オレンジ色の包む地下道に着く頃には、理性も大半が戻っていた。そのお陰である大問題に気付いた。むしろなぜ今まで忘れていたのか疑問なくらいの。
「トレーナーさん……寒くありません? というか寒いですよね」
「うん……。この辺に着替えの置いてあるところとか……あるわけ無いか」
スポーツウェア一枚で、しかも波に濡れそぼった姿のトレーナーが応える。彼を急かしたのは他でもない私だが、さすがに着替える時間くらいは道中あったように思う。だが、ここまで来てまた浜辺に戻る猶予は無いだろう。
自分のあまりの浅薄さに呆れる他ない。何かの足しになればと、着ていた上着を脱ごうとしたら必死の形相で止められた。
「いやいやいや! それはいいよ。年上の男として恥ずかし過ぎる」
「そ、そうですよね。えっとじゃあ……急いで市街まで戻るのが一番かと」
「それしかないか……。君の言う通りなら、屋敷にも行けなさそうだし」
「お任せください、可能な限り急ぎますから」
失態を取り戻すべく、私はさっそくトレーナーを両手に担ぎ上げた。すると「ええ、また!?」と彼がなぜだか抗議してくる。私はとりあえず走り出しつつそれに応えた。案内表示によれば、無事ここから市内方面に道が繋がっているようだ。
「この方が早く着きます。それにこうしてくっ付いていた方が、少しは温かくなるのではないかと」
「そりゃそうかもしれないけど……。この地下道が最短ルートだったとしても、市街まで5kmは確実にあるはずだ。君は朝にレースしたばかりなんだし、体を休ませた方がいい」
「私を見くびらないでください。しかも5kmだなんてトレセン学園ではランニングにもなりません。数分もあれば終わるのですから」
「だけど……」
トレーナーは不承不承といった様子だったが、それ以上は何も言わなかった。二人分の体重を加味すれば話は変わるとか、地下道のアスファルト舗装は走行に適していないとか。指摘したいことは山ほどあっただろうが、例えそうしても私が止まる事は無いと先に察してくれた。
かつかつと私の走行音がトンネル状の道にこだまし続ける。延々と続くオレンジの一本道はひどく単調で現実味が無く、まるで夢幻の迷宮に迷い込んだよう。走り続けているにも関わらず、その実は一歩も進んでいないような錯覚に囚われそうになる。
唯一変化があるとすれば、それは一定間隔で設置されている案内表示。市街に至るまでの距離が記載されていて、一つ表示を通り過ぎるごとにその数値が目減りしていく。目的地まで着実に迫っている証拠だ。
「……トレセン学園だって?」
その内一つを目で追って、トレーナーが呟いた。今しがたの行先案内にそれが載っていたからだ。不思議がっている彼に、源蔵氏からの受け売りをかいつまんで伝える。
この地下道はウマ娘の安全確保の題目で作られたこと、しかしその計画が開通間近でとん挫しかかっていることなどなど……。走りながらのため、だいぶつっかえ気味になってしまったが、彼はすぐさま私の言わんとすることを理解してくれた。そのうえで「妙な話だな」と首を傾げる。
「いわゆる不審者や強盗の類から、君達を守るのは確かに重要だけど。大規模な地下道を掘り進めるほどの見返りは、それだけじゃおそらく得られない。目黒源蔵は別に慈善家ってわけじゃないんだろ?」
「ええ。私も違和感は覚えていました。ですが実物がこうして存在する以上、疑問を持つ余地は無いかと……。URAから、利用料としてよほどの大金をせしめようとしたのでしょうか。その強欲さのために、かの男は元も子も無くしかかっていますが」
「いや……どうだろうな。他にも、奴はメジロの名を持つことにもこだわっていた。それと何か関わりが……あるかもしれない?」
途中で自信を失ったらしく、トレーナーの言葉はしぼんで消えた。語られなかったその先を引き継ぐべく、私は考察を続けてみる。
源蔵氏はメジロの名を持つ理由を、URAに対するアピールと言った。メジロのウマ娘が太鼓判を押せばこれ以上無い宣伝だと。……だが果たしてそれだけで、莫大な利用料が釣り合うだろうか。お屋敷で話を聞いた時はそういうものかと呑み込んでしまったが、後から考えると実に怪しい。
むしろそれよりは、メジロを抱き込むことに意味があるのでは?
