薄い青色のカーペットに、真っ黒い染みが広がっていく。床に転がり落ちた金の縁取りのティーカップ。ブライトがわざわざお屋敷から持ってきたものだ。割れていなくて良かったと、心の底から思った。
「アルダン、突然なんてことを言いだすんだ。そんなことは悪ふざけでも口にして欲しくないな」
いまだかつて聞いたことの無いトレーナーの声。彼が怒っているという事実が骨身に染みて実感できた。いかなる悪行を目にしても、ここまで憤る事はきっと無いだろう。そのくらい私の発言は受け入れ難くて、許されざるものだった。
徐々に浸食を進めていく、彼が手から零したコーヒー。その一切に何ら気を払うことなく、彼は一心に私を見つめている。
「答えてくれよアルダン、なんで君はそんな決断をした?」
「トレーナーさん。専属契約の解除はウマ娘の持つ権利であり、それを受け入れることは担当トレーナーにとっての義務です。どうか何も訊かず、私の前から去っていただけますか」
「……本当なのか? 本当に、真剣に……俺とはもう走りたくないと?」
激憤を通り越して、無色に近づきつつある彼の声色。その奥底でどれだけの感情が煮えたぎっているのか……。それを想像するだけで、この手も足もすべて枯れ枝のように砕けてしまいそう。萎えて崩れ落ちる私の全身を、彼が優しく包んでくれたなら……。きっと虚栄は溶け切って、蒙昧なよろこびに浸っていられる。
しかしそれは許されない。この身がメジロである限り、そんな甘えは私自身が許さない。
「私がトレーナーさんに嘘をついたことがありましたか?」
彼の瞳が驚きで見開かれる。何かを言いかけて中途半端に口が開く。しかしそこから何か言葉が出てくることは無く、彼は間の抜けた表情を晒しただけだった。とうとう私は見ていられなくなって、視線を逸らした。
「待って!」
やっと動揺から立ち直ったらしく、ドーベルが怒声を発した。玄関へ向かおうとした私の前へ回り込んでくる。両手を広げて、まるで通せんぼでもするように。
「どういうつもりです? 急にそんなこと言われたって、全然意味分からない。もっとちゃんと説明して」
「話なら後でいくらでもしてあげます。……ですからドーベル、良い子だから今はそこを早く退いてください」
「退かない!」
鋭く叫んだかと思えば、一転して「どうしてですか……!」とドーベルは泣きだしそうな声になった。
「どうしてアルダンさんが……。いきなり結婚だなんて無茶苦茶じゃない、あんなの真に受ける必要無いのに!」
怒っているのか悲しんでいるのか、どっちつかずのくしゃくしゃの顔。それは母親に縋りつく幼子そっくりで、説き伏せる言葉など思いつかない。
どうしようもなくなった私は振り返って窓の向こうを仰いだ。こうなることが予想できたから、お屋敷からこっそり忍び出したのに。
やはりトレーナーへの最後の挨拶は断念すべきだったか……? しかしそれでは彼に対してあまりにも不義理が過ぎる。結末はどうであれ、彼が私に三年間も付き添ってくれたのは事実なのだから。ガラスより儚く、クリノクロアよりも脆い私にひとときの輝きをくれた。
「君は言った……」
トレーナーが小さく、さざなみのような呟きを漏らした。
「刹那の一瞬でさえ一つ一つ積み上げていけば、それはいずれ永遠になるのだと。俺と君、二つの今が重なり合って、二人だけの永遠が刻まれる。俺はずっと信じているんだ。なのになぜ君が――」
「いいえ、私だって今でも信じていますよ」
朝方の透き通った空に、白い点が一つ浮かんでいるのが見えた。みるみるうちにその点は大きくなっていき、こちらに猛スピードで近づいていることが分かる。パラパラという独特の重低音を耳に受けながらも、私は頑張って気付かない振りをした。もう少しだけ、もう数十秒でもいいからトレーナーと話していたかった。
「けれど一緒にいることだけが、互いを重ねる術でしょうか? 決してそうではないのです。私の中には絶えずトレーナーさんとの思い出が流れていますし、きっとあなたもそれを感じている」
