我らがトレセン学園と市の中心地を繋ぐ幹線道路。川に沿って伸びるこれをずっと下っていけば、必然的に海岸部へと辿り着く。この市の海は波の穏やかな内海で、海水浴場やホテルといった数々のレジャー施設がある。夏に行く臨海合宿場もそのうちの一つに入っていて、学園生徒にとって実に馴染み深い地区と言える。
また、この内海には大小無数の島が浮かんでいる。といっても渡航手段の乏しさからそのほとんどが無人島。奇特な一部のウマ娘が修行と称して乗り込む以外に、訪れる者はまずいない。(過去には謎の無人島ツアーが開催され、遭難者が出たという噂も耳にした。)
しかしそれは逆に言えば、個人の自由にできる土地が多く残っているということでもある。――もちろん潤沢な財力さえあれば、という条件は付くが。国や県、市といったお役所の手が一切及ばない場所で、一からインフラの整備を済ませ、定住すべく住居を立てる。それも贅沢の粋を極めた邸宅ともなれば、実行できるのは一握りの大富豪だけ。
そして言うまでも無く私達メジロと……目黒なにがしは、その内に数えられている。源蔵氏がトレセン学園から小一時間で着くと言った、目黒の屋敷。波間にたゆたう孤島の一つに、それはそびえているらしい。源蔵氏がヘリまで持ち出したのは、なにも示威のためだけではなかったわけだ。
「ルールをもう一度説明しましょう」
羽織ったジャージのチャックを上まで締めながら、ライアンは言った。
「つまるところ……その目黒のお屋敷に行くためには、ヘリか船しかない。目黒源蔵さんが言うには、港には個人所有の船がいくつか泊めてある……のですよね?」
「はい。さらに今日は特別に、いつでも出航できるよう専門スタッフを配備しています」
「まぁ手の込んでらっしゃる……。このような展開も織り込み済みということですか?」
「まさか!」
源蔵氏はさも心外というように肩をすくめた。
「あくまで、アルダンさまが空路は苦手とおっしゃった時のためですよ。もしくは島周辺のご遊覧を希望された場合などに備えておりました」
「はいはい、準備万端なこと」
隣に立っているドーベルが思いっきり皮肉めいた視線を送る。それに満面の笑みで応える源蔵氏。互いの詳細な心境は定かでないが、相性が絶望的なのは間違いない。一方、ライアンは履き替えた靴の爪先をトントンとやって調子合わせ。間もなく始まろうとしているレースに向けて、順調に神経を研ぎ澄ませている。
「船の用意されている港が目標地点です。そこに着くまでに、あたしがアルダンさんを捉えられれば、今回の婚約は無かったことにしてもらいます。逆にアルダンが逃げきれれば――」
「事前の取り決め通り、私と目黒源蔵氏は夫婦の契りを交わさせていただきます」
「アルダンさん、あなたは……」
意気揚々としていた表情から一転して、絶句するライアン。そう言えば彼女に宣言するのは初めてだった。驚かせてしまったことを申し訳なく思い、「大したことではありません」と付け足す。
「私とてメジロの女。いずれどなたかに嫁ぐとは決まっていました。それが多少早まっただけのこと。あなたが気に悩む必要は無いのです。ましてや私の身を案じるあまり、勝負を持ちかけようなどと」
「いえ……いえ! アルダンさん。あなたのお覚悟はあたしにも深くふか―く伝わりました。もはや言葉は不要です。後はお互い心行くまで、筋肉をぶつけ合うまで!」
彼女のテンションは一周回っていつもの調子に戻ったらしい。どこまでも真っ正直なその瞳に、余計な心配をしたのは私の方だと気付かされた。
「では、始めましょうか」
空き地からほど近い場所にあった公道に、スタートラインを設定した。都市部に至る主要道路には、ウマ娘専用レーンが必ず併設されている。ここから海岸沿いの港に着くまで、一本道で走っていけると手持ちの地図アプリは表示していた。
「何度も言うようですが、本気でやるおつもりなんですか? 何キロメートルあるか分かっています?」
いい加減くどい源蔵氏。彼の言動の一切を無視し、私とライアンはレーンに並ぶ。合図役を任されているドーベルが、右手を高く上に掲げた。コンマ一秒にも満たない余白が、極限まで圧縮されて私の鼓動を高鳴らせる。懐かしい感覚――トレーナーと一緒に戦ったG1さながらの緊張感。絶対に負けられないという一点だけが、この無謀な勝負を本物たらしめている。
「はじめ!」
ドーベルの手が振り下ろされた瞬間、弾ける私の脚。蹄鉄入りのシューズがアスファルトを切りつけて、瞬時にトップスピードまで加速する。道路脇に見えた二人とヘリ一機が彼方後ろへと飛び去った。そして――ライアンもまた、後方スタートラインで待機を続けている。彼女が走り出すのは、私がスタートを切ってからきっちり十秒後だ。その間どれだけ優位を稼げるかに、まさしく全てが掛かっている。
ライアン側から切り出してきたこのハンデを、私は甘んじて受け入れた。なぜなら勝利条件は『先に港に辿り着く』ではなくて、『ライアンに捕まらない』こと。つまりルール的にはレースというより鬼ごっこに近い。全長15km越えという超長距離コースを舞台に、私達は二人きりで延々と追いかけっこをするわけだ。
ただし、普通の遊びと違って攻守の交代は無い。鬼役のライアンが一度でも私を追い抜けば、それで終わり。攻める側が圧倒的に有利なのは説明するまでもない。それら一切を承知の上で、私は全身全霊で走っている。