源蔵氏はメジロを存亡の危機に陥らせるため一計を案じた。華美な養成施設を全国に作らせ、債務の山を築き上げた……。この点にしたって、単なる詐欺にしてはやけに手が込んでいる。あのメジロ養成施設に、例えば他の利用目的があったとすれば……。
「アルダン! 何か様子が変だ。ほら、あそこの天井を見て」
思索を続けていた私の耳に、トレーナーの鋭い声が飛び込んだ。彼が指で示した前方の天井を仰ぎ見れば、そこには直線状の溝が。重たい震動と共に、その溝から分厚いシャッターが下りだしていた。おそらく防火用の設備――その作動が完了すれば地下道は寸断され、市街にも向かえなくなることは疑いようもなかった。
脚は止めずに一応、後方も確認する。火災が起きていないのはまぁ当然として、他に作動しているシャッターは一切無い。これで誤作動の可能性も低まった。
つまり、この操作は明らかに私達の進路を遮るのを目的としている。いったい誰が? 決まっている、目黒源蔵氏はようやく私の逃走に気付いたのだ。
「どうする!? 別のルートは――」
「いえ、海を渡り終えるまではずっとこの一本道だけです。トレーナーさん、しっかり掴まってください!」
言い終えると同時に直線加速。適度に流していたギアを、スパート時のそれと同等にまで跳ね上げる。私の最速なら十分間に合う余地はある。余裕のつもりか知らないが、ピンポイントで一つしかシャッターを起動しなかったことを後悔してもらおう。
当初は鈍い音を立てて下っていたシャッターは、ある段階から急激に早まった。既にもう身を屈めなければ潜れないほど、しかしまだ距離は優に100mはある。
「アルダン……君なら行ける!」
それでもトレーナーは無理だとは言わなかった。彼の声が聞こえた途端、速度限界の向こう側が見える。脚と言わず全身が羽毛のように軽くなって、瞬間に世界が縮んだ。
次の瞬きでもうシャッターの黒い表面が間近にあって、私は身体を投げ打った。トレーナーを抱く両手をきつく締めて、彼だけは何があっても守れるように。
「ぐっ!」
ウマ娘がレースに臨むにあたって、真っ先に受けるトレーニング科目は誰であってもある一つに決まっている。それは転倒時の受け身の取り方。時速数十kmという車の走行時に近い猛烈な速度で走る私達だが、生き物である以上は当然、転ぶこともある。
人間であればせいぜい膝を擦りむく、どれだけ酷くても骨折くらいで済むところ、しかしウマ娘はそうもいかない。命に関わる重大事故に直結する。最悪の事態を避けるべく、どれだけ才能を持ったウマでも、まずはマットの上で前転を繰り返す、お遊戯のような訓練に励むことになる。――これが反射的に行えるようにならなければ、デビューの出場権すら得られない。そのくらい当たり前で、重要な技術。
「っあ……」
中でも私はこの訓練に多大な時間を割いていた。メジロの主治医にいつも口を酸っぱくして言われていた。『体の不調でトレーニングを行えないのはむしろ幸運なことです、一番悪いのはそうと気付かず全力で走っている時に、脚をもつれさせてしまうことなのですから』。
だから私とトレーナーがシャッターの向こう側に全速力のまま転がってなお、ほとんど無傷で済んだのは必然だと言えた。もっと言うならデビューしてこの方、この一瞬のためだけに私は受け身の訓練をしてきたのかもしれなかった。そう思えるくらい完璧で、誰からしても文句のつけようのない華麗な着地だった。
「お久しぶりです、アルダンお嬢様」
だったけれど――。
その先に待ち構えていた源蔵氏と黒スーツ達。ゆっくりと歩いて近寄ってくる彼らを前にして、すぐさま逃げ出せるという領域には至らなかった。
「このような事態になると数割予想はしていましたがね。……つくづく女、というよりウマ娘なるものは度し難い」
その無礼な物言いには百の言葉で返したかったが、私は無様なうつ伏せのまま、げほげほと咳き込むので精いっぱいだった。
――――――
「スマートフォンをあっさり捨てたのは評価できなくもない。まぁドーベル様の時に一度お見せしましたから、予測するのは容易いでしょうな」
私のスマホを手で弄びながら、源蔵氏は言った。
「だが、そこまで頭がいったのならロケットペンダントが細工されている可能性も考慮すべきだった。あのようなタイミングで渡された代物を、何ら警戒せず携帯するというのは愚かにも……失敬。私が差し上げたプレゼントですからね。喜んでいただけたようで何よりです」
くっくっと下品な笑いを滲ませる源蔵氏。彼は立ち上がると「連れていけ」と指示を飛ばした。それに呼応して、黒スーツの一人が私の元へ近寄ってくる。女性であるその人物は、しゃがみ込んでいた私の肩を掴んで立ち上がらせると「抵抗しないように」と耳打ちしてきた。
「屋敷までお戻りいただくだけです。妙な真似は誓って致しませんので」
「ご冗談を。この暴挙が妙な真似でないならいったい何だと?」
「アルダン様……」
