現実的な話をするなら、おそらく明け方近くに私の体力は完全に尽きた。
最後には意識もうろうとなりながら、よたよた歩きになっていたらしい。異変に気付いたトレーナーが走者を代わり、そのすぐ後に近くに地上への出入り口を発見。表示されていた地名は無論聞いたことも無いものだったが、迷わず私を抱いて足場を登……ろうとしたが断念。衰弱した私を揺り起こし、背中に掴まらせて運んだ。この際、いつ私の手が滑り、地下に落ちて行ってしまうか怖くて気が気でなかったそうだ。極限状態ながらもどうにか地上まで登り切ることに成功。そこは薄明の空が包む、無人の田舎道だった
彼はなおも私を背負い続け、人のいる場所まで歩いた。その間、何台かの車が通り過ぎたがナンバープレートの地名はさすがに変わっていなかった。あれだけ意気込んだというのに、私は結局のところ県境の一つすら越えられなかったわけだ。後々そう言って彼に謝ったら、何百km走るつもりだと割と本気で怒られた。
私と共に歩き続けることしばらく。ようやく人のいる街に辿り着いた彼は、その脚で宿泊できる場所を求めた。外装の剥げたビジネスホテルにチェックインしたのは、それから更に時間が経ってから。この辺では彼本人もぎりぎりまで追い詰められていて、ホテルの店員とやり取りするのも精いっぱいだったとのこと。
それ以前の問題として、意識不明の女子を背中に負ぶっているという異常な恰好だから、道すがらの市民に通報される可能性もあった。騒ぎになって目黒に見つかることを考えれば、非常に危険な賭けだったと言える。
しかし結果としては、彼は首尾よく部屋を借りることができ、どうにか私をベッドに寝かせられた。疲労困憊の私の目が完全に覚めたのは、なんとその日の夕方。もう少し長くぼうっとしていたら、病院にまで担ぎ込まれていたかもしれない。
心配のあまり涙目になっている彼に私は抱き着いて安心させた。もう大丈夫ですと言い聞かせて、彼が用意していた大量のニンジンやらおにぎりを頬張りもした。窓の向こうの知らぬ風景に沈みゆく太陽を見て、遠くまで来たことを実感したものだ。
ホテルでトレーナーと色々なことを相談した。
電車や新幹線を乗り継いで、更に別の街に移動する案もあったが、それは止めておいた。ごく僅かな可能性だが、公共交通機関は監視カメラなどを利用して見張られている危険性があった。それに長距離の移動にはとかくお金が掛かる……。当面の間、私達が使えるのは彼の口座にある残り少ない貯蓄だけだ。慎重に使うに越したことは無い。
すると必然的に、私とトレーナーはこの街で二人して暮らすことになる。その問題点は挙げていけばキリが無かった。
メジロを追われた今となっては、私は父母の元にすら帰れない。トレーナーも、この状況下でトレセン学園に通勤するのは不可能だ。……いや現実的には可能であるものの、私がそれを許さない。彼を一人で学園に戻らせて、またも源蔵氏に人質として捕えられたら今度こそ無事では済まないだろう。
「じゃあ退職願いを出すしかないかな……。ああ、気にしないでくれ。仕事ならここで探せばいいんだから」
困った顔で言う彼を見て、私は底の見えないほどの暗い情愛を覚えた。縋り付いて泣くくらいでしか、その感情をもはや表現できなかった。私はどれだけ彼の人生をめちゃめちゃにすればいいんだろう? トレーナーとして学園に勤めるのは、彼の長年の夢だったはずなのに。
「私も働きます。ウマ娘なら、日雇いのお仕事がたくさんあるとアイネスフウジンさんにかつて教わりました」
一方、私のこの申し出に彼は難色を示した。未成年の君にそんな真似はさせられないと強硬姿勢。しかし一時間に及ぶ対談の末にアルバイトくらいなら……と、やっとのことで折れてくれた。
きょうび、コンビニやハンバーガーショップで働くくらい高校生でも普通だと思うのだが……。もしかしてウマ娘であることを強調したのが不味かったのだろうか。優れた筋力もさることながら、世間的には私達の容姿を評価する声も大きいから。
金銭面の話がおおかた纏まると、自然と住居の話題にシフトした。いつまでもビジネスホテルで過ごす訳にもいかない。二人暮らしのできるアパートを探すのが最も適当だろうか。それもできるだけ家賃の低い、築年数が長くて簡素な造りのものが良い。そう提案すると、彼は「いやいやいや!」と慌てた様子で両手を振った。
「担当バと同棲なんてダメに決まってるだろ! しかもボロアパートって……。君をそんな場所に住まわせるわけには」
「トレーナーさん、もう私は名家の令嬢でも何でもありません。ですからそのような配慮は不要です。必要とあらば、掘っ立て小屋にだって私は住みます」
