電車とバスを乗り継ぎ、最後は駆け足で港に到着した。
視界に広がる真っ黒な海。等間隔に置かれた街灯が、行く先を短く照らす。まるでひと気の無い夜景の中で、目指すべき場所はしかしすぐに分かった。ロープで封鎖されている区画の先に、一隻のフェリーが停泊している。
その船上はライトで煌々と照らされていて、中に人が滞在していることは明白だった。昨日、パーマーとの勝負時に見かけた小型の船ともどことなく外観が似ている。十中八九、あれは源蔵氏が保有する物だろう。
ロープを跳び越えて、大きく口を開けているフェリーの乗降口へと向かう。しかし埠頭の途中で、警備員と思しき男性に呼び止められた。名前を訊かれたので臆せず名乗ると、彼は慌てた様子で制服の無線をオンにする。彼がしわがれた声で捲し立てること数分後、同じ格好の警備員数名がフェリーからぞろぞろと降りてきた。
「失礼ながら改めてお聞きします。メジロアルダン様でお間違いないですね?」
その内一人が生真面目な口調で尋ねてくるものだから、私も「ええそうです」とお辞儀を返す。その最中に疑問がふっと去来した。私はメジロ家を勘当されたのだから、ファミリーネームにメジロを使うのは不適当ではないか? だとしたら、今後は父方の苗字を名乗るべきなのだろうか。
心の内でその名前を唱えてみるが、しかしどうもしっくりこなかった。やはり自分はメジロの名でなければならないように思えて仕方が無い。今更になって、失ったものの大きさに目眩を覚える。
あれこれ考えているうちに、いつの間にか私は警備員達に取り囲まれていた。無言の圧を掛けられながら、フェリーの中へと案内――もとい連行されていく。何とも大掛かりなことだ。これほどの船を用意するのはもちろんこと、人件費にも糸目を掛けていない。一介のトレーナーの身柄を押さえるなど、至極簡単だったろう。
埠頭とフェリーとを繋ぐ橋を渡り終え、甲板へと踏み込む。無数のサーチライトに照らされ、辺りは真昼よりも眩しい有様だ。複数の警備員が急ぎ足で船内への扉を潜っていく。私の来訪をその主に伝えに行くのだろう。歓迎こそされていないが、部外者扱いは免れたらしい。
寒々しい海からの風に耐えながら更に待つことしばらく、焦れったいほどゆったりした足取りでその男は私の前に現れた。
「これはこれは……アルダン様。お忙しい中わざわざご足労いただき、感謝の言葉もありません。あなたとはどうやっても連絡が取れない上に、所在も定かでなく、どうお越しいただいたものか頭を大変悩ませていたところだったのです」
相変わらず長ったらしい彼の挨拶を流し、「トレーナーさんは?」と私は訊いた。
「彼はここに来たはずです。どこにいるのですか?」
「いけませんね、アルダン様。急いては事を仕損じますよ」
お得意の高笑いを始める源蔵氏。私を挑発したいのか知らないが、その様子からしてトレーナーが船内にいるのは確信できた。浮足立っていた心に一つの安堵がもたらされる。だが油断してはいけない。きっと本題はここからだ。
「……つまりやすやすと返してはいただけない、ということですか」
「さすがのご明察です。アルダン様におかれましては、その前にやっていただくべき事務手続きが無数にございますゆえ。いやはや何とも手間がかかることだ」
「ならば諦めれば良いでしょう。そのように制御し難い計画は」
「ぶち壊した張本人であるあなたが言うと、その冗談は笑えないですね」
源蔵氏はついに笑うのを止めると、「やられましたよ」と両手を広げて大げさなポーズを取った。
「よもや名家の令嬢としての地位をかなぐり捨てるとはな。ただの小娘と婚姻を結んだところで、私が得る物は何も無い。せっかく作った契約書の束も紙屑同然だ。SDGsはお嫌いですか?」
「あ……」
