視界は季節外れの陽炎に包まれたようだった。どこもかしこも揺らめいて不確か、焦点は一つだって合いはしない。
倒れた私を背負って歩くトレーナー。通りがかったタクシーに乗り込んだ。流れていく昼下がりの街の景色。荒廃した私の内面とは裏腹に、平穏そのものの土手沿いの道路を行く。
「病院は……嫌です」
絞り出したその声は隣の彼に聞こえたかどうか。
「おばあ様に……メジロにこれ以上、ご迷惑を掛けるわけには……」
トレーナーはタクシーの運転手に二言三言、話しかけた。何を言ったかまでは聞き取れなかった。深いプールの水底に沈んでいるように、世界は無音で茫洋としていた。度重なる試練が今は重たい枷となって、私の四肢を縛り付けていた。
次に気が付いた時にはもう、そこはタクシーの車内ではなかった。再びトレーナーの背中に揺られ、どこかの敷地内を進んでいる。
いいや、ここには見覚えがある。まだ三回しか訪れた事は無いが、忘れるはずがない。職員寮へと至る小道。落ち葉に彩られたレンガの上を一歩一歩、トレーナーは非常に遅いペースで歩いていく。ときおり吹き付ける肌寒いほどの木枯らし。だというのに、すぐ前にした彼のうなじはじっとりと汗ばんでいた。
「すみません。私……重いですよね」
思わずそう零して、果たしてこれはどっちの意味だろうと自分でおかしくなった。彼に何というものを背負わせているのだろうと。
「いいさ。慣れてる」
トレーナーは言葉少なにそう返して、後は黙って歩き続けた。私もそれ以上は謝らなかった。
寮の自室に着くと、彼は真っ先に私をベッドに寝かせた。
「悪い。替えのシーツとか無いけど……」
今更なんてこと気にするんだと思って、笑ってしまった。彼もそれを見て少しだけ笑って、キッチンの方に行った。お湯を沸かす音が聞こえてくる。
「……あくまでトレーナーとしての知見だが、骨折、脱臼などの重篤な怪我はしてないと思う」
彼が普段使っているだろう掛布団にくるまった。得も言われぬ匂いが鼻腔に押し寄せる。柔軟剤とお日様と……彼の背中に覚えたものと同じ、僅かな汗臭さ。ない交ぜになったそれらに包まれて、どんどん意識が曖昧になってくる。
「きっと疲労が溜まり過ぎてたんだ。考えてみれば、昨日だって街中を走って海を泳いだもんな。無茶のし過ぎなんだよ。……今は休んだ方がいい。たっぷり寝たら落ち着くさ」
湯気の立つカップをベッドの傍まで持ってきてくれる。どこか懐かしいような香り、中身は紅茶だろうか。せっかく用意してくれたのだから手に取りたかったが、布団に埋めた腕の反応はごく鈍い。
「焦らなくていい。まだ熱いから、冷めたら飲んで」
そう言うと、また立ち上がって私から離れようとする。
「待って」
今度こそ腕は言う事を聞いてくれた。彼の袖口を掴んで止める。
「傍にいて」
彼はひどく困った顔を浮かべた。
「お願い……します。一人にしないで」
なけなしの気力で上体を起こす。ベッド脇にしゃがみ込んでいた彼の肩にしがみつく。着ている白シャツの表面を私の指は這い上って、やがてその頬に辿り着いた。両側から挟み込んで、近づける。
「お願いです。私……トレーナーさんが……ほし」
「アルダン、良い子だから寝ていてくれ」
直前で指は解かれ、私の横暴は阻止された。代わりに頭をごしごしと撫でられる。
「夕方になったら起こすよ。休まったらご飯でも食べに行こう。とにかく今はじっとしていてくれ」
明らかに早口でそう言い終えると、トレーナーは傍からいなくなった。今から事務仕事をするとでも言うのか、テーブルのパソコンを開き始める。その様子を目で追って、私は呟かざるを得なかった。「……意地悪」
彼は聞こえていないようだった。あるいはその振りをしているのか。どちらにせよ、それが今の私の手に届かないことは間違いなかった。
――――――
自意識は唐突にはっきりした。まず見えたのは薄暗がりの室内。閉め切られたカーテンは黒塗りで、昼間の陽射しは欠片さえもそこに残っていない。
「……トレーナーさん?」
