「パーマー」
彼女の手を借りて立ち上がった私はひとまず言った。
「ありがとうございます。あなたのお陰で、大切な事に気付きました」
「え? あ、ああうん。どういたしまして。それより大丈夫? 顔色が悪いなんてレベルじゃないよ。ちょっと横になったほうが……」
「構いません。それより少しだけトレーナーさんと二人きりにさせてもらえますか。ご安心ください、先ほどのように取り乱すことはもうないと約束します」
「……本当に?」
パーマーは心底不安げに見つめてくる。この気持ちをどう言い表そうと思考を巡らせたら、言葉がすらすらと口をついて出た。
「あなたが私のことを考えて、一芝居打ってくれたことには感謝しています。それはよくよく承知していますが、それでも今はちょっと抑えるのが辛いのです」
ピンと来ていないパーマーの右手をぎゅうっと握りしめて、言った。
「この嫉妬を」
次の瞬間に浮かんだパーマーの顔を、私は生涯忘れないだろう。大切なメジロ家の姉妹にこのような顔をさせたことを激しく後悔した。……後悔こそしたが、防ぎようはなかったというのが実情だ。たぶん時を何度繰り返しても、私は同様の暴挙を働く。
パーマーはすぐさま走り去って行った。その後ろ姿が林の奥に消えるのを見届けた後、トレーナーの方に向き直る。あまり状況に追いつけていないのか、彼は困惑気味の様子だった。
「パーマーに何を言ったんだ? やけに怯えていたけど……」
「少々……いえ、だいぶ悪い事をしました。後で謝らないといけませんね。……思えばトレーナーさんにも、私は大変な失礼を働きました」
「いやもうそれはいいんだ。君にも事情があったってのは皆から聞いて――わっ」
私は彼を抱きしめた。
スポーツウェアは波しぶきのためにじっとり湿っていた。それでも彼の体温はしっかりと感じ取れた。一人分の布を隔てて交わされる、二人の熱。かつて味わったことの無い密度での接触が、焼き焦がすような衝動を幾分か和らげてくれた。
「ごめんなさい、もう少しだけ……こうさせてください」
「ああ……」
トレーナーは何も言わず、それどころか私の身体を優しく抱擁してくれた。文字通り天にも昇るような感覚。けれど時間は止まってくれはしない。猶予があるうちに最低限のことは伝えねば。
二人して抱き合った状態のまま――つまり彼と視線を合わせないようにしながら、話し始める。
「トレーナーさん、結論から言います。私と一緒に逃げてください」
「えっ……? どこへ?」
「どこまでもです。私は目黒源蔵氏と既に契約を交わしました。彼はそれを盾に、私に婚姻を迫るでしょう。そうなったらあなたと共にはいられなくなる……。そんなのは嫌です、私はあなたと離れたくありません。今更何を言っていると思われるでしょうが、本当です。ずっと一緒にいたいのです。いいえ、ずっと一緒にいてください。何があっても私を離さないで……いいえ、あなたを離しません。ああそうですね、全部反対だったのです」
「アルダン、いったい何の話を――」
「あなたに望まれる私ではなくて、私はあなたを望んでいるのです。あなたしかいません。誤解の無いようはっきり申し上げます。私のものになってください、トレーナーさん」
言葉にすれば、至極簡単なことだった。
女としての機能がどうとか、メジロ家うんぬんはもはや関係無い。何が許せなくて、何が欲しいのか。
彼の幸せは心の底から望んでいるけれど、それはやはり好きだから。好きなものが、人に取られて良いわけが無い。私はそれが許せるような、寛容なウマ娘ではなかったというだけの話。
