愛の逃避行 長距離、重バ場(メジロアルダン)   作:激辛党

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悪夢を覚ます魔法の言葉 / 悪夢に誘う呪いの言葉

 ぺたこんぺたこんと十以上は拇印したところで、ようやく源蔵氏は満足してくれた。お経のようにびっしり細かい文字の刻まれた書類の山が、私の前から回収される。それらを受け取った使用人は、扉を開けてそそくさと廊下の奥へ消えていった。お屋敷の金庫にでも保管するのだろうか? 官民ともにデジタル文書化の進むこの時代で、何とも原始的なことである。

「よろしい。これで晴れて、私とアルダン様は同じ名を持つ者とあいなったことになります」

「お言葉ですが、ああいった公文書は役所が受け取らねば効力を発揮しないのでは?」

「いえいえ。今しがた記入していただいた物の中には、アルダン様が正式に私と婚姻を結ぶことを宣言する、いわば誓約書も入っておりまして。それに両者のサインが備わった今、法律的には完全にあなたは私の妻となります」

 どれだけハンコを押しても覚えなかった現実感は、言葉に直されても同様だった。私が彼の――何? 一年前の私に言ったら、きっとくすくす笑われる。いやたぶん一か月前だって笑うだろう。今だって趣味の悪いジョークにしか聞こえない。

 だけど、別に問題は無いように思えた。現実だろうが妄想だろうが大して差は生まれない。あの時、私は今を得てこの先の未来を放り捨てた。トレーナーの傍という至上の幸せが得られないなら、逆にどれだけの不幸が降りかかったっていい。

「アルダン様? 朝方のことでお疲れなのでしょうか。ご加減が優れないように見えますが」

 傍目にもぼうっとしていたらしく、源蔵氏が席を立って寄って来た。しかしその声色は心配というには確信に溢れすぎていて、嫌悪感しか催さなかった。

「いえ、お気遣いなく。慣れない作業で目が疲れただけですので。少しすれば治ります」

「そうですか。……ここでのサービスにご不満などはございませんか? よろしければ、メジロのメイドなどもお呼びしましょう。確かアルダン様には、ご高齢ながら大変関係深いメイドがいると聞いていますが」

 ばあやのことを言っているのだろう。私はゆっくり首を横に振った。

そういえば一昨日から一度も顔を合わせていない。どこまでも心優しいばあやのことだから、不要な負担を掛けたくなかった。……それ以上に、私のこの決断を知られるのが怖かった。私が源蔵氏の妻となったと聞いたなら、ばあやはきっと卒倒するに違いないから。まぁ遅かれ早かれ人伝いに耳にするのだろうけれど……。

「体調に不安が無いようでしたら、出発の準備に取り掛かりましょう。あなたの言ったよう、中には役所に提出せねばならない物もある。昨日と同じくヘリを用意させていますので、そちらまでご案内します」

 やや性急な口調になる源蔵氏。誓約書で幾重にも縛っておいて、それでもなお足らないらしい。よほど早急にメジロの名が欲しいと見える。昨夜は余裕ぶった態度で話していたが……地下道を利用した例の新事業、もしかすると焦げ付く一歩手前なのかもしれない。

「分かりました。街まで向かいましょう」

 しかし今の私に提案を拒める事情は無い。彼の後に付き従って、長く伸びる廊下へ出たその時。振動音とともに私のスマホが電話の着信を知らせた。源蔵氏もすぐに気付いて「お構いなく」と出るように言ってくれる。言葉に甘えて、その場から少し離れた廊下の角で通話に入った。

「やっほ、アルダンさん。その後はどう? ドーベルと決着はついた?」

「パーマー? 今朝はどこへ行っていたのです? 姿が見えないので心配したのですよ。まだ島にいるのですか?」

「ごめんごめん、ちょっと野暮用がね。うん、私もまだ島。ほら見える?」

 パーマーがビデオ通話に切り替えたので、それに応じる。カメラに映ったのは青々と広がる海面と真っ白な浜辺、そしていっぱいのパーマーのまばゆい笑顔。

「今日もあったかいし、せっかくだから泳いどかないと損かなーって。今年の夏はあれこれ忙しくてゆったりできなかったし。てかプライベートビーチっての? これだけの広さの浜を貸し切りにできるって考えたら、マジお得じゃない?」

「ふふっ……。そうですね。ええ、良い機会ですから楽しんでいくといいでしょう。ただ羽目を外し過ぎないようにしてくださいね。身体を冷やして風邪など引いてはその方が損ですよ」

「そりゃ分かってるって。あんま海には入らないようにする、だいいち泳ぐなら昨日たくさんやったしね。今はそれより水着気分味わうの重視って感じ? 学園のプールじゃこんな格好できっこないしさ」

 カメラの視点がズームアウトして、パーマーの服装が映り込んだ。なんと彼女が着ていたのは例のヒモ的な水着。羞恥心を煽りに煽る、あられもないことこの上ない代物だった。勝負が終わった後、当然パーマーに返却したのだが、それを今は本人が着ているようだ。

