【コミカライズ化決定】引き抜いた聖剣が独占欲剥き出しなヤンデレ彼女面してくる件   作:アスピラント

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大魔法使いの力

(聖剣由来の力で作り上げた、最上の魔法陣を作り上げた訳か)

 

 担い手たちを前にしてエリドゥは思考する。

 この世界において同格の存在はいないと自負する彼女だが、例外は存在する。

 

 それは聖剣の力だ。

 

(混じりっ気のない神の力、どんなに魔法を極めようとも……決して届く事のない力! 私はそれが欲しい!!)

 

 確かに力は強力だ。

 だけど担い手は未熟――力だけ一丁前でも、使う人物が弱ければ効果を充分に発揮することなんて出来やしない。

 

「本気で私に勝つつもりかしら」

 

 エリドゥが指先を一振りした。

 それだけだった。

 ただそれだけの動作で、部屋の空気が変質した。温度が落ち、魔力が凝縮し、視界の端で闇が蠢き始める。

 

「大人しく聖剣を渡しなさい」

 

 穏やかな声だった。

 まるでメイド喫茶で注文を聞く時と変わらない、あの柔らかい声で。

 

「そうしたら……他の子たちは見逃してあげてもいい」

「断る」

 

 アレックスはマルティアナを構えたまま言った。

 

「そう」

 

 エリドゥは小さく息を吐いた。

 

「じゃあ、仕方ないね」

 

 次の瞬間――部屋全体が震えた。

 エリドゥの両腕が広がり、黒いローブの裾が激しく翻る。天井から床まで、石造りの壁のいたるところに魔法陣が浮かび上がった。幾重にも重なり、絡み合い、互いを補強し合う複合術式。一つ一つが人間の魔法使いなら生涯かけても解析できないほどの密度を持っている。

 

『アレックス!! 大魔法使い相手に力のゴリ押しだけじゃ勝てない!! 私の力を使ってダメージを与えるしかない!』

「僕たちが要って事ね!」

『そうよ!』

 

 アレックスは思わず息を詰めた。

 魔力の圧が、物理的な重さとなって肩に乗ってくる。立っているだけで足が沈むような感覚だ。

 

冥界の扉よ、開け(メゾド・ハシャハト・ヒパテフ)

 

 エリドゥが静かに詠唱した。

 轟音とともに、暗黒の奔流が部屋を満たした。

 

「全員散れ!」

 

 ルカが叫んだ瞬間、アレックスはローズとともに左へ飛ぶ。リリアとレイナが反対側へ跳ぶのが視界の端に映る。

 暗黒の奔流が、4人のいた場所を薙ぎ払った。

 石の床が抉れ、壁に亀裂が走る。

 

「くっ……!」

 

 ローズが着地しながら舌打ちした。

 

「化け物っすね……!」

「褒め言葉として受け取っておくよ」

 

 エリドゥは涼しい顔だった。

 指先を鳴らすと、今度は無数の魔力の刃が生成される。蜂の群れのように、部屋中を埋め尽くす数だ。

 

散れ(ヒタパゼル)

 

 一言。

 刃の群れが四方八方へ飛散した。

 

風の壁よ(ホマト・ルアッハ)!」

 

 リリアが即座に展開した風の防壁が、飛来する刃のいくつかを弾く。だが全部ではない。

 

「レイナ!」

「もう治してるから!」

 

 レイナの声が飛んでくる。すでに傷を負ったリリアの腕に光が走っていた。アレックスはマルティアナで刃を二本弾きながら、前へ出た。

 近づけば近づくほど、魔力の圧が増す。頭が軋むような感覚だ。それでも足は止めない。

 

滅びの雷よ、落ちろ(バラク・ハシュマダ)

 

 エリドゥが右手を掲げた瞬間、天井から極太の雷撃が降り注いだ。

 

 床が砕け、石片が飛び散る。

 煙の中でアレックスは立ち上がろうとして――気づいた。

 ルカがいない。

 

「私はここだ」

 

 声がした。

 気づけばルカはエリドゥの正面に立っていた。いつ動いたのか、誰も見れなかった。

 