「いやだからダメな部分はそれだけじゃなくってだな……。君はれっきとした女の子なんだから――」
「もしかして、倫理面で不味いとおっしゃりたい?」
何を今更のことを言うのですと私は彼の手を取った。その指先を私の身体に触れさせる。寝崩れて露出していた鎖骨付近の皮膚に、ひやりとした感触が伝わる。
「あの時、確かに誓ったはずです。この身は爪先に至るまで全てあなたに捧げると。……たとえ一つ屋根の下、よしんば同じ布団の中で眠ったって……あなたは何の間違いも冒しませんよ」
するとなぜだか彼はぎゅっと目を閉じた。その顔は必死に何かに耐えているようでもあった。
――――――
次の朝にホテルを出て、街の様子を見て回った。トレーナーの転職先と私のバイトする店、加えて仮住まいをするアパート探すため。
目的は様々あったが、しばらく大通りを行くうちにそれらへの意識は徐々に薄まって行った。彼の隣で、誰はばかることなくゆっくりと歩く……。他人からすれば極めて些細で何の値打ちも感じられないようなことだろうが、私にとっては幸福感に満ちた時間だった。
たったそれだけのことが、目黒の手によって二度と出来なくなるところだった。長きに渡る激しい逃走――闘争の末に私はありふれた幸せをようやく手にすることができた。
楽しそうに笑いあいながら、通学路を児童達が駆けていく。道端には世間話に花を咲かせる主婦の寄り合い。通りに面したマンションのベランダでは、何着もの洗濯物が風にはためく。通りすがった若い二人の男女は仲良さそうに手を繋いでいた。それがとても素晴らしいものに見えて、私は彼の指に自分のそれを絡めた。最初こそ彼は戸惑っていたが、やがて握り返してくれた。
「良いお天気ですね」
「ああ」
歩く速度は果てしなく遅い。自転車はもちろん子供にも、杖をついた老人にも悠々と抜かされるほどに。空には幾重にも連なった秋のイワシ雲。どこまで行っても変わらないのどなか風景、やがて私達は手頃なベンチを見つけて、そこに並んで座った。何を話すわけでもなく、肩を寄せ合ってずっとそうしていた。
思えばこれまでの私の人生はひたすら忙しないものだった。
医者に宣告された、他の人よりも短い寿命。砂時計に蓄えられた現在という時間をいかに有効に使い切るか。それだけが常に頭にあった。
輝かしい功績を残す、メジロの名を轟かせる。何よりメジロアルダンという自分の存在を、爪痕のように歴史に刻みたかった。
その熱意が……どうしたことだろう? 欠片も今は感じられない。ちっぽけな自尊心を満たすよりずっと大切でかけがえのないものを、私はついに見つけてしまった。
「はい、この物件でしたらすぐにでも入れますよ。いくらでも空きがありますから」
「ありがとうございます! さっそく入居手続きを――」
トレーナーはかつての仕事仲間のツテを頼って、私達にぴったりのアパートを見つけた。家賃が安い、入居が早い、駅から近いの三拍子が揃ったこれ以上無いほどの良物件。……ただいくら何でも条件が良すぎるのが気になって、実際に見に行ってみるとその理由はすぐに分かった。
「アルダン……本当にここに住むのか?」
恐る恐る言うトレーナーが仰ぐのは、木造二階建ての目当てのアパート。外壁は排ガスとカビで黒ずみ、窓ガラスはくすみ切って、それはそれは酷い有様。二階廊下に昇る階段に試しに脚をかけてみたら、ギシギシと愉快な音がした。
「ええ、ここに住みましょうトレーナーさん。ここがいいです」
築年数は優に五十の大台を超えるというアパートでは、風呂すら個別に備わっていなかった。身体を流そうと思ったら、近隣の銭湯にまで行く必要がある。手洗いは一応あるにはあったが、これについても全住人共用で、各階合わせて二つだけという状態だ。
数少ない救いは部屋が十畳と割と手広だったこと。これなら二人暮らしでも多少の余裕をもって生活できる。
加えて更に幸運だったのは、アパートの大家がとても親切な方で、前の住人が残した家具をほぼ無料で譲ってくれたことだった。
着の身着のままで目黒源蔵氏の手から逃れてきた私達は、当然ながら椅子の一つさえ持っていない。ちゃぶ台にクローゼット、毛布、未開封の生活用品……どれも古びて汚れが目立ったが、有り難いことこの上なかった。
なにせ私達に残された現金は二人合わせても100万円に届かない有様だ。とくに収入源の見つかってない現状では、薄汚れた机だって、黒檀の台に匹敵する価値があった。
アパートに住み始めて二日が経つと、その目下の懸念も解決された。ちょうど付近にあったトレーニングジムで、臨時講師を募集していたんだと嬉しそうにトレーナーは言った。給料は学園にいた頃よりは相当落ちたが、それでも生活の目途は立てるには十分。私の方も、アパートの大家が経営する弁当屋で下働きさせてもらえることになった。
