トレーナーの部屋中央に置かれた短い四脚のテーブル。押しかけた二人のメジロの手によって、その上は軽いピクニック会場と化していた。ファンシーなランチマットの上に所狭しと並ぶサンドイッチやクロワッサンの数々。
ドーベルはポットまで持ってきていて、淹れたてだというコーヒーが四人分たっぷり注がれた。かぐわしい豆の匂いが包む中、トレーナーは目を何度もぱちぱちとさせる。
「とりあえず訊いておきたいんだけど……。これは何事?」
「メジロの朝食です~。このサンドイッチはコックさんが腕によりをかけて作ってくださったものでして、このコーヒーは――」
そう言う事が聞きたいわけではないのは明らかなので、割って入って説明を代わった。
「トレーナーさん、これは非常に深淵かつ複雑な問題なのですが……。さしあたり、これを理解するにあたってはメジロ家誕生の伝説と、脈々と受け継がれてきたその伝統について――」
とまで話したところで、あえなくドーベルに「その辺はカットしよ?」と今度は私が遮られる。
「えっとね、分かりやすく言うなら、メジロ家が近々消滅するかもってことなの」
「はぁ!?」
さしものトレーナーさんもたまげて、飲んでいたコーヒーを吹き出しかける。「あらあら~」とブライトがその口元を布巾で拭った。……トレーナーから見て、正面の位置を陣取ったのは失敗だったらしい。ここからでは手が届かない。
「ど、どういうことだよ。メジロは百年近い歴史を持つ大富豪の家じゃなかったのか? それがこんないきなり……」
困惑しっぱなしのトレーナーに、今度こそ私がきちんと説明する。おばあ様の事業が失敗し、多額の債務が発生したこと。その補填もままならず、このままではメジロ家の財産全てを売却しなければならないこと。
かなり長い話とはなってしまったが、トレーナーは適宜相槌を打ちながら、真剣に聞いてくれた。
「諸行無常とは言うが……。あまりにも急な話じゃないか。それに財産の売却って……あのお屋敷も無くなるのか?」
「はい。それでようやく債務が整理できるとのことです」
正確には、そこまですると少しのプラスが出る。そのお金で、おばあ様は最後のプレゼントを私達にしてくれたわけだ。だから気にする必要は無いと、泣き崩れるドーベルやパーマーにおばあ様は言っていたが……。ぶり返してきた昨晩の悲しみを無理やりコーヒーで呑み込む。
「俺に何かできることは……ああそうだ」
トレーナーは急に立ち上がると、机の引き出しをごそごそとやって、封筒やら手帳が束になったものを取り出した。その中から一冊、明らかに銀行の通帳と思われるものを抜き出す。
「今すぐ出せるのは、申し訳ないけどこれくらいだ。少ないけど何かの足しになったら――」
「止めてください!」
自分でも驚くほどの声が迸った。トレーナー含む全員がぎょっとした顔になる。
「そのような品性下劣な頼みごとをしにきたのではありません! それは今すぐしまってください」
「あ、アルダン?」
動揺している彼の手を掴んで、通帳を元あった位置へと半ば強引に戻させる。薄緑のそれが視界の中から消えて、ようやく人心地がついた。心臓はまだ壊れそうなくらいドキドキしているが、少なくとも呼吸はできる。
「ごめん、俺はてっきりそういうことかと……」
「だからって普通、ノータイムで通帳まで出す?」
呆れたように言うドーベル。その傍らで、ブライトが心配げに私を見つめてくる。
「大丈夫ですか、姉さま。ひどく取り乱されて……」
私は精いっぱいの微笑みを彼女に返した。しかるのち、「ともかく」と話を強引に戻す。
「私が今日、トレーナーさんの部屋にお邪魔したのは、あなたにお伝えしたいことがあったからです」
喋りながらドーベルとブライトの二人に目線を送った。できることなら、今からでもこの二人には席を外してほしいのだが……。しかし、彼女らがその意図を汲み取ってくれる様子は全くない。仕方なく先を続ける。