「なにをやっているのですパーマー。そ、そんな恥ずかしい恰好をして……! あり得ません! 誰かに見られたらどうするのです!」

「いやアルダンさんだって喜んで着てたよね?」

「よよよろこんでませんっ! 人聞きの悪い!」

 改めて他人が着ているところを見てみると、この水着の凄まじさが良く分かる。胸部はもとより腰部分もほとんど覆っていないではないか。勝負の際は必死に自分を誤魔化していたが、これを他人――それも男性に見られると思ったら、顔から火くらいは噴き出そうだ。

 端末の画面越しに見ていても心落ち着かなくなってきて、私はつい「なんなのですか」と訊いていた。

「昨日のことを思い出させるためだけに、わざわざ掛けてきたのですか? だとしたら我慢なりません、もう切ります」

「あー待って待って! まだ本題に入ってないから。えっと、そんな嫌がらせしたかったわけじゃもちろん無くて」

 パーマーはわたわたと両手を振ると、カメラの視点をまたも移動させ始めた。綺麗な肌色目立つ彼女の身体は画面内から消える。ほっと一息ついた私の耳に、不穏な言葉が飛び込んだ。

「アルダンさんには一言伝えておかなきゃなーって。一応、元担当なわけだし? といっても二人きりの海デートくらい、数えきれないほどやったと思うけどさ。……ね? トレーナーさん」

「いやパーマー。さすがにそんな恰好は一度もしなかったよ……」

 移動し終わった画面内に、ごく当たり前のように私のトレーナーが入ってきた。私のトレーナーは呆れ口調でパーマーと二言三言交わした後、カメラに向かって軽く手を振る。

「あーっと……アルダン? 聞こえてるか? そのまぁ……色々と訊きたいことはあるだろうけど――」

「トレーナーさん」

「な、なんだ?」

「なにをしているのです?」

「みっ……見て分からないか? パーマーと――」

「分かりません。きちんと説明してください」

「いやだからその……」

 私のトレーナーはしどろもどろになって、視線をあちこちにさ迷わせている。その様子からして、おおよその事情は見て取れた。十中八九、パーマーが無理を言って私のトレーナーを付き合わせているのだろう。でなければ私に黙ってこのような事をするはずがない。

 しかしその場合、問題なのはパーマーの真意だ。学園に入ってからというもの、彼女の言動は非常に明るく朗らかになったが、だからといって培ってきた慎ましさや貞淑さまでは失われなかった。そのことは私だって良く理解している。だからこそ、このビデオ通話の意図が不明だ。

「パーマー。今ならまだ許してあげますから、早急にお屋敷に戻ってきなさい。話は後でゆっくり聞かせてもらいます」

「えーどうして?」

「……みなまで言う必要がありますか? その方は私のトレーナーさんです。なのにその前で……とんでもない恰好をして! どういうつもりです!」

「つもりもなにも……。デートなんだから別に普通じゃない?」

「だからどうしてそこでデートなどいう単語が……! ああもう! 分かりました、私からそちらに向かいます。そこから一歩たりとも動かないでくださいね」

 映っている景色から、おおよその位置は特定できていた。私はスマホをしまうと、全力で廊下を走り出――そうとしたが、その手前で源蔵氏に止められる。

「お待ちください! アルダン様、どこに行かれると!?」

「少々用事ができました! すぐ戻ります」

「いえ急にそのような……。用なら使いの者をやればよろしいのでは」

「これが黙って見ていられますか。とにかく私は行きますので、よろしくお願いします!」

 勢いで押し切り、私は源蔵氏の脇を通って玄関へ急いだ。トレーナーに一刻も早く会わなければならない、それ以外は何も考えられなかった。

 

―――――――

 

 最終直線と同等の速度で行き着いた浜辺。そこで私のトレーナーはあろうことかパーマーと水を掛け合って遊んでいた。着ているのも見慣れたジャージでなくて、小洒落たスポーツウェア。それもボタンを全部外して、細身の上半身を惜しげもなく太陽の下に晒している。そこから覗く盛り上がった腹筋に、思わず視線が吸い込まれる。……プールで一緒に泳いだことは何度かあったけれど、こんなラフな格好は一度だってしてくれなかった。

彼を問い質したい気持ちをぐっと堪えて、まずはパーマーに詰め寄る。

「やっと追いつきましたよ、パーマー」

「あはは……さすがアルダンさん、来るの早過ぎるって。もうちょっと遊びたかったんだけど」

「ダメです。これ以上は看過できません。一分一秒でも早く、ちゃんとした水着に着替えてください」

「あれ? じゃあ海で遊ぶのはいいの?」

「それも……ダメです! だいたいどうして私のトレーナーさんと、あなたが二人きりになる必要があるのです。遊ぶにしたって、例えばマックイーンやドーベルとすれば良いではありませんか。」

