなたはこういった風変わりな物品に目が無いようで。……お近づき、あるいは婚礼の前祝としてお一つ差し上げます。どうか受け取っていただきたい」
源蔵氏が伸ばした腕の先に、慎まし気に乗っかっている銀色のロケット。彼が側面を撫ぜると、ぱちんと蓋が開いて中が覗いた。そこにあったのは絶対に必要の無いだろう、たくさんの歯車が噛み合った機構。下部にひときわ大きなボタンが二つ備わっていて、そこに開閉を意味するマークが刻んである。
試しにそっと開のボタンを押してみると、歯車が小さな駆動音を発し一斉に回りだした。それとほぼ同時に足元のマンホールがスライドし、地下道への道が開かれる。マンホールの駆動が終了するとともに、歯車は緩やかに停止した。……あまりにも凝り過ぎではないか?
「もちろんこれは遊び心に溢れた特別仕様です。あなたを喜ばせようと思いまして。高価な宝石や指輪などより、よほど気に入っていただけたでしょう?」
まるで私が奇特な趣味を持った人物のように話してくる源蔵氏。その態度には嫌気が差したが、装置に罪は無いと考え直した。丁重にお礼を言って、両手に受け取る。冷たい金属の触感、想像していたよりずっと重たい。少し迷って、鎖を留めて首から胸元に提げた。
「とてもお似合いですよ。今日の午前中にやったように、今後も何度か試用していただくつもりです。ぜひその時をお楽しみにお待ちください」
「はい」
源蔵氏には素っ気なく返したが、あの地下道に興味があることは否定できない。通路が島にまで繋がっていることは予想していたが、彼の口ぶりでは他の場所にも行けるはずだ。例えばデパートや温泉にもこれを使ってこっそり忍び込んだりできるのだろうか?
中でもトレセン学園は広大な敷地を有しているから、出入り口が複数あってもおかしくない。職員寮もそこに入っていれば好きな時に……。
「アルダン様? 夜も更けてきましたし、そろそろ戻りましょうか。お身体が冷えるとよろしくありません」
「え、ええ」
適当に返しつつ、降って湧いた恐ろしい考えを懸命に内側へ押し込んだ。木立の中、目黒の屋敷へと至る方角へと小道を歩き出す。その後ろから、源蔵氏のやや焦り気味の足音が追いすがった。
……明日、そう明日になれば、今度こそこんな思いともさよならできる……はずだ。きっとそうに違いない。
言い聞かせた自分の心の声は、あまりに頼りない響きだった。