真っ白な光に包まれたマンホール内に、彼女――マックイーンの声が朗々と響き渡る。
「挨拶もまともに返せないとは。いかに末端の使用人といえども、目黒の程度が知れますわね」
まず黒スーツの女性がひょいっと持ち上げられた。あまりの出来事に抵抗もままならず、そのままいずこへと放り捨てられる。嘘のような呆気なさで、私の真上にあった障害物が消えた。
「ようやくお会いできましたわね、アルダンさん。このような場所から失礼しますが、その後お変わりありませんこと?」
「マックイーン……!」
感謝を述べるべきとは分かっていたが、胸がいっぱいで名前を呼ぶのでやっとだった。そんな私に代わって、下側にいた黒スーツが「んな! どうしてここが!」と面白いくらい驚いてくれる。
事態を源蔵氏に知らせるためか、黒スーツは必死に地下へと降り始めた。私も慌ててそれを追う。せっかくの好機を無為に帰すわけにはいかない。
「アルダンさん、少々横へお退きあそばせ!」
マックイーンの鋭い声が飛ぶ。聞こえたと同時に、私は足場に身をぐっと寄せた。予測した通り、そのすぐ後に彼女の銀髪が一閃する。飛び降りた――少しのためらいもなく。私も以前やったことではあるが、こうして他人のそれを見ると実にぞっとしない。
トレーナーと彼女の無事を確かめるべく、いち早く地下道へ戻ろうとするも、下側の黒スーツの下る速度が遅くてじれったい。……よくよく考えてみると、私も飛び降りれば良い事に気付き、足場から手を離した。
訪れる自由落下、頬に吹き付ける地下の冷たい風。すぐさま壁を蹴りつけて、反動で落下速度を殺す。これを両側で三度繰り返し、タイミングを見計らって再び足場に戻った。後はもう底まですぐのところだったので、必死に手足を動かし急ぐ。
三段飛ばしで辿り着いたトンネル内は、思っていた以上に混沌とした状況になっていた。
「アルダンさんも追いついてこられましたか。これで条件は整いましたわね」
「何の話をしているのです、マックイーン様。私はこのような催し物の予定などしておりませんが」
剣呑とした空気で話す二人はいいとして、問題なのはトレーナーの所在だ。私のいない少しの間にいったい何があったのか。なぜかトレーナーはマックイーンの両腕の中に納まっていた。そのすぐ前方で、呆然と突っ立っているスーツの男二人。……まさかとは思うが、マックイーンが実力で奪い去ったのか? お嬢様にあるまじき腕力と素早さだ。
「さて役者も揃いましたところで、アルダンさん。朝方のレースの続きと参りましょうか。ドーベルを見事に下したことは大変素晴らしいですが、あれでメジロ家を制したなどとは夢にも思っていませんわよね?」
「え……は?」
トレーナーが目をぱちくりとするのを見て、意味が分からないのは私だけではないとホッとした。というかこの場にいる全員、マックイーンの言動が理解できていない気がする。その事実を遅まきながらマックイーン本人も察したようで「メジロバトルです、バトル!」と頬を染めながら叫んだ。
「私、まだアルダンさんと勝負を決めていませんわ! 生涯の相手を決める大事な試合なのに、私だけのけ者なんて許されません! 今すぐ私を走っていただきます。お覚悟を、アルダンさん」
びしっとマックイーンが遥か市街の中心部へと続く地下道を指さした。確かにこの地下道は遠大な距離を持っている。ウマ娘のレース勝負にはもってこいと言えなくもない。……だがこの子、本当に状況の緊迫具合を理解しているのか? いや理解した上で、あえてこうしているならさすがの精神力と評すべきか。
誰もが呆気に取られている中で、いち早く反応したのは源蔵氏だった。
「ふざけないでいただきたい! 両家の婚姻は、既に文書で正式に取り決められている。今更あなたの入る余地は無い!」
「いいえそうはいきませんわよ、目黒なにがし様。古くよりメジロ家では、結婚する殿方を選ぶ際には新婦がその脚と実力を以てして選定するのが習わしです。あなたがアルダンさん、もしくは私を妻に迎えたいなら――どうぞ追いついてごらんなさいですわ!」
そう言うが早いが、マックイーンはトレーナーを抱えたままスタートダッシュを決めた。その速さはまさに風のごとく、銀色の余韻を残して一瞬で姿が掻き消える。彼女の腹積もりが分かって、私も数拍遅れてスタートを切った。
しかし会話の中にあっては数拍の出遅れでも、レース単位でなら十バ身以上の差が生まれる。凄まじい加速力で逃げの体勢に入ったマックイーン、その後ろ姿は既に小さくなりつつあった。彼女の特徴は何と言ってもこの脚が長く保ち続ける事。始めに取ったリードを、レース終盤まで余すことなく活用してくる。
「アルダンー! 無茶はするなよー! なにせゴール地点が見えない」
