硝太が産まれてからしばらく時間が立ち、アクア達は立ち上がっても、簡単な言葉なら喋っても気にされない時期になった。
「ママァ!なでなでしてー!」
ルビーはここぞとばかりに母親のアイに甘えてアイドルをママと呼ぶ頭のおかしいファンを体現していた。肉体的には血の繋がった母親なのでアクアには口を挟むことすら出来ないが。
「はいはい、ルビーは甘えんぼさんだねぇ」
膝まで登ってきたルビーを抱き上げて位置を調整するとアイはルビーの頭を優しく撫でる。頭を撫でられたルビーは気持ちよさそうな顔をする。毎日見る光景だがたまにヨダレを垂らすため未だにルビーの服にはヨダレ掛けがつけられている。
「お姉ちゃん」
ルビーを撫でるアイの横に座った硝太はその状況が不服なのか、アイの服の袖を引く。
硝太の成長は比較的早く、生後5ヶ月頃にはハイハイをしてその後1ヶ月も立てずに立ち上がり、走り出すことができるようになっていた。出会って初日でルビーに向かって拳を振ったような単純な暴力性は鳴りを潜め、何にでも興味を示す子供になっている。
生まれてすぐは母親のミヤコさんにも甘えていたがミヤコさんの仕事が多くなり、構って貰えない時間が増えてからはこうしてルビーのお零れを預かるようにアイに甘えている。
「んー硝ちゃんも頭撫でて欲しいのー?いいよいいよ、おいでー」
アイは片腕でルビーを撫でながらもう片方の手で硝太を撫でる。両腕がそれぞれ別の動きをしているのを見ると以外と器用なんだな、とこれまでの印象を再定義させられる。
こうして現時点での斉藤家は仕事を詰め込んでろくに帰ってこない父親の壱護、同じく忙しそうに仕事をしているためあまり構ってあげられていない母親のミヤコ、一歳未満の子供を同時に面倒を見るアイと子供達、という形になっている。
そんな子供たちの中でアクアは大人である記憶を持つからか、アイに甘えることはなく自立した大人として周りを見ている。雨宮吾郎としての記憶を持つアクアからすればアイも子供の一人、どちかと言うと自分が甘えさせてやるべきなのに子供の体ではそうとも行かない。
「アクアもおいで」
まさか自分の子供が転生した元担当医だと考えるはずもないアイは両手で姉弟の頭を撫でながらアクアを呼ぶ。しかし大人としての記憶からくる気恥しさから首を横に振る。
「アクアはおませさんだね」
「おませさん?」
「恥ずかしがり屋ってこと」
「…アクアマリンは譲ってくれてるだけだよ」
硝太の母親譲りの赤みがかかった両目にアクアが映る。1歳となった硝太の見た目は母親のミヤコそっくりで幸か不幸か父親の壱護に似ている要素はあまり見て取れない。そのおかげかアクアですら壱護の顔を見ていない。売れ行き好調のアイドルを抱える芸能会社の社長なので息子に構ってやれないのは至極当然の話ではある。だがそれを踏まえたとしても壱護が硝太の前に顔を出さないようにしているのは個人的な感情があるようにも見える。何しろ社長達ほどでは無いとはいえ忙しくしてるはずのアイがこうして自分の子供は勿論、弟の面倒まで見ているのだから。
「アイーそろそろ時間よ、準備して」
「はーい、またね」
ミヤコの声で二人を撫でる手を止めたアイは立ち上がるとメイク道具を出してメイクを始める。ここからは母親の星野アイではなくアイドル「アイ」の時間だ。
子供達が生まれてからアイの人気は徐々に伸びており、モデルにラジオのアシスタント等アイドル以外の仕事も着実に増えている。そして今日はドラマ撮影がある。
「みんなもおめかししましょうね」
アイがメイクを始めたのと入れ替わりでミヤコが子供たちの前に出て来て様子を確認する。一歳ぐらいの子供といえば自分の足で歩けるのもあって目を離せばどっかにふらつき回って行方不明になることが多々あるので誰かしらが常に見ている状態にするのが理想的。アイが居なくなった為甘える相手をミヤコに変更した硝太はミヤコの足元まで跳ねるように歩くとズボンの裾を引っ張って無言で抱っこを要求する。求められるままミヤコに抱き上げられるとすぐに寝てしまった。