天井の照明は点いていない。リビングも、キッチンも、テレビも何も。違和感を覚えた私はすぐさまベッドから起き上がった。眠りに落ちる直前――つい先ほどまでトレーナーがそこに座っていたはずのテーブルを見る。しかし、そこには閉じられたノートパソコンがあるだけだ。
床に降りてもう一度室内を良く見渡した。ベッドの傍にはすっかり冷めきった紅茶入りのカップ。反射的に手に取って、一気に飲み干した。生温い感触が喉を伝う、鼻を抜けた爽やかな香りが寝起きの思考をクリアにしてくれる。
「トレーナーさん? どちらですか?」
取り急ぎ部屋の電気をつけた。ぱちんと軽々しい音がして、六畳ほどの部屋に明かりが灯る。カーテンを横に開いてみると、予想通り外は真っ暗。壁に掛かっていた質素な時計は午後七時過ぎを指していた。私は少なくとも五時間以上は寝ていたことになる。
「トレーナーさん?」
彼を何度も呼びながら、部屋の中を探し回る。玄関前の廊下、手洗い、浴室……ベッドから見えなかった部分も一つ一つ丁寧に見て回ったが、やはりどこにもいない。電気も当然点いていなかった。
直感は答えを既に出している。彼はもうこの寮にはいないと。私を置き去りにして出て行った、この現状を踏まえれば誰に訊いたってそう答えるだろう。
「トレーナーさん? 冗談ですよね」
がちがちと歯の根が合わないほどの恐怖が押し寄せてくる。……そんなはずは無い、彼が私を置いて行ってしまうなんて。そんなバカみたいなこと。「嘘、嘘、ウソですよね……」くるくると部屋を何度も何度も見て回った。同じ扉を何回だって開いた。でもいない。彼の姿はどこにも見えない。
「トレーナーさん!? どこです!?」
響き渡った自分の声を聞いて多少の冷静さが戻った。……ここで騒いだらダメだ。隣の部屋の人に気付かれる。寮にウマ娘がいることを知られたら、彼の立場は色々と不味くなるだろう。それは良くない。
「落ち着いて、まずは落ち着いて考えるのです。えっと……」
部屋にいない以上、外に出たという結論はゆるぎない。だが、よしんばそうだとしても彼は私に何も言わず消えたりするだろうか? 最低限、行先を記した書置きくらいは残すように思える。
テーブル、シェルフ、テレビスタンドの上……あちこち隈なく見渡してみるも、メモ用紙一枚置かれていない。無音のワンルームで黙々と私は行ったり来たりを繰り返す。棚に入っている専門書を抜き取ってみたり、ゴミ箱の中を覗いてみたり。しかし何をやっても手掛かりは見つからなかった。
スマホがあったら即座に連絡を掛けるのだが……。あいにくそれは私もトレーナーも互いに捨て去って久しい。ついに我慢が限界を迎えそうになった時、はたとノートパソコンの存在を思い出した。普段、自分ではあまり使うことが無いから、無意識に捜査の対象から外していた。しかしあれも立派な記録装置だ。もしかしたら、私に向けた伝言が打ち込まれているかもしれない。
カーペットの上に膝をついて、トレーナーのノートパソコンを立ち上げる。デスクトップに入ろうとしたら、当然ながらアカウント名とパスワードを要求された。
「……まぁそうですよね」
とりあえず、こういう時にお決まりの本名と誕生日の組み合わせをささっと入力してみるも、秒で弾かれる。ならばと彼の出身地や卒業した大学、好きな食べ物……と思いつく限り続けてみた。しかし現実はドラマのように上手くいくはずも無く、十五分を浪費しただけに終わった。
虚しさを感じた私はキーボードからいったん指を下ろした。そもそも、仮にトレーナーのアカウントに入れたとしても、そこに私宛の伝言があるだろうか? 彼にその意図があったなら、自分しか入れないアカウントではなく、紙に書くに決まっている。よしんば打ち込むとしても、パスワードのヒントくらいは前もって伝えておくだろう。
