私が間に入るいとまも無く、おばあ様はトレーナーのすぐ前に立った。驚いてさらに彼が後ろに下がると、それに合わせて一歩詰め寄る。
「純朴なこの子に付け込んで、いったい何を吹き込んだのです。でなければこの子がメジロを捨てるなどと言うはずがない。……それもあなたは学園に勤める聖職者のはずでしょう。教え子に何という事を言わせているのですか」
「ちょちょちょっと待ってください、何か勘違いを――」
「言い訳は無用です。大切なメジロの愛娘を預かっていただくトレーナーさんと思って、これまで敬意を払っておりましたが、たった今この瞬間にその全てを裏切られました。それもよりによってこのような時期に……!」
「おばあ様!」
そこでやっと割って入ることに成功した。トレーナーに掴みかからんばかりのおばあ様を、どうにか引き剥がそうと試みる。だが現役を退いて久しいとはいえ、おばあ様もかつてはひとかどのウマ娘。歳を経てなお頑強な足腰は、多少の押し引きではびくともしない。むしろ私の方が圧倒される始末だ。
「あなたは黙っていなさいアルダン。この男に何を言われたか知りませんが、あなたは間違いなく惑わされています。……思えばあなたは昔から夢見がちなところのある子でした。病院のベッドに一人、長い間伏せるあなたはきっと絵本や童話を友とするしか無かったのでしょう。……ですが」
おばあ様は私の両肩に手を置いて、幼児に言い聞かせるように言う。
「それは勘違いです。夢とは覚めるもので、いずれは皆、現実で戦わねばならない。年上の男性にどういった幻想を抱くとしても、それはやはり虚像でしかない。あなたはメジロを背負う者として、為すべきことがあるでしょう」
足元の地面がゼリーになったと思った。もう到底、二本足で立っていられなくなって、私はへなへなと崩れ落ちそうになる。おばあ様はそんな私を優しく抱き留めて、代わりに鋭い視線をトレーナーにやった。
「出て行っていただけますか。そして二度と屋敷の門扉をまたぐことの無きようお願いします」
「はっ……? え?」
トレーナーはまだ展開について来られていないのか、受け答えもまともにできない。そんな彼の態度に苛立ったように、おばあ様は再度「お引き取り願えますか」と低く響き渡る声で告げた。するとその瞬間、凄まじい勢いで執務室の扉が押し開かれた。同時に飛び込んでくる三人分の人影。ライアンとドーベルとマックイーン、三人揃って仲良く同じ表情で、こちらへと駆け寄ってくる。……もしかして、部屋の外でずっと会話を盗み聞きしていたのだろうか。
「お待ちください、おばあ様! トレーナーさんはそんな人じゃないんです!」
ライアンがそう言ったのを皮切りに、三人ともに彼を庇う言葉をそれぞれ捲し立てる。それはもう小鳥が騒ぎ立てるような勢いで、部屋はあっという間に言葉の雨あられに埋め尽くされた。
浜辺でパーマーから聞いた話が本当なら、この二日足らずのうちにトレーナーはメジロの皆と相当の時間に渡ってやり取りしてきたはずだ。それだけあれば彼の人柄を知るには十分だったらしい。
「ええい、全員いったん落ち着きなさい!」
おばあ様が一喝するに至って、ようやく執務室に静粛さが戻った。乱入していた三人もおばあ様から離れ、不承不承といった顔で壁際に控える。私の脚にも力が戻り、震えながらもどうにか立ち上がった。
「あなた方の言いたい事も分からなくはありません。曲がりなりにも彼は学園のトレーナー、信頼関係はしっかりと構築していた……そういうことでしょう」
がくがくと頷くドーベル。応じる返答が出ないのは、今更になっておばあ様に反論するという恐れ多さに震えているからかもしれない。
「ですが、それだけに私は許せないのです。私も若い頃は専属トレーナーを持っていた身ですから、関係性の深さは把握しています。レースに向かうウマ娘に対し、『君の夢を一緒に叶えよう』『ずっと傍で応援してる』、挙句に『僕は君だけを信じてる』といった台詞を彼らはしばしば用いる。それもそのはず、彼らはよくよく理解しているからです。レースに勝つのに最も大事な要素とは、すなわち想い。それを強くする特効薬は、信頼するトレーナーからの言葉です」
おばあ様はかつてない勢いでそこまで言い終えると、ゆっくりと一同を見渡した。私を含む四人のウマ娘。その顔を一人一人確かめるように見ていき、最後に辿り着くのはトレーナー。彼をひときわ鋭い視線で睨みつける。