いくら恥を投げ捨てたルビーであったとしても出来ない切り替えを見たアクアの頭の中には硝太が誰かの生まれ変わりという説は既に存在していなかった。
◇◇◇
「苺プロのアイです。よろしくお願いします」
お行儀よくアイが頭を下げたのは撮影場所。どこかの廃校の校舎を使った学校内のシーンの撮影。廊下から入ってきたアイの目の前には複数のカメラマンなどのスタッフ、そしてその中心には1人の中年男性。後のアクアに演技を叩き込む五反田監督がそこにいた。
ヤクザとまではいかないが人相も悪ければ目つきも悪い五反田はアイの正面に立つとアイの顔確認すると次に子供達の方に顔を向ける。
「この子供は?」
撮影場所に一歳児が3人もいれば気になるのも仕方がない。そのうち二人がまさか目の前にいるアイドルが産んだ子供だとは思うはずがないが、子供が喋れるせいで何が言い出す前にミヤコが間に入る。
「あっ、この子達は私の子で…」
「へぇ、マネージャーの子供ねぇ…」
監督の視線がミヤコに向く。突き刺さるような威圧的な視線に全員ビクリと身体を震わせる。泣き出して撮影に影響があれば酷い剣幕で叱られる想像が三人の中で一致する。だが、一人だけ全く違う反応を見せた子供がいた。いつの間にミヤコの前に出た硝太が五反田に向けてストレートを炸裂したのだ。身長差のせいか、それとも幼少期でありながら急所を理解しているのか、その拳は五反田の睾丸にぶつかる。
「りゃぁっ!」
「ハウッ!」
一歳児とはいえ、遠慮の欠けらも無い硝太の拳に五反田の身体が軽く宙に浮かびそのまま地面に落ちる。殺意すら込められた拳の行先と一気に顔が白くなった五反田を見てアクアは思わず痛むはずのない自分の股間を押さえる。
「監督!?」
一部始終を見ていたのだろう、倒れた五反田にスタッフが駆け寄る。一歳児に金的されて悶絶、と文字に書けば笑い話にすら聞こえるがその一歳児の力は相当なもののせいで傍から見ても相当なダメージが見える。
半分失神して動けない五反田に向けて、肘を向けながら軽く回転しながら跳ぶ。一歳児の軽い体重でも落下の勢いと当てどころが合わされば首の骨を折ることも可能。だがそれより先にミヤコが跳ねた硝太を抱き上げる。
「何してるの!?」
「ママ」
ミヤコに抱き上げられた硝太は悪びれもせず、むしろトドメを刺さなかったのを不服そうに倒れる五反田を見る。
入れ替わるように倒れた五反田にアクアが歩み寄る。浮かんだ涙で人の顔が見えないのか失神レベルの痛みに平常心が保てないからか五反田はアクアの肩に手を置く。
「き、君…俺の金玉…ある?」
「う、あるよ。2つとも…」
真面目に考えて金玉が潰れれば失神では済まないだろう。今すぐにも病院に行った方がいい。アクアは触診してみるが一応2つとも確認した。形は確認したが生殖能力まで生きてるかは話が別だが。
「ごめん、潰せなかった」
「硝太、謝るとこそこじゃないでしょ!すみません!うちの子が!」
「あ、いや、気にすんな。子供は、そんなもんだ…ちょっと、トイレ…」
ミヤコはすぐに硝太を押さえつけて叱り、謝る。これまで暴力的でもなく某パンヒーローすら見せてなかったので殴り方すら知らないはずの息子が怯える間もなくまるで反射で動くように金玉を狙って打撃したのは本能的な動きを感じる。
──潰せなかった、か。こいつ、まさか。
アクアの脳裏に浮かぶのは初めて家に来た日にルビーに向かって手を振った行動。あの時はまだ懸念だったが今のは間違いなく加害を狙っての行動。今音も立てずに移動して急所にたたき込めるだけになったのを見たあとだとルビーへの攻撃も意図してやったものだと思わずにはいられない。その上拳も勢いを殺さず関節を固くしていたので硝太自身のダメージは最小限にしている。その上「潰せなかった」というセリフは潰すつもりで殴ったが弱かった、という意味になるので力の調整はともかく潰すつもりでやった事になるので金的を狙って放ったのがわかる。
