ブルーリフレクション短編関連   作:やわらかな土

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ブルリフS二次創作。
由紀子と菜々花が同じバイトをする話です。


霧の奥

「いらっしゃいませ。二名様ですね、空いてるお席にどうぞ」

 

 来店したお客さんはスーツを着た男性の二人組だった。

 私はなるべく明るい声を出すよう心がけたつもりだったけど、自信はない。目線がブレたり声がうわずったり、変な姿勢だったりしなかっただろうか。「なんだかおかしなホールスタッフがいるぞ」なんて思われやしなかっただろうか。心がそんな陰口を囁く。

 お客さんの選んだ席を気にしつつ、逃げるようにパントリーへ戻ると、お盆の上にお冷がふたつ、既に用意されていた。

 

「あ……ありがとうナナカ」

「どういたしまして、ユキコ」

 

 菜々花はこちらに背を向けたままハキハキと返事をしながら、すれ違うのもやっとなくらい狭いパントリーの配膳台の前で出来上がった料理をトレイの上にテキパキと並べていた。

 私は用意されたお冷を手に先ほどのお客さんの席に行って注文を受けた。二人とも日替わりランチでコーヒーと紅茶だった。変わった注文が入らなくてホッとしながら、私は厨房にオーダーを通した。

 お昼のピーク時ということもあって、洗い場には食器が山のように積み重ねられていた。お冷のグラス、まだ足りていたっけ、なんて思っていると、

 

「ユキコ。コーヒーとミニパフェお願いできる?」

 

 と、両手にトレイを持った菜々花に声をかけられた。

 

「うん、わかった」

「よろしくねー、ユキコ」

「あっ、そうだった! 了解、ナナカ」

 

 私が返事に「ナナカ」と慌てて付け足す隣を、菜々花はするりと器用に通り抜けていった。

 私がバイトしているこのレストランでは、従業員同士を下の名前で呼び合うという決まりがあった。従業員間の関係をフランクにするという目的があるらしく、お客さん目線ならきっと仲良しに見えるのだろう。実際、私がこのレストランでバイトをしようと思ったきっかけはまさにこのルールがあることを知ったからだった。

 

 本は結構高い。文庫本一冊程度ならそうでもないけれど、たとえばハードカバーなどは数千円するのが普通だ。市場にたくさん出回った本なら中古で安く買える場合もあるけれど、そうでなければ価格はだいたい高騰している。そういった本に限って電子書籍化されていなくて、途方に暮れることも珍しくない。

 私はそういった本がたくさん欲しいのだ。読みたいし、積みたい。でも、そのためにはお金が足りない。

 決して貯金がないというわけじゃない。でもお金と本はあればあるほどいい。

 つまり、私はいつだって金欠というわけだ。

 

 そこでバイトをすることにした。

 どうせやるなら、自分のスキルになるような仕事がいい。

 そこで考えた――私に足りないものはなんだろうと。

 そう。対人スキルだ。

 生徒会で働いている時や、人前に立って話す時などは問題がなかった。気持ちを切り替えて役割を演じればいいだけだし、こちらに用事があればそれを目的に会話を試みればいい。けれど休み時間や放課後などの自由時間になると、私は途端にどう振る舞えばいいのかわからなくなってしまう。

 用事がないから話しかけられないのだ。

 私もみんなみたいに楽しくやれたらと思わないときはない。

 だから私はトイレに隠れたり、文庫本を盾にしたり、文芸部に逃げ込んだりするのだ。

 文芸部のメンバーとはそれなりに仲良くやれていると自分では思う。関係値もそこそこあるから、沈黙していても居心地はそんなに悪くない。それでも三人以上の会話は苦手だけれど、逃げ出したいと思うほどではなかった。

 

 あるとき文芸部で菜々花のバイト先について話題になった。

 なんでも菜々花はまたバイトを変えたらしく、新しいバイト先であるレストランでは従業員同士が下の名前で呼び合うそうだ。

 菜々花はなぜかよくバイトを辞める。そして新しく探すまでのサイクルがとても早い。

 たぶん何か問題が起きたのだろうというのは容易に想像がつく。あの可愛さであの性格なのだから、よくモテて、よく振って、よく恨まれて、そこに居れなくなってしまうのだろう。顔が良すぎるのも正直気の毒ではある。

 けれど、それ以上に、めげない菜々花のバイタリティと、その場にあっという間に馴染んでしまう社交性の高さが羨ましく思えた。

 きっと、私は菜々花を見習うべきなんだ。

 菜々花と一緒に働けば対人スキルを盗むことができるし、そのレストランの「下の名前で呼び合うルール」とは名前を呼ぶことそのものが目的化しているはずだ。話しかける際のハードルが低いような気がする。

 

――つまりこれってチャンスじゃないのか?

 

 そんな考えが閃いた。

 そして、これはとてもいい考えだと思った。

 さっそく菜々花に話を聞くと、まだバイトに空きはあるとのことだった。計画はとんとん拍子に進んだ――というより、菜々花が話をガンガンに進めてしまったのだ。

 菜々花は私のことを即店長に報告して、それから即面接され、即採用された。なんでも友人と一緒に働いてくれるのは割と歓迎されているらしい。モチベーションに繋がったり、休みの穴埋めがしやすかったりと、まあ主に店側の事情だそうだが、私にはそれが好都合だった。

 私はマニュアルを読み込んで、初出勤に備えた。お客さんが見えたら「いらっしゃいませ」、お冷を運んで注文を取って、料理を運んでお会計のレジ打ち。シミュレーションの甲斐あってか、初日は想定通りにこなせたように思う。