「やはり貴様だけはずば抜けているな」

 

 エリドゥは面白そうに顔を歪めた。

 

大嵐よ、全てを呑み込め(シャアガト・ハセアラ・ハゲドラ)

 

 エリドゥが術を叩きつける。

 暴風と雷と冥界の力が混じり合った複合術式だ。

 それを前にしたルカは剣をすぐには抜かず、両手に魔力を集めてから正面から受け止める。

 

「ぐ……ッ」

 

 石床にひびが入り、ルカの足が数センチ後退する。

 少しでも力が緩めば押し潰される。

 

「――他の者は、今のうちに」

 

 振り返らずに、ルカは言った。

 その声は、乱れていなかった。

 

「行けアレックス。私がここを引き受ける」

 

 エリドゥの視線がルカに固定される。

 今この瞬間、彼女の意識は一点に集中していた。

 

「今だ……!」

 

 アレックスはマルティアナを握り直し、駆けるとローズが合わせた。

 

炎の刃よ、奔れ(ヴィンド・ラハヴ)

 

 放たれた炎の刃がエリドゥの背後へ向かう。

 あくまでもこれは牽制だ。エリドゥが僅かに意識をそちらへ向けた瞬間、リリアが叫ぶ。

 

風よ、道を開けろ(ルアッハ・プタッハ・デレフ)!」

 

 収束した風がエリドゥの足元へ叩きつけられ、体勢が揺らぐ。ほんの一瞬だが、それで十分だった。

 

「アレックス、今っす!」

 

 マルティアナが輝いた。

 アレックスは足元から膝、腰、肩へと聖剣の力が駆け上がる感覚に浸りながら、振り翳す。

 

「速い……!」

 初めて、エリドゥに驚きの色が浮かんだ。

 右手が持ち上がり迎撃の術式が構築される。

 

 だがそれよりも速く――

 

癒しの光よ(オル・ハレフア)

 

 レイナの光がアレックスの全身を包んだ。傷が塞がり、魔力の圧で軋んでいた体が一瞬だけ解放される。

 迷わず、踏み込む。

 エリドゥの術式が完成する寸前だった。

 

『今よ、アレックス』

 

 マルティアナの声が、頭の中に直接響いた。

 アレックスは全力で聖剣を振り抜いて光が炸裂した。

 エリドゥが吹き飛ぶ。壁に叩きつけられ、石が砕ける。黒いローブが焼け、魔法陣がいくつか消滅した。

 

「いい一撃だ」

 

 ルカは褒めながらも警戒は解かない。

 アレックスも荒い息のまま構えを解かずに立つ。

 壁際でエリドゥがゆっくりと身を起こした。

 ローブは半壊している。その下から覗く腕には、聖剣の光で灼かれた痕が走っていた。

 

『まだ浅い!』

 

 マルティアナは内心で舌打ちする。

 一撃で消し飛ばすつもりだったが、アレックスの練度はまだ低い。もっと……限界以上を引き出さないと届かない。

 

「……ふうん」

 

 そんな中でエリドゥは静かに身体の調子をみる。

 

「これが……聖剣の一撃か」

 

 その目が細くなり、聖剣を射抜く。

 

「やっぱり、欲しいねえ」

 

 

 古塔の外壁は、夕暮れの中でも異様な静けさを保っていた。

 石畳の広場に張られた結界の中で、キールは腕を組んだまま空を見上げていた。

 

「……遅くないか」

 

 隣でダリスが術式の維持に集中しながら、静かに答えた。

 

「予定より少し押している、それだけだ」

「そういう問題じゃねぇよ」

 

 キールは舌打ちした。

 古塔の最上部では今も結界が稼働している。騎士団の術師たちとゼピュロスのメンバーが交代で魔力を注ぎ込み、ユピテルスを内側から抑え込む構造だ。ダリスとキールはその外縁、補助結界の要として配置されていた。

 

「グラナダの調査員が人間の騎士団と並んで結界を張る日が来るとは……今でも信じられないぐらいですよ」

 

 ゼピュロスのリーダー、マリーがぼそりと言った。

 腕を組み、塔の上を見上げている。

 