「しかし彼らは決まって知らない。年若い少女にそういった言葉を軽々しく掛ける事が、どれほど罪深い事なのかを。……ここにちょうどいる四人のメジロの子の性格を、私はよくよく承知しています。その上であえてはっきり申し上げますが、男性トレーナーから先のような台詞を吐かれたら、皆揃ってころっと勘違いするでしょう。この人にとって、自分は特別な存在なのだと」
「おばあ様!? 私は決してそのようなことは――」
一番に抗議の声を発したのは、頬を真っ赤に染めたライアンだった。しかしすげなくおばあ様の「だまらっしゃい!」で吹き消される。
「あなたが筋力トレーニング一辺倒で、男性経験の浅いことは私も聞き及んでいます。……そしてそれはこのアルダンも同じこと。お屋敷と病院の行き来を繰り返す、狭い世界で育ったこの子の境遇なら、悪用するのはさぞ簡単なことだったでしょう」
「違います、俺……私は悪用だなんて、そんなつもりは少しだって!」
「ならばこれはいったい何なのです! 誰よりもメジロ家の伝統を重んじ、愛してきたこの子に……。深い覚悟の元に、顔も良く知らぬ相手との婚姻を決めたこの子に! あろうことか専属トレーナーとの駆け落ちなどという、下品極まりない真似をさせるなど!」
「お、おばあ様、それはさすがに言葉が過ぎるのではありませんこと?」
止めに入ろうとするマックイーンだが、その声は弱々しくおばあ様の耳には届かない。
過熱していく一方のトレーナーへの追及は、徐々に私の内にある感情をもたらしつつあった。それは今や到底無視できないほど膨らんでいて、あと一歩で臨界点を迎えるところまで来ていた。
だからどうか言わないで、もう止めて。何度となく胸の内で言ったけれど、声にならない思いが今のおばあ様に伝わるはずも無く。とうとうその言葉がおばあ様の口から滑り出た。
「正直に言いなさい。どうせあなたも……メジロの名を欲しただけでしょう。それともこの子の容姿にですか? 年下で、いつでも指示通りに動いてくれる女生徒に聖職者としてあるまじき劣情を――」
「止めなさい」
いつの間にか私はおばあ様の目の前にいた。当主に対する尊敬の念、年長者に向ける敬意の念……これまでおばあ様に抱いてきた全てが、いつからか雲散霧消していた。
「アルダンさん、いけませんわ!」
横からかっ飛んでくるマックイーン。彼女は私を羽交い絞めにしようとしたが、それを力づくで払いのけた。床に転がった彼女が見せる驚愕と怯えの表情。それでも自分を止められない。
「私のトレーナーさんへの侮蔑は看過できません。たとえおばあ様であったとしても……」
「侮蔑? いいえ、私は事実を指摘しているまでですよ」
「そのような根も葉もない誹謗中傷が事実だと? 私、おばあ様はもっと聡明な方と思っておりました」
「……私の方こそ見誤っていたようですね、アルダン。あなたはもっと賢く、慎ましやかな子と思っていました。それがこのような弱腰の、口だけ達者な男に騙されて……!」
「侮辱を止めろと言うのが分かりませんか?」
執務室の壁はだんだんと赤に染まり始めた。壁紙が勝手に剥げだしたのかと思ったが、そんな訳もない。頭に血が上り過ぎて、眼球に入り込んだのだろうか? そんな妄想が頭を過ぎる。自分の舌が今、どのような台詞を発しているのかも良く分からない。この二日間で重ねてきた衝動と渇望、ありとあらゆる感情が折り重なって、目の前に立ち塞がる不快極まりない人物に、ぶちまかれようとしている。
「アルダン……! 何と言う口の利き方ですか。あなたをそのような子に育てた覚えはありませんよ」
「私こそ、あなたのような恥知らずの祖母に育てられたとは思ってもみませんでした」
頬に鋭い痛みが走った。平手打ちを食らったらしい。ドーベルに殴られたのとは逆側だったのが幸いした。僅かも怯まず喋り続ける。
「トレーナーさんは恩人なんです。彼がいなかったら今の私はないんです。……その彼が相続の金目当て? 私の身体に劣情を抱いた? 下衆の勘繰りは大概にしてください」
「アルダンよせ!」
ついにトレーナー本人が止めに入った。彼は私の腕を引き、無理やりおばあ様から遠ざけようとする。「どうして!」思わず叫んでいた。
「どうして止めるんです! この人っ……この人はあなたと私のこれまでを穢した! 二人の大切な思い出に卑俗な
途端に、すぅっとおばあ様の目線から光が失われた。怒りで染まっていた頬からも血の気が引く。彼女はそれまでと打って変わって低い声で言った。
「アルダン……そちらがその気ならよろしい。今この時をもってあなたをメジロより勘当します」
