アクア達が生まれてからおよそ半年。アクアの予想通り硝太が夜泣き、昼も急に騒ぎ出すなどの暴挙のおかげでアクアとルビーは理想的な赤子の生活を送っていた。理想的な赤子、と言うだけあって成人男性でいた頃よりはかなり楽だ。話し相手は同じ境遇のルビーがいて、生活はミヤコとアイが全て行う。罪悪感や恥ずかしさは当然感じるが、少し歩くだけで体疲れるし寝ようと思わなくても自然と意識が落ちる。
「ぎぃぃやゃぁぁぁぁぁ!!!」
「はいはいオムツねー、ちょっと待ってね」
比較的周りを見てオムツや母乳を恵んでもらっていたアクアとルビーと違い、腹が減ったら泣き叫び、漏らしたら泣き叫ぶ硝太を育てるのはミヤコも相当な負担のようで最近目元にくまができてきた。家とはいえ化粧も行わずにしている姿はかなり珍しい。
「全く。元気すぎるのも考えものね…なんでこんなことになったのかしら」
ミヤコからすれば聞き分けのいい双子でも疲れていたのに、急に暴君のような3人目が生えてきたのだからノイローゼにもなる。産後鬱、とはこのように発生するのだろう。
ヘトヘトの体に鞭打って硝太を抱き抱えてオムツを変える。赤子の糞が臭いのは鼻が潰れてしまったのか、もう感じられない。ストレスで頭がおかしくなってしまいそうだがミヤコには頼れる大人というのが存在しない。
旦那の壱護は仕事人間で帰ってこず、双子の母のアイは元々忙しいアイドル業をしている上に子供達といるところを撮られれば無駄なリスクが付きまとう。アイが子供を産んだというスキャンダル中のスキャンダルを隠すために親族含めた他の人間にも子供を預けるなんてことは言語道断。
要するに3人の赤子の世話を事実上ミヤコが一人で担当させられることになり、援助は受けられない。昭和の人間でも裸足で逃げる最悪の労働環境となっている。
だがミヤコもこれを全く受け入れること無かった、覚悟もできなかったという訳では無い。壱護が硝太を受け入れないというのは妊娠した時から知っていたこと、まだその時は堕ろすという決断も比較的楽にできた段階で体の負担も最小限で済んだ。アイの双子の世話係は誰かしらがやる必要があったが硝太を産まなければわざわざアイのマネージャー業をしていたミヤコに押し付けなかったのかもしれない。
「駄目ね」
心の内に出てきた暗い妄想を首を振って振り払う。「産まなければ良かった」なんて冗談でも言っていい言葉では無い。例えまだ言葉を理解していない赤子相手だろうと、そういった感情を出せば伝わる。赤子の記憶は意外と覚えていると聞いたこともあるし、もしそうでなかったとしても硝太の人生に深い傷を残してしまう。
いくら愛した男との子供でなくとも逃げなかったのはミヤコで「産む」と決めたのはミヤコ自身。選択権を与えたどころか堕ろす準備もした壱護を悪くは言えない。
「ちゃんとしなさい。私は3人のママなんだから」
頬を軽く叩いて心を落ち着かせる。悪い妄想をしてしまっているのは疲れている証だ。オムツを変えてあげたら満足したのか泣き叫んでいた硝太は落ち着いて寝ている。寝るか泣くかしか出来ない子供だが寝たらしばらくは休める。疲れた足を引きずるようにミヤコはソファまで体を運びそこで寝転がる。また子供達に呼ばれることを考えたら仮眠も満足にできない。それでも少しでも体を休めるために瞳を閉じた。
対して、アクア達はミヤコが休憩したのを見計らい身体を起こす。
「ちょっと何よ、私たちのママはアイなんだけど」
起きるや否やルビーは唇を尖らせながら先程のミヤコの言葉を訂正する。当然ミヤコには聞こえない声量なのでミヤコは気付かない。
ミヤコは硝太の母親であってもルビーとアクアの母親ではない。いくらミヤコが疲れていようとルビーからすればただのベビーシッターが母親面しているようにしか見えない。
「仕方ないだろ、アイは忙しいんだから」
「でもこういうのってベビーシッターって言うんでしょ」
「……まぁ」
宥めるアクアだがベビーシッターという意見には言い返せずに押し黙る。
アイに成り代わろうとしている相手と考えれば本当ならルビーはもっとボロクソに言うつもりだった。だが前世の経験もあり、ミヤコがミヤコなりにルビー達を思って育ててくれているのは理解しているからか文句はそれ以上出ない。
「とりあえず、この子うるさくて寝たくても起こされるんだけど」
「仕方ないだろ、俺たちと違って硝太は普通の子供なんだ。腹が減ったら泣き叫ぶし腹が膨れたら寝るんだよ」
ミヤコに文句が出なくなったからか代わりに硝太にターゲットを移すルビーだがその表情は怒りというより呆れに見える。当初の予想としてあった「生まれ変わり」の説は完全に打ち砕かれたと言っていい。元医者なアクアは安心だが好奇心がまだ残っているのかルビーは硝太のベビーベットを覗き込む。
「ねぇ、ちょっとうるさいんだけど。私たちも寝かせてよね」
「おいおい」
まさかの直接的なクレーム。ポロりと愚痴がこぼれた、という訳ではなく本気で言っているのがルビーの背中越しからアクアにも伝わる。頬を膨らませて、「私は怒ってますよー」という顔をしている。ルビーも
アクアは瞳を閉じて硝太と同じく寝ようとする。
「もういいだろ、硝太が寝てる内に──」
「うぎゅ、うぎゅぎゅぎゅ…」
突然、絞った雑巾でフローリングを擦ったような音が硝太から聞こえた。驚いたアクアが体を起こすと硝太の身体がまるで逆再生でもかけているように足からゆっくりと立ち上がっていた。少々ふらついているが何かに掴まることなく上半身を起こす。
ルビーは驚きすぎたからか、声をあげることすらなく絶句していた。正直な話をするのなら、アクア達も立つことはできるし多少ふらつくが歩くこともできる。だがそれは前世で歩いたことがあるからであり、筋力もそれなりに育っているからである。それでも立ち上がる時はなにかに掴まって全身の力を使うし、歩くことがバレないようにしているのもあるがそういったことはしないようにしている。
アクア達より生まれるのが遅かった硝太はまだ生後3ヶ月かそこら。力もまだ満足にないし普通に考えるのならハイハイをしただけでもかなり成長が早い部類に入る。それが掴まることなく急に立ち上がる。力とバランス感覚だけならアクア達よりあることになる。
「お前、生まれ変わりか?」
思わずアクアも聞いてしまう。前世からバランス感覚が強ければこれだけのことをしてもまだ納得できる。だがもしそうだとして、今までルビーやアクアの言葉を無視し続けたのは何故か──理由があるのなら、何故今急に立ち上がるのか──わけもわからない。
硝太は立ち上がってもルビーとアクアと視線を合わせようとしない。顔も向けずに少し身体を震わせてベビーベットの落下防止の柵を掴むと、休憩をしているミヤコの方をじっと見つめる。
「こいつまさか…」
「だーだー!」
アクアが気付くより先に硝太は叫びながら柵をバンバンと叩き始めた。当然休憩していたミヤコは飛び起き、それを感じ取ったルビーとアクアがたぬき寝入りに戻る。
「どうしたの?おっぱいはもう飲んだし…え?」
飛び起きたミヤコの視線に入るのは先程まで寝ていた3ヶ月か4ヶ月の赤子がなんの支えもなく立ち上がってベビーベットを叩いている謎の光景。疲れから幻覚を見ているのかと勘違いしてしまいそうになるが残念ながら頬をつねっても叩いても痛いので現実である。
「だーだー!」
ミヤコはすぐさま立ち上がることはできるくせに単語を言うことは出来ない赤子に近づいて抱き上げる。抱き上げられると暴れるのをやめて何故か丸まろうとする。そんな硝太をじっくり見てミヤコが小さな声でつぶやく。
「今、ママって言った?」
──そこかよ!?
かろうじて聞こえた発言にルビーとアクアは声に出さなかったが同時にツッコミをする。立ち上がって騒いでる方が問題だろうに「ママ」と言った方を重視するとはまず思わない。
そもそも硝太はだーだー言ってただけで「ママ」なんて言ってない。
「マーマ」
「だーだー」
硝太を揺すりながら「ママ」と言わせようとするが硝太は変わらずだーだー言っている。一応ママという単語は理解しているのか、音だけでも真似ようとしている気概は感じる。
おそらく声の出し方がわかっていないのだろう。硝太と同じ時期だったアクアは発声出来ていたので発声器官が使えないという可能性はない。
「ママ」
「だ!」
「マーマ」
「だーあ」
「言えた、よね?」
──言えてないよ…!
頑なに息子に「ママ」と呼ばれたいミヤコは続けて呼ばせるがアクアとルビーからすればずっと「だーだー」言っているだけ。仮に言ったとしても立ち上がったことの方が異常なのでそちらに気づいて欲しい。
「マー」
「ほら言った!言った!うちの子天才」
──早く喋りてぇ…
先程まで疲れていたミヤコが急に見せた親バカな一面を見てすぐにでも指摘したいが出来ない、己の身体を恨んだ。
親バカミヤコさんはいい文明。異論は認めぬ