風の噂に聞いた。
多数の債務に追われ、目黒家はあえなく廃業となったそうだ。関連企業は散り散りに解体、その名は業界から消え、元々存在しなかったかのように忘れ去られた。
天誅ですわ、とマックイーンは笑った。
「アルダンさんにあれだけのことをしたのです。むしろ生温いくらいですわ。個人的には刑務所まで引きずっていきたいくらいです。まぁ残念なことに、そのような時間的余裕すら無いのが今の私の現状ですが」
そんなメッセージを送ってくれた彼女は、今もトレセン学園で押しも押されもせぬ筆頭格としての座を守っている。年齢的には高等部シニア期を終えて、そろそろ次世代の後輩達に譲る頃合いなのだが……。
学園に残留しているメジロは今となってはマックイーンだけになった。持って生まれた飛び抜けた実力は時に残酷にも働く。レースの世界はいまだに彼女の活躍を望んで離そうとしない。だが孤高の存在かと言えばそうではなく、実際には多くの学友に囲まれて楽しい毎日を送っている。
家の没落に伴ってメジロは名声を失った。目黒家ほどでは無いにせよ、かつての威光は見る影も無い。しかし彼女の気高く、聡い雰囲気は今も変わらないままだ。私からすると羨ましい限りである。
「北海道の気候はもうずいぶんと寒くなったでしょう。まだ冬には遠いですが、暖かくして寝てくださいね」
ジムに携わる仕事を始めたライアンが送ってくれたビデオレター。引き締まった筋肉は現役時代から少しも衰えてはいない。むしろより切れ味を増したのではないだろうか。聞くところによると、勤め始めたジムで出会った男性と最近はよくお茶に行くらしい。ぜひともその話を深堀したいのだが、そうすると露骨に話題を変えられる。
毎月のように彼女が送ってくる段ボールには、かつてメジロのお屋敷で着ていた服がたくさん詰まっている。あのお屋敷はメジロ再編の動きに合わせて結局取り壊しとなってしまったが、そこにあった細々としたものは全て別所に保管しているらしい。
五年の月日が経ったとはいえ、あの頃から私の身長はそう変わっていない。丁寧に洗濯すると埃っぽさはすぐに取れたし、大切に着させてもらっている。
ただ何の間違いなのか、一緒に入っている大量の少女漫画はどうしたものか。電話で聞いてみたら、
「最近耐性がついたので、よく読むようになったんです。アルダンさんもぜひ! 返さなくてもいいので、読み終わったら施設の子供達にあげてください」とのことだった。
お言葉に甘えて、皆に配ったら確かにとても喜んでくれた。もちろん私は一頁も読まなかったが。
「その、昔のこととか色々思い出す事あると思いますけど」
ドーベルから送られてくるメールはいつもそういった書き出しだ。
「気にしないでくださいって……言っても無理ですよね。ほんとに酷い話ですから。でも……私達がついてます。寂しかったらいつでも言ってください、ブライトと一緒に遊びに行きます。
そうだ、この前に編集の人から凄いプレゼントを貰ったんです。今度の休みにお披露目しますね」
その編集の人というのはドーベルとどういった関係にあって、そもそもドーベルはどんな職場で働いているのか。メールを頻繁にくれる割には、大事なところはいまだにぼかされたままだ。聞いてみたい気持ちはあるが、親しき中にも礼儀ありというか、確かめてはいけない事柄のように思えてどうにも言えない。
かくいう私だって、ドーベルに対する隠し事は多い。
五年前、メジロに復縁されて早々に私はトレセン学園を離れることになった。行先は北海道のかの地、唯一残ったメジロの養成施設のある場所だ。
全国各所にあった例の施設群だが、メジロ没落に際してようやくURAへの払い下げが叶った。ただしその売却額は購入時と比べると雀の涙に等しく、家の再興など夢のまた夢。