「ありがとうございます。何から何まで取り計らっていただいて……」
齢にして67歳、顔つきは全く違うが、どこかおばあ様に似た雰囲気を漂わせた大家の老婆は「気にせんといてくれ」と微笑んだ。
「あんたらにのっぴきならん事情があるんは、すぐさま見て取れたさね。かくいうワシも昔はぎょうさんヤンチャしたもんじゃ。好きなだけここに住んだらええ。家賃も払えんようなら多少は負けてやる」
深々と頭を下げる私に「まぁその分、しゃきしゃき働いてもらうがの」と大家は付け足した。
次の日から、私は大量の弁当箱を包んだ風呂敷を担ぎ、街中を駆けまわることになった。なんでも普通は配送用の車を使うところだが、この街は入り組んだ路地が多く、それが使いにくい。だからウマ娘がいると大助かりなのだと言う。
届け先の住人はこれまた大半が白髪の目立つ方ばかりだった。おそらく自分では買い物に行くのが難しい、独居老人向けのサービスなのだろう。インターフォンを鳴らして玄関先で待つ私に、どの人も決まって「ありがとう」と両手を合わせた。
聞くところによると、このサービスは食事の配給は当然として、孤独死を防ぐためのものでもあるらしい。したがって、費用の一部は市が負担しているとのこと。それ繋がりなのかどうか、一週間ほど街中を走った辺りで、市庁舎から来たという職員に声を掛けられた。
「あなたが噂のウマ娘さんですか。近頃、大変な評判なんですよ。とんでもなく脚が速い美人が弁当の配達なんてやってるって。失礼ですが、お名前と通われている学校をお聞きしても?」
職員本人は善意でインタビューしているらしかったが、私としては返答に困る。目黒の一件から時がたったとはいえ、一か月はまだ過ぎていない。ここで下手に街のニュースに取り上げられでもしたら、源蔵氏に気取られる可能性もあった。
仕方なく私はトレーナーの本名を流用した上で、それっぽい偽名を名乗った。本来、メジロを使うべき箇所に彼の名字を用いた。深く意識したわけではなかったが、心臓が変なリズムを刻んだ。
職員の方はと言えば特に怪しむ様子もなく、
「お若いのに結構なことですね。その調子でぜひとも頑張ってください」
と、いかにもお役所らしい言葉を残して去って行った。
後日、市の広報に私の顔写真が載ったりしないかとビクビクしながら図書館に行った。しかし何のことは無い、配達の件こそ記載されていたが紙面の端っこに僅か数行だけ。出来損ないの私の偽名はもちろんなかった。図書館の中にも関わらず思わず笑い声を上げてしまって、司書の人に睨まれた。
中央トレセン学園からひとたび出たら、私なんてどこにでもいるウマ娘でしかない。かつては令嬢だなんだと持て囃されたが、それにしたって名家の七光があったから。
あまねく人の住むこの世界の片隅で、私は一点のシミに過ぎないことを改めて思い知らされた。
上機嫌で鼻歌交じりにアパートに帰ると、先にトレーナーが帰っていた。
非常勤の仕事は勤務時間が不定で、時には深夜帯に出かけることもある。家庭の事情でどうしても日中はトレーニングできない人などに、付きっ切りで指導をするという。詳しい金額は教えてもらえなかったが、相応の深夜手当がつくようだ。
二人分の収入が安定してきたお陰で、最初こそ侘しかったアパートの一室にも、次第に家具や小物が溢れるようになっていた。
私にはそれがまるで二人で新しい世界を作っているように感じられて、幸せで仕方がなかった。地下道を走った先に夢の国は無かったけれど、それ以上のものがここにはあった。
「トレーナーさん? 何を読んでいるのです?」
彼はちゃぶ台を前にして、新聞か何かを読みふけっていた。近寄ってみれば、それは図書館で見た例の広報誌だった。……それも頁はちょうど私の記事が載っているところ。途端に恥ずかしくなって、思わずその紙面を手で覆い隠した。しかし、それが遅きに失したことはニコニコ笑う彼の表情からして明らかだった。
「凄いじゃないか、アルダン。美少女過ぎる配達屋さんなんて、週刊誌でもそうそう見られない見出しだぞ」
「か、からかわないでください……」
市の職員がより多くのスペースを記事に割かなかったことを真剣に天に感謝した。とりわけ、あの妙な偽名を彼が目にすることになっていたならと思うと……。
思うと、どうなのだろう? 広報誌から手を離して、彼の背中に回ってふと考えた。
冷静になってみれば、別に恥ずかしがる必要は無かった。自分で彼に宣言したはずだ、私は既に彼のものだと。ならばどこに問題がある?