「かくして追い込まれたメジロ家なのですが、分家である目黒家はおばあ様にある提案をされました。『達成すべき目的によって分かたれた二つの家ではあるが、浮き沈み激しい現代の情勢にあっては、身を寄せ合って力を一筋に絞った方が、生き抜くに易いのではないか』と。しかるに、本家であるメジロ家に対し婿入り婚を行い、両家の名を一つにする。これが最善の道だと言うのです」
「え? はい……?」
まるで要領を得ないといった様子のトレーナー。しごく当たり前の反応だ。私だって、昨晩おばあ様から聞かされた時は目が点になった。
だが、これは紛れもない現実。彼には受け入れてもらわなければならない。私がもう一度言い直そうとしたところ、ドーベルが焦れたように口を挟んでくる。
「だから噛み砕いて言うと、アルダンさんが結婚させられるってこと。その目黒家の当主と」
「えっ」
予想していた以上の驚いた表情をトレーナーは見せた。こんな状況でなかったら、写真に撮って永久保存しておきたいところだが、そうもいかない。なにせ目黒家当主が交渉にあたって持ち出した条件は、それだけに留まらなかった。
「それに伴って、トレーナーさんとの契約も――」
「ね!? ほんと有り得ないでしょ!? 家の事情で無理やり結婚ってふざけんなって話じゃない!?」
やにわにドーベルが座布団から立った。先ほどはポットを取り出したバッグの中から、今度は書類の山を取り出し始める。それらを鬼気迫る勢いでカーペットの上に広げていくドーベル。日本地図らしきものを掴むと、まだぼんやりしているトレーナーに突き付けた。それには赤ペンで、ぐねぐねとしたルートが書き込まれている。
「これ、あたしが一晩かけて練った脱出経路。で、こっちらへんは頼りになりそうな親戚の連絡先ね。こっちは海外入国の時に使う偽装の身分証明書で――」
「わぁ~こんなにたくさん。すごいですわ、ドーベル」
「ちょっと待ってくれ、君達いったい何の話を?」
「何とぼけてるわけ。アルダンさんとトレーナーが駆け落ちする作戦の話してんの」
それを何の話とは何だこの朴念仁、とドーベルは小声で付け足す。彼女は一揃いの書類をトレーナーに押し付けると、今度は私の方に向き直った。
「で、さっそくだけどこれからのスケジュール説明しとくね。今からあの執事さんのリムジンで、ブライトと一緒に空港まで行ってもらうから。大丈夫、あの人はあたしの方で丸め込んどいたから、おばあ様に連絡が行くことは無いはず。行先はブライトの家の別荘がある関西の某所。そこで一週間ほど時間を稼いでから――」
「あの」
矢継ぎ早に話すドーベルに、私は受け取った書類をそっくりそのまま返した。ぽかんとしている彼女に、一言告げる。
「私は……駆け落ちなどするつもりは毛頭ありません」
「え?」
この場にいる私以外の全員――もちろんトレーナー含めて、視線が一気に集うのを感じた。
「おばあ様の言いつけ通り、目黒家のご当主様と結婚します。もう二度とレースも走りません」
「は……?」
「ですから、せっかくですけどその駆け落ち作戦とやらは辞退させていただきます。ありがとう、ドーベル。きっと私の為に一晩中寝ずに考えてくれたのだろうけど、無駄にさせてしまいましたね」
「では――」
真っ先に反応したのは、意外にもブライトだった。
「ではどうして、トレーナーさんのお部屋に向かわれたのですか? わたくし達にも何も告げずに……」
「あなた達に話したら、絶対に止めると思ったからです。現に今だって、こうして私とトレーナーさんを逃がそうとしているでしょう。けれど私は逃げも隠れもいたしません」
唖然としているブライトをよそに、私はトレーナーを真っ直ぐ見据えて言った。
「トレーナーさん。いささか急な話で大変恐縮ですが、謹んで申し上げます。どうか私との専属契約を解除し、今後はお互いに二度と会わないと約束してくださいますか」