「まぁ……敵の敵は味方って言うし」

 

 カイアスが飄々と答えた。青年は魔法陣の補助術式を片手間に組みながら、涼しい顔をしている。

 

「単純な話ね」

「単純な話の方がうまくいくもんですよ、大体は」

 

 マリーは小さく鼻を鳴らしたが、否定はしなかった。

 一方でレヴァンは塔を見上げたまま、前髪をかきあげて呟いた。

 

「……闇の術式が揺らいでいる。封印の綻びが生じているのかもしれない」

 

 その言葉にダリスが視線を向ける。

 

「根拠は?」

「オッドアイが疼く」

 

 沈黙が落ちた。

 こいつまだふざけている。

 

「……それは根拠と言わん」

 

 ダリスが低く言い、キールがこめかみを押さえた。

 

「いや待って、あいつ本気で言ってる?」

「本気だ」

「嘘だろ……」

 

 ただしレヴァンの発言が完全な戯言かといえば、そうでもない。一応彼は精霊の研究をしている。ユピテルスの様子を見てきた彼は、常人にはわからない微かな異変を感じ取ることは出来ていた。

 

「あの、すみません」

 

 する騎士団の術師が額の汗を拭いながら言った。

 

「キール殿、外縁の北側が少し薄くなっています」

「わかってる、今調整する」

 

 不機嫌そうに言いながらも、キールの手は素早く動いた。口は悪いが仕事は早い。ダリスが横目で確認して、小さく頷く。

 広場の中央ではベテランの騎士が全体の指揮を取っていた。ルカの不在中、この場の最高責任者だ。

 

「術師班、魔力消費の確認を。交代のタイミングを早める」

「了解です」

「ゼピュロスの皆さん、外周の警戒を頼む」

「承知しました」

 

 マリーが頷き、レヴァンが静かに外周へ向かった。カイアスはもう少し術式の補助をしてから行くと言い、その場に残る。

 

 連携も取れているし、充分すぎる戦力があるのにキールは落ち着かなかった。

 

(本当に……大魔法使いをこれで抑えられんのか?)

 

 なんかまだ隠しているような気がする。

 キールは嫌な予感を感じ取っていた。

 

「ダリス姐ぇ」

「なんだ」

「あいつ、大丈夫だと思うか」

 

 ダリスはしばらく黙っていた。術式の糸を手繰りながら、どこか遠くを見るような目をしていた。

 

「わからない……ただ仕掛けてくるなら――」

 

 そろそろだろう――そう言った瞬間、古塔が揺れた。

 

「……!」

 

 騎士団の術士が顔を上げた。

 次の瞬間、結界全体が大きく揺れた。

 

「っ、何事だ!」

 

 ベテランの騎士が叫ぶ。

 術師たちが動揺し、補助結界の糸が数本乱れる。

 

「安定させろ、離すな!」

 

 キールが怒鳴りながら両手に魔力を漲らせた。ダリスも無言で術式を強化する。

 

 だが揺れは収まらない。

 それどころか、塔の頂上から放たれる光の色が変わり始めていた。

 

 紫から赤へと……より邪悪な何かへと変わっていく。

 

「これは……」

 

 ダリスが息を飲んだ。キールも言葉を失っていた。

 外周から戻ってきたレヴァンが、塔を見上げたまま静かに言った。

 

「やられた……」

 

 改めてレヴァンは思った。

 大魔法使いを相手に、魔法で策を練るのは無意味だと。

 

 

「――――!!」

 

 異変はアレックスたちにも伝わってきた。

 壁の石がきしみ、魔導灯が揺れる。床から伝わってくる振動は、地震とも違う。もっと深いところから来るようなものだった。

 

 堪らずアレックスは思わず足を踏ん張った。

 

「……何だ、今の」

 

 ローズも低く言った。リリアも剣の柄に手をかけたまま、周囲を見回している。

 

 そんな中でエリドゥは動じなかった。

 壁際で身を起こしたまま、その口元にゆっくりと笑みが浮かぶ。先程まで見せていた無表情とも違う、確かな愉悦を帯びた笑みだ。

 

「見通しが甘い」

 呟くように言った。

 