遠のきつつある彼方からトレーナーのアドバイスが聞こえる。その通り、このレースはライアンの時と同じく超長距離戦となるのは間違いない。そもそもどこがゴールで、何をすれば勝ちなのかも不明だ。だいいちメジロバトルがどういったものか、マックイーン本人が把握しているか自体疑わしい(私もしているとは言い難いが)。しかし結局のところ、そういった種々の要素は些末なこと。私が今、一番に考えるべきことは――。
大切なトレーナーが他のメジロの手の内にあって、それを是が非でも取り戻さねばならないということだ。
「直線、君から見て約200歩の地点で右の分岐に折れた。マックイーンはどうやらトレセン方面に向かうようだ」
トレーナーの言う通り、右手に向かうマックイーンの残像が見えた。思った通り、秋川理事長に助けを求めるつもりだろう。一見はふざけているようだったが、内実ちゃんと考えてはいたらしい。
だが、学園に逃げ込むならば私も同時でなければ意味が無い。トレーナーのことだから、私が源蔵氏に捕まれば、よせばいいのに助けに来そうだ。自分はどうなっても良いと言うくせに、私が傷つきそうになったら、きっとすぐさま飛び込んでくる。……来てくれますよね?
頭に過った一抹の不安を消し去って、ギアの上昇に集中する。追いつけないのはまだしも、マックイーンから引き剥がされるのだけは絶対に阻止しなくてはならない。彼女を見失ったらそこでお終いだ。
しかし相手もさるもの、リードを堅実に守っているようでいて、実際には着実に速度を増していっている。おそらく市街の領域に入ったからだろう、地下道はいくつかの分岐に枝分かれするようになっている。必然的に一本道から代わって、いくつかのコーナーができている。このいくつかのコーナリングにおいて、彼女は抜群のセンスで更に加速しているようだ。
一朝一夕では決して真似できない、天才のみが為せる卓越した技。私のように覚悟と言う名の根性と気合で、限界を突破するのとは訳が違う。
内心、トレーナーという成人男性の斤量がある分、こちらが圧倒的に有利だろうと見越していたのだが……これはまずい。単純な実力差で、マックイーンと開きがあり過ぎる。
なにせ成績だけで言うなら、メジロ家内でも圧倒的なレコードの保持者だ。年齢差の関係上、彼女と公式戦で勝負することなかったのは、むしろ幸運だったかもしれない。こんな走りを何度も何度も同じターフ内で見せられたら、しまいには自信喪失しかねない。
「アルダン、聞こえるか? 次のコーナーを曲がった先、直線のずっと続く場所がある。そこでスパートするんだ!」
返事の代わりに、脚の余力を確かめて少し息を溜めた。コーナー終わりで、爆発的に加速できるよう全神経を尖らせていく。スパートの瞬発力を生むのは脚の筋肉だけでなく、全身の躍動とそれに伴う重心のバランス制御。体内の機能を完全に掌握することでやっと、培ってきたパフォーマンスを十全に発揮できる。
そう……技巧とか体力だとか、無い物ねだりを今更してもしようが無い。私にできることは、刹那の一瞬に持てる全てを費やすことだけ。たとえどれだけ相手が強大であろうと、針の先の一点に全力を集中させれば、貫き通せない物は無い。
地下道の壁が真っ直ぐ平行となった瞬間を見定めて、私は溜めに溜めたバネを解き放った。限界の壁を軽く三つは『ぶち破った』手応え。痛覚はとうに消え失せて、ゼリー状の空気抵抗だけが加速の度合いを詳細に教えてくれる。視界のずっと先で、小さな黒点となっていたマックイーンの後ろ姿がみるみるうちに迫りくる。
「そうだ、行け! アルダン! 差すんだ!」
トレーナーの叱咤激励が差し脚に更なる閃きをもたらす。こうなるともはや怖いものなしで、私は陽も射さない地下深くのトンネル内に観客いっぱいのレース場を幻視した。スタンド席の一番前には、もちろん右手を振り上げるトレーナー。ゴールラインまでもう少し、二バ身先のマックイーンに食らいつくべく、この瞬間に全力を賭す。
右脚の踏み込みがアスファルトを踏み砕いた。そうしてついに隣に見えた、マックイーンの白く美しい横顔。斜め後方に置き去りに、私が一歩前へと出た。
「……やりますわね」
彼女の感嘆が聞こえた気がして、勝てたんだ――という実感が遅れて湧いた。
――――――
『トレセン学園前』というバス停か何かのような表示が、前にした壁に確かにあった。
いくつかの分岐でトレセンという単語は見かけていたから、繋がっていることは既に知っていたが……。
学園の真下にこのような秘密通路があった――改めてその事実を実感し、感慨深さにとらわれる。ゴールドシップがときおり口にしていた冗談は、的を射ていたわけだ。『トレセン学園の地下には巨大組織の実験場がある』……。もしかして理事長も携わっていたのだろうか?