 そして肝心の「下の名前で呼び合うルール」だけど、実際に呼ばれてみると心理的抵抗よりも親近感のほうがわずかに勝っていて、なんとなく距離が近付くような錯覚を覚えた。思った通り、私には一定の効果があったということだ。人の名前を呼ぶときにはさすがに抵抗あったけれど、仕事だから仕方ないんだと言い訳することができる。何度か呼び合っていくうちに当然慣れてきて、名前で呼び合うことが自然なことのように思えてくる。

 けれど、これらはすべて仕事中だけの話だ。仕事から離れれば、別に友達でもなんでもない他人なのだ。仕事外にまでかりそめの親しさを持っていくだなんて、私にとって茶番としか感じられない。でも、たとえ茶番であっても、私の対人関係のスキルが磨かれるならなんでも受け入れてやるんだ。

 

「ユキコ、そろそろ食後のドリンク持っていったほうがいいんじゃない?」

 

 ぼうっとしていた私の耳に菜々花の言葉が飛び込んできた。菜々花は両手に持ったトレイを洗い場に置いたところだった。きっと私が注文を受けたお客さんのものだろう。

 ユキコ、とフランクに呼んでくれているけれど、これは先輩からの明確な指示だ。

 

「了解。ありがとう、ナナカ」

 

 菜々花は異灰との戦いでは少し先走るところがあると思っていたけれど、バイトで一緒に働いてみると、とても頼りになることがわかった。とても視野が広いし、語気強めの言葉とは裏腹に態度は落ち着いているし、やるべき仕事をまったく見逃さない。こんなんじゃ次の任務では菜々花を見る目が変わってしまいそうだ。

 私は慌てて食後のコーヒーを二杯用意して、お客さんのところに早足で向かった。

 

「あれ、たしか紅茶って頼んだはずなんですけど」

 

 お客さんが顔をしかめて不機嫌そうに言った。

 申し訳ありません、すぐにお取り返します、と言って慌ててパントリーに戻る。

 

「ごめんなさい、オーダー間違えちゃった……」

「ドンマイ、ユキコ」

 

 謝ると同時に菜々花の励ましが飛んできて、ほんの少しだけ緊張がほぐれた。

 そんなことより早く紅茶を持っていかなきゃいけないしと、行き場のなくなったコーヒーを洗い場に置こうとすると、

 

「あ、ちょっと待ってユキコ。そのコーヒー捨てないで」

「えっ?」

「休憩のときにわたしが貰うから。いいでしょ?」

 

 と、菜々花が頭を厨房に突っ込んで、中にいる店長に許可を取った。いいよー、と店長から緊張感のない返事がする。

 

「というわけだから、はい」

 

 菜々花が当たり前のような顔で言った。

 

「……ありがとう」

「どういたしまして、ユキコ」

「あっ、そうだった。サンキュー、ナナカ」

 

 菜々花はふっと笑って作業に戻った。私は邪魔にならないようコーヒーを配膳台の隅に置いて、急いで紅茶を淹れた。

 

 お昼のピークが終わるとようやく休憩だ。

 私の手には自分用のコーヒーと、ミニパフェがひとつ。休憩室には先に休憩に入った菜々花が座っていた。

 

「おつかれー」

「お疲れ様」

 

 私は菜々花の正面に座った。

 

「はあ……」

 

 自然とため息がもれる。

 

「なに、疲れてんの高岡。まあ今日は忙しかったからねえ」

「それもあるけど、はあ……」

「あ、わかった。もしかしてこれでしょ?」

 

 菜々花はニヤリと笑って、コーヒーの入ったマグを私の目線に掲げた。

 

「まあね。あーあ、私としたことが」

「よくあることだし、気にしない気にしない」

「よくないよ。ちゃんと集中しなきゃ、あっそうだ」

 

 あっそうだ、なんて白々しい言葉とともに私はもってきたミニパフェを菜々花の前にスススッと滑らせた。

 

「なによこれ」

「お詫び」

「いいよそんなの。どうせコーヒー飲むつもりだったんだし」

「そんなこと言って、コーヒー冷めちゃってるでしょ。それに、すぐにフォローしてくれてありがたかったっていうのもあるしさ」

「高岡は気を使いすぎなんだよ。もっとテキトーにしないともたないよ?」

 

 菜々花がスプーンをパフェに差し込んで、アイスを口に運んだところを見てようやく私は安心する。これで貸し借りなしだ。

 

「一口いる?」

 

 菜々花がパフェをすくったスプーンをこちらに差し出して言った。

 

「え、いやいらない」

「そっか、高岡にはまだ早かったか」

 

 驚いて思わず即答してしまったが、菜々花はよくわからないことを呟いて、こちらに向けたスプーンを自分の口に運んだ。

 

「菜々花ってさ、バイト以外だと私のこと高岡呼びに戻るよね」

「当然でしょ。なにかおかしい?」

「いや、切り替え早いなあと思って」

「なによそれ。裏表が激しいとか外面がいいとか言いたいわけ?」

「違うって。純粋にすごいと思っただけ。私なんて接客ってガラじゃないから、切り替えるの大変なんだよ」

「そうかな。ちゃんとできてると思うけど」

「先輩にはかないませんよ。ミスしたコーヒーも飲んでもらっちゃってるし」

「なにそれ。高岡だって学校じゃしっかりキャラじゃない。部長? それとも委員長と呼んであげましょうか?」

 

 先輩と自虐ぎみに呼んだら、菜々花から倍返しをくらってしまう。私は苦笑いを浮かべるのがやっとだった。

 