「何をした」

 

 ルカが静かに問う。エリドゥへ向けていた剣の切っ先は、微塵も揺れていない。エリドゥは答える前に、天井を一度見上げた。

 

「別に大したことはしてないよ」

「答えろ」

 

 ルカの声が、低くなった。

 普段の柔和さが完全に消えている。それでも声は静かだ。静かだからこそ、凄みがある。

 

 それをエリドゥは面白そうに目を細めた。

 

「何をした、か」

 

 くっくっと彼女は笑う。

 

「少し考えればわかるだろう、騎士団長」

 

 エリドゥは壁から背を離し、ゆっくりと立ち上がった。半壊したローブの裾を払い、灼かれた腕をさりげなく袖で覆う。

 

「お前たちが古塔に張った結界……あれは何のためにある?」

「ユピテルスを抑えるためだ」

「そう」

 

 エリドゥは頷いた。

 

「ユピテルスを抑えるための結界。大勢の術師が魔力を注ぎ込んで維持している、相当な規模の術式だ」

 

 一歩、前へ出る。

 

「私はそれを逆に利用させてもらった」

「……利用、だと」

 

 ルカの目が鋭くなる。

 

「壊すだけなら誰でも出来る。私がしたのはもう少し丁寧な仕事だよ」

 

 その声は穏やかだった。

 まるで講義でもするように、淡々と続ける。

 

「結界を破壊する時、術式に注がれていた魔力はどこへ行くと思う?」

 

 誰も答えなかった。

 エリドゥは構わず続けた。

 

「通常は雲散する。でも……壊し方を工夫すれば、その魔力を好きな方向へ流せる」

 

 ゆっくりと、アレックスたちを見回す。

 

「私はその魔力を全部、ユピテルスへ流し込んだ」

『……っ』

 

 マルティアナが息を飲む音が、アレックスの頭の中に響いた。

 

「結界に注がれていた魔力を……ユピテルスへ」

「そうさ、担い手くん」

 

 エリドゥの笑みが深くなる。

 

「お前たちが丹念に積み上げた魔力が、今頃ユピテルスの中に流れ込んでいる。皮肉な話だろう? 封印を保とうとして注いだ力が、そのまま封印を破る燃料になった」

 

 レイナが拳を握る。

 

「……逆に利用したってわけね」

「大勢の人が必死に術式を維持してたのに」

「必死だったね、確かに」

 

 ローズの怒りを前にエリドゥはあっさりと受け流した。

 

「だから使えた。必死であればあるほど、注ぎ込む魔力の量は増える。お前たちは私の計画に、これ以上なく協力してくれたよ」

「貴様」

 

 ルカの声に、初めて感情が滲んだ。

 

「一体何の目的で魔獣を作る!? 世界を混乱に陥れる!? 大魔法使いは世界の秩序を守る存在だったはずだ!」

「今も変わらないよ? 私は秩序をもたらすために行動してる」

 

 エリドゥは何を今更と言った様子だった。

 

「始めから私たちの指針は変わらない。やり方だけだよ……変わったのは。私たちの本質を理解してるマルティアナなら理解出来るだろう?」

『貴女たちは人の事を見た事ないでしょ、いつだって大事なのは世界そのもの。その過程に人間がどうなろうが構わない、でしょ?』

「正解、世界を維持するのに人間は必要はない」

 

 薄く笑った彼女はルカを睨む。

 

「勘違いしないでほしいんだけどね、騎士団長。私たち大魔法使いというのは、魔法のエキスパートだ。貴様らが一生かけても届かない領域に、私たちはとっくに立っている」

「「「……!」」」

「術式の構造を見れば、一瞬で弱点がわかる。魔力の流れを読めば、どこへ誘導するかも自在だ。お前たちが何年もかけて積み上げた結界など……私には楽譜と同じだよ。読んで、書き換えて、好きに演奏できる」

 

 対策なんて無意味――そんな理不尽な事実を、彼女は突きつける。

 

「担い手をここへ誘き寄せ、外ではお前たちが結界の維持に追われる。全員が動けば動くほど、私の計画は前に進む。お前たちの力を借りて、ユピテルスを早めに目覚めさせる……それが私の狙いだった」

