青白く輝く満点の星空と、上の世界を映し出す鏡の水面。
地平線が無限に続き、広大などという言葉では到底言い表せない、まるで宇宙を連想させる空間。
視線の先にある水面は足に反応し、ゆらゆらとく私を中心に波紋を広げている。
「ここ、何? みんなは? 森は?」
思わず、大声で名前を叫ぶ。
幻想的な星空とは裏腹に、私の心は気が狂いそうに荒れる。
孤独が不安になる歪な空間。星に投げ出され、宇宙を彷徨う孤独。当然そんな経験はしたことはないのだけど、脳内で再生される恐怖の連想は、瞬時に私を蝕もうとする。
ーーこっち
声が聞こえた。
私を呼ぶ声、同じ声だ。
女の子の、か細い声。今にも消えそうな旋律。
「どこにいるの」
背後から聞こえる音を頼りに振り返る。広大な宇宙の真ん中に、ポツンとある古びた電車と、地平線に伸びる長い線路。その横には盛り上がったアスファルトの土台と、雨を凌ぐ天井。右端には4段程の小さな階段があり、横には手すり。貼り付けられてるチラシには文化祭の文字。
「駅と……電車?」
見た目はボロボロで、至る所に錆や傷、泥のような汚れが付着している。
まるで、何年も整備をしていないような、人の手が施されておらず、破棄されたような外観。
当然そんな見た目だから。その電車には架線が張られていなかった。どうやってこの線路を渡ってここまで来たのだろう。
「中に、誰かいるの?」
水面の上を歩く。
柔らかい土を踏んでいる感触。まるで、空の上を歩いている感覚。けど、足音はぽちゃりぽちゃりと、硬い感触も無く跳ね、現実かと疑う。
駅の背面から中を覗き中の様子を伺うが、表には誰一人としておらず、二つあるベンチも空いており、見えるのは向かい側の端だけ。自販機も何もなく、黄色の線と点字ブロック。そして裏にも貼ってあった文化祭のポスターのみ。
ートリニティ総合学園、9月30日、第〇〇回文化祭を開催します。一般入場時間:8時。お問合せに関しましては、文化祭実行委員会までご連絡ください。
ー文化祭実行委員会代表:〇〇
重要な部分が削れ、風化していたそのポスターは、長い時をこの駅で過ごしたのだろうか。
そう見ると、この空間はずっと前からあって、放置されていたのかもしれない。
どうしてだろうか、そう考えると、体の内側で寂しさが広がり始める。
「……中に入ろう」
スライド式のドアに手をかけ、開く。
スムーズに開かず、高音の擦り音が鳴り響いたことから、この扉も長く開けられていないのだろう。
中は仄暗く、窓から流れ込む星の光だけが頼りだ。電気も非常灯も消え、あるのは静寂のみ。風の音も、駅員さんの声も、賑わう生徒の声も聞こえない。自分が乗っているのは本当に電車なのだろうか。
「あ……来て、くれた」
奥にある、優先席に座る一つの影。
見たことのある制服。十字架を中心に、三つの円が重なるように描かれ、中心には逆三角形の紋様。トリニティ総合学園の制服だ。
「呼んだのは、あなた?」
星光が映したのは、一人の女子生徒。
肩まで伸びた活発的なウルフカットとは対照的な、繊細で長いまつ毛。前髪は眉毛に掛からないように整えられており、表情がよく見えるようになっている。
白に近い灰色の髪色と、色の抜けたような肌。琥珀色の瞳は宝石みたいに綺麗だが、生気が感じられない。
「そう、私。ーーぁぁ、やっと、やっと私の声が聞こえる人に逢えた。嬉しい、とてもとても……嬉しい」
ゆっくりと腰を上げ、隣の席に移動する彼女。
右手で自分がいた席を叩き、手招きする。
今現状でどうすることも出来ない私は、とりあえず彼女の言う通りに隣まで歩き、席に座る。
彼女は私の顔を見上げ、じっと観察した後、眉毛をわざとらしく大きく上に伸ばし、すぐに三日月のような微笑みに戻る。
「そう、だから私の声が聞こえたのね。あなたも私と同じで、一度塗り替えられてるんだ。アレに」
「アレ?」
「そう……色彩にね」
心臓が、一回だけ大きく跳ねる。
つまり、目の前の彼女も、色彩に触れたということだ。
でも、この世界で色彩に触れた人はいない……いや、私が知らないだけで、既に触れた人が?
「……あなたは、今の世界から受け入れられてるんだ。……そう、絶望的な結末を一度迎えても、もう一度立ち上がって、踏ん張って、助けてもらって……羨ましい」
彼女の瞳から、一粒の雫が零れ落ちる。
ポケットからハンカチを取り出し、頬に当てるように目元に当て、涙を滲ませるように手を添える。
その行為に驚いたのか、私の手を確認するように触れるその姿は、何かに縋りたい子犬のように見えた。
人の温もりが初めてなのだろうか。
それとも、この電車が錆びるくらい、長い間ここに居た?