「高岡って接客に苦手意識が強すぎるんだよ。バイトだって学校と大して変わらないって」

「あれは役割だから、ぶっちゃけ演技してるようなものだよ。台本通り演じてるだけ」

「建前ってわけね」

「でも菜々花はバイトも普段とあまり変わらないよね」

「ふーん、そう見えてるんだ」

「違うの?」

「さあね。教えてあげない」

「なにそれ」

 

 バイト中の菜々花は普段の菜々花とは、厳密に言えばまったく同じようには見えない。バイト中の菜々花は明るくてハツラツとしていて、敵意や攻撃性なんて微塵も感じさせない、いわゆる「明るくていい子」に見える。けれど、それは演じているというよりは、菜々花の中にある社会性の一面なのだ。本当の菜々花は雑さと繊細さがごちゃまぜだし、気分屋なところがあるし、それに脆さも抱えている。それでも、どちらも同じ菜々花だと思えるのは、私が菜々花のことを多少なりとも知っているからだ。

 

 それに比べて私はというと、学校で委員長と呼ばれているときの自分と本来の自分の間には深い溝があると感じている。社会性の一面などではなく、演じている間は仮面を被っているようなものだった。

 仮面の下で、私は溺れないように必死でもがいている。

 私は自分の声が嫌いだ。私の声は低くて暗い。だから自分の声を外行きの声に切り替えてから喋らなくちゃいけない。どもったりしてしまうと恥ずかしくて死にたくなる。頭の中に描いた台本通りであれば問題ないが、少しでもイレギュラーなことが起きると、どう振る舞っていいかわからなくなってしまう。幻滅されたのではないか、嫌われたのではないか、そんな思いに捕らわれて逃げ出したくなる。顔や耳を赤くした私を見られるのは、晒し者にされているのと同じだ。そんな自分を後から思い出すと、恥ずかしさで自室にこもったまま外に出たくなくなってしまう。そんなとき、世界なんて滅んでしまえばいいのにと思わずにはいられない。

 

 バイト上がりに更衣室へ向かうと、一足早く上がった菜々花がいた。

 

「あ、高岡。おつかれー」

「お疲れさま」

 

 菜々花はそう言いながらロッカーを開け、テキパキと着替え出した。私がいるのに、意に介さない様子で服を脱ぎ出していく。いっぽう私はというと、誰かの前で服を脱いで肌を晒すことへの抵抗はいまだ強い。

 対人スキルとは、きっと距離感のスキルなのだ。相手に踏み込んだ分だけ距離も縮まる。

 菜々花は、私と違って他人に対して割と地の性格で接しているように見える。口も態度も悪いのにこちらが嫌にならないのは、きっと菜々花が心が閉じていないからだろう。菜々花に呼応するようにこちらの感情が動かされるから、自然と菜々花に興味を持つようになる。そういうサイクルだ。

 これを計算でやっているなら恐ろしいけれど、たぶん菜々花に限ってそれはない。計算して嘘がつけるほど菜々花の気性は穏やかじゃない。

 計算して嘘をついているのは私だ。だから、相手の感情を動かすための嘘は私がつかなくちゃならないものだ。それが私にとっての『対人スキル』なのだろう。

 けれど――と思う。

 菜々花はたぶん誰かに嫌われることを恐れていない。菜々花自身も、誰かを嫌いだと率直に表現できるからだろう。つまりは自己主張だ。それが私には難しい。何かを主張するということは、何かを支持しないということの表明だ。何かを言えば、必ず何かを取りこぼす。誰かを嫌っているともしバレてしまったら、気まずさに耐えられる気がしない。私が本当に思っていることが他人にバレてしまうこと自体が嫌だ。私の中に潜む狡猾な本性なんか絶対誰にも見せたくない。

 人前でも平気で着替えることができる菜々花のようになれるのだろうか。かなり難しい気がする。

 

「あのさ、高岡。着替えないの?」

「へっ?」

「さっきからボーッと突っ立ってるみたいだけど」

 

 着替えをすっかり済ませて化粧を直している菜々花と鏡越しに目が合った。

 

「あっ、そうだった」

「早くしてよね」

「ごめんごめん」

「よっぽど疲れてたのね」

「そういうわけじゃなくて。すぐ着替えるからちょっと待ってて!」

 

 ぼんやりしていたことを咎められたような気がして、耳が熱くなるのを感じた。慌てて制服のブラウスを脱いでロッカーに掛ける。菜々花は椅子に腰掛けてスマホに夢中になっていて、私の裸のことなんか眼中にないようだった。それならそれで少し残念だった。ヨガでもはじめて身体を作れば菜々花に目を向けさせることができるだろうか――などという考えが頭をよぎる。

 菜々花のスマホがブブッと震え、続いて菜々花が大きなため息を漏らした。

 

「うわー、めんどくさいなあ」

「どうしたの?」

「任務。異灰が出たんだって。グループメールだから高岡にも届いてるでしょ」

 

 急いでアプリを立ち上げると、たしかに私にも召集のメールが届いていた。

 

「既読つけなければサボれたのに」と菜々花が不満を漏らした。

「そういう訳にもいかないでしょ」

「高岡ってそういうところ真面目だよね」

「普通だよ」

「星谷や生駒によく任務押し付けられてるじゃない。良くも悪くも信頼されてるってことだけど、あんまり真面目だと貧乏くじだと思う」

「あはは……」

「まあ、そういう私も高岡に甘えてばかりだったし、少しは高岡を見習って頑張ってみようかな」

 

 さあて、行きますか、と菜々花が立ち上がって肩を回した。

 

――何かが引っ掛かる。

 

 何か、とても大事なことが目の前を通り過ぎているような気配があった。

 

 私を「見習う」と言ったか?

 私の何を見習うというんだ?