 

 魔力の圧力が更に増す。

 

「焦ってると思ったか? 余裕がなくなったと思ったか? 全部、予定通りだよ」

『アレックス』

 

 すると彼女の言葉を遮るようにマルティアナが静かに呼んだ。

 

『惑わされるな。この女の言葉は半分だけ本当だ』

「半分?」

『計画が予定通りなのは本当。でも……焦っていないというのは嘘よ』

 

 マルティアナだけは確信していた。

 エリドゥの態度はこちらが圧倒的に優勢だと見せつけるためのブラフだと。つまりまだこちらの完全敗北までは至っておらず、まだまだ取り返せる隙があると。

 

「厄介だねえ……マルティアナ」

 

 エリドゥは聖剣をちらりと見た。

 

「1000年以上生きてきただけあって、洞察力は確かなものだ」

 

 その声はどこか懐かしむような色を帯びていた。だがすぐに、薄い笑みへと戻る。

 

「でも精神は……どうかな」

 

 その一言が、嫌に耳に残った。

 

「何が言いたい」

「別に」

 

 エリドゥは肩をすくめた。

 

「彼女さ……精神が脆いんだよ、トラウマがあるからね……だから担い手に執着してるんだろうけど」

『お前には関係ない』

 

 マルティアナが激昂しかけたその時、右手が静かに持ち上がった。

 

夢よ、世界を塗りつぶせ(ハロム・タフシィフ・エト・ハオラム)

 

 次の瞬間、部屋の輪郭が溶けた。

 壁が、床が、天井が――全てが黒い霧に飲まれていく。魔導灯の光が消え、エリドゥの姿が霞み、仲間たちの声が遠くなる。

 

「っ……ローズ! リリア!」

 

 アレックスは叫んだが、声が届いているのかわからない。マルティアナを握る手に力を込める。聖剣はまだある、手の中にある。

 

『アレック――』

 

 マルティアナの声が、途切れた。

 そして、全ての光が消えた。

 

 

 目が覚めると、見知った景色があった。

 石造りの家々が並ぶ小さな通り。畑の向こうに続く丘。風に揺れる草の匂いがした。

 

(……ここは)

 

 この場所を知っている――アレックスは目をパチクリとさせて、周りを見渡した。

 この道を何度歩いたかわからない。この角を曲がれば広場があって、広場の真ん中には古びた像が立っていて、その向こうに続く坂道を下れば家がある。

 

 故郷フォルス村だった。

 生まれてからずっと暮らしてきた、あの村だ。

 アレックスはゆっくりと周囲を見回した。

 空は青くて雲が緩やかに流れている。遠くで鶏が鳴いている。畑仕事をしている老人が、こちらに気づいて軽く手を挙げた。顔に見覚えがある……隣の家のおじいさんだ。

 

「……おかしい」

 

 アレックスは小さく呟いた。

 さっきまでエリドゥと戦っていた石造りの部屋とは全く違う、柔らかくて温かい世界がそこにあった。

 

(幻覚のはずだ。エリドゥが仕掛けた術のはずだ)

 

 頭ではそう思っていても幻覚にしては、あまりにリアルすぎて、ここは現実だと錯覚させてくるのだ。

 

 靴の裏から伝わってくる土の固さ、鼻をくすぐる草と土の混じった匂い、頬を撫でる風の湿り気。これが全部作り物だと言われても、信じられるかどうか。

 

 ふとアレックスは掌を見下ろした。

 マルティアナがない……。

 腰に鞘はあるが空だ。

 聖剣の重さも、温もりも、そこにはない。

 

「マルティアナ!」

 

 呼んでも返事がなかった。

 胸の奥に、すうっと冷たいものが走る。こんな感覚は久しぶりだった。あの剣を手にしてから、ずっと一緒にいたから。いなくなるとこんなに心細いものかと、アレックスは改めて思った。

 

「何とかして……ここから出なきゃ」

 

 それでもアレックスは止まるわけにはいかなかった。

 第一……ここで立ち止まっていても仕方がない。幻覚であれ何であれ、この場所の仕組みを理解しなければ抜け出せない。

 