何も教えてない、学ぶ対象もないはずの子供が戯れつきの延長ではない、殺意すら感じる拳を放てるという事実。「サイコパス」という精神病質があり、性質だけ見るのなら良心が無い、衝動的かつ暴力的など共通点が多く見えるがそれとは少し違う気がする。アイとミヤコさんには甘えてルビーには初日以降攻撃を仕掛けようとはしていない。警戒心が高く、排他的なタイプなのだろう。赤子にしてはこの症状は少し珍しい。イメージとして子供は好奇心旺盛でなんでも試すのが一般的。もちろんその枠に入らない子供はいくらでもいるが心を許せる存在の裏に隠れたりする恥ずかしがり屋なタイプではなくここまで排他的なタイプは珍しい。
五反田がトイレへと行き、スタッフや演者が少しザワザワし始める。ミヤコは急いで硝太を抱えて人目につかない方へと連れていく。相手は子供とはいえこれだけのことをすれば契約を結んでいるだろう今回はともかく、次回から呼ばれなくなる可能性が高い。子供の問題の責任はそのまま親へと向けられる。今回はアイのマネージャーのミヤコの子供だが同時に社長の斉藤壱護の息子でもあるのでこれからミヤコが付き添いに来なければあとは社長が何とかしてくれる──なんて可能性もないだろう。
「何やってんのよあの子!これでママがドラマ出れなくなったらどうするのよ!」
「静かにしてろよルビー。」
ルビーは当然アイの仕事の邪魔をしたと言うことでカンカンに怒っている。最近人気が乗ってきて仕事が増えてきたアイの出鼻を挫くような行動を許せるはずもない。アクアは(精神的には)年長者として冷静を保つように宥めるが内心硝太への悪感情は捨てきれない。
──なんてことをしてくれたんだ。
──これでアイの仕事が無くなったらどうなる。
直接口に出さず、表情や態度にも出さないようにするがそんな言葉が渦巻く。こんなことなら3人まとめて家で留守番でもしていた方が良かった。するとずっと黙って見ていたアイが動き始めた。
「ちょっと行ってくるね」
双子の頭を優しく撫でた後、スタッフ達から離れた廊下の方へと出る。まさかアイが仕事に影響を出したからと硝太に怒りをぶつける、なんてことはないだろうが心配になったアクアは黙ってついて行く。
そこには当然硝太を叱るミヤコの姿がある。いつもの少し気の抜けたようでありながらしっかりしている彼女にはイメージが沿わない。拳でも出るのではないかという程の剣幕で畳み掛けている。
「硝太!なんでこんな事したの!」
「なんで?」
「なんでって、監督さん痛いって顔してたでしょ。硝太がパンチしたから!」
「そうだね、トドメはさせなかった」
「痛いことしちゃダメでしょ!」
「どうして?」
しかしミヤコがどれほど言葉をぶつけようと糠に釘を打つように硝太には全く響いておらず、空虚に時間が流れる。他人に暴力を振ってはならないという教育をこれまでしてこなかった訳ではない。今日今この瞬間までなんの問題も起こさなかった、表面上では他の子供と大差ない教育と成長をしてきていた。それが急に知らない大人の急所目掛けて拳を出したのだからミヤコも何故こんなにもかける言葉の感触が無いのか理解できない。
まるで言語が通じるだけの、別の生き物と対話をしているような、全身の身の毛もよだつ気持ち悪い感覚。
「もう!車にいなさい!」
これ以上の叱りつけても意味がないと思ったのがミヤコは力で硝太の手を引くとここまできた車に閉じ込めておこうとする。が、その手をアイが掴む。
「あー待ってミヤコさん」
「アイ?どうしたの?」
自分の仕事が邪魔されたというのに、アイはいつも通りの表情で硝太に近づくと脇腹に手を入れて高い高いをする。硝太ですらポカンとして口を半開きにしているのを見て少し微笑んでいるアイは独り言のようにゆっくりとしゃべる。