 そういえば、菜々花は何故さっさと帰らずに、椅子に座ってスマホを見ていたのだろう?

 

 頭に浮かんだいくつかの疑念は、ブラウスのボタンをひとつ掛けるごとに消えていき、意識は任務のことに書き換わっていった。

 

 * * *

 

 今日は天気がよくて暑かったくらいだったはずだが、外に出るといつの間に雨が降ったのか地面がしっとりと濡れていて、夕方の日差しをまぶしく反射させていた。そのせいかひどく蒸し暑くて、地面からはほんのりと湯気が立っていた。時折ひんやりとした風が吹いてくるが、湿度が高いせいでぬるいミストを浴びせられているような気になった。髪が頬や首筋に張り付いて不快だったし、菜々花などは「うわ、サイアク」と不快さを言葉にして吐き出した。

 指示された地区に近付くにつれ、地面から立ち上る湯気は密度を増していった。気温は下がっているのに足元だけはぬるいままで、なんだか薄気味悪い。

 現地付近に到着したところで、菜々花がリーダーに報告を入れた。話によると、どうやら他の地区にも異灰が出ているらしく、りすくつと甘々猫はそちらに向かっているとのこと。そして、きららと美岐は学校の仕事があるということで今回は欠席らしい。

 私たちの通う学園はつまるところ医療施設だ。病気であっても学校に通うことができるというのがこの学園の特徴だった。私たちはイローデッドであるまえに学園の一生徒なのだから学生生活を謳歌すべし、という実に生徒思いの理念が込められた校風なのだった――というのは建前で、灰病だろうがイローデッドだろうが生徒は生徒なのだから無料の労働力として学校に奉仕せよ、というのが実情だ。イローデッドによる異灰殲滅任務は奉仕の一環に過ぎない。任務には賃金が発生する以上、それが節約されるのは必然だった。

 リーダーは、殲滅が終了次第そっちに向かうから無理はしないように、と告げて通信を終えた。

 

「無理はするなと言われてもね」

「ほんとそう」

 

 密度を増した湯気は、いまやほとんど霧になっていた。その中に数体の異灰が蠢いていて、霧は間違いなく異変によるものだった。私たちはすみやかにイローデッドへと変身し、戦闘に備えた。

 

「高岡、霧の中に何体いる?」

「とりあえず三体だね」

「じゃあ見えている数で間違いないのか」

 

 菜々花が両手の拳を打ち鳴らした。視認できる異灰の数は三体で、サーチによるコアの数も三体だった。

 

「それじゃあ、ちゃちゃっと終わらせますか!」

 

 言うや否や菜々花が駆け出した。菜々花は二体で固まっている方へと向かい、さっそく一体を撃破していた。私も少し離れたところにいる異灰に照準を定めてエーテル砲を放つ。エーテル砲は霧をかき分けて異灰に着弾した。

 

(……あれ?)

 

 違和感があった。

 私は確かにコアを狙ったはずだったが、ほんのわずかに逸れてしまったのか、コアの端を抉るような形で着弾したのだ。ど真ん中を撃ち抜くつもりだったのに、バイトの疲れが出てしまったのだろうか。集中が乱れているのかもしれない。異灰は穴の空いた水風船のように、辺りに液体を撒き散らしながら地面にくたりと倒れ込んだ。

 

「ちょっと、サイアクなんだけど」

 

 菜々花が不平を漏らしながら戻ってきた。見ると、菜々花は髪から服までしっとりと濡れていた。

 

「この霧、もしかすると異灰たちの仕業なのかもしれないね」

 

 霧は異灰の吐き出した液体によってさらに濃さを増していた。汗とも霧の結晶ともつかない雫が額を伝った。吐き出す息すら霧になっていくようだ。私は霧の中にさらに数体の異灰のコアを感知した。菜々花も異灰のいる方向に目を向けていて、音と気配で異灰を察知したようだった。

 

「菜々花、ちょっと私にやらせてもらっていい?」

「そりゃあやってくれるなら助かるけど。どうしたの?」

「うん。今のうちに確かめておきたいことがあって」

 

 私は異灰に向けてサーチ能力を大きく解放した。この辺りの地形を頭の中でワイヤーフレームに書き換えていくイメージだ。瞳孔が開いていくのを感じる。座標を特定して、そこに向けて今度こそまっすぐにエーテル砲を射出した。これなら間違いなくコアを直撃するはずだ。精度に関していうなら、この方法で外すことはまずない。けれど、やはり今度もわずかに狙いが逸れて、コアの端を抉るような形で着弾した。コアを抉られた異灰は先ほどと同じように液体を撒き散らして地面に倒れた。

 

「高岡、ナイス!」

「……ううん。ひょっとしてマズいかもしれない」

 

 今の一撃でエーテル砲がなぜ逸れたのか、なんとなく理解できた。まっすぐ撃ったはずのエーテル砲は着弾するまでの間に細かく進路が歪められていたのだ。たとえるならピンボールの球のような歪み方だ。私と異灰の間にある何らかの細かい防御壁におびただしく衝突したせいで狙いが逸れたのだ。私と異灰の間にある防御壁――つまりは霧がそれだ。しかも悪いことに、威力もおそらく大幅に減衰しているはずだった。

 

「なるほど、あいつらも研究してきてるってわけか」と、菜々花が感心したように言った。

 

 さらに濃くなった霧の向こう側に再び異灰の気配が現れた。戦力の逐次投入による波状攻撃――つまりこれは敵の作戦だ。戦闘はまだまだ始まったばかりだということを意味していた。

 

「1時方向に二体、10時方向に一体! 気をつけて菜々花!」

「高岡、それじゃわかんないよ!」

「つまり三体に囲まれてるってこと!」

「オッケー!」

 

