「こんな生活はもう終わりにしよう」
聞き間違いの可能性をわざわざ消し去るように、トレーナーは繰り返した。
「ほんとはもっと早く言うべきだった。それだけの勇気が無かったんだ。でも今、君の顔を見てやっと決心がついた」
トレーナーは私の肩を押しながら、身を起こした。彼の腕にはほとんど力は籠っていなかったが、私の身体は木偶人形のようにそれに合わせて簡単に動いた。シーツの上で二人して向かい合う。目の前にあるのは真剣そのものの表情。
「君を突き動かしているのは義務感だ。ずっと一緒にトレーニングしてきたんだ。君のことは誰より分かってる……きっと君自身より。
君が毎晩、俺の寝顔を見ていたように、俺も毎晩君の寝言を聞いていた。君は何度も俺に謝った。この貧乏生活に始まって、お家騒動に巻き込んだこと、トレセン学園から去る結果を招いたこと。君はひたすら謝り続けた。俺の貯金を400万円取ったこと、あの二日間で何度も乱暴狼藉を働いたこと。内容は毎晩変わったけど、最後に謝るのは決まって一つだった。
結局のところ、こんな生活は長続きしない。日に日に身体が重たくなっていくのが自分でも分かる。きっと一年もする頃には歩くことさえ難しくなる。病院に掛かればあるいは治るかもしれない、でも身分証も提示できないこの状態で、治療費なんて払えるわけがない。風邪の一つでも引いたなら、そのまま起き上がれなくなるでしょう……と。
その寝言が全て真実とは思わない。もしかしたら気弱になっているだけで、脚の不調は大したことは無いかもしれない。でもそれが判断できるのは医師だけだ。俺に分かるのは、君はとにかく無理を押して気合だけで立ち上がり、弁当を担いだり街中を走り回ったりしているということ。
はっきり言おう。君は俺と一緒にいたって、少しも幸せになんてなれない。もしそう感じているとしても、それは思い込みだ。内心では罪悪感に圧し潰されかけている。そんな状態が幸福なんかであるものか」
喋り続けるトレーナーに、私は否定を何一つ返せない。『違う』『そんなわけない』、頭に思い浮かんだ言葉達は、すぐさま煙のように掻き消える。他でもない私みずからが、そんな反論は空しいだけだと断定している。
「それでも君が俺の傍にいるのは、それらの罪悪感を拭いたいからだ。……大家さんから聞いたよ、弁当屋のバイトの給料、ほとんど使ってないんだろう? 良く働いてくれるから結構な額を渡しているのに、いつも同じ服だから気にしていたよ。
だがそれにしたって無理だ。400万円を弁当配達だけで溜めようとしたら何年かかる? その間、あの大家さんが君を雇い続けてくれるかも不明だし、そもそもサービス自体無くなるかもしれない。だいいち、君ほどの才能を持った若いウマ娘が貴重な時間を使ってやるべきことか? この記事の文章をよく読んでくれよ」
トレーナーはちゃぶ台から広報誌を取った。記事の文章を文字でなぞる。
『――原油価格の高騰が危ぶまれる昨今の情勢で、脚を使った画期的な配達方法は経費削減の観点から見ても脱帽だ。また〇〇市で年々増えつつある、出前サービス社の運用する二輪車と、高齢者との接触事故の減少にも繋がる可能性が――』
「何とも思わないのか? 君が命を削ってやっているのは、単なるコスト削減の一環だ。小道を走るならそれこそ人の乗る自転車でいい。事故って言ったって気を付ければ済む話なんだから」
「でも――」 逆接は口にしたものの、そこから何も繋がらなかった。代わりにトレーナーが「でも、そうだな。君はそれでもやりたいって言うんだろう」と続ける。
「どんな方法を使ってでも、俺に借金を返すと言った。君がそう言ったなら、それは確実に実行されるだろう。君はそういうウマ娘だ、良く知ってる。さっきは配達じゃ無理だと言ったが、別にお金を稼ぐ手段はそれに限られない。君の事だから、この街で長く暮らして行けばもっと割の良い仕事だって見つけるだろう。
けど断言する。どんな仕事をしたところで、それは君自身のためにはならない。原動力はただ俺に謝りたいというその一点だけだ。稼いだお金の大半がそこにつぎ込まれるのに、どうして君が幸せになれる?