かといって個人の懐に収めるには大き過ぎる、まさしく帯に短したすきに長しです――と言ったのはおばあ様。当時、離別のショックによって半ば心神喪失していた私に、彼女はある提案をした。
「他の五人にはお屋敷より離れる際に餞別を渡しましたが、そう言えばアルダンはまだでしたね。この程度が贖罪になるとは無論、思いませんが……。メジロに残された全力をもって、あなたの休まる場所を作りましょう」
その結果、北海道に完成したのが療養所を兼ねた養成施設だった。といっても、その理念は以前とは全く異なっている。
事故で身寄りの無くなった子や、金銭に困窮した子なども受け入れ、可能な限りの支援を行う、慈善事業に近いもの。もちろんそれだけでは経営が成り立たないので、開園に伴って出資者を募った。この時、終わったはずのメジロの名が大いに役立ったことは言うまでもない……。
施設の運用に目途が立ったまでは良かったものの、私個人の問題は依然として残った。
二週間に及ぶ失踪から、続けざまに長期入院。その後ようやく戻ってきた我が子が、またしても遠くの地に向かう事について、両親からは猛反対を受けた。
映画でもなかなか見られないような、悲惨な家族会議が連日開かれたものだったが、そこで助けに入ってくれたのがドーベルだった。彼女はおばあ様と二人、躍起になって両親を説得し、苦心の末に私は施設の職員となることができた。
「トレーナーさんのこと……忘れられないんですよね」
ドーベルは北海道行きの理由について、そう理解したようだった。私は微笑んでそれに応えた。当たり前だが、嘘だった。
本当の気持ちをドーベルに打ち明けられる日はきっと来ない。しかし施設で幾人ものウマ娘に走りを教えているうちに、ささくれだっていた心にも明るい兆しが見え隠れした。
遥か彼方まで続く草原の大地へと、思い思いに駆ける年少の子達。当初、おばあ様が抱いていた理念のように、彼女達にメジロの思想を植え付ける気は私には一切無かった。皆、自由に走ればいい。私はあくまでその手伝いに徹するだけ。
私が併走トレーニングを行うと、大人ぶった子がときおり嬉し気な笑みと共に訊いてくる。
「先生にも昔はトレーナーさんがいたんでしょ?」
「ええ、いましたよ」
優しく答える。でも、答えるだけだ。
「聞きたいなら、教えるよ」
私が施設の先生になって、更に一年が経った頃にパーマーから短いメッセージが届いた。
「彼がどこにいるか。今、何をしているか」
パーマーは学園時代に一緒に走っていたというウマ娘達と、いわゆるベンチャー企業を立ち上げた。彼女がかつて楽しんだという野良レースをより手軽に、気楽に行えるように様々なサービスを提供しているらしい。
着眼点の真新しさから経営状態は上々、最近ではトレセン学園から正式な提携の申し出があったという。学生の頃は自分に自信の無さが目立つ彼女だったが、今は自他共に認めるばりばりのキャリアウーマンだ。
そんなパーマーが送ってくれたメッセージには心当たりがあった。その業務の性質上、彼女は多数の人と知り合う機会に恵まれている。出入りのしやすい簡易レース場には、企業のスポンサーも脚を運ぶと聞くし、レース界隈の情報を仕入れるにはまさしく打ってつけだろう。
一方、私がした返信は「ありがとう」という感謝の言葉。
「いつも気に掛けてくれて。本当に感謝しています。でもいいんです。もう終わった事ですから」
パーマーは「そっか、ごめん」と予想通り謝った。
私は早急に準備を整えた後、その脚で飛行機に乗って、彼女に会いに行った。その後はあまり語ることなく、行きつけだというバーで二人して長い時間を過ごした。成人してから初めてとなる飲酒の感想は、苦々しいの一言に尽きた。
そう言えば、酔ったトレーナーの姿を私は一度も見ないままだった。
