「どわっ!」
私の両脚がシートへ叩き込まれると同時に、目黒源蔵氏は情けない悲鳴を上げた。計器類が表示されているモニターに、赤と黄色の警告が乱舞する。中空に浮いている機体も、それに合わせて大きく揺らぐ。
「しっかりしてください。早く立て直しましょう」
私が声を掛けると、目黒源蔵氏は多少の冷静さを取り戻したらしい。
「そ、そうですね」と若干声を震わせながらも、レバーを操ってバランスを安定させた。モニターの表示もそれに合わせて大人しくなる。
水平にまで復帰した視界の中、ベランダによじ登ろうとしているトレーナーの姿が入った。その後ろからドーベルがかじりつき、無理やり彼を引き戻す。一部始終を見ていただけで喉元まで酸っぱい感覚が登ってきて、たまらず私は顔を背けた。
「あの男が、あなたのトレーナーだった者ですか」
源蔵氏はごく自然に過去形でそう表現した。
「いかがされますか? まだお話がしたいようでしたら、迎えの者を用意しますが」
「お構いなく。……それよりも早く出してくれませんか。私の記憶が正しければ、そもそも学園上空は飛行禁止区画でした」
「無論、承知の上です。これもあなたを当家に迎え入れるがため。逸る気持ちが形になって現れたものとご理解いただきたい。目黒家の屋敷まではここから小一時間ほど。それまで空の度をご堪能下さい」
「お言葉ですが」
私は極力、彼と視線を合わせないようにしながら言った。
「あなたが、メジロ家の婿養子となる取り決めだったはずです。断じて私が目黒家に入るわけではありません。そこに誤解の無きように」
すると彼は「これは一本取られました」と苦笑して、お茶を濁すように操縦桿を握った。途端にヘリが急上昇を始め、職員寮がすうっと遠のいていく。私がほんの一瞬前までいたベランダは、すぐに地上の建物群に呑まれて消えた。代わりに視界一杯に広がったのは、学園から駅前へと続く幹線道路。見慣れた朝の通勤ラッシュも、上空という角度からは少し新鮮に映る。不覚にもその景色に見入ってしまっていたらしく、源蔵氏が今度は得意げに笑う。
「メジロの方では、あまりこのような趣向には恵まれませんでしたか。今後は送迎の用向きがあれば、いつでもこれでお迎えに上がりますよ」
「……目黒家のご当主自らがですか? お暇なことなのですね」
皮肉たっぷりに返したつもりだったが、源蔵氏は「ええ、もちろん」と一歩も引かない。
「なにせ、私は入り婿の身分ですから。姫殿下の小間使いになることに厭いは少しもありませんよ」
にやにや笑いを止めない彼に、言葉を返すのが面倒になった。さすがは交渉事を稼業にしてきた一族の出ということなのか、言い合いにかけてはあちらに一日の長がある。ならばいっそ黙って空の景色にでも没頭していた方が、精神安定上良いだろう。
しかし敵もさるもの。私が黙ったのをいいことに、聞いてもいないことをぺらぺら喋り始める。
「旧態依然とした家訓のために、これまでお目にかかること叶いませんでしたが、お噂はかねがね耳にしていました。メジロの至宝とうたわれたメジロラモーヌ様の妹君、アルダン様。実際にお目見えして痛感いたしましたが、聞きしに勝るとはまさにこのこと。かようなまでにお美しい方だとは……感動のあまり言葉もありません」
では黙っていてくださいとよっぽど言いたくなったが、ここは堪える。今後の私の行く末を考えたなら、彼とは良好な関係を保っておいた方がいい。それは重々分かっているのだが……。
「さて、今日の良き日に巡り合えた縁に感謝しつつも一つお聞きしたいことがあります」
しばらく一人だけで喋り続けていた源蔵氏が、はっきりと質問を投げかけてきた。無視するわけにもいかず、「なんでしょうか」と応じる私。これまでの流れからするに、ファッションや料理の好みでも聞かれるのかと思いきや、彼はわりあい真剣な声で言う。
「あの専属トレーナーとは、どういうご関係だったのですか?」
「どういう……とは? 彼は私のトレーニングを担当してくれていました。それ以上に何か言うべきことがありますか?」
そこまで言い終えて、余計なことまで口にした事と後悔した。本当に『何も無い』なら、まず疑問形では返さない。この失敗を源蔵氏が見逃すはずもなく、すぐさま揚げ足を取ってくる。
「ええ、ありますよ。例えば先ほどの職員寮の一件につきましても。一般的なウマ娘は、学園の職員寮で、早朝の時間帯からトレーナーと面談したりしないでしょう」
「あれはお世話になった担当トレーナーに、最後のご挨拶をしていたまでのこと。そもそもの話として、ヘリコプターで学園にまで押しかけて来たあなたが一般論を語るのは冗談としか思えませんね」
やや強引に押し切ると、源蔵氏はいきなり大笑いを始めた。何がおかしいのかと思わず訊けば「いえ、やはり噂はしょせん噂だと」とまだ笑う。
「アルダン様と言えば大和撫子の鑑。淑やかで慎み深い振る舞いを旨とし、口を荒げることなど決して無い……。学園内外で語られるあなたのイメージが、この数分で一変しました」
「誰が言ったか知りませんが、それは外野の勝手な妄想です。レースの世界は常に非情。前を押しのけて進み出る、その覚悟と決意があるからこそ一着の栄誉を手にできる。私は数年の月日をかけて、その闘志を磨いてきました」
「なるほど。いかに可憐な花であっても、そこには鋭い棘ならぬ意思があるわけですか……いやはや」
彼は唐突に笑うのを止めると、スイッチを切り替えたように真顔になった。
「ではこれも、強い意思の表れということですか」
彼は操縦桿から片手を離すと、計器の一つに表示されているレーダーを指した。
そこには二つのポインタが表示されていて、中央から動かない一つはこのヘリ自体を示しているようだ。他方、もう一つのポインタは画面の下部に位置し、じりじりとヘリから引き離されつつある。遠からず、それはレーダー外に消えると容易に予想がついた。
問題なのは、いったいこのポインタが何を意味しているかということだ。加速力こそ劣るものの、ヘリに食らいついていることから、それが高速移動しているのは間違いない。では他にもヘリがいるのか……とキャノピーから辺りを見渡してみるが、そのような影は一切無かった。地上にも目を落としてみるも、現在ヘリは都市部から離れた田園地帯を横切っている最中。追走する車の姿は見つからなかった。
「何がおっしゃりたいのでしょうか?」
「お分かりにならないようなら、少しヒントを差し上げましょう。本日、私はいかにしてあの職員寮まで馳せ参じることができたとお思いですか?」
「はっ……?」
さも当たり前のようにメジロの二人が部屋まで来たから忘れていたが、私は行先を誰にも教えていなかった。ではどうやって源蔵氏はあの場所を特定できたのか?
考え込んでいると、源蔵氏は何のつもりか操縦桿から片手を離した。その手で懐からスマホを取り出すと、起動した画面を私に見せてくる。そこにはヘリの計器と全く同じレーダーがあった。もちろん、遠ざかるポインタも。
「まさか」
物凄く嫌な予感が……もはや怖気に近いそれが背筋まで昇って来る。もしかしてこのレーダー、本来はスマホに接続されるべきアプリなのか? ならばこのポインタが示しているのは……。
源蔵氏はそんな私を一顧だにせず、淡々と続けた。
「連絡を取ってみてはいかがですか? 私としても、このままでは少々目覚めが悪い」