「あの穴から地上に脱出できるようですわね」
マックイーンが天井を仰いで呟く。他のマンホール状の出入り口と同様に、近くの壁面にずっと上まで続く足場があった。さっそくそこへ向かおうとする彼女を、私は後ろから呼び止める。
「マックイーン、その前に一つよろしいですか」
「ええ、何かしら。アルダンさん」
「そろそろトレーナーさんを私に返してくれませんか」
「あら……失礼。私といたしましたことが、とんだことを」
マックイーンは楚々とした動作でぺこりと頭を下げると、トレーナーを私に明け渡してくれた。ようやく戻って来た彼の暖かな体温を肌身に感じ、ほっと一息を吐く。
「悔しいですが、先ほどの勝負はアルダンさんの完勝でしたわ。よって私はもう何も言いません。アルダンさん……あなたはあなたの信じた道をどうぞ行ってくださいませ」
「……ありがとうございます、マックイーン」
メジロでも屈指の実力を持つ彼女からのお墨付きに、思わず感極まる私。これまで散々回り道をした、何度も何度も後悔した。しかし全てはこの瞬間のためにあったのだ――そう考えると、何もかもが救われた気になった。
清々しい心持ちのまま、いざ足場に右手をかけようとしたところ、左手に持ったトレーナーが「いやちょっと待て」となぜか言う。
「なんですか? トレーナーさん」
「そろそろ降ろしてくれ。アルダンだって、片手じゃ危ないだろ。……というか俺の扱いがさっきからおかしくないか?」
「ご心配には及びません。この程度の高さなら、右手一本でも大丈夫です」
「そんなわけ――」
まだ何か言おうとするトレーナーを待たず、私は足場を登り始めた。下からマックイーンが続く。
二人分の体重負荷はともかくとしても、バランスを取るのが少々難しい。だが問題点と言えばそれくらいのことで、私は首尾よくトンネルの天井から、狭いマンホール部分へと登った。
「な、なぁ。本当に平気なのか?」
「全然へっちゃら、ですよ。ふふっ」
「いやそうじゃなくってだな……。何と言えばいいのか」
「トレーナーさん」
彼が何を言いたいか、本当のところは私にも汲み取れていた。しかしそれは言葉にすればきっと陳腐になってしまう。だから代わりに、左腕で彼の身体を強く抱いた。
もう二度と手放さないように。何があっても、誰が来ても守れるように。
地上に繋がる蓋部分に着いたので、トレーナーに開扉を頼んだ。彼の指がボタンを押しこみ、蓋がいつもと同じくスライドしていく。まず目に飛び込んだのは意外にも屋内の天井。どうやら倉庫の一角に出たらしい。
「普段あまり使われていない用具入れ……のようですわね」
雑多な機材や、掃除道具の群れ。ごちゃごちゃとした周辺を見回しながらマックイーンが言う。照明こそ点灯していないが、窓から差し込む陽射しで辺りはぼうっと明るい。時刻は正午過ぎ……くらいだろうか。いつもスマホを時計代わりしているため、こういう時に不便だ。
「あっと、そうでした」
と、そこでスマホ繋がりで思い出した。源蔵氏から渡されたロケットペンダントを手に取りだす。これに細工がされていると本人自ら口にしていた。これは早々に捨てなければ、またしても待ち伏せの憂き目に遭う。私はそれを近くにあった棚にそっと置いた。
誰かに拾われて悪用される可能性もあったが、そこまで源蔵氏の計画を慮る気にはならなかった。
「アルダンさん? ここから出られますわ」
一方、マックイーンは早くも倉庫の出入り口を発見したようで、私とトレーナーを促してくる。薄錆びに覆われたノブを回し、扉を押し開けた先には――。
「アルダン様。お待ちしておりました」
馴染み深い燕尾服に身を包んだ、メジロの執事が立っていた。