担当時代から彼は立派に成人していたし、私的な場ではもちろんアルコールを楽しんでいたと思う。彼が酔っ払って赤ら顔になったら、どんな風だっただろうか? 堅物と評する他ないあの生真面目さが多少は抜けたなら、私の肌に触れる確率も何割か増えただろうか。
薄明りの夜のバーには何組かのカップルがいて、彼ら彼女らは常識の範囲内で身体を寄せ合っていた。興味本位で隣に座るパーマーに尋ねた。
――あなたに恋人はできましたか? もしいるなら、どこまで仲は深まりましたか。
「秘密」
パーマーはいたずらっぽく唇に指を添えて言った。私の過去を慮っての仕草だとしたら、それは完璧に過ぎた。その一方で、そんな風に考えてしまう自分に逆に嫌気が差して、慣れないカクテルを強引に喉に流し込んだ。
帰り際、パーマーに小切手を託した。記した金額は400万円に、返済までにかかった期間分の利子を算入したもの。施設で得た正当な私の収入で、その当座預金を開設した。
深々と頭を下げた私に、パーマーはにこりと笑って「オッケー」と親指でサインを作った。
「お姉さま~」
五人のメジロの中でも、ブライトは特に施設へ頻繁にやってきた。近所の公園に行くような気楽さで、関東地方から北海道までプライベートジェットを飛ばしてくる。
彼女の両親の経営するアミューズメントパークは、メジロの再編に呼応して一時的に危機に陥ったが、しかしすぐさま持ち直した。それどころか苦難を糧に不死鳥のように蘇り、今では一帯を席巻するほどの勢いだ。
ちなみに養成施設への出資額も他の追随を許さない。大胆に言い換えればブライトは、私の勤め先の筆頭株主とも表せる。彼女の機嫌次第で吹けば飛ぶような、一介のサラリーマンであるところの私は、のそのそ歩いてきた彼女にとっておきの紅茶とクッキーを振舞った。
「とっても美味しいですわ~」
ふにゃふにゃ笑いながら、テラスでお菓子を頬張る彼女は、マックイーンとは別の意味で学生時代と変わらない。というより、五歳児の頃からとも全く変わっていないようにも見える。強いて言うなら、身体つきが少々大人びたくらいだろうか……。言動がその成長に伴っていないから、見ていて危なっかしいことこの上ない。この養成施設にいる子供達はその特性上、基本ウマ娘しかいない。これが一般的なトレーニング施設だったらと考えたら、ときおり恐ろしくなる。
「今日はちょっと風が~強いですわね~」
そう言っていたブライトの帽子を風が見事に攫って行った。近くを走っていた子供が機敏に反応し、空中でそれをキャッチする。
「ありがと~ございます」
何歳も年下の少女に深々とお辞儀をするブライト。人見知りをする性格の子だったために、少女は顔を真っ赤にして走り去って行った。伸びやかな脚でぐんぐんと離れていくその背中を仰いで、ブライトが「ほわぁ……」とぼんやりした吐息を漏らす。
「いいものですわね~。トレセン学園の子達もたくさん頑張っていて素晴らしいですが、ここは何と言うか~。のんびりしていて、とってもわたくしに合っていますわ~」
最終的にはその吐息はあくびだか何だか分からなくなって、こくりこくりと夢うつつに船を漕ぐ。
ついに座ったまま眠り始めた彼女の肩に、私は念のため持ってきていたケープを掛けた。もう肌寒い季節だというのに、いくら何でも安心し過ぎだ。
それとも私達二人に確かに流れるメジロの血が、この地と共鳴して為せる技なのだろうか。
かつて高祖達はここ北海道にある羊蹄山の麓に降り立ったという。
高原の彼方にそびえる山々の一つがまさにそれ。えぞ富士とも呼ばれる威容の頂きには、既に白い粉が塗されている。
この地に来てまだ数か月の頃に、無理を言って羊蹄山に登らせてもらった。「羊蹄山は険しい山です。ハイキング気分だと苦労しますよ」 先導してくれたインストラクターはそう忠告してくれたが、私はどうしても頂上まで登りたかった。