 私はすっかり白い緞帳のようになってしまった霧の向こう側に向かって声を張り上げた。視力はとっくに機能しなくなっていて、サーチ能力で「視えて」いる異灰のコアと菜々花のエーテルだけが頼りだった。エーテル砲は霧のバリアのせいで使い物にならなくなっていた。曲がる方向はまったく予測不能で、下手に撃てば菜々花に当たる危険性すらあるからだ。

 霧で視界が塞がれてはいるけれど異灰は弱いままだった。まるで倒されるために少しずつ現れているようだ。

 嫌な予感が止まらない。

 私のそんな予感に応えるように、ひときわ巨大なコアを持つ異灰が霧の中に現れた。

 

「菜々花。悪い報告がある」

「なによ、まさかクイーンが現れたとでも言うつもり」

「そのまさか」

「まったくもう。嫌になる」

 

 菜々花がやって来たのが足音でわかった。10メートルほど先にいるクイーンに向かって試しにエーテル砲で攻撃してみたが、当然のようにコアから逸れてしまった。1発でも当たればいいと思って拡散させてみたが、まるで無駄だったようだ。

 

「うーん、ダメみたい」

「やるならタイマンでかかって来いというわけね」

「どうしよう」

「とりあえず情報がないことには作戦も立てられないし、ちょっと触ってくるわ。ザコはユキコに任せていい?」

「わかった。クイーンはここから10メートル先にいるから、気をつけてね」

 

 菜々花もクイーンの大体の位置は把握できているようで、クイーンに向かってまっすぐに進んでいく。様子を見るだけだし、菜々花の回復力ならまあ大丈夫だろう。

 私のエーテル砲は距離があると役に立たないので、なるべく引き寄せて撃ったり、私から近付いていって撃ったりなどしていた。遠距離用の攻撃で接射するなんて射手の名折れだが、そんなことも言ってられない。それでもコアの芯を撃ち抜くのは難しくなっていたし、異灰から吹き出した液体をまともに浴びたりもした。私でさえこうなのだから、菜々花は推して知るべし、さぞかし不快なことだろう。

 ザコを片付け終わって、意識を再びクイーンの方へと向けると、私はさらに嫌なものを見た。このクイーンはコアを移動させるタイプらしく、菜々花の攻撃をひらりひらりと躱していた。菜々花の攻撃自体は命中しているけれど、きっと何の手応えも感じていないはずだ。

 

「ナナカ! こっちは片付いたよ!」

「わかったユキコ! いま戻る!」

 

 菜々花が素早く離脱する。クイーンはというと、こちらを警戒するようにその場から動かなかった。ザコをけしかけて、十分弱らせてから美味しく頂こうという魂胆なのだろう。

 

「クイーンはケンタウロスみたいなやつだった。マイクロバスくらいのサイズね。そんなに強くは感じなかったけど……」

「うん。ナナカの勘は当たってる。あいつはコアが移動するタイプ」

「厄介ね。これからどうしよう。撤退するか、援護が来るまで持久戦するかだけど……」

 

 私の見立てでは、この霧はエーテルの粒子でできていて、防御であると同時にセンサーにもなっているはずだ。霧がどれだけ広がってしまっているかわからない以上、液体を大量に浴びている私たちが霧から無事に抜け出せる保証はない。持久戦をするにしても、クイーンがザコを数体けしかけながらいつまでも様子を見ていてくれるとは限らない。たぶん霧の結界はほぼ完成してしまっている。戦闘用の異灰を大量に召喚されて、クイーンも本気で攻めて来たらかなりマズいことになる。

 

「状況は最悪ってわけね」

「うん。でも逆に考えれば今がチャンスかもしれない」

「どういうこと?」

「つまりクイーンは私たちを警戒しているけれど、同時に舐めてもいるってこと」

「何か考えがあるなら早く言って」

 

 菜々花の声に私は頷いた。勝率は未知。五分もあれば上等だろう。どうせやらなければいけないなら出たとこ勝負だ、なんて気分。まるで菜々花の癖が感染ったみたい。

 私は手短に作戦の概要を伝えた。言い終えると、間を空けずに「わかった」と菜々花の声が霧の中から響いた。相変わらず表情は見えないけれど、菜々花の声に私を疑うような気配はなかった。

 私は再びサーチ能力を展開した。レーダーに異灰が三体かかる。コアの形からいってさっきまでのザコとは違う。デクではない戦闘用の異灰だろう。

 

「ナナカ! 三体出たよ! 今度は戦闘タイプかもしれないから気をつけて!」

「オッケー! そっちも気をつけてね、ユキコ!」

 

 菜々花は言うと同時に駆け出して行く。

 こういうときの菜々花は頼もしい。ごちゃごちゃ説明するよりも、感覚的に言った方が寄り添い合える気がした。多くを語るよりも、想いを声に乗せれば、きっと菜々花は受け取ってくれる。

 異灰は一体、また一体とレーダーから姿を消していく。

 菜々花が大暴れしてくれるから、私は安心して歩くことができた。

 

「やっと会えたわね、クイーン」

 

 霧で見えないけれど、クイーンは私の目と鼻の先にいる。レーダー越しに見るクイーンは思っていたよりも巨大で威圧感があったが、コアはお尻の方に引っ込んでいる。まるで怯えているようだ。

 

『ゴォアアアアアァァァァァァ――!!!!』

 

 クイーンがつんざく風のような悲鳴を上げた。大気がビリビリと痺れて、鼓膜が破れそうに痛み、音波が内臓を叩き、脳が直接揺さぶられる感覚があった。根源的な恐怖から足がすくんでしまいそうになる。

 けれど――と思う。

 そう、これは威嚇なのだ。

 それ以上近付いたら攻撃しちゃうからねという警告に過ぎない。

 

「はあああああああ!」

 

 私は両手を前にかざして狙いをつけ、クイーンの胴体めがけてエーテル砲の収束ビームを放った。細く絞ったビームがクイーンのどてっ腹を貫いた手応えがあった。けれど、それだけだ。コアにかすりもしていないのだから、ダメージなんか無きに等しい。

 クイーンが両手を高く掲げた。組み合わせた両手の間から巨大な剣のようなエーテルの塊が禍々しく伸びていく。

 

『クオオオオオオオオオオオォォォォゥゥゥゥゥ――!』

 

 クイーンが甲高く吠えた。

 

――来る!

