エクセル日本海軍 1891年4月
***
1891年4月に、日本国内のドックは、工事を完了したことにより最大7,000トンまで拡大された。ただ、日本海軍の満足する規模ではなかったため、造船所の拡大事業は今後も継続されることとなった。
当時の日本海軍の艦艇で、国内で建造されたものは、防護巡洋艦と砲艦のみであり、艦隊戦で運用されることを想定されていた装甲巡洋艦群と扶桑級戦艦はイギリス製の艦艇だったため、自然と主力艦を国産化することが日本の造船業の最上位目標となっていった。
主力艦の大量外注で批判された海軍だったが、少なくともその手法に永続的に頼るほどに愚かではなかったようだ。
ロシア帝国海軍に対して熾烈な情報戦を開始した、日本海軍情報部、通称「蝶の箱」は、時を同じくしてロシア海軍の戦艦アレクサンドル2世の設計図を入手していた。
戦艦アレクサンドル2世は、戦艦アレクサンドル1世の姉妹艦であり、当時最新鋭の戦艦だった。
排水量8,500トンの艦体に、10インチ砲を4門、6インチ砲を6門装備し、それを最大16ノットで引っ張る石炭レシプロ機関を搭載していた。
主砲に9インチ砲を2門のみ、15ノットしか発揮できない扶桑級の天敵のような艦艇だった。
海軍内でもこの可能性は危惧されており、時間が経てば、この艦艇も極東に姿を現すのは明白であり、早期開戦を唱える将官も出てきた。実際、イギリス海軍が地中海を航行する黒海艦隊の戦艦1隻、装甲巡1隻、砲艦2隻を捉えており、その脅威は現実のものとなっていた。
しかし、砲術訓練、水雷訓練ともに目立った成績はまだ出ておらず、主力艦の慣熟訓練も完了していなかったため、1891年中の開戦は難しいとの判断が「声の箱」で成されており、声の箱は慎重な姿勢を崩していなかった。
日本海軍の艦艇は基本的に予備役、又はモスボール状態にして平時を過ごすことが多かった。扶桑級の乗組員は553名、浅間級は623名、常盤級588名、防護巡浪速390名、和泉574名、砲艦浅間丸90名、龍田丸167名、大連丸級は108名と、日本海軍の海上勤務者は総勢5,661名に上り、少しでも艦艇の建造費に充てたい日本海軍は、戦時に民間人から徴兵したり、水兵教育を受けていた数千名を放し飼いにしていた。
水兵教育を国費で受けた者たちは、平時には民間船舶などで勤務していたが、代わりに、国外への渡航を禁止され、緊急時は非常呼集がかけられれば海軍に出頭し、兵士としての任に就くことが義務付けられていた。
数千名の所在地を把握する業務は、海軍憲兵隊の任務であり、仮にこの兵役義務から逃れた場合は重い刑罰が課されることになっていた。
現に、1890年12月の非常呼集の際には14名が国外逃亡し、逃げようとした22名が海軍憲兵隊に逮捕された。
このように、日本海軍の兵員のほとんどは、平時に戦闘訓練を受けていない者が殆どであり、使い物になるまでに時間を要したのだった。
余談だが、この4月に第1戦隊司令の大谷清嗣海軍少将が老齢で退役している。非常に有能な将官だったという記録が残っているが、彼の人物像に関しては残っている史料が無いため割愛する。
***
1891年4月の日本海軍の月予算は6,458から6,521と微増した。年間予算換算で、77,500から78,250の増加である。これは海軍予算の割合が増えたころによる予算増額ではなく、経済成長による徴税額の増加の結果だった。
これにより、629だった月あたりの赤字は572の赤字と、月収支は若干の改善が見られる。ちなみに、常盤の就役により月あたりの艦艇維持費用、乗組員に対する給料は1,063から1,196に増加している。