源蔵氏の嘆きを聞いて、私は電撃的におばあ様の真意を理解した。そうだったのですね……おばあ様はだからあのような暴言を。一瞬にして視界が涙で滲んだ。認めていなかったわけではない、むしろ最も必要な事をおばあ様はしてくれていた。
瀑布のような感激に襲われる私だったが、それに構わず源蔵氏は自分の話を続行する。
「だが、あなたがここに来てくれたことで、チャンスは再び巡って来た。このご時世、一方的に家系の縁を切るなど無理な話。アルダン様、あなたが直々にメジロの当主に抗弁をしたならば、除名は免れるはず。そこであなたには、なんとしてもメジロに返り咲いてもらいますよ」
「するわけが無いでしょう。おばあ様の命に私が逆らうとでも?」
即座に切り返すと、「なんと愚かな」と源蔵氏は心底呆れたように言った。
「メジロの名がどれだけ偉大で、権威あるものかあなたが知らぬはずは無いでしょうに。手に入るとすれば、世のウマ娘は万難を排してでもそれを望む。その機会を自ら投げ打つなど、狂気の沙汰だ」
「それは時代遅れの考え方です、目黒の当主」
「なに?」
「結局のところ、ウマ娘にとって必要なのは夢をつかみ取る自らの力と、それを助けてくれるトレーナーさん。他には何も要りません。お屋敷も、使用人も、お洋服も……財産などいくらあっても勝負においては無価値です。レースに詳しいあなたなら、メジロの衰退は知っての通りでしょう?」
「だからこそだ!」
源蔵氏は出し抜けに怒鳴った。
「あなた方メジロは金の使い方もろくに知らない。だから私が導いてやると言っている!優れた血筋と恵まれた人脈を持ちながら、それを全く活かそうとしない! 宝の持ち腐れとはこのことだ。その名の力があれば、政界進出など容易いものだったろうに!」
「あなた……何を言っているのです?」
目の前の男がどういった考えの元に動いているか、ここに来て急に掴めなくなった。言うに事欠いて政界進出? ウマ娘のレースを何だと思っているのだ?
私が固まったのをいいことに、源蔵氏は勝手に喋り続ける。
「疑問に思わないのか? レースの興行収入は国内のレジャーではトップクラスだ。おちゃらけたアイドルや顔だけの芸能人は足元にだって及ばない。腕っぷしだけのスポーツバカ共にしても同じことだ。人智を越えた実力と、誰しもを魅了するカリスマ性。この二つを併せ持つ優位性を、どうしてもっと有効に用いない? 庶民の出ならともかくとして、メジロにそれができなかったとは言わせないぞ……!」
おぼろげなくだが、彼の言わんとすることに想像がついた。つまり、レースによって得られる知名度を政治的な行為に利用したいわけだ。……あまりの驕り高ぶりに、滑稽を越えて、憐れみさえ覚える。
話にならない、このような男と交渉する余地など有るはずがない。私は彼の世迷言を遮って「トレーナーさんはどこです」と再度訊いた。
「言わないと言うなら、即刻通報します。両家の婚姻などもはや関係無い、あなたのやっていることは立派な監禁、犯罪行為です」
むしろもっと早くそうするべきだった――と後悔を噛みしめながらそう告げた。演説を邪魔された源蔵氏はいかにも不満げな顔を浮かべたが、すぐにまた半笑いに戻った。
「まだ官憲が役に立つと思いでか? その立派な頭で考えてみるがいい。あれほどの地下設備を整えるために、どれだけ官公庁と私が協議を重ねてきたかを。現行犯ならともかく、捜査令状など出させる訳が無いだろう」
ハッタリだ、そうに違いない……。だが否定する確証もまた無かった。一方、トレーナーはまだ源蔵氏の手中にある。私が下手な真似をすれば、この男は容赦しないだろう。更に悪い事に、私は今やメジロを離れた身。先にあったよう、メジロの皆が窮地に現れることは二度と無い。捕らえられたらそれで終わりである。