 

 私は両サイドに浮かんでいるファンネルを前方で重ね合わせ、急いでエーテルのシールドを展開して衝撃に備えた。クイーンはそんなことお構いなしに、シールドの上から剣を叩きつけてきた。まるでシールドごと私を切り裂くかのように。お前など無力な小娘なのだと知らしめるように。

 属性の違うエーテルが擦れ合う轟音が響き渡る。剣の攻撃はなんとか食い止めたものの、衝撃まではどうすることもできない。私は紙屑のように軽々と吹き飛ばされた。

 臆病な奴だからもう少し弱いと思っていたけれど、意外と近距離パワー型だったようだ。

 尻餅の体勢で次の手を考えていると、クイーンのいるあたりが赤青黄に輝きはじめた。それが霧に乱反射して七色の光に包まれる。クイーンの足音がのしのしとゆっくり近付いてくる。まるで私の死を演出しているみたいに。

 クイーンが私の目の前で足を止めると、白い緞帳がそこだけ上がったみたいに霧が薄まって、私はようやくクイーンの全体像を確認することができた。こいつは本当にケンタウロスみたいな姿をしていて、馬の胴体から生えた人間型の体のさらにその上の、両肩の上に乗っている顔みたいなもので私を見下ろすように立っていた。ケンタウロスといえば勇猛果敢なイメージがある。けれど目の前のこいつからはそんな勇ましさは微塵も感じない。こいつはわざわざ嘲笑うためにこんな演出をしているんだ。

 

「いやあああああああ! やだやだやだ! 死にたくない!」

 

 私は半狂乱の声を上げた。尻餅をついたまま立ち上がることもできずに、ずりずりとお尻を地面に擦り付けながら手だけを使って後ずさりした。

 クイーンは前足を少し屈めて、私に身を寄せた。それから人間のお腹が縦に裂け、そこからぬるぬるとした丸いコアが現れた。コアはキョロキョロと私をからかうように回転して、お腹の裂け目から生臭い息を吹きかけた。露出したコアが伸びてきて私の顔に触れた。ぬるりとしたなま温かい粘液が頬をつたう。獲物の味見というわけだ。

 

「きゃあああああああああ! いやあああああああああ!」

 

 私は腹の底から思い切り悲鳴を上げた。すると、クイーンはコアで私の顔をぬるぬると嬉しそうに撫でまわした。

 

「このクイーンは菜々花とかなり相性が悪いと思う」

 私が言うと「わかってる」と菜々花は即答した。菜々花の戦術とは打撃による直接攻撃だ。コアは巨大なクイーンの体内を自在に移動するタイプなのだから、菜々花では簡単に狙いがバレてしまうし、いたちごっこで消耗させられるだけだろう。それに菜々花はコアの位置を私から聞いてからでないと攻撃に移れないのだ。

「私がやるしかない」

 クイーンは私の遠距離攻撃を完全に封じたと考えているはずだ。クイーンにとっての脅威は私ではなく菜々花であることは間違いない。だから、つけ込むならそこしかない。

「無茶ね」菜々花が言った。

「一人ならきっとこんなことできない」

「ユキコはわたしを買い被りすぎ」

「そうかな。ナナカはいつも私の期待を上回ってくれるけど」

「ハッ! こんなときにお世辞?」

「違う、本心」

「あっそう。なら、せいぜい遺言にならないようにしないとね」

 霧の向こうで菜々花の息をつく低い声が聞こえた。

「で、その作戦の勝率は?」

「よくて五分ってところかな」

「あんたねえ。こういうときは100って言いなさいよ」

「なあに、心配してくれてるの?」

「うるさい。あんたの作戦がダメだったらどうするつもり?」

「そしたら、また次の手を考えないと」

「次があるって思ってるわけね……」

「よろしくお願いしますよ、ナナカセンパイ。期待してますから」

「まったく。で、作戦は?」

 私が作戦を伝えると、菜々花は「わかった」と短く返事した。

 

 私は身を翻して、クイーンのコアにしがみついた。コアに爪を立てて、伸びてる管に足を巻きつけて、ファンネルをコアに密着させた。

 

「この距離なら絶対にはずさない。そうでしょ、クイーン?」

 

 慌てたクイーンは私を振り落とそうとコアを激しく揺らした。でももう遅い。私の体の中でエーテルが膨れ上がり、背中を破っていまにも爆発しそうになる。私はそれをすべてファンネルに込めて思い切り解き放った。キャパシティを大幅に超えるエーテルをぶち込まれたコアはあっという間にヒビ割れて、隙間からエーテルが溢れ出す。ここが爆心地になる。けれど私は手を止めない、止めてあげない。クイーンが断末魔を上げ、コアが崩壊する。行き場がなくなって暴走したエーテルはクイーンのエーテルと融合し、白い光が断末魔もろとも私を飲み込んだ――。

 

 * * *

 