なぁ分かるだろ? 俺といる限り君は不幸にしかならないんだ。だからもう止めにしよう、こんなのは無意味だ。俺はこんな事のために、君と一緒にあの船から逃げ出したんじゃ――」
「不幸でいいんです!」
反論では敵わないと知ったから、私はついに開き直った。もうそれしか無かった。
「不幸で何が悪いのですか? ええ認めましょう、分かりました。私だってこんな毎日は息苦しいです、寝ても覚めても考えるのはあなたに壮絶な苦しみを与えたという罪科のことばかり。働いても働いてもちっとも気持ちは軽くなんてならなかった。
いっそあなたが私の身体を求めてくれればどんなに楽だったか! あなたが単純な男性で、私に溺れてくれさえすれば、こんなに悩まずとも済んだのです。私はあなたが望めばなんだってしました。本当にどんなことだって! なのにどうして! あなたがパソコンの画像ファイルにこっそり記録していたようなことくらい、いくらでも真似できたんですよ!? それをどうして……指一本だって触れてはくれないのですか」
途中で一瞬だけ目を白黒させたが、トレーナーはすぐ真顔に戻って「無理な相談だ」と静かに言った。
「たとえそういうことをするとしても、まず君のお父様とお母様に挨拶してからだろう」
本気で言っているのですか、とよっぽど問いただしたかったが、止めた。彼の言葉は正論であると、私は誰より知っている。
「思えば君のご家族も、今の状況を快くは思っていないに違いない。メジロを離れたからといっても血縁まで消えるわけじゃ無いからな。……俺はメジロの続柄に明るくないから、実際に勘当によってどういう関係性になったかまでは分からない。けど間違いなくご両親は死ぬほど君を心配している」
「……でしょうね」
「それを分かったうえでなお、君はこんな毎日を続けたいのか? いつ終わるとも知れない返済生活の上、身体を壊すかもしれない恐怖におびえて。
あの船の上で、ブライトに叱られて気付いたんだ。俺はひたすら無責任だった。トレーナーとしてもそうだが、一人の男として。勘違いしていた。君の願いを聞いて、必死に応援すればそれで君が幸せになれると思った。だが現実は違った! 状況が伸展すればするほど君は辛い表情をするようになって、とうとう最も有り得ないはずの選択を取った。
覚えているか? 職員寮で俺が通帳を見せた時、君は初めになんと言ったか」
もちろん覚えている。『品性下劣な頼みごと――』そう口にした。だからトレーナーがこの先に言わんとしていることも、すぐに分かった。
「君の義務感の源は自己嫌悪だ。君の将来を一度は預かった者として、そんな心境は容認できない」
彼はそれで終わりだとでも言いたげに立ち上がった。
「ちょっと頭を冷やしてくる。君もここで良く考えてくれ」
そう言って玄関へ向かおうとする。私はシーツから這い出して、その脚に縋りついた。
「嫌です! 別れたくありません、理屈なんてどうでもいい! 苦しかろうが不幸せだろうが関係ない!」
物心ついて初めて、誰彼構わず泣き叫んだ。みっともないだとか、みじめだとかいった恥の感情はとっくに失せていた。ここで彼を行かせたら、今までやってきた全てはどうなる? あれだけ走って転んで泣いてそれでも立ち上がった私はどこへ行く? 自分が無責任だったと認めるなら、その前に私をこうした責任を取って欲しい。
「あなたといたい! 傷つけても傷つけられても良いではありませんか! お互いを砕く覚悟があるとあなたも私も言いました! 一緒にぐちゃぐちゃになりましょう!? 最後は溶けあって無慈悲に泡と消えるかもしれない。それのどこが問題なのです!? 今この瞬間が、たとえ刹那だろうと輝くならば、それは何にだって代えがたい価値を持つ。永遠なんて本当は無い。でも生涯消えない至上の快楽を覚えたなら、それはやっぱり一つの久遠なのです」
「いいや、アルダン」
彼は振り向いて身を屈めた。無様に這いつくばる私のおとがいを指で挟んで、持ち上げる。
「片一方だけの想いは永く保ちはしない。……俺はもう君の傍にはいたくないんだ」
「あ」
それが彼から貰った初めての告白にして、全ての終わりだった。前のめりに床に倒れ込んだ私を置いて、彼はボロアパートの一室から出て行った。