あぜ道で区切られた田んぼを四つ越えたところで、体内時計が十秒の経過を告げた。ライアンもまた、全力でスタートを切ったことだろう。しかし後ろを振り返ったとしても、その姿が見えることはない。距離にしてたっぷり200mは離れたはず。わざわざ確認などしないが、そのくらいは見積もれるペースだ。
今朝は職員寮に始まって、怒涛の展開を経た後だというのに、脚は清々しいくらい調子が良かった。……いや、だからこそと言うべきか? トレーナーのいない今、私に失うものは無い。唯一残っているとすれば、それはメジロとしての矜持。天与の務めを果たすためならば、か弱く先の短いこの命――いくらだって投げ出せる。
およそ五分以上が経った頃には、ヘリが最初に降り立った田園地帯を抜けた。道路の両側には家屋が目立ち始め、行き交う車両も増えだした。専用レーンを進む私のすぐ隣にも、道を曲がって来た一台の車がつく。歩行中なら一瞬で通り過ぎる普通車だが、今や競り合いの形になった。じっとりと遅い相対速度は、むしろ私の方が僅か上回ってすらいる。真横に並んだ運転席から、目をまんまるにした男性が見えた。なんだか悪いことをした気分になって、一応ぺこりと会釈しておく。直後に彼はなぜだかブレーキを踏んだようで、後方へと引き下がっていった。
そうして何台かの車と抜きつ抜かれつを繰り返していくうち、ついに道路は市街の中心地へと差し掛かった。こうなると問題なのは信号機の存在で、どうしても交差点ごとに脚を停める必要が出てくる。運さえ良ければ全て青の内に突っ切れるのだろうが、そうは問屋も卸すはずもなく。案の定私は二つ目の信号で足止めを食らった。
「くっ……! こんな時に!」
はしたないと自覚しながらも、どうしても愚痴を零してしまう。時間が無駄になるのはもちろんのこと、呼吸のペースが乱れるのがなにより厄介だ。ただでさえ前代未聞の長距離を走らねばならないというのに……。一事が万事この調子では、完走できるかも怪しくなってくる。ぐるぐると思考を巡らせても、頭上の真っ赤なサインは一向に私を許してくれない。焦燥感に煽られた末に、私はついに禁じ手に及ぶ決断を下した。
専用レーンから横に外れて、歩行者道路へと移動。そこにある歩道橋を登って、交差点を横断していく。当たり前だが、その間の速度は常識の範囲内での早歩き。ぎりぎり普通の人間にも出せるスピードで、そそくさと歩道橋を渡り終えた。交差点を後にするや否や、即座に元のレーンへと戻って再加速する。少しだけ振り返ってみると、信号はいまだ赤のままだった。
あのままぼうっと待っていた場合のことを考えて、空恐ろしくなる。追ってくるライアンも同条件とは分かっているが、それで気が休まるわけもない。そもそも信号機に捕まる回数自体、同じとは限らないためだ。お世辞にもフェアとは言えないが、全てはお互いの了解のもとに始めている。ゆえに、このような多少のコース逸脱もルール上は反則にならない。……というより、反則行為という概念がまず定義されていなかった。
あの時、私とライアンが交わしたのは鬼ごっことしての基本的な確認だけ。絶対に必要である子細な規則は全く持ち出されなかった。だというのに横にいたドーベルすら、一つも口を出すことは無かった。結果、私は一旦レーンから離れて戻るという悪行を堂々と行っている。
「……あら?」
そこまで考えて、ふと純粋な疑問が湧いた。最初こそライアンが有利な勝負と思い込んでいたが……。意外とそうでもないのか?
またしても信号に足止めを食らうも、今回は脇に抜け道を発見する。交差点はカタカタの『ト』の字であるため、直進するなら歩行者道に移るだけで信号を免れる。レーンを素早く出入りして、私はショートカットを実行した。
こういった行為も無論、交通マナー上は推奨されない。いかにウマ娘が歩行者ともみなされるからといって、みだりな経路の変更は他の車両に迷惑だ。私もその点は重々承知しているし、現在進行形で罪悪感に襲われてもいる。だが、それだけ。
私にとってしてみれば、今後の人生どころか、生まれてきた意味すら問われるべき勝負。多少の悪事はやむを得ない。
しかしライアンはどうだろうか? 彼女は律義に交通規則を遵守しているかもしれない。……いや確実にそうだ。信号に出くわすたびにぴったり止まって――あるいはその場で足踏みだけでも続けながら、青になるのを待つだろう。先を行く私が、そんなものは一切守っていないとも知らずに!
「やっぱり……いけませんよね。いくら勝負事だからって」
途端に自分が心底情けなくなって、速度が著しく落ちた。メジロとしての矜持が掛かっているだなんて、この有様でどの口が言えるだろう。誇りが大事とうそぶきながら、その足で踏みにじっているではないか。
ほとんど歩くようなペースになって、私は後方にライアンの姿を探した。もう何キロ地点まで走って来ただろうか。200mの差なんて、ライアンならたちどころに詰めてくると思っていたのに、一向に追ってくる気配は無い。やはり私が一方的にズルを働いたせいだろうか?
いよいよ堪え切れなくなって、私はライアンに一報を入れることにした。『必要に応じてルートは変更しても良いのですよ』とでも伝えれば、彼女だって分かってくれるだろう。
歩きスマホに関しては明確に条例違反であるため、私は近くにあったコンビニの傍で立ち止まった。ジャージのポケットからスマホを取り出し、彼女に繋ごうとしたところ――。
「アルダン!」
若い男性の声が私の名前を呼んだ。これまで何度も何度も耳にしてきた、忘れるわけもないその声色は。
「トレーナーさん……どうして」
今、一番会いたくない彼のものだった。