 深い水の底から浮かび上がるようにして目を覚ますと、蛍光灯の白い光が飛び込んできて、思わず手で目を覆って光に慣れるのを待った。

 枕元に置いた眼鏡をかけると、クリーム色の天井が透明なビニールシート越しに歪んで見えた。モーターの駆動音が低く響いている。透明なビニールシートが私の寝ているベッドの四方を囲んでいた。

 ベッド用の簡易無菌室で目覚めた私の頭は、熱が引いたばかりでぼうっとしていた。ベッド脇でマスクとブルーの手袋をつけた看護師が、機器をチェックしてカルテに何かを書き込んでいた。

 この無菌室にいる間、面会はマスクと手袋をつけた状態で、カーテン越しに行われる。マスク越しだから表情は見えないし、カーテンのせいで輪郭は歪んでいる。声もくぐもって届く。触れ合うなんてもってのほかだ。

『別に平気だよ』

 そんな言葉が自然と口をつく。はじまりはそんな小さな嘘だった。

 

 私の体は免疫に問題があるから、一度病気にかかってしまうと何日も学校を欠席しなくてはならなかった。ひどいときは入院することも珍しくない。二週間ほど学校を休んだこともあった。

 欠席明けの登校はいつも緊張する。築いてきた人間関係がリセットされてしまうからだ。私は友達だと思っているのに、まるで知らない人みたいな扱いになる。私の学校生活はその繰り返しだった。私は別に人見知りというわけではないけれど、思ったことをなんでも言い合える関係にまで発展させることができない。仲良くなった人の菌に感染するからだ。友達を作るには距離を縮めないといけないけれど、距離が縮まれば感染して病院に送られて、戻ってきたら関係はリセットされる。私はそんなジレンマを抱えていた。

 そもそも友人を作ることにもハードルがあった。私はみんなと同じ給食が食べられないから、私の食事はいつもコンビニで買った無菌状態のお弁当やパンだった。一人だけ特別扱いみたいな状態から友人を作るのは割としんどい。

 それに、いつ欠席するかわからないから、クラスでは班長やリーダーなどの重要な役割を任せてもらうこともできない。図書委員や美化委員など男女各一名ずつ選ばれるようなものであれば替えがきく。とはいえ、休んでしまえば迷惑をかけることに変わりない。だから、私がクラス委員に推薦されても甘んじて引き受けた。押し付けだとはわかっていたけど、立候補ではないからという消極的な甘えがあった。どうせクラス委員といっても名ばかりで、女の子の私は男の子をサポートする副委員だと、このときはそう思っていた。

 けれど、この役割は私にいい結果をもたらした。私が誰かと接する時、高岡由紀子としてではなくクラス委員として接することができるようになったからだった。高岡由紀子とクラスメイトの関係がリセットされてしまっても、クラス委員とクラスメイトの関係はリセットされないのだ。関係を一から構築し直す必要がない。役割というのは私にとってとても便利なものだった。

 どんなに長く欠席しても、久しぶりに登校した朝、私はクラス委員としていればよかった。

 高岡由紀子はいてもいなくてもいいけれど、クラス委員としてなら迷惑かけてごめんねと謝れたし、受け入れてもらえた。体調を心配してもらえたし、「別に平気だよ」と言えた。クラス委員としての私なら、この言葉は嘘ではなかった。

 だから病室にいるときでも、学校に戻った時に遅れをとらないよう勉強できたし、流行りのエンタメの知識も仕入れることができた。それに、クラスのグループチャットにも参加させてもらえるようになった。

 私は、高岡由紀子ではなく、クラス委員としてなら誰かと繋がることができるのだ。

 これを私は対人スキルだと思っていた。

 けれど、これは病気の状態限定のスキルだった。

 灰病にかかると、持病の免疫不全は消えて無くなった。世界中で灰病が当たり前になったことで、むしろ私は健常者側になってしまったのだ。

 長期欠席から復学したクラスメイトに対して、私はクラス委員という仮面しか持ち合わせていなかった。復学したクラスメイトたちは当然のように元の仲良しグループに戻っていく。他人と仲良くする方法を知らない私は再び孤立した。

 

 灰病治療による長期欠席から復学した朝、私はバスに揺られていた。

――私はどうすれば良かったんだろう?

 バスのドアが開いて、学園前で降りろと促した。私はバスのドアが閉まるのを眺めていた。バスが発車する。窓の外で学園が揺れながら視界の後ろへと流れていった。

 

『別に平気だよ』

 

 ためしに声に出してみた。

 その声は誰の心にも届かずに、景色と一緒に後ろに流れて消えた。

 

 * * *

 

 一定のリズムで上下に揺れていた。

 私はそのオートマチックなリズムに任せてもう一度眠ってしまおうと思った。そのリズムで目覚めたというのに、ずいぶん勝手な話だ。

 

「起きたなら起きたっていってよね、ユキコ」

 

 菜々花の声が耳元から聞こえた。「あ、今は高岡か」と菜々花が訂正した。揺れるたび、菜々花の後ろ髪がふわふわと私の頬を撫でていた。

 

「起きたけど、もうちょっと寝ていたい」

「まあどうせ動けないでしょうしね。喋れるだけ大したものよ」

 

 私は菜々花の背中におぶられていた。景色が上下に揺れながらゆっくりと視界の後ろに流れていく。体の前方、胸からお腹にかけて菜々花の体温を感じた。ちょっと汗ばんでる。

 