黙って見ているしかなかった。靴音が聞こえなくなっても、いまだ私は立ち上がることさえできはしなかった。
冷たい床に沈み込んで、そのまま地の底にまで溶けて消えればいい。焼け残った切れ端の理性がそんなことばかり考えた。
――――――
そこからの場面の記憶はひどく曖昧だ。
あまり泣いてはいなかったように思う。悲しさを感じる余裕自体が無かった。
開きっぱなしの扉の向こうが真っ暗闇に包まれた頃、誰かが部屋に入って来た。少しだけ期待に目を開いたが、明らかに女性――それもかなり若年と思われる足音にすぐさま失意の淵に落とされた。
彼女が何者だったかについても、申し訳ないがあまり覚えていない。
「探しましたよ、アルダンさん」
でもたぶん、メジロの誰かだった。
私はどう応えただろうか……確か……。
「アルダンさん、帰りましょう。お屋敷はもう無くなっちゃいましたけど、アルダンさんのこと皆が待ってるんです。ブライトもパーマーも……ご両親も、おばあ様だって。誰もちっとも怒ってなんかいません。……アルダンさん?」
私を覗き込んだ彼女に……ああそうだ、ドーベルだった……かもしれない。とにかく私は訊いた。そこは確かだ。
「トレーナーさん……から……連絡があったのですか」
「えっ……ああ……でもその」
「どこ!? 教えて、お願い、もう一度だけ話したいのです! もう一度話せばきっと分かってくれる、私、今度は絶対にちゃんとやれます。悟られないように頑張る、今度こそずっと笑顔でいますから!」
「アルダンさん……」
彼女はゆっくり首を横に振って答えてくれた。
「教えてくれませんでした。もう二度と会う事は無いだろうって」
アパートにおける私の言動を振り返ってみれば、まぁ当然だ。誰がこんな七面倒な女とこれ以上一緒にいたいと思うだろうか。
だが当時の私にとってしてみれば、それは世界が終わりを迎えたような出来事で、心身が摩耗し切るには十分だった。直後、まさしく糸の切れた操り人形となった私を、(おそらく)ドーベルは担ぎあげ、さしあたり病院に搬送した……そうだ。目立った病や怪我こそ無かったものの、二週間以上に及ぶ無茶が祟って、身体は軽い衰弱状態。診察した医者曰く「しばらく静かな場所で、療養に努めた方がいい」。
その言葉を受けて、私はトレセン学園を去ると決めた。単位とレース成績は十分過ぎるほど足りていたので、卒業扱いにはしてもらえるはず。どのみち彼のいない学園にはもはや価値を見出せなかったし、レースに出られるような精神状態でないのは自他ともにみても明らかだった。
病院のベッドに伏せる私の顔を見るなり、おばあ様は号泣した。「あなたをこのような目に遭わせるつもりは毛頭なかった」――とさんざん謝られた。メジロへの復縁もすぐさま認めた。……というより最初から勘当とは名ばかりで、実務的な行為には一切至っていなかった。元よりおばあ様は、目黒の魔の手から逃がすためだけに私を遠ざけたのだから。
だから謝る必要など本来は全く無いのだが……。残念ながら当時の私に他人を気遣うことは不可能であり、おばあ様にもそういった趣旨の言葉は返せなかった。その点については深く後悔している。
魔の手と言えば、意外にも目黒家はあれから一切姿を現さなかった。私は終始病院にこもりきりだったし、もはや人質に取れる人物も存在しなくなったため、手出しができなかったのだろうか。唯一、彼らと交渉する立場にあるおばあ様は、やはり何も教えてはくれなかった。
病室の狭い窓から薄青の空を眺めているとふっと思い出す。暗闇にまっすぐ落ちて行ったロケットペンダントの描く金色のライン。嫌な思い出しかなかったあの逃避行が、不思議な余韻を今も心の内に残している。
ベッドの傍らにはたくさんのお見舞いの品々。フルーツにニンジンに、千羽鶴に手紙……。メジロの皆を始めとして、ヤエノにチヨノオーにヘリオスに……数えきれないほどの元学友が私の快気を祈っている。……しかしその中に、彼のものは一枚たりとも入っていない。
何度見ても、いつまで経っても、一片だって彼の言葉はやって来ない。
ここまで長かったですが、そろそろ終わりです。