認めたくないが、状況はこちらが不利だ。じわりと一歩後退った私に、源蔵氏は勝ち誇ったように言う。
「さぁ、決めてもらいましょうか。メジロ家に戻り、私にその名を明け渡すか。それとも愛しの彼とお別れをするか」
「私は……どちらも選びません!」
それでも私は言い切った。負けなど絶対に認めるものか。こんな苦境はレース終盤の競り合いと比べたら何てことない。
それにこの男は一つ明確な弱みがある。それは時間に追われているということ。この二日間で彼が見せた粗暴な行動の数々が、それを如実に表している。今にしたって、私に即座の決断を求めているが、それはメジロの名を一刻も早く手にせねばならない動機があるからだ。
ならばここで私が取り得る道は一つしかない。それは出来る限り時間を引き伸ばす事。既に源蔵氏には多少の焦りが見える――このまま睨み合いの状況を続ければ、いずれは勝機を見出せるかもしれない。
私が首を縦に振らないのを見て、源蔵氏は「なるほど」と顔を歪めた。
「いいでしょう。それなら意中の彼と対面させてあげますよ。そうすれば少しはその頑なさも解れることでしょう」
言うが早いが、彼は部下に矢継ぎ早に指示を下した。複数人の男が船内へ足早に入っていき、一分足らずで戻ってくる。その中には言葉通り、私のトレーナーの姿もあった。ただし真っ当な扱いでは無かったが。
前後を源蔵氏の部下に挟まれて、その姿はまるで囚人のよう。ご丁寧に両手には手錠まで嵌めてある。
「トレーナーさん!」
私がそう呼びかけると、彼はすぐこちらに気付いてくれた。
「アルダン……どうしてここに」
「あなたこそどうして一人で来たりしたのです! なぜ私を置き去りに……!」
「君を守りたかったんだ。誰よりもレースで頑張る君を、これ以上余計な事で悩ませたくなかった」
トレーナーがそう言った瞬間、源蔵氏が「ふざけるな!」と罵声を発した。
「何が余計な事だ、一介のトレーナーごときが戯けた表現をしやがって。この男が私の船にまでわざわざ上がって来て、開口一番何を言ったかお分かりか? うちの担当に不当な理由で付きまとうなら、迷惑防止条例で訴えるときた。この国の庶民は困ったらすぐ国家権力に縋りつく。普段はやれ税が高いだのと騒ぐくせに!」
好き勝手に喚き立てた後、源蔵氏は一転して「やれ」と低い声で言った。それを聞いた部下の男達がトレーナーの背中をせっついて、甲板の上を強引に移動させていく。
とうとう彼は舳先の先頭部にまで追い立てられた。意図的なのかどうか、その部分だけ柵が設置されていない。少しでも脚を滑らせたら海面に真っ逆さまだ。
「何のつもりです……」
「つもり? いえいえ私には何の狙いもありませんよ。ただあなたがこれ以上強情を張る気なら、冷たい十月の海に男性一名が転落する不幸な事故が発生するかもしれない。もちろんすぐに救出しますよ? それまで何分掛かるかは分かりませんがね」
昨日、快晴の昼間に泳いだ時でもあまりの冷たさに凍えたくらいだ。夜中に着衣の状態、それも両手を縛られた彼が落ちれば最悪、命にかかわる。そんなことは源蔵氏だって百も承知のはず。その上でこのような悪ふざけを口にしているとすれば、この男は真の意味で悪党だ。
あまりの怒りで身体が震えた。しかしどうしようもない――時間稼ぎは失敗だ。思わず膝を着こうとしたその時、甲板の奥から特徴的な声がした。ゆったりと一語一語を確かめるような、
「話が違いますわね……源蔵さま。このような乱暴を働くのなら、これ以上の協力はできかねますわ」
聞き間違いだと信じたかった。
「刑事罰を受けるリスクを無闇に冒さずとも、わたくしが姉さまと話をつけます。ですからその物騒な方々を引っ込めていただけますか」
メジロブライトその人だった。