「まーそうだね。私だってみんな一緒の方が楽しいとは思うよ? でもこれデートだから。そうじゃなかったらこんな水着にならないって」

「ですから! なぜ私のトレーナーさんがその相手に――」

「アルダンさん、あのさ」

 絶叫する私を遮って、パーマーがいきなり真剣な顔になって言った。

「もうアルダンさんのトレーナーじゃないよ」

「え……? あ」

 言われて初めて気付いた。そうだった。私が専属契約を切ったのだった。だから彼はもはや『私の』トレーナーではない。

 虚をつかれた私だったが「だとしてもです!」と強引に切り返す。

「このような遊び半分にトレーナーさんを付き合わせてはいけません。ご迷惑です」

「迷惑なんてことないと思うけどな。私が誘ったら、普通にオーケーしてくれたし。だよね?」

 パーマーが隣に立った彼に話を向ける。すると彼は「ああ」と即座に頷いた。

「ちょうどいい機会だったし、他のメジロ家の子達とも親交を深めようと思って。で、デートがどうとかは良く分からないけどさ」

「やだなーいい雰囲気だったじゃん?」

 そう笑いながら肩肘で……のトレーナーの脇腹をつつく。苦笑いでそれに応える彼だが、別段そこに嫌悪の感情は宿っていない。単に気恥ずかしくてそうしているだけとはっきり伝わってくる。

 頭が重い、思考が上手く働かない……。震えと動悸だけが一方的に高まっていく。

「どうして、パーマー。お願いですからこんなのは冗談だと言ってください。いえ冗談ですよね? あなたはこんな事をする子ではありません。学園でヘリオスさんを始めとするギャルの皆さんと仲良しになって、とっても明るく愉快になりましたけど、こんな事はあなたが最も嫌う類の行為だったはずです。なのになぜ……」

「こんな事とか嫌う類とか……そんな抽象的な表現じゃ無くて、もっと具体的に言ってくれない?」

「私の! 私のトレーナーさんと、はしたない恰好でいちゃいちゃすることです! そんなものを見せられて私がいったいどんな気持ちになるか、分からないあなたではないでしょう!?」

「分かるよ」

 パーマーはすぐさま言い切ると、続けて「ごめん」と謝った。深々と頭を下げて、ゆっくり起こす。

「でもさ。もう一度言うけど、この人はアルダンさんとはもう何の関係も無い、普通のトレーナーさん。それがどういうことか、アルダンさんこそ分かってる? 今みたいな感じで他のウマ娘……いいや人間の女の子とだって、海デートしたり山デートしたりする、その権利がある。……恋人になったら、その先のことだってきっと」

「止めて!」

「止めない! 想像して、アルダンさん。トレーナーさんが他の女の人と結婚して、家庭を作って、子供に恵まれて、幸せに生活している姿を。……そしてそこにあなたは存在しない。一片の影だってあるわけない。それがアルダンさんの選んだ道なんだよ」

 

 空砲が至近距離で鳴ったよう。

 強い耳鳴りがして、世界は急速に無音になった。

 色素の薄まりゆく視界、裏腹に脳裏へくっきりと描かれる幻想の光景。

ああ、確かにそこに見える。見知らぬ方と抱き合って、幸せそうに微笑む彼の姿。そうなって当然だ、彼の性格と能力があれば、傍にいたいという人は数多に現れることだろう。

 彼は結局一人の男性で、いつまでもウマ娘一人にこだわってくれるわけが無い。ましてや男ながら私にみさおを立てて、生涯独身を貫いてくれる? それこそ童子の空想にも劣る身勝手な願いというものだ。

 

 聞こえる、聞こえるんです、あなたの声が……。

 

『メジロアルダン? そうだね、前に担当したことのあるウマ娘だよ。でも三年ほど経った頃、色々あって離れたんだ。ウマ娘はその後も何人も担当したから、あんまり印象とかは残ってないな。え? 綺麗な子だったかって? 

 はは、そりゃあもちろん――君の方が綺麗だよ・・・・・・・・』

 

 そうですね、あなたならきっとそのような受け答えをするでしょう。分かっております。

 延々と繰り返される仮想の会話。四肢の感覚はとうに消えて、私は立っているのか座っているのか、倒れているのかも覚束ない。それでも理解してしまった――本当は最初から気付いていた――事実だけは無くならない。

 

『共に永遠を刻もう』『一番の輝きだった』『俺にとっての光だ』

 たくさんの言葉をあなたは言います。彼女はそれを何度も耳にすることでしょう。かつて私をとりこにした魔法の言葉が、今度は他の誰かのために囁かれるのです。

 ああトレーナーさん、教えてください。いったい隣のその方は――その女は誰ですか。

 暗闇に伸ばす手はしかし遠のくばかりで、ひたすら我が身は泥濘へ落ち行く。抱くは黒一色の感情、私の居場所が――私の想いがぐちゃぐちゃに。だってあなたの『それ』は、私だけのものだったのに!

 

 決意は折れて、覚悟も失せた。そうしてついに、ガラスの砕ける音を聞く。

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