「暖かい、暖かいね」
「そう? あなたが冷た過ぎるだけ。ちゃんと温かくしなきゃ」
「ふふ、なら、お布団でも用意しなきゃね」
寒いのは辛い。
私には、痛いほど理解出来る。
「私の名前はシロコ、砂狼シロコ。あなたの名前は?」
「……私の名前は、黒野リア」
「リアね、憶えた。リアはここで何をしているの?」
「私……私は、願い事を果たして貰うためにここにいる」
「願い事?」
リアは私の手を離すと、姿勢を正し、琥珀色の瞳を真っ直ぐ私に向けた。
「カイロスを、倒して欲しいの」
聞いた事のない名前で困惑する。が、とにかく話しを聞いてみる。
「いずれ、あなたの前に現れる。世界線を移動出来る残滓を持つあなたと必ず接触するはず」
「ちょ、ちょっと待って! いきなりそんな事言われても分からないよ」
「あなたも、あなたが今居る世界の先生も気付かない。けど、私には分かるの。どんな理由かまでは見えない。けど、あなたの元居た世界の先生は、あなたにきっかけを残した」
思わず、立ち上がる。
私にとって、先生は特別な人。何も知らない人にその特別な人の名前を出されると、条件反射で感情的になる。
「……ごめんなさい。配慮が足らなかった。でも、もう時間が無いの」
彼女の困り顔を見ていると、決して悪気があって発言した訳じゃないのは理解出来る。
「こんな所に呼び出して、こんな素っ頓狂なお願いをするなんておかしいし、変だってのは分かってる。でも、もう頼めるのはシロコさんしか居ないの」
「…………いい。で、そのカイロスはどこにいるの」
「あれは、姿は見せない。だから、出会った時に倒すしかない」
「随分突発的に起こるんだね」
「私も、カイロスの位置は特定出来ないの。私は表に干渉出来なくなった。声を飛ばすだけで、姿形はもう無理。別の時空に生きてるから、接触も出来ない」
「……っ話しはよく分からないけど、そのカイロスを倒すってどうすればいいの。銃は効くの?」
……リアの指が、顎先に添えられる。
銃は効くのかという質問にそう熟考されると、一体どんなやつなんだと気になってくる。
「カイロスを倒すには、まずは自分に勝たなければならない。奴の持つムネモシュネの仮面は強力で、強い心が無いと簡単に砕かれる」
また、知らない単語が出てきた。
ムネモシュネの仮面? カイロス? 人の心を砕くだなんて穏やかじゃない。それに対抗条件が自分に勝つだなんて、まるで物語のラスボスみたいだ。
「そのカイロスってのは人間なの?」
少女は、小さく頭を傾ける。
頷くというよりも、下を向いて言いたくない事をはぐらかすような反応だ。虚空を見つめる虚な瞳は、過去の凄惨な出来事を窺わせる。
両眉を眉間に集め、瞳を閉じる。長いまつ毛から溢れる雫達が彼女の手の甲に流れ落ちると、その雫に気付いたのか、一生懸命袖で目元を拭う。
口を結び、一呼吸置き、姿勢を正して真っ直ぐ再び瞳を私に合わせると、唇を震わせながら声を響かせた。
「ううん、あれは最早人間じゃない。人間だった者。最後まで人間であろうとしたのに、過去に負けて現実を直視するのを恐れた者。それがカイロス」
もう一度、頬からハンカチを当て、憂いた瞳を慰める。
彼女を見ていると、まるで心の鏡を見ているみたいで、放って置けない気持ちになった。
何かに縋りたい、助けて欲しい。
それは、私がまだ救われてない時に感じた、寂しさと孤独。
「ありがとう」
「ううん、いいよ。で、そのカイロスにはどうやって勝てばいいの? 弱点はあるの?」
「弱点は……分からない」
「そ……。結構難敵だね?」
「でも、確実な事が一つ。ムネモシュネの仮面を破壊しないと、奴には勝てない」
「戦った事はあるんだね」
「ええ、昔……。でも、見ての通りだよ。負けたの、私は」
両手を広げ、この有様と自虐する。
「カイロスに負けたの? それともそのムネモシュネの仮面に負けたの?」
「両方、かな。仮面を使ったカイロスの力は壮大で、どんな攻撃も寄せ付けない」
「反則だね。いくら私が色々経験を積んでるからと言っても、限界はある」
「いいえ、あなたになら出来る。いや、あなたしか出来ない。アヌビスの神格を持つあなたなら、カイロスの神格を持つヤツに対抗出来る」
「……私はアヌビスじゃない」
「自分を定義する物差し、あなたはそれを乗り越えているんだね。色彩に打ち勝ったんだ」
「ーーつまり、カイロスも色彩に?」
彼女は目を逸らし、窓の向こうに見える星空を眺める。
「ええ、カイロスも色彩に飲み込まれた。そして私は負けて、幽閉されちゃったの」
「じゃあ、ここは牢獄?」
「そう……だね。うん、ここは牢獄。あなた達の時間で言うと10年くらいかな? 私はここに閉じ込められている」
「10年……長いね」
どこから共なく聞こえてくる鐘の音。大きな古時計がチクタクチクタクと時を刻み、時間を知らせる合図。鐘はかつての輝きを失い、劣化し、反響音も鈍り、朽ちていく。
そんな鈍い音が、電車の中ではなく、外の世界の大宇宙から鳴り響いている。
思わず窓から顔を出して確認するが、風景は変わらず星空と地平線のままだ。
「時間、来ちゃった」
「時間が来たらどうなるの?」
「あなたが帰るの。私の力の限界、もうこんな短い時間でしか干渉出来なくなっているなんて……」
「落ち込まないで。また呼んでくれたら来る」
「ありがとう。私は警告する事しか出来ない……人任せになってしまう。ごめんなさい」
時計の針の音と共に、目の前は真っ暗に染められ、彼女の姿が見えなくなった。
静止していた時間が動きだす。私はまだ森の中で、三人と一緒にいる。
現実? 白昼夢?
確実な事は分からないけど、ハンカチについた彼女の涙の跡が、思考を加速させた。