 まずは広場へ向かう。

 角を曲がると、予想通り広場があった。石畳の広場の真ん中に、件の像が立っている。

 

 村で唯一の名物と言えば大げさだが、子供の頃からずっとそこにある像だ。台座の文字はとっくに読めなくなっているし、像そのものもあちこち欠けている。それでも剣を持って立つその姿は、何となく堂々として見えた。

 

「勇者像……」

 

 昔、あれは誰の像なんだと父に聞いたことがある。

 父は少し考えてから、勇者じゃないかと言った。

 勇者の像が何でこんな辺鄙な村にあるんだと言ったら、父は笑って、昔はここも戦場だったんだろうと答えた。子供心に、そんなものかと思って、それきり気にしなかった。

 アレックスはその像の前で立ち止まった。

 

(……本当に、ここまで再現するのか)

 

 台座の苔の生え方まで、記憶通りだ。右肩の欠けた跡も、剣先が少し曲がっているのも。これを幻覚で作り上げたとしたら、エリドゥという存在の恐ろしさが改めてわかる。

 

「アレックス!」

 

 声がして振り返ると、走ってくる人影があった。

 同い年であり、幼馴染の女の子であるケイティだ。

 茶色い髪を後ろで束ねて、息を弾ませながら手を振っている。

 

「どこ行ってたの、ご飯できてるって、お母さんが」

「……あ、ああ」

 

 アレックスは言葉を選びながら答えた。

 彼女の顔も、声も、走り方も、全部本物と同じだ。目の前にいるのが偽物だとわかっていても、胸のどこかが懐かしさで軋む。

 

(だから気をつけなければならない)

 

 この世界は居心地がいい。それがいちばん危ない。

 幼馴染が隣に並んで、アレックスの顔を覗き込んだ。

 

「どうしたの、ぼーっとして」

「なんでもないよ……ケイティ」

「変なの」

 

 くすりと笑って、彼女は歩き出した。

 ついてきてと手招きする。

 アレックスはその背中を見ながら、一歩踏み出しかけて――叫び声が聞こえた。

 

「何――!?」

 

 それが引き金になったように、次々と声が重なる。怒号でも悲鳴でもない、もっと原始的な、恐怖だけが絞り出したような叫びだ。

 

「何なんだよ! いきなり!」

 

 アレックスは弾かれたように振り返った。

 村の入口の方から、地響きが来ていた。

 最初は何かわからなかった。砂埃が舞い上がり、木々が揺れ、建物の陰から黒い塊が溢れ出す。それが何であるかを認識した瞬間、全身の血が下がる感覚がした。

 

「ま、魔獣……!? なんで!?」

 

 一頭や二頭どころじゃない。

 奴らは数え切れないほどの大群を率いて、この村へ向かって一直線に押し寄せていた。

 

「くそ……!」

 

 咄嗟に腰に手を伸ばすがマルティアナはそこにない。

 つまり……自分だけで乗り切らないといけない。

 

「趣味悪い……!」

 

 エリドゥの悪趣味な幻覚に怒りを覚えながらも、アレックスは戦うために動き出した。

 

 

 そして同じ頃――マルティアナもまた、幻覚に囚われていた。

 

「……ここは」

 

 草原の中にいる。

 風が緩やかに吹き、空は高く、雲が薄く伸びている。

 どこまでも続く緑の中に、二つの人影があった。

 

 子供だ。

 水色の髪をした少女と、その隣でしゃがみ込んでいる少年。少年は両手で何かを丁寧に編んでいた。花だ。野原に咲く白い小花を束ねて、丸く繋いでいく。

 

 やがて少年が立ち上がり、それを少女の頭にそっとのせた。

 花の冠だった。

 

 少女はしばらく動かなかったが、ゆっくりと顔を上げた。

 嬉しそうに、笑っていた。

 その笑顔を見た瞬間、マルティアナは息が止まった。

 

「……まさか」

 

 声が、掠れた。

 

「またこれを……見るなんて」

 

 その呟きは、草原の風にそっと溶けて消えた。

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