私と結ばれたら、彼の未来は変わるだろう。安穏と続く永遠はそこに無く、刹那に終わるかもしれない。でも他にしようがない、これ以上は一秒だって我慢できない。
「あなたを不幸にするかもしれません。あなたの子供も宿せないかもしれません。あなたの将来を台無しにするかもしれません。けれどごめんなさい、本当に本当にごめんなさい。それでも諦められませんでした。……つまり私、あなたをぐちゃぐちゃにしたいのです」
「なぁちょっと……! 落ち着いてって」
「どうすれば伝わるでしょうか? いいえどうしたってきっと伝わらない。弱かった私は負けましたが、逆に言えば強かった私が勝ちました。どちらに転んだって、メジロアルダンの勝利は変わらない。これが私の本心です。ずっと隠して抑え込んできた……本性」
抱きしめる腕にさらに力を込めて、私は慎重にトレーナーを持ち上げた。腕の上でぐるりと強引に体勢を変えて、自分が走れるようにする。体格的にはトレーナーの方が上であるため、ちぐはぐな構図になった。移動のしやすさを考慮するなら背負った方が良いのだろうが、それにはトレーナーの協力が不可欠だ。しかし現状、残念ながら彼は私の言動を汲み取ってくれているとは言い難い。
「どうした急に! 何する気!?」
「トレーナーさん、舌を噛みますから少々口を閉じていていただけますか? 私達の急務は島からの脱出です。私有地から出さえすれば、目黒源蔵氏も無茶はできないはず」
言い換えれば、島の中ならば何をやってくるか分からない。朝方のお屋敷で見かけた無数のスーツ姿の使用人……。あれらが単なる執事だとは到底思えなかった。必要とあれば実力行使も辞さない類の方々だろう。
だがそういった事情を詳しく伝える余裕がまず無い。文字通り一分一秒を争う今、私は昨夜訪れたあの場所に向かって全力で砂浜を駆ける。もうもうと巻き上がる砂埃に反射した陽射しが煌めいた。
「あああアルダン!? 変なお芝居をしたのは悪かったって! 冗談だったんだ、本気じゃない! 別にパーマーのことだって何とも――いやそれはちょっと語弊があるけども。とにかく君を傷つけるつもりは一切無かった!」
喋らないでと頼んだにも関わらず、私の腕の中で早口に謝り続けるトレーナー。可愛らしい……。
背筋にぞくぞくと表しようのない感覚が登ってくる。決して全くこれっぽっちも望んでなどいなかったが、彼とこういう会話をするのも一度くらいなら悪くない。よこしまな感情を気取られないように最大限の注意を払いつつ「大丈夫ですよ」と私は微笑んだ。
「大丈夫です。たとえトレーナーさんが他の女性にうつつを抜かそうとも、それは問題ではありません。大事なのは私がどうするか。……もう決めました。ついさっき決めたのです」
木立の生い茂る小道が見えてきた。昨晩、ドーベルを探してさ迷い歩いた場所だ。そして源蔵氏に見つかって、訊いてもいない自慢話をされた場所でもある。あの時のやり取りは思い返すに不快だが、このロケットを貰った事だけは例外だ。おかげさまで脱出ルートを確保できた。
「トレーナーさん……」
万感の思いを込めて、私は走りながら彼を力いっぱい抱きしめた。強く強く……二度と離さないように。あまりにも気持ちが入り過ぎたせいか、彼は痛みに少しだけ呻く。その声すらも何故だか愛おしくて、自分が180度変わってしまったことをはっきり自覚した。内に渦巻く渇望を、無理に抑え込み続けてきた反動……。
けれど彼だって悪かった、あんなに私を追い詰めるから。こうならないよう必死で逃げ続けていたのに!