だが……彼に繋がる情報があるとしたら、もはやこのパソコンくらいしか手掛かりは無い。幸い、トレセン学園には様々な技術に長けたウマ娘がいる。例えばいつもタブレットを持ち歩いているエアシャカールなどに尋ねたら、他人のアカウントに不正侵入する手法を聞けるかもしれない。もしくはウィルスソフトで中の情報を抜くだとか……。
「なにを考えてるのでしょう……私」
犯罪スレスレの発想をしている自分に呆れて、私は額を小突いた。変に考えこみ過ぎだ、もしかしたらトレーナーは単に買い出しに行っているだけかもしれない。もう少し待っていたら、ひょっこり部屋に帰ってくるのではないか? そうだ……きっとそうに違いない。
「ふふっ……それなのに私ったら、焦ってばかりでバカみたいです」
独り言を口にすると、それが事実で間違いないように思えた。テーブルに置きっぱなしだったカップを取って、キッチンの流しで洗う。ついでに外から戻ってくる彼のために、紅茶でも淹れようかとして――。
キッチンの棚にあった茶葉の品種が、以前に私の勧めたものと全く一緒であることに気付いた。道理で懐かしい香りがするわけだ。決して安くは無い品種なのに、本当にあの人は。
「……もしかして」
不意にある予感が閃いて、沸かそうとしていたヤカンの火を止めてテーブルに戻った。パソコンを再度立ち上げて、アカウント名にトレーナーの名前を入力する。そして肝心要のパスワードに、茶葉の品種を入力した。
がんっという無慈悲な機械音が不正解を教えてくれた。かくも現実というものは厳しいものだ。基本、彼はまめまめしい性格の男性だし、パスワードもしっかりアトランダムな文字列にしているのだろう。挑戦するだけ無駄だ。
それでも何だか腹立たしかったので、八つ当たり気味に私はキーボードをさらに叩いた。
『Mejiro Ardan』……私の名前。こんなの通るわけが無いけれど、もしそうだったらとしたらとても素敵なことだ、大笑いするくらい。
「え」
ノートパソコンから今度は軽い音がした。起動画面を挟んで、念願のデスクトップが開かれる。
「トレーナーさん……。こんなのはダメです……。コンプライアンスに欠け過ぎです……」
本当にいけない人……。身体の奥深くから、痒いような痛いような表現しがたい感覚が湧き上がる。
その情動を押し留めて、マウスで目ぼしいファイルを探した。今はとにかく情報を収集に徹するべきだ。メモ帳アプリなどをクリックしてみたが、私宛のものはやはり無い。ただこれは予想通りだったので、思い切ってメールアプリを開いた。設定されているアカウント権限により、メアドやパスワードは要求されず、そのままメールボックスにまで辿り着ける。
一番上の無題の新着メッセージにすぐさま目を引かれた。受信時刻は今日の午後四時十分。時刻としては私がちょうど眠っていた頃だ。既読となっているから、これを読んでトレーナーがアクションを起こした可能性は十分にある。
逸る心臓の鼓動を感じつつクリックした。しかし予想に反して、画面に表示された本文はごく短いものだった。
『目黒との契約を破棄したければ、今すぐメジロアルダン様と共に街の港に来い。
従わないなら別にそれでも結構だ。警察はじめその他の機関への連絡もお好きにどうぞ。
しかし忘れるな。彼女とメジロの将来は、貴様の選択に掛かっている』
それ以外に新着メッセージは無かった。彼本人もこれに返信はしていない。
だが彼がどういった選択を取ったかは現状を見るに明らかだった。そして同時に理解した、なぜ彼が黙って出て行ったのか。
私はパソコンをシャットダウンすると、手早く身支度を済ませた。といっても着替えは無いので、せいぜい寝起きで乱れていた髪を整えるくらい。どうせすぐ潮風に巻かれることは予想できたが、慣れ親しんだルーティンは精神を十全に研ぎ澄ませてくれる。
一度はぽっきり折れた決意に代わって、自分の内に生じた新たな支柱。その在処をしっかりと確かめた後、私はベランダの窓から夜の街へと飛び立った。
何が待ち受けているか、私に何ができるのか。考えるのは全部後回しでいい。とりあえずトレーナーに会わなければ始まらないのだから。