曲がりなりにもトレーニングを積んだウマ娘だし、平気だろう……。そんな甘い見込みは一瞬で砕け散る羽目になった。登山で使う筋肉と、レースのそれは全く異なる。残り体力を加味したペースの調整もだ。
直線でのスパート時、たいがい根性で粘っていた私だが、山の果てしない高みにそういった精神論はまるで通用しなかった。脚を上げても上げてもまだ先が見えない。いっそさぁっと走っていければ楽なのだが、それをやろうとしたらインストラクターに割と真剣に叱られた。
「標高も低くないのですから、呼吸量の増えるような無茶は厳禁です。あなた方は普通の女性と違って重いんですから、背負って帰るのも大変なんですよ?」
もちろんすぐに謝ったのは言うまでもない。二、三歳年上の女性インストラクターに最後には引きずられるようにして、私はどうにか登頂に成功した。
苦労の果てに目にした、遥か高みよりの景色。彼方の地平線を眺めると、月並みな感想だが、自分の存在がひどく矮小に思えた。
失恋なんてありふれた話だ。この世には60億人ほどの人がいて女性はその約半分。彼女達のいったい何割が、初恋の人と結ばれるだろう? 正確な計算法なんてあるわけないが、きっと1パーセントにも満たないのではないか? 絶対にそうに違いない。
だから私の『これ』だって、手垢のついた三文芝居。そんな事は分かっている……働き始めてもう五年、少女と呼べる歳ではなくなった。だからそんな事は本当に分かり切っている……はずなのに。この痛みはいっこうに消えはしない。
吹き付ける寒風が、短く整えた髪をなお巻き上げる。針の刺すような冷気が改めて教えてくれる、私の抱く罪のありかを。
初恋とは願えども叶わず破れるもの。その意味で言うなら、私は前提から当てはまらない。
「お姉さま~。起きてくださいませ~」
肩をゆさゆさと揺すられて、自分も寝入っていたことに初めて気づいた。すぐ横にはブライトの垂れ目。恥ずかしさを紛らわすように、冷え切った紅茶のカップを手に取った。
「お姉さま、寂しくはありませんか?」
「……なぜ急に?」
遠くから子供達のはしゃぐ声が聞こえる。空の色は群青に変わり、風は身を切るような冷たさを宿し始めた。もうそろそろ夕刻、施設に戻るべき時間帯だ。
「ここはとても良いところですわ。でも……お姉さまは一人です」
「見えませんか? 子供達がいます」
「いいえ、一人です」
強情に言い張るブライトの口調は……いつか、どこかで聞いた時と同じように、一つも間延びしていない。
「施設の方から聞きました。お姉さまはここに来て以来、どの男性とも決してお食事などされに行かないと。何度か気になった方がお誘いしたこともありましたが、断り続けたそうですね」
「良く知っていますね」
「お姉さまのことですから」
しかしブライトはそこで追及を止めて、ぼうっと空を見上げるだけになった。何を指摘するでもなく、ほわほわと視線を彷徨わせている。……が、テラスの席を離れようとはしない。私の答えを待っている、それは確かだった。
「ブライト。一度しか言いませんから、良く聞いてください。……他のメジロにも伝えて構いませんが、おばあ様にだけは決して言わないと約束してください」
「分かっています」
「私は生涯、どなたの元にも嫁ぐことはありません。……いいえ、どなたかを愛することさえ無いでしょう。……私にはもうその資格が無い。
一番大切な人との絆を自らの手でぶち壊した。愚かな女にはお似合いの末路です」
ブライトはカップを持って、施設へと戻って行った。一度も私を振り返らなかった。
私は少し散歩することにして、椅子を立って草原へと向かう。
その後ろ。風に乗って遠くから、誰かのすすり泣きが聞こえた。