「アルダン! 前見て前!」
速度を少しも落とさないまま、二人して森の中へと突入する。右へ左へ、反復横跳びに躱す樹木。参加したことはいまだ無いが、障害物競走とはこのようなものだろうか? 木の根や落ち葉で足場が悪いことも手伝って、極限の集中力が要求される。
堪りかねてスピードを緩めるようトレーナーが言う。普段なら彼の指示には絶対に従うところ、私はあえて無視した。いつ源蔵氏が逃走に気付いてもおかしくない以上、のんびりしている暇は無い。それに……垂れ下がった枝葉を寸前で避けた瞬間「ひゃあ!」と上がった彼の情けない悲鳴。できればもう一回それが聞きたくて……。
しかしその機会が訪れないうちに、目当てのマンホールが視界に入った。胸元に隠していたロケットを起動し、開放の操作を行う。間もなく、聞き慣れた振動音がして蓋がスライドした。……源蔵氏が傍にいなければ効果を発揮しない可能性は僅かにあったが、どうやら賭けに勝ったらしい。
「な、なんだこれ……」
開いたマンホールの前まで来て、私はようやく脚を停めた。地下深くまで繋がる穴を見下ろし、トレーナーは絶句している。そう言えば彼はこれを目にするのは初めてだった。やや迷ってから、彼を地面に降ろしてあげる。さすがに抱えたままで足場を伝っていくのは無理だ。
「トレーナーさん、詳しい説明は省きますがここから地下道へと降りられます。海底を通って市街まで続いていますので、距離は多少長いでしょうけれど……。私がいますのでご安心ください」
「だからちょっと待ってくれって! これは今どういう状況なんだ!?」
どうやら話も何も飛ばし過ぎたせいで、彼の理解がほとんど追いついていないようだ。だが……ポケットの奥で、引っ切り無しに震え続けている私のスマホ。いったい誰からどれだけ着信が入っているのか考えたくもない。
私は意を決しそれを草藪の中にそっと置いた。ヘリに乗っていた時、源蔵氏はドーベルの追跡に早々に気が付いた。あれはおそらく、スマホのGPS機能を悪用した技術だ。あの男ならば、そういった違法アプリの開発など造作も無いだろう。そう推理すると、これ以上スマホを携帯するには相応のリスクが付きまとう。
ただ、取りに戻って来られる保証は無かった。長年お世話になったスマホに、少しの間だけ両手を合わせた。
「トレーナーさん、先ほど言ったことが全てです。目黒源蔵氏との婚姻を免れるには逃げるしかないのです。これ以上は何も訊かず、とにかくここを降りてください」
「……分かった。けどせめて一つだけ確認させてくれ」
なんでしょうか、と訊き返した私に彼は間を置かず言った。
「目黒との結婚は、やっぱり君の望みじゃ無かったんだよな? メジロ家の事情とか……俺と過ごした三年間とか。とにかくそういう色々を加味しても、あれは君の本心じゃ無かった。そうだよな?」
「当たり前です」
何を今更なことを、と不躾にも付け足しそうになった。今しがた離れたばかりの彼の身体に再びしがみつき、一言一句を噛みしめるよう言う。
「私が結婚するとしたら、その相手はあなただけです。他の殿方だなんて死んでも嫌です」
「そうか」
トレーナーは短く応えると、おもむろに自身のスマホを取り出した。誰かに連絡を取るのかと思いきや、私が先ほど置いたスマホの隣に横たえた。陽だまりの元、仲良く二つ並んで銀に輝く液晶画面。
「え?」
「あの男、やたら俺を敵視していたからな。俺のスマホの位置情報も追跡される可能性がある。それに――」
トレーナーはゆっくりと腕を上げると、私の頬をそっと撫ぜた。男性特有のごわついた掌の感触が、私の皮膚神経を甘やかに麻痺させる。
「君がずっと傍にいてくれるなら、他に連絡したい相手なんていないさ」
「っ――!」
この人……!
この人は本当に、何度私をこういう気持ちにさせれば気が済むのだろうか? この三年間で何回この、声にならない声を上げさせられたものか。もはや一種の怒りすら覚える。そのまま衝動に飽かせて行動しかけたが、寸前で思い留まった。まだいけない、そういったことは正式におばあ様に挨拶してからでないと……。
「とっともかく! 急がなくてはなりません。さぁトレーナーさんからお先にどうぞ」
「オーケー。こっから降りれば良いのか」
彼はさっと身をひるがえすと、躊躇なくマンホールの内へ入っていく。かんかんと足場を打つ軽快な音が聞こえてきた。彼にとっては未知の暗闇を進むに等しいのに、少しも恐れはないようだ。それとも私に向けた信頼の高さが為せる技なのか。
浜辺で告白して以来、ずっと感じてきた彼への背徳的な欲望に、あらためて罪悪感の光が差した。呼吸が止まってしまいそうな感情の矛盾。なのにこれを解決する術を今の私は何ら持たない。全ては自業自得の末路だ。
頬に僅か残った彼のぬくもりに触れると、そこはじっとり濡れていた。知らない間に泣いていた。空を仰いで自嘲気味に笑って、マンホールへ急いだ。……もう余計な感傷に浸るのは止めにしよう。そういうのは全部終わってからでいい。