黒スーツの女性は私を気遣って言ったのだと理解はできたが、反論しなければ気が済まなかった。私への扱いは納得できる。誓約を文書で交わしたに関わらず、その日のうちに反故にしたのだから源蔵氏が怒り心頭なのも当然だ。
だが……。
「トレーナーさんは関係無いでしょう。即刻解放してください」
屈強な男二人がかりで、彼は硬い地面に押さえつけられていた。各関節にかなりの体重を掛けられているようで、その横顔は苦痛に彩られている。私自身が拘束されることよりも、それの方がよほど堪えた。柔肌を直接ヤスリで研がれているような、筆舌尽くしがたい恐怖が湧きあがる。
「早く離してください……! こんなことが許されると思っているのですか!?」
私が叫ぶと、押さえている男の一人が「どうしますか?」と源蔵氏を仰ぎ見た。彼は大して悩む様子もなく、手をひらひらと振ってみせる。
「娘さえ無事に戻るならばそれでいい。男のほうなどバラしても構わん」
「貴様!」
私の口からその呼び方が出たことに、自分で遅れて驚いた。どのような方に対しても、いつも丁寧で、優しく接するように。父様、母様、おばあ様に、メジロのばあや、皆から教わって育ってきた。その道徳を初めて捨てた。
「何を……何を!」
後はもう言葉にならなくって、意味不明な唸り声になった。清楚などと、いたずらに評される自分の性分をこの瞬間だけは大いに呪った。そうでなければ、憎き男の顔をきっと罵詈雑言で歪ませられただろうに。
「やめてくれ、アルダン。俺のことなら心配ない」
顔面を地面にぐいぐいと押し当てられながら、トレーナーが言うのが聞こえた。
「君が無事ならそれでいいさ。なに、さすがに病院のお世話になるような事はされないだろ」
耳を疑った。
彼は一度、水上バイクから海に突き落とされたことを忘れているのだろうか? 学園上空ではヘリを飛ばし、地下にはこのような大型施設を勝手に作る。そんな男だから何をしたって不思議ではない。『バラして構わん』。その言い様がどれだけ不吉で、非情なものか、どうして彼には伝わっていない?
悔しいやら自分が情けないやらで、訳が分からなくなって、気付いたらあれほど止めようと思っていたにも関わらず、私はぼろぼろ泣いていた。
「申し訳ありませんでした……。目黒……源蔵様。私が……間違っていたのです。ですからどうか……トレーナーさんだけは……どうか」
「思いだしたように謝らずともよろしいですよ、アルダン様。そういったやり取りはお互い時間の無駄でしょう。あなたはただ誓ってくれるだけでいい。私と婚姻関係を結び、メジロの名を明け渡すとだけね」
「だとしても、トレーナーさんを傷つける必要は無いでしょう!」
「いいえありますとも」
ほとんど絶叫となった私の言葉を、源蔵氏はあっさり否定した。
「両家の婚姻に対しここまで完全に乗り気であったあなたが、それを翻した原因は明白です。そこのトレーナー、その男が何もかもの元凶だ。奴さえいなければ、私達は昨日の時点で晴れて夫婦となっていたのです。……退けてなお目の前に立ち塞がろうとする障害物は、徹底的に排除する他ありますまい」
源蔵氏の高圧的な声がシャッターに反射してトンネル内にこだまする。私の頭蓋骨にわんわんと響き渡って、己の罪を思い知らせる。――何もかも私の愚かな振る舞いのせいだ。なにが『トレーナーのため』だ? 笑わせる。その果てに彼の命を危険に晒す、これ以上無い皮肉な末路。絶望と諦観が胃からせり上がって、口中に酸味が広まった。
源蔵氏は通路の右手から伸びる足場を指した。そこの案内表示には市街側の港の名前が記載されていた。つい昨日、パーマーとの勝負を開始した場所……。海を渡り切って最初の出入り口で待ち伏せしていたということか。島からはおそらく、お得意のヘリでも飛ばしてきたのだろう。私の行動は全て織り込み済みだったわけだ。
「お進みください」
スーツの女性に促され、私は足場の方へと向かわされる。何度となくトレーナーの方を振り返ったが彼も、彼を押さえつける男達も変わる様子は無かった。微動だにしない男達の屈強な両腕は、私が逃げ出す素振りを見せれば、トレーナーはどうなっても知らないぞ――と脅しているようだった。実際そこにあともう少しの体重が加われば、トレーナーの細身の骨はバラバラにされてしまいそうだった。
女性が先導する形で足場を登り始める。続いた私の後を、さらにもう一人のスーツが追ってくる。逃げも退きもできない厳重な態勢、私は黙々と冷たい金属の足場を伝っていった。
マンホールが見えてくると、先導の女性が傍のボタンを押す。ぐぐぐ、とスライドしていく蓋を見ながら、ついつい私はその向こうにパーマーの笑顔を期待した。こんなところにいるわけも無いのに。ああ、ごめんなさい。あなたを遠ざけたりしなければ、こんな事態にはならな――。
「ごきげんよう皆様方」
眩しい日差しと一緒に、凛とした挨拶が頭上から降ってきた。風にたなびく銀紫の髪がそこには見えた。