「クイーンは倒せたのかな?」聞いてみた。

「大丈夫、ちゃんと殲滅できてた。あんたのお手柄よ」

「それなら良かった」

「あんな無茶な方法、よくできたわよね」

「あはは」

「ダメだったらどうするつもりだったのよ」

「そしたら、たぶん菜々花が私を拾って逃げてくれるだろうなって」

「あんたねえ……」菜々花が空を仰いで思い切りため息をついた。

「まあ、なんにせよ、最後に立ってたやつが勝者なことに変わりない。あんたは勝ったのよ」

「えへへ。あのさあ、それにしても菜々花はよく踏みとどまったね」

「何がよ」

「だから、私が悲鳴を上げたとき」

「馬鹿にしないでよね。あれが演技だってことくらいわかるわ。あんたをエサにクイーンがわたしを呼んでるってことにもね」

「お、以心伝心ですね」

「からかわないで。ピンチだったことに変わりはないんだから。わたしをやれれば勝ち確だったのに、まさかエサが自爆するとはクイーンも思ってなかったでしょうね」

「さすが菜々花。ちゃんと伝わってて安心した」

「何言ってるのよ、ほとんどアドリブでしょうが。あんなわざとらしい悲鳴あげて、クイーンが油断しなかったらどうするつもりだったのよ」

「うーん。そうしたら、菜々花がクイーンのお尻を叩いてくれるかなって。そうすればコアを挟み撃ちできるし、ワンチャンあるかも」

「……その準備はしてた。ムカつく。全部あんたの筋書き通りってわけね」

 

 何か計画を立てるとき、私は自分の体を他人事のように感じることがある。盤上に置かれた駒のひとつということだ。イレギュラーなことが起きなければ、大抵は考えた通りの展開になった。だから今回は菜々花の性格を利用した形だ。

 

「高岡って誰といてもあまり変わらないよね。マイペースっていうか。それでいて、あんたというイメージからかけ離れたことでも、今回みたいにチャレンジしちゃうじゃん。あんたのそういうところ、すごいなって思う」

 

 そう菜々花が言った。

 

「今回の作戦は菜々花あってのものだよ」

「わたしはできることをやっただけ。チャレンジなんかしてない。高岡がいつだって冷静だから、わたしは思い切って動けた。だから、わたしたちって意外と相性いいのかもね」

 

 菜々花がそう続けた。

 けれど、わたしは精も根も尽き果てて、意識を失ったうえ、菜々花の背中で揺られているのだ。これが甘えでなくてなんだというのだろう。

 答えは出ないままだった。

 後日、私にとってちょっとした事件があった。普通の人ならなんてことない、取るに足りない、ごく当たり前のことのような事件だ。

 その日はバイトで、私は相変わらず上手にできなくて、私ってダメだなあと落ち込んだ気持ちを抱えたまま更衣室に向かっていた。

 

「おつかれー」

 

 更衣室では着替え終えた菜々花が椅子に腰掛けたまま、スマホから目を離さずに私に声を投げた。

 

「お疲れ様……」

 

 私はほとんどため息みたいな挨拶を返して自分のロッカーを開けた。扉の内側に貼り付けられた鏡が、まるでダメな私を確認して反省しろと促しているように思えて仕方ない。

 制服を脱ぎたいけれど、椅子に座ったままの菜々花が気になる。

 

「誰か待ってるの?」私は聞いてみた。早く帰ればいいのにという思いが言外にこもっていたと思う。

 

「あんたのこと待ってたの。早く着替えて帰りましょう」

 

 菜々花が言った。

 

「なんで私のことなんか待ってたの?」

「なんでって、友達のこと待ってておかしいことなんてある?」

 

 菜々花は眉間に皺を寄せて、「あんた何言ってんの?」と顔全体で表現していた。

 

 菜々花の対人スキルとは、結局のところ人間力なのだ。魅力と言い換えてもいい。

 現に私は、「ごめんね」と言って急いで着替え始めてしまったのだ。肌を見せるためらいより、菜々花を待たせている焦りのほうが圧倒的に勝ってしまったのだった。

 

 私は灰病になり、幸か不幸かイローデッドに生まれ変わってしまった。それによって病気も治った。けれど別に強くなりたいわけじゃない。できるだけ普通に、平穏に暮らしたいだけなのだ。以前の私にはそれすら高望みだったけど、今ならもしかして、と思えるまでになった。

 では「普通の暮らし」とは何か。

 考えてみれば単純なことだった。

『私は好きな人とだけ仲良くしたい』

 そして、これが私なりの対人スキルの答えなのかもしれなかった。

 

 灰病にかかる前に菜々花と出会っていたらどうだっただろうと思うことがある。

 きっと、菜々花は今と同じ感じで私に接していたはずだ。

 そして、私はそれを自分に都合よく誤解したまま、友達ができたと喜んでいただろう。

 菜々花が私をどう思っているかなんて、本当のところはわからない。

 けれど、きっと、おそらく、たぶん、私は菜々花が好きなのだ。

 

「ねえ高岡、ちょっとこれ見てよ」

 

 菜々花が差し出したスマホの画面には帰り道にあるショップの新作のスイーツが表示されていた。

 

「どう思う?」

「食べてみなくちゃわからない」

「でしょ。やっぱりそう思うよね!」

 

 そう言って、菜々花は椅子にかけてあるジャケットを羽織った。私は慌てて鏡を見て前髪をチェックした。菜々花は私が着替え終えたと判断して、さっさと扉を開けた。私は忘れ物がないかロッカーを素早く確認して、そそくさと靴に履き替えた。

 

 菜々花は仕事中とプライベートは違う。けれど、私にとってはどちらも同じ菜々花なのだ。そして、それは菜々花から見た私にもいえるのだろう。

 

 つまりこういうことだ。

 

 どうやら、私にも友達ができたみたい。

 




ブルリフSのイベントシナリオに着想を得たものでした。
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