「っ! おばあ様! それではあんまりです!」
控えていたライアンが前に出て叫んだ。私の方へ近寄ってきて「ほらアルダンさん、謝って」とできない相談を耳打ちしてくる。当然無視し、私は踵を返すとトレーナーを伴って執務室の扉を目指して歩き出した。
「待ってアルダンさん! ダメだったら! 今ならまだ間に合うから」
ライアンがなおも縋りついてくる。――何が間に合うと言うんだ? もうとっくに手遅れだ。
「お、おばあ様。私も勘当はやり過ぎだと思いますわ。せめて謹慎などで……頭を冷やせば、きっとアルダンさんも考えを改めるはずです」
一方のマックイーンはおばあ様へと向かい、無意味な嘆願を始める。
「いいえ。これが適当です。軽薄な男になびいた上に、私に対するあのような言葉遣い……もはや名家の令嬢に相応しくありません」
それは捨て台詞に近かったが、トレーナーにつけた修飾句だけは聞き逃せなかった。扉のノブに手を掛けながらも、振り返って言い返す。
「まだ言いますか。老いというものはかくも残酷なものですね。もうろくという言葉の意味を分かりやすく教えてくれる」
「やめてよ……アルダンさん」
壁際から悲痛な泣き声が聞こえて、誰かと思えばドーベルだった。ずっとうずくまってすすり泣いていたらしい。その表情はこれまで見た中で一番悲惨で、黒く染まり切っていた心に微小に痛みが走った。それから逃れる意図も込めて、私は強くトレーナーの腕を引っ張って廊下へと出る。
「ダメだ、こんなのは良くない。ライアンの言う通りだ。おばあ様に早く謝ろう」
トレーナーがそう言って戻ろうとする。地下道の時と同様に、腕に抱いて連れ去ろうと試みたが、今度ばかりは本気で抵抗された。胸の痛みがいっそう強まる。
「アルダン! 君はこんなことをする子じゃないだろ!? 俺が知っているメジロアルダンは誰にでも優しくて、礼儀正しくて、おっとりしていて……それが君なんだ。お願いだから部屋に――」
「嫌です」
だから私も、本気でトレーナーの身体を拘束した。結局のところ、人間の成人男性ではウマ娘の実力には敵わない。あっさりと持ち上がった彼の身体を両腕に抱き締め、メジロ家の長い廊下を走って玄関を目指す。
「おい! 俺だって怒る時は怒るぞ。君だって、本当はこんなの望んじゃいないはずだ。メジロの皆と離れ離れになっていいのか? こんなことまでした先に未来があるのか?」
「知らない!」
無数の使用人を振り切り、ついに玄関から飛び出した。目指す場所なんて分からない、とにかくここから離れたい。誰にも何も言われない場所に行って、二人きりで過ごしたい……それだけ。
「知らない! 知らないんです……! そんなこともう分かりません! あなたが好きで好きでどうしようもなくて、こうする以外に他が無いんです。どうしてあなたすら分かってくれないんですか!? こんな私に……メジロアルダンじゃない私に、あなたがしたんじゃないですか!」
ただ勢いで言ったに過ぎなかったが、この発言はトレーナーには深い意味を持って聞こえたようだ。それきり彼は何も言わなくなって、私の腕で揺られるだけになる。それを良い事に私はひたすらお屋敷の庭を走り続けた。やがて大きな門扉を越えて、敷地外の公道へと躍り出る。
飛び交う車の列を横目に、専用レーンへと移って順調に加速。どこへ向かうか、行きたいかなんて自分でも決めていない。ただ脚のおもむくままに走り続ける。そうしていなければ気が変になってしまいそうだった。いや、もうとっくの昔におかしくなっているのか?
思えばきっとあの瞬間、寮のベランダから飛び立った時から私は自分を制御できていなかった。自暴自棄だった。
それだけじゃない、私は全てを捨てた。メジロ家に誓った決意も、おばあ様への信頼も、何より一番大切だったはずのトレーナーを想う気持ちも……身を焦がす衝動の薪にくべた。
だからもう後に残っている物なんて……。
「アルダン!? なぁおい!? しっかりしろ!」
「あうっ!」
ギアの回転速度は急激に落ち、曲がるつもりもないのに進路が蛇行する。思えば島を離れてから走り通しだった。ペース配分だって滅茶苦茶だ。こんな様で体力なんて保つわけがない。しまいには精根尽きて、道路の中途でへたり込む。最後の力を振り絞って、どうにかトレーナーをそっと地面に降ろした。
「無事か!? どうした、脚が痛むのか?」
トレーナーが必死の形相で語りかけてくる。
「ごめんなさい、私もう――」
視界が一瞬で暗転して、後は何も分からなくなった。