「トレーナーさん……」
「わっ」
脇の下から腕を回して、彼の身体をそっと抱きしめた。急なアプローチに彼はひどく驚いたようだったが、やはりためらう必要もまた感じられなかった。
三日ほど働いた頃に大家に掛けられた言葉が蘇る。「あんたら二人、いずこから駆け落ちしてきたんじゃろ?」。はいそうです、と即座に応えたら「なにせ安普請なもんじゃから、あんまり無茶はせんといてくれよ」と謎の注意を受けた。
あまりに不可解なものだったから詳しく聞いたら、大家はけらけら笑って「そりゃあんたら若いし、そういうこともするじゃろと思うて」といっそう意味不明なことを言う。まぁ年寄りの方はときおり難解な表現を用いることもあるからと、その時は気にせずにいたが……。風呂敷を持って小道を走っている最中に、ようやく発言の全容に察しがついた。勢いよく転んで危うく弁当を台無しにしかけたのは大家には秘密だ。
「あ、アルダン? どうした? どこか痛むのか?」
物わかりが悪いわけでもないのに、彼は惚けた事を言う。私はさらに後ろから身体を密着させて、耳元で囁く。……以前、ライアンと一緒に見たドラマで女優がそうしていたように。
「トレーナーさんその……今日はまだ就寝まで時間がありますし……」
そう言いながら、二人で新しく買った真白いシーツを視線で指した。大家のたくさんの親切には感謝しているが、やはり寝具は新品の方が良い。
「私、言いましたよね。トレーナーさんの全てが欲しいって。その欲望は今だって少しも変わりません。むしろ一緒に暮らし始めてより大きくなったくらい。トレーナーさんはどうですか?」
さらにさらに身体を近づける。彼の背中に自分の全身を擦りつけているような態勢。女の自分では良く分からないが、男性はこういった接触を好むのではないだろうか。
「まだ……私が欲しくはありませんか?」
「アルダン……」
彼はしかし私の名前を呼ぶだけで、身動ぎ一つしなかった。仕方なく腕に力を込めて、彼の身体を持ち上げる。あの逃走劇の中で良くやっていたように両手に抱えた。「おいちょっと!」 彼の抗議は一切聞き入れず、部屋の隅に敷いたふかふかの布団の上に降ろした。
彼に覆いかぶさるようにして見下ろし、その答えを待つ。
「あれから……二週間と少しが経ちました。けれどあなたは一片も私に触れようとしませんでした。布団だってわざわざ二セット購入しましたよね。まだそこまで生活に余裕は無いというのに」
「それはそうだろ。衛生面だって気になるし……」
「私の身体は汚らしいですか?」
「そういう意味じゃ無い!」
「分かっていますよ、冗談です」
私はくすくす笑って、仰向けになっている彼の頭のすぐ横に手を置いた。そこからぐっと関節を曲げていく。二人の顔は今にも触れるほどに接近していく。
「ですが……今回は本気です。もうあなたの返事は待ちません。だって我慢できないのです。私が毎晩毎晩、どのような思いでぐっすり寝るあなたの横顔を眺めているかご存知ですか? どのような思いであなたの脱いだ衣服をコインランドリーに運んでいるかお分かりですか?」
「あ、いやえっと……ごめん。これからは当番制にしよう」
それを聞いて本当に仕方の無い人だと思ったが、そういう人だから好きになったのだと遅れて気付いた。しかしそういった、さも少女然とした感傷もこれまでだ。これ以上、衝動を押し留めたまま生活していたら、そのうち気が変になってしまう。
だから私はさらに腕を屈めて、ついに鼻先が触れ合った。互いの呼吸が感じられる距離で、最後に確認した。
「お願いします。一番初めは、あなたからがいい。ここまであなたを巻き込んでおいて、今更自分勝手だとは重々承知しています。でもやっぱりあなたの答えが聞きたいのです」
十分、待つつもりだった。腕の筋力には自信があったし、この姿勢は多少厳しかったが問題無い。それまで絶対に逃がさない。
けれどもし仮に十分が経ってしまったら……私からする。彼は抵抗するかもしれないが、もはや関知しない。なぜってこれだけ手狭な部屋で二週間を共に過ごして、一切の文句を言わなかったのだ。いわば沈黙の肯定というものではないだろうか? たとえ裁判に掛けられたって、私側の有利は火を見るよりも明らかだ。
「アルダン」
早くとも数十秒は掛かると思われたトレーナーの返答は、意外にもすぐ後に訪れた。全神経を聴覚に集中して、その一言を待ち望む。
「別れよう」
は?