ついにその風切り音は無視できないほどに大きくなった。ガラス窓が風圧で振動し、驚いたブライトとドーベルが跳び上がる。私が先刻降り立ったベランダ、落下防止用の塀の向かいにくすんだ白色の機体が覗いた。二人乗りのシートを覆う楕円形のキャノピーに、小振りの二枚羽。ボディには帰属を示すような文字や番号は一切なかったが、ここに来た目的は一目瞭然だった。
「へ、ヘリコプター!? どこのバカが学園の中にまでこんなものを……!」
ヘリはさらにこちらまで接近してくると、おそらく羽が触れるぎりぎりの部分で止まった。およそ真っ当なパイロットなら絶対にしない芸当なだけに、操縦者の本気の度合いが透けて見える。間を置かずして、いまだ飛行中だというのにキャノピーが開放された。中から現れたのは、トレーナーと同じ年頃の短髪の男性。
中肉中背の身体を黒いジャケットで包んだ彼は、操縦桿片手にこちらに手を振った。
「お初にお目にかかります、皆様方。このような場所から大変不躾なこととは存じますが、どうかご容赦願いたい。なにぶん急いでいたものでしてね」
ヘリに内蔵されているらしきスピーカーから、いかにもキザな男の声が聞こえてくる。彼はシートから身を乗り出すと、部屋の中を見渡すようにきょろきょろと視線を巡らせた。
「麗しきご令嬢がなぜだか大勢いらっしゃるようですが、此度の良縁の代表者はどちらですかな。よろしければご挨拶などいただければありがたい」
「ここです。私がメジロアルダンです」
トレーナーの横を通って窓を抜け、ベランダと出て私は答えた。その間、ドーベルもブライトも何も言ってはこなかった。この異常極まりない状況に呑まれたか、はたまた単にかける言葉が見つからなかったか。どちらにせよ、私の行く道を阻む者はもはや誰もいなかった。
「あなたでしたか……。私は目黒源蔵。いまだ若輩の身ではありますが目黒家の当主を務めています。名乗りが遅れたこと、このような荒っぽい参上になってしまったことを合わせて謝罪申し上げる」
彼はぺらぺらと言い終えると、
「では今からお迎えに上がりますので」とキャノピーを閉めようとする。それが完全に閉じ切る前に、私は息を大きく吸い込んで言い放った。
「ご足労には及びません。こちらからすぐ向かいます。……開けたままで、お待ちください」
「なんと?」
ヘリを操縦する男――目黒源蔵氏が大口を開けて私を見た。気取った態度の彼に一矢報いたような気がして、少しだけ気分が良くなる。
最悪のお別れになってしまったけれど、最後くらいは華々しく。刹那の飛翔と代えて、彼の心に焼き付けよう。
二歩、三歩と退きながらゆっくり狙いを定める。見据える先はもちろんヘリのシート。限界まで詰めているとはいえ、ベランダとの距離は最低でも10mはある。それに対して私が取れる助走のスペースはごく僅かなもの。文字通り決死の跳躍となるだろう。
「アルダン! 待て、頼む待ってくれ……!」
私が何をしようとしているかに、トレーナーが遅まきながら気付いた。止めようと肩に手を掛けてくる。その揺れる瞳からは、言葉以上の想いが伝わってきた。
――君を行かせない、思い出という過去をよすがになんてできるものか。限りある今を大切にしなくて、どうして未来に希望を持てる?
「でも……ダメです。ダメなんです、トレーナーさん」
未練と共に彼の腕を力いっぱい振り払う。その衝撃で彼の身体は部屋の奥へと飛んで、危ういところでブライトが受け止めた。一安心した私はヘリに向かって態勢を直す。今度はもう二度と振り返らない。
「アルダン! メジロアルダンッ!」
背中越しに聞こえる彼の声が、鼓膜を通って脳に刻み込まれればいい。楽しかった頃の追憶と、この罪悪感が一生消えないように。やがて飛び立つ窓辺からの景色は、解放感とは全く無縁の、ひどく虚しいものだった。