「硝ちゃん、ルビー達を守ろうとしたんだよ」
「はい?」
「ほら、監督がミヤコさん達睨んでみんなビクってしたでしょ?それ見てこの子動いたんだよ、多分こう思ったんじゃないかな『お母さんが虐められてる、助けなきゃ』って」
アイの発言にミヤコの中にあった疑問が解消された。
思い出してみれば、硝太は何もしてない五反田を急に殴ったわけではない。自分たちに視線を向けて「誰の子供だ」と確認した後に殴ったのだ。その時の五反田の顔は確かに怖かったしビクッと身体を震わせたのは間違いない。
それを見て母親に加害を与えられたと勘違いした硝太が殴った、ということだろうか。当然それが暴力を許される理由になるはずもないが動き始める理由として納得はできる。
「だからって急に暴力を振るなんて…」
「そうだねー。硝ちゃんは監督に『お母さん虐めないで』って言わなきゃいけなかったね。だから硝ちゃんも悪いんだよ?」
「でも、あっちの方が強そうだった」
まさかの先制攻撃の理由が五反田の方が強そうだったからというのでアイも流石に吹き出しそうになるのを抑える。普通に考えれば相手が強そうなら手を出さないのだが一歳の子どもにそんなこと言ったところで無駄だろう。社会的な正しさではなく感情的な正しさなのだから。相手が理解できないことに恐れはするが相手が強いことを恐れはしない。
「ああ、確かに監督大っきかったね!うわぁ、そういうとこまで見てたんだ」
「それに。お姉ちゃん、ピリピリ、してた」
アイの表情がほんの数秒だけ固まる。すぐ近くにいたミヤコとアクアでさえ気づかないほんの短い時間。それでも硝太はその間に自分を抱き上げているアイの手に触れる。
動き出したアイにゆっくりと降ろされると今度はアイが屈んで硝太と視線を合わせる。
「…ああ、そっか。そうだった。──でもね、やっぱり急にパンチはダメだよ。先制攻撃はせーとぼえー?にならないんだから」
「いや、それはおかしい」
「だからお姉ちゃんが教えてあげる。こういう時はね、同じことをしてあげればいいの。監督はミヤコさんびっくりさせたでしょ?なら硝ちゃんは監督さんびっくりさせればいいの」
「アイ、変なこと教えないで。ただでさえ勝手に暴力振るような乱暴な子なんだから」
「先手は正当防衛にならない」「やられたことをそのままやればいい」と変なことを教えてるアイの頭をミヤコが軽く小突く。この時点でミヤコの認識では硝太は「勝手な理由で暴力をする乱暴な子供」であり、実際それは間違っていない、何年経っても変わらないその人間の本質的な根本になる。だがアイは首を横に振ると硝太の頭を優しく撫でる。
「違うよ、硝ちゃんは優しい子だよ。一番にミヤコさんの危険に気付いて守ろうとしたんだよ。こんなにもお母さんのこと大好きな子はいないって」
「…ごめんなさい」
アイに言われてやっと謝る気になったのか硝太が謝罪をする。実はこの時の謝罪は五反田を急に殴ったことに対する謝罪ではなく、先程の「お姉ちゃん、ピリピリしてた」という発言に対しての謝罪なのだがアイを含めてそれを知るのは後日となる。
その時は先程まで反省の「は」の字も見せなかった子供がやっと反省したのにミヤコもほっと胸を撫で下ろす。これで硝太が本当に反省をしていたら同じようなことは発生しなかっただろう。アイの死後の硝太は違う人生を歩んでいただろう。
「言うのはお姉ちゃんじゃないよ。」
そんな未来を想定できるはずもなくアイは硝太の頭を優しく叩いた。
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初手金玉潰しされた五反田監督は可哀想な人だった…
あとこれは関係ない話ですけどプロット段階だと五反田監督の出番が真面目にこれだけだったりする。一応裏側にはいるけど硝太には絡まないキャラにする予定でした。そのお陰で舞台編にちょろっと